あの日、あの夜<3>
給料のほとんどを、自分の生活費とアンナとフランツの学費に充てていたリッツには、宿屋に泊まるほどの金がなかった。かといってエドワードに頼れば殴り飛ばされ、軽蔑されることをしでかしたリッツは、行く当てを無くして結局アマリアのところに転がり込んでいた。
情けないことにリッツにはそれぐらいしか行く当てがなかったのだ。
シャスタに頼ることも、軍学校の上司アルトマンに頼ることも、堅物のケニーに頼ることも、エドワードと同じ理由で出来ない。もちろん部下に頼るなんて言語道断だ。
考えても見ればリッツが頼れるあてはいつも同じで、最愛の恋人アンナと、親友エドワードだけだったのだ。二人には素直に自分を出すことが出来た。それ以外には多かれ少なかれ、自分を装っているのである。
その最愛の恋人を未遂ではあるが路上で強姦しておいて、同じ屋根の下になぞいていいわけがない。
こっそりと家を出るときジョーに見つかったから、一応万が一の時にはアマリアのところにいると伝えてある。ジョーは孤児だった頃、小遣い稼ぎに娼館の女性たちの細かい用事を引き受けていて、アマリアとは面識があったのだ。
アンナに黙っていて貰えるように拝み倒すと、十六歳の愛弟子はあきれ顔にため息をついて、渋々頷いてくれた。重要な連絡はジョーがこちらに届けてくれるだろう。
アマリアは娼館ではなく自宅に突然転がり込んできたリッツにため息をついたものの、特に追い出すこともなくリッツをおいてくれた。
「それでどうして転がり込んできたわけ?」
店にいるときとは全く違うシンプルな格好のアマリアに尋ねられて最初はしらばっくれていたものの、ならば追い出すと脅迫されてリッツはようやく口を開いた。
「……まだ軍学校に通っている十七歳の恋人を強姦しました。以上」
「ふてくされて言うこと?」
「ふてくされてねえよ。おちこんでんの」
「ふうん」
リッツの前にアマリアは暖かいコーヒーを置いて座った。壁のハンガーには既にリッツの軍服が掛けられている。鞄に詰め込んできたのだが、鞄を開けたアマリアがため息混じりにそこに掛けたのだ。軍服は国の守護を司るもの。出勤にしわしわでは軍の面目が立たないという。
娼館にいるときと違って多少ぶっきらぼうな物言いをするアマリアだが、そのあたりの気遣いはさすが高級娼婦だ。それに代替わりをしてはいても、アマリアのいる娼館は、かつて内戦の時にリッツが半年間世話になった、傭兵部隊のアジトだったのだ。伝統もあれば、内戦で傭兵をかくまったという矜持もある、名門なのである。
一緒に黙ってコーヒーを飲んでいると、アマリアが口を開いた。
「ところで、どうするの、アルスター少佐」
階級で呼ばれてぐっと詰まる。ため息混じりのアマリアの目は、大剣に注がれている。普段娼館に通う時には安物の剣をぶら下げているリッツだが、仕事で使うため当然ながらこの大剣も軍服同様ここに置かれているのだ。
「私、初めてあなたの職業とフルネームを知ったわ」
「……だな」
「戦闘関係の職種の人だろうとは思ってたけど、軍人の、しかも軍学校の教官なんてね。傭兵の方がまだ納得いくわ」
「よく言われる」
さすがにアマリアは鋭い。リッツは娼館でフルネームを名乗ったことは一度もない。シアーズに来てから四年の付き合いになるアマリアであっても例外はなかった。だが焦って詰め込んだ軍服には階級章から教官として軍学校で使っているネームプレートまで総てつけっぱなしになっていて、芋づる式に全部ばれてしまったのだ。
「リッツ・アルスターか……。ユリスラ救国の英雄で、前大臣と同じ名前なんてねぇ」
「名前負けだろ?」
「本当に」
本当はその本人だと知ったら、アマリアはどう思うのだろう。英雄視されているリッツ・アルスターは実はこんな若造で、しかも年下の恋人を道で強姦するような駄目男だ。
「何で追い出さないでおいてくれるんだ?」
コーヒーに口をつけて尋ねると、アマリアはため息をついた。
「責任感じてるのよ。市場で声を掛けなければ、あんなに可愛い女の子が怖い思いをしなくてすんだのにってね」
「はは……」
「それに私があの時に、痴話喧嘩だから放っておこうなんて親切心を出さないで、割り込んでおけば良かったって思うの」
「そうなってたら助かったなぁ……」
「人ごとみたいに。まさかあなたの恋人があんなに幼いなんて思いもよらなかったわ」
「だから恋人がいんのに、娼館でお前を抱いてたんだろ」
「……ごもっとも」
黙ったまま二人で向かい合ってコーヒーを飲む。
「ずっとここにいるつもり?」
真面目に尋ねられて、リッツはため息をついた。
「明日、軍の独身者用宿舎の申し込みをするつもりだ。申請が通ったら出てくよ」
「じゃあすぐね」
「……たぶん」
エドワードやジェラルド、シャスタにまでリッツのこの愚行の連絡が行かずに無事申請が通れば二、三日中には出て行ける。
「あの子、どうするのよ」
不意に聞かれてどうしようもない胸の痛みと、とてつもない喪失感を感じながらもリッツはポツリと呻くしかない。
「……別れるさ」
「いいの?」
「いいもなにも……裏路地で強姦するような男を、まだ好きでいてくれるわけないだろ。許されねえ事をしちまったんだから」
「確かにそうね。でもその言い方、未練たらたらじゃない」
「未練ありまくりだろ、そりゃ」
だが未練があったって、もう二度と許されないだろう事をしたと分かっていながら、彼女の元には戻れない。あの笑顔も優しさも、包み込んで愛してくれる暖かさも全部無くしてしまった。
まだこんなに愛しているのに。
「ふうん」
「四年だぞ。四年我慢してきて、あと一年半でようやくあいつ軍学校を卒業するんだ。あと一年半だったのに……」
全部が全部水の泡だ。旅の中で積み上げてきた信頼、心を通わせながら縮めていった距離、愛し合いながらお互いを守ってきた感情。全部を台無しにしてしまった。今度ばかりはアンナは許してくれないだろう。
呻くリッツにアマリアがため息を漏らす。
「あきれた。あなたあの子を十三歳から付け狙ってるの? ほとんど変態よ」
「ううっ……」
「そんなことなら軍の憲兵隊に通報するわ。幼い少女を欺して恋人にしたあげく、暗がりで襲ってましたよって。都合のいいことに階級から名前まで全部分かったしね」
「やめてくれ。あそこには知り合い多いんだ」
「私だってこういう職業だけど、さすがに十三歳から少女を恋人にしてるのは問題よ」
断固とした口調で言われてリッツは口ごもった。
娼館も見習い制度があり、ここシアーズの街に登録されている娼館では十七歳以下の少女を見習いとしておくことは出来ても、娼婦として雇うことは出来ない。
アマリアが勤める娼館は由緒ある娼館であり、それだけに制度がしっかり整備されている。アマリアもその制度に守られてきた女性だ。
「軍人としてあるまじき行為だわ」
言い切ったアマリアを見つめると、本気で蔑んだ目で見ている。このままでは本当に憲兵隊に通報されかねない。リッツは覚悟を決めた。
「本当のところを話すから、通報はやめてくれ」
「あら珍しく下手にでるのね」
「通報されたら困る。俺、本気で立場が危うい」
「それはそうでしょうね」
冷たく言ったアマリアにじっと見つめられて、リッツはコーヒーを一口飲んでからため息混じりに話し出した。
「精霊族って知ってるか?」
「急に何よ」
「いいから」
「……馬鹿にしてる?」
「してない」
「知ってるに決まってるでしょう。ユリスラ国民で知らない人がいたら見てみたいわよ」
「だな。じゃあ精霊族の容姿を知ってるか?」
「金の髪、緑の瞳、蝶のように大きな耳、白い肌に長身。でも英雄王の片腕は黒髪にブラウンの瞳だったそうだから、私たちが知らない容姿の精霊族もいるんでしょうね」
何気なくそういったアマリアが、ハッとしたような顔でこちらを見た。リッツはそっと横髪を持ち上げて耳を見せる。特徴的な精霊族とは違うが、人間よりも尖って少々大きな特徴的な耳だ。この耳を持つ人間はまずいない。
「そ。こういう奴もね。っていっても俺は自分以外この容姿の精霊族に会ったことねえけど」
暗にこういう容姿の精霊族は自分だけだと匂わせると、勘のいいアマリアはリッツと英雄王の片腕の関係に気がついたようだった。
「……冗談よね?」
「冗談なら俺も良かったんだけどな」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 前大臣はお年を召した方だったわよね?」
「あれ、変装。毎朝時間がかかって仕方なかったんだ。でもああでもしないと、娼館にもおちおち遊びにこれねえし、安居酒屋でいっぱいなんて楽しみも味わえねえだろ」
「でもそれにしても……」
まだ信じがたいといった顔でリッツを見つめるアマリアに、ため息混じりに説明する。
「だいたいさ、精霊族ってのは人間の十分の一しか歳をとらないんだぜ? 内戦時に青年だったら、四十年後は幾つに見えると思う?」
「プラス四歳ってことになるから……青年のままね」
「そうさ。誰も大臣の年齢を疑わない方が俺には不思議だ」
ぽかんと口を開けて呆然としているアマリアを前にコーヒーをすする。アマリアはコーヒーを淹れるのも上手い。しばらく黙っていたアマリアは、自分のコーヒーを一口すすってから口を開いた。
「じゃああなた、大臣の権力を使って十三歳の少女を……」
「違う! それじゃ犯罪だろうが!」
「じゃあ何よ!」
「あいつも俺と同じ一族なんだよ」
「え……?」
「あいつの実年齢は三十五。お前よりも年上だぜ、アマリア。四年前は十三歳じゃなくて三十一歳だ」
静かに告げると、アマリアは絶句した。
「信じられない」
「だろうな。人間の半分の速度で年をとるから、人間に換算してあいつは今、十七歳ということにしている。かくいう俺だってアルスター少佐の時は、二十六歳で通しているんだ」
「前大臣が何でそんなことしてるのよ?」
「何故って金がねえから。これでも俺、アンナともう一人の保護者なんだ。軍学校と高等政務学院に金を納めてるし、王城近くに自宅を持ってるんだぜ」
「それなら大臣を続けていればいいじゃない」
「俺の大臣なんてお飾りだ。俺は実戦タイプだからな。だだこねたらエドが少佐の階級をくれたんで、ありがたく拝命したってわけ」
「エドって……英雄王エドワード?」
「ああ」
頷くとアマリアはこめかみを押している。
「頭痛くなってきた。どこまでが本当でどこまでが冗談なの?」
「お前が信じられるとこまで本当で、信じないところは嘘だ。それでいい」
事実の取捨選択はリッツではなくアマリアがすればいい。
「……相変わらず意地悪ね」
ため息をつくとアマリアは自分の分とリッツの分のカップを持って席を立った。
「確かにあなたが初めて娼館に来た時期と前大臣がシアーズに来た時期は、ぴったり一致するわね」
「だろう?」
「それで、通報されるとどうなるの?」
「ん。たぶん憲兵隊から俺の上司に連絡が行って、その上司は事情を知ってるからエドに知らせて、そしたら三つ編みのエドが飛んできて、俺を死ぬ直前までボッコボコにするだろうな。なにせあいつはアンナを孫のように可愛がってるし」
「お願いよリッツ、これ以上救国の英雄たちのイメージを壊さないで。あなたがあのリッツ・アルスターだったってだけで、私のイメージはボロボロよ」
「悪い」
「聞かなかったことにするわ。通報もしない。あなたは上客のリッツ。それでいい?」
「その方が助かる」
アマリアを見上げると、アマリアはため息混じりに小さく首を振りキッチンへ行く。しばらく時間が経ち、アマリアは先ほどまでのコーヒーではなく、小さなグラスに入ったブランデーを二つもって戻ってきた。二人とも言葉が出ずに黙ってそのいっぱいを飲み干す。
気がつけば時刻も夜中を回っている。
「今日はもう休みましょう。明日、ちゃんと宿舎に申請を出して、決まったら出て行くのよ。客がこんなところまで入り込んでるなんてことになったら、マダムに大目玉食らうわ」
「悪い」
「私はベットで寝るから、あなたはソファー。いいわね?」
アマリアに断言されて、リッツはアマリアを情けない気持ちで見上げる。
「……今晩は駄目か?」
「何言ってるの。彼女を襲いかけたくせに」
呆れ顔のアマリアに、リッツはため息混じりに頭を掻く。
「そうなんだけどさ」
言葉が上手く見つからなくて口ごもり、アマリアを見つめる。アマリアはまっすぐにリッツを見つめたまま黙っていた。
弱音は吐きたくない。娼館では自分の欲望を捨てるだけでいたい。そう思っていた。でもここは娼館ではなくアマリアの家で、そしてリッツは最愛の女性を失った、ただの情けない男だった。
「寂しいんだ。アマリア。もう俺、何も残ってない」
それが正直な気持ちだった。アンナがいなくなると、リッツは驚くほど空っぽなのだ。リッツの中で、アンナ・マイヤースへの愛情がどれだけの面積を占めていたかを改めて実感させられた。
彼女を愛していること、愛されていること。
守っていること、守られていること。
一緒に夢を描いて、同じ方向を向いて生きていたこと。
そして共に未来を生きて行くということ。
そのすべて手の届かないところに消えてしまった。アンナにこの手はもう二度と届かない。いや、アンナに手を伸ばしてはいけない。求めてはもういけない。
まるで暗闇の中にいるようで、光すら差さない行き場のない思いを埋めるぬくもりが欲しい。
「英雄王の片腕が情けないことを言うのね」
「悪かったな。だけど俺は元々こういう男だよ。あっちの方が虚飾だ」
呟くように言うと、アマリアはため息混じりに髪を掻き上げた。
「しょうがないわね。いらっしゃい」
「いいのか?」
「いいもなにも、私お人好しなのよ。そんな顔していられたら、仕方ないじゃない。まして相手がリッツだもの」
「金取る?」
「馬鹿ね。とらないわよ」
妙に年上めいた口調でアマリアが笑う。
「あなたが前大臣だったことは忘れる事にしたわ。二十六歳の少佐さんなら、仕方ないから年上の私が甘えさせてあげる」
「ありがとう」
先が見えない不安に押しつぶされそうになりつつ、リッツはアマリアの体を抱きしめた。