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あの日、あの夜<2>

 何だかここ数ヶ月、リッツの元気がないような気がする。アンナは最近それがとても気にかかっていた。

 王国歴一五七七年三月。

 まだ冬の気配が残っているが、木々のつぼみが少しずつ膨らみ出している。アンナは今年の一月で、軍学校三年生になった。一年の教養課程が過ぎ、二年目から専攻を中心に学ぶようになって三年目の今年から、完全に剣技がアンナの授業から消えている。

 だから学校でリッツと顔を合わせることが極端に減った。偶然出くわさない限り、学校にいるのかいないのかも分からないぐらいだ。剣技がまるで駄目だったアンナは授業が無くなった事にはホッとしたが、剣技の授業を教えるリッツの姿を見られなくなったことだけは、少し残念だ。

 アンナと二人でいる時とは違って、剣技の教官の時のリッツは怖いけれど、背筋の真っ直ぐ伸びた長身と、剣士としての鋭い眼差しがとにかく格好いい。この人が自分の恋人なんだと思うと、何だかもう嬉しくて仕方がない。

 アンナは毎週翌日が休みの土の曜日には、こうしてリッツとリッツの部屋で共に過ごすようにしているのだ。これはシアーズに帰ってきてから決めた、二人の約束だった。

 アンナは隣でごろごろとベットに転がって、軍学校の資料を嫌々片付けるリッツを眺めた。やっぱりリッツは最近、ちょっと変かも知れない。ベットにまで書類を持ち込むなんて、一年前まではあり得なかった。

 さっきまで一緒に色々な話をして、翌日にどこへ行こうかと相談していたというのに、少し上の空だった。それに元気がなくなってきているのと同じ頃から、リッツはアンナに対してあまりべたべたと触らなくなってしまっている。今みたいにちょっとだけ距離を取っている。

 恋人になったばかりの頃は、しょっちゅう抱きしめてくれたし、頭を撫でてくれたし、キスもたくさんしてくれた。リッツは初めて恋をした人だし、初めての恋人だから、他の人なんて知らないけれど、こんなに幸せでいいのかななんて、しみじみと幸福を噛みしめていられた。

 それなのに最近は、あまり触れ合ってきてくれないのだ。その上アンナが抱きつくと一瞬手が止まってしまうこともあるし、妙に体を硬直させていたりする。

 もしかしたら子供過ぎるアンナに飽きてきたのだろうかと少し不安になりつつもあるが、リッツとの関係を考えるとそれはあり得ない。飽きた飽きないで壊れるような絆では決してないのだ。

 だから何か理由がある。それにアンナに触らない事以上に気になっているのはリッツが暗い目つきをしていることが多くなったことだ。

 恋人として過ごしてきて二年半。状況が少しずつ代わり始めたのは、一年ほど前からだろうか。アンナは何も変わっていないのに、リッツに一体何があったのか、アンナには全く分からない。

 もし心配事があれば相談して欲しいけれど、リッツに尋ねてもあいまいに笑われただけで、更に聞こうとするアンナの唇を、あっさりとキスでふさいでしまう。

 何かを誤魔化そうとしているんだなということは分かるけれど、それが何なのかさっぱり分からない。分からないから心配で、不安になる。

 そんな日々は続いていたけれど、アンナはリッツから離れたくなくていつも通り週末を過ごしていた。いつも通りにしていることで、リッツを独り占めできるのだ。そうでなければ、軍学校の教官で、たまに前大臣で、面倒見のいい上司で、部下や仕事仲間としょっちゅう飲みに行ってしまうリッツと二人きりで過ごすことなんて出来ない。

 仲間や友達と一緒にわいわい騒ぐのも楽しいけれど、週に一度ぐらいはリッツを独占したい。二人きりの時にしか見せないような子供っぽい顔や、甘えるように触れてくるその手を感じていたい。隣で無防備に眠るその寝顔を見ていたい。

 つきあい始めてからそんな気持ちが少しずつ強くなってきている。リッツの事が好きすぎて、たまに隣にいるのに切ないぐらいな気持ちになってしまう。

 ちゃんとこの気持ちは通じているのかな、と心配になるのだ。

 リッツの事を全部知っていたい。独占していたい。総てを知りたい。たまにそんなことを考えて胸が痛くなる。リッツと一緒にいて知ったのだけれど、独占欲って切なさの裏返しだ。

 もしかしたらそれは強欲なのかな、とアンナは反省したりもする。長い人生を共にする人なのだから、こんなに執着しないで、ゆっくり関係を深めればいいとも思う。でもジョーに言わせると恋人なんだからそれぐらいは普通で、逆にアンナは執着し無すぎるとのことだった。

 恋人同士なんだから、毎日でも一緒にいたいんじゃないの、と聞かれても、アンナは首を縦に振れない。そんなことをしたら、お互いの目標への道が遠くなってしまう。目標を達成して、それから結婚を申し込むとつきあい始めた頃に言われているのだから、目標達成は大きな目安なのだ。

 アンナは医者になる。リッツはお金を貯めてシュジュンへゆき、大剣を後任の傭兵隊長を選び出して託し、傭兵の道をきっぱりと絶つ。

 それが二人の決めた結婚への道筋だ。だからこんな風に隣にいる恋人相手に切なくなっている場合じゃない。もっとしっかり勉強しなくては。何が普通かなんてよく分からないけれど、今のところそれがアンナに出来る、リッツと共に生きる総てなのだ。

 そう言い聞かせながらも、何故だかリッツへの思いが片想いになっているような気がして、最近は本当に切ないのだ。私は、ここにいるよ。ちゃんとあなたの隣にいるよと伝えているのに、何だかそれが通じていないような気がして寂しい。

 翌朝もいつも通り、みんなと一緒に朝食を食べてから、またいつも通りにアニーから買い物メモを預かって二人で街に出かける。前日は一緒に過ごしても、休みはジョーと出かけるということもたまにはあるけれど、それは本当に珍しい。

 週末はだいたいこうして二人でのんびりと街を歩き、家から離れられない幽霊のアニーのために買い物をして帰ってくる事にしている。

 今日は学校の仲間から聞いたキッシュの美味しい店に行く予定だ。相も変わらず二人で一緒にいると食べ物の情報にばかり詳しくなってしまうのは困ったものだが、好きなものは好きなのだから仕方ない。

「ほら」

 街に出るとリッツはいつも、言葉少なに腕を差し出す。身長差は相変わらずだけど、手を繋ぐのは恥ずかしいらしいのだ。

「うん」

 アンナは笑顔で頷くと、その腕に捕まって街を歩く。一人で歩いているとあちこちにぶつかったりぶつかられたりする大通りでも、リッツと一緒だとぶつかったことがない。

 知らないうちに腕の中で守られていることに気がついたのは、恋人になってから半年ほどしてからだ。思い出して隣の頼もしい恋人を見上げると、すぐに気がついて笑い返してくれた。

「何だよ」

「へへ。なんでもない」

「変な奴」

 春風が気持ちいい。まだ少し冷たさはあるけれど、この季節の風が一番すがすがしくて心地よい気がする。春の息吹はたくさんの生命を運んでくるのだから。

 街はいつも通りに喧噪に満ちていて、ただ歩いているだけでも楽しい。リッツが大臣だった頃には、一緒に出かけても、あちこちを見て回りたいアンナを面倒くさがってすぐに先へ行ってしまったリッツだったけれど、今はちゃんと付き合ってくれるのだ。

 港まで歩いて王国海軍の兵舎近くにある眺めのいい公園でしばし二人でのんびり過ごした。二人きりで過ごしていても、こうして公園や買い物に歩いているときのリッツは、つきあい始めたときから全く変わらない、いつものリッツだ。

 最近は部屋に二人きりでいると微妙な空気が流れてしまうけれど、こうして昼間の散歩している方がお互いに幸せで、触れ合うことも多い。キスも、抱きしめられることも、こちらの方が自然で、アンナが不意に触れても、リッツは穏やかに微笑み返して抱き寄せてくれるから、安心していられる。

 二人でいるのは部屋でも公園でも同じはずなのに、どうしてこんなに違うのだろう。それがアンナには分からない。

 昼寝をしたり話をしたり、時には眠っているリッツの隣で課題の本を読んだりと、いつも通りの時間を過ごしてから街中に戻って昼食にカフェでキッシュを食べる。

 何か特別な事なんて無い、のんびりとした穏やかな休日だ。ジョーは二人の幸せな休日の過ごし方を聞いて『老夫婦の散歩』なんていうのだが、アンナはこんな休日が大好きだ。ジョーの目からは毎回同じような事をしているように見えるけれど、いつも違った発見があったり、楽しみがあったりするのである。

 今日もいつも通りにその幸せな休日が終わるはずだった。でもその日の休日は、今まで積み上げてきたリッツとアンナの幸せを、あっさりと突き崩してしまう事になってしまった。


 いつも通りにアニーの買い物をしようと市場へ出かけ、頼まれた数種類の野菜をどこで買うか迷っている時に、不意にリッツが綺麗な女性に声を掛けられたのだ。

「あら、リッツじゃない?」

 リッツと一緒に振り返ると、そこには綺麗な女性が立っていた。長い黒髪を無造作に結い、シャツにパンツスタイルといったラフな格好をしている女性は、アンナの目が釘付けになるほど素晴らしいプロポーションをしていた。

 シャツに包まれている胸は大きく張っていて綺麗なのに、腰はくびれている。パンツ越しにも分かるそのおしりはしまっていて形が綺麗だ。

 思わずアンナは自分の胸を服の上から手で確認してしまった。ジョーやリラによるとそんなに小さくもないし、形も悪くないらしい胸だけど、あそこまで大きいとアンナとは別物だ。

 それにあのくびれた腰。背が高いから映えて見える。アンナはどちらかというと小柄だから、くびれはあっても、あんな風に綺麗な彫刻みたいなくびれの出来ようがない。

 それにさりげない薄化粧のその顔も自然で、驚くほどに綺麗だ。アンナは化粧なんて滅多に自分でしない。学生だから気にしない方がいいと、リッツも言ってくれるから、そのままなのだ。

 この年だから、大公妃パトリシアにお茶にお呼ばれした時ぐらいは一応口紅を引く。それはパトリシアがアンナへと買ってくれたほんのりとしたピンクの口紅で、この女性がしているような大人のローズ色とはほど遠い。

「綺麗な人だなぁ……」

 思わず呟いてしまう。だがリッツは目を見開いて女性を見つめていた。

「一昨日の今日で偶然じゃない。いつも週に一度しか会えないのに」

 女性がそう言って微笑むと、リッツはぽつりと呟いた。

「アマリア……」

「アマリアさん?」

 アンナがリッツを見上げて尋ねると、リッツは無理にアンナへと笑顔を向けた。

「先に買い物しててくれ。ちょっと話してるから」

 歯切れが悪い言葉だったけれど頷くと、リッツは無理矢理アマリアを引っ張って行ってしまう。友達ならば別にここで話せばいいのに、と不思議になって、野菜に目を戻した。ちゃんと買い物していかないと、アニーが困るだろう。

 でも何だか全然気持ちが落ち着かない。何かの胸騒ぎを感じて、手にしていた野菜を返してそっと二人の後をつけてみた。

 これはきっと嫉妬だ。アンナは自分の容姿が普通だと心得ているし、もしももっと大人になったとしても、あんな風に綺麗になれるはずがない。それでもリッツは自分を愛してくれていると分かっているけれど、やはり綺麗な女の人と二人でどこかに消えるのは気になる。

 ずんずんとアマリアの手を掴んで歩くリッツと、文句を言うアマリアから少し離れてついていくと、二人が消えたのは人も通らない薄暗く細い路地だった。路地を入ってすぐの木箱の影にそっと身を隠して二人を盗み見る。

 こんな事をしちゃいけないし、こんな風に隠れて見ているなんて悪いことだと分かっているのだけれど、何故か胸が苦しくて二人の前に出ようと思っても、出られない。

 じっと息を潜めていると、リッツがアマリアに苦々しげに言葉を吐き捨てるのが聞こえた。

「街で声を掛けるな」

 冷たい声にどきりとする。アンナはこんな声をリッツに掛けられたことはない。

「あらいけない? 今更そんな風に隠したくなる仲なの?」

 リッツの冷たさに全く動じずに、アマリアはそう笑った。

「場所をわきまえろよ。俺には連れがいただろ」

「ええいたわね。あの子は年の離れた妹? それとも親戚の子?」

「……お前には関係ない」

 声だけ聞いていると、リッツがかなり不機嫌だと言うことが分かった。何故かリッツはアマリアにアンナのことを知られたくないようだった。彼女が友人ならば何故こんなに冷たくするのか、何故アンナのことを隠すのか。アンナの頭の中は謎だらけだ。

「関係がないなんて冷たいこと言うじゃない。関係ならかなり持ってるんだから」

「やめろよ。こんなところで」

「面白く無いわ。こっちは知り合いがいたから話しかけただけなのに、あなたは何をそんなに狼狽えてるの? あのお連れさんのせい?」

「……そういうわけじゃ……」

 言いよどんだリッツに、アマリアは微笑みかけた。

「あなたが私を娼婦だって言わなければ、ただの友人でごまかせたんじゃないの」

「それは……」

 アンナは小さく頷いた。いつもリッツはそうする人だ。普通に友人だったらあっさりとそういう。なのにこうやってこそこそしているから、こうしてこっそり隠れて覗き見をしてしまっているのだ。

「何を動揺しているのよ。私のことを、あのお連れさんがあなたの恋人に話すのを恐れたの? 私の容姿だけを話されたって、あなたとのことを気がつく人なんていないわよ」

「うるせえな。お前には関係ないだろ」

「関係ない、関係ない、関係ない。本当に不実な男ね。恋人のアンナさんに同情するわよ」

 不意に自分の名が出てきて驚いた。思わず声を上げそうになって口を手で押さえる。だがリッツは更に不機嫌な顔でアマリアに言葉を吐き捨てる。

「……その名は忘れろと言ったはずだ」

「忘れられるわけ無いじゃない。私を抱いてる時も冷たくて何を考えてるか分からないあなたが、ただ一度犯したミスだもの」

 アマリアの言葉にアンナは固まった。

 アマリアを抱く? リッツが?

 その意味が分からない。抱きしめる……とはどうも意味合いが違いそうだけれど、だとしたらどういう意味なのだろう。

 それに彼女は確か、娼婦だと言っていた。

 娼婦って……何だろう。

 前々からその言葉はよく聞く。内戦時代の話にも、過去のリッツの話にも、よく出てくる名称だ。だけどアンナがその意味を聞くと、いつもリッツは笑って誤魔化してしまう。そしてそれきりアンナも忘れてしまうから、今の今までそれが何かを知らないのだ。混乱するアンナの耳に、リッツのため息が聞こえた。

「それでも忘れるのがマナーじゃねえのか。娼館はそういうとこだろ」

「そうね。普通なら。でもあなたはもう客じゃなくて愛人よね? 何年関係してると思ってるの?」

 愛人……?

 その言葉にアンナは完全に固まってしまった。愛人って恋人のようなものなのだろうか。だとしたら、アンナは……恋人のアンナは何なんだろう。

 冗談めかした色っぽい声でそういったアマリアに、リッツはしばし黙り込んでから苦笑して頭を掻いた。

「よくいうよ。金取るくせに」

「お手当よ。でもあなたには同情しているわ。抱くことも出来ない恋人なんて、苦痛なだけでしょう」

 頭を殴られたような気分になった。何だか目の前が暗い。

 抱くことの出来ない恋人……。

 それが誰なのかよく分かった。アンナだ。苦痛を与えるだけの恋人はアンナなのだ。苦痛を与えるという意味は分かる。でも抱くことが出来ないって、どういうことなのだろう。それが分からなくて困惑する。

 ではアマリアはリッツに取って、抱くことの出来る愛人、ということになる。何故だろう、完全にアマリアに負けているような気がする。リッツをとられてしまう。

 いや違う。リッツがアンナを裏切っている?

 そんなアンナの頭の上を、意味の分からない会話を繰り返す二人の声だけが通りすぎていく。

「……別にそんなこともないさ」

「そう。じゃあまた我慢しきれなくなったら来て」

「へぇ。不実な男でもまた遊んでくれるわけだ」

 少し嫌味にそういったリッツに、アマリアは平然と返した。

「私好きなの、不実な男」

「あ、そう」

 素っ気なく呟いたリッツは、服の胸ポケットを叩いて何かを探していたが、諦めたように肩をすくめた。アマリアが笑う。

「煙草切れ?」

「ああ。また寄るよ」

「期待しないで待ってるわ」

 アマリアがそういって微笑むと、颯爽とアンナの隠れている木箱の方へ歩いてくる。慌てて逃げようと思ったのに、聞いた内容で混乱していてとっさに立つことが出来なかった。案の定こちらへ歩いてきたアマリアに見つかってしまった。

「あら?」

 形のいい眉をひそめて、アマリアがアンナを見つめた。

「盗み聞き? レディのやることじゃないわ」

 アマリアの声に気がついたリッツが、こちらに駆け寄ってくるのが分かった。どうしたらいいのか分からずに固まっていると、リッツがアンナの姿を見て完全に硬直するのが分かった。

「ほら、不審なことをしてるからこうしてばれちゃうのよ。あなたの恋人に報告されちゃっても私知らないわよ」

 困った子供を見るような目でアンナを見ているアマリアに、猛烈な悔しさがこみ上げてきて、アンナは唇を噛んだ。

 まただ。チウジーの時と同じく、またアンナは子供扱いだ。

 あの時とは違って、アンナはリッツの恋人で、仮ではあっても婚約者であるはずなのに。リッツは、アンナのものなのに。あの優しくて大きな手も、照れくさそうに微笑む笑顔も、安心しきって眠る姿も、他の女になんか渡せないのに。

「リッツ」

 小さく呼ぶと、リッツが覚悟をしたようにアンナの目の前に立った。顔を上げてリッツを見上げると、リッツは後悔と苦しさがない交ぜになったような顔でアンナから顔を逸らしているのが分かった。

「リッツ、私をちゃんと見て」

 いやだ。負けたくない。リッツは私のものだ。誰にも渡さないし、誰にももう負けたくない。

 すさまじい嫉妬に胸が焼かれそうだ。心が痛いって、こういうことを言うのかも知れない。

 今まで掛けたことがないぐらい厳しい声になったのは自分でも自覚していた。だけど感情が混乱していて、どうにもならない。息をのんだアマリアとは対照的に、アンナの声に打たれるようにリッツはアンナに顔を向けた。

「キスして」

 告げるとリッツは目を丸くした。

「な……」

「キスして。私を愛してるなら、ちゃんとキスして」

「アンナ……」

「出来ないの? アマリアさんに嫌われたくないから?」

 アマリアを見ると、アマリアは青ざめていた。リッツは更に血の気が引いてしまっている。

 どんな敵にも顔色一つ変えずに立ち向かっていく、常に自信に満ちたリッツが、こんなに青い顔をしているのを初めて見た。だから余計腹が立った。

「アマリアさんを愛しているなら、そう言って!」

「違う!」

「抱くとか抱かれるとか、そんなの分かんないよ!でも私じゃ駄目で、アマリアさんならいいんでしょう!? だったら私がいなくてもいいじゃない!」

「違う、違うんだアンナ!」

 リッツは必死で声を上げる。でも悲しみと怒りは止められない。

「リッツに苦痛を与えるなら、私なんて捨てちゃえばいいよ! こんな子供な恋人、いらないんでしょう!?」

 感情的に叫ぶと、涙がこぼれた。嫉妬と怒りで目が眩みそうだ。抱かれるという意味はよく分からないけれど、リッツの腕の中にアマリアがいたことだけは分かる。

 スイエンの街で、リッツの体から香ったチウジーの香水の香りを思い出す。ただ抱きしめるだけではあんなに濃い香りが移るなんてあり得ない。きっとリッツはチウジーと同じ事を、アマリアともしている。アンナにはしてくれないような、そんなことを。

 アンナ以外を抱きしめるのは裏切りだ。

 でも今はそれ以上に、アマリアからリッツを引きはがしてやりたかった。この人は私のものだから、触らないでと叫びたかった。乱暴でぐちゃぐちゃの感情が、心の中で荒れ狂っている。

 立ち尽くしていたリッツが、急にアンナを強く抱きしめた。

「いらないわけねえだろ!」

「じゃあ何で愛人がいるの? 私じゃ駄目ってことでしょう!?」

 叫んだ瞬間に、今まで無かったぐらい乱暴に唇をふさがれていた。初めてされるリッツの荒っぽいキスに、ねだったくせに面食らう。

 いままでの二年半は、本当に優しく、暖かなキスしかしたことがない。とろけるように優しくて、甘く絡む舌は気持ちが良くて、いつもどうしようもなく幸せな気分にさせられた。

 なのにいつもなら長くても数分で離されるのに、リッツはアンナをきつく抱いたまま荒いキスを続ける。乱暴に絡まされた舌に口の中をかき回されて、もうどうしていいのか分からなくて、混乱してしまう。

 アンナではなく、アマリアと仲良くしていたのに、何故こんなキスをするんだろう。まるでとても悲しかったみたいに。一体アンナに何を求めているんだろう。それが分からずにただ翻弄されている。

 気がつくとアンナは大通りから見えない木箱の裏に連れ込まれていた。唇が離されてようやくリッツの顔を見ようとしたのに、顔を見る前に無言のまま壁に押しつけられていた。

「リッツ……?」

 気がつけばアマリアはもういない。細い道には誰もいないし、通りの喧噪が遠い。

「いらないわけねえだろ」

 低くリッツが呻くように呟いた。

「リッツ?」

「欲しくて欲しくて、おかしくなりそうだった」

「リッツ……!」

「いつも俺だけ見て欲しかった。学校で若い奴らと話してるだけで、嫉妬してた。おかしいよな俺。お前より遙かに年上なのに、みっともないよな」

 幾度も繰り返される口づけと闇を覗き込んでいるようなリッツの瞳は、アンナに底知れぬ恐怖を与えてきた。今までなら冗談のように軽くあちらこちらに触れてきたその唇の熱さに怯える。

「やっ!」

「好きなんだ。どうしようもないぐらいに、愛してるんだ。お前が欲しいよ、アンナ。ずっとこうしたかった」

 何をしようとしているのか分からなくて、怖くて体が動かない。目の前にいるのはリッツのはずなのに。まるで知らない人みたいだ。

 体中に這うように触れてくる指先と、その荒い息づかいに混乱と恐怖でただ怯えるだけしかできないアンナは、このリッツの行為で数年前の出来事を思い出した。

 あれはリッツの故郷、シーデナの森に行った時のことだった。あの時こんな風にアンナを乱暴に熱かったのは……リッツの部下だったジンだった。

 思い出した瞬間に身の毛がよだった。あの時とは全然違う。触れているのは信頼するリッツだけれど、やはりわけが分からなくて怖い。

「や、やだ……」

 ようやく少しだけ声が出せた。でもリッツは気がついてくれない。やがてその唇が……指先が自分自身でも触れたことがないような所にまで這わされた。今まで感じたことの無い痺れるように熱い感触に、体が跳ね上がる。

「いやっ!」

 その瞬間に悲鳴を上げてリッツを突き飛ばした。でも大柄なリッツがアンナに突き飛ばされるわけがない。抵抗するアンナに構わず、リッツは黙ったままその行為を続ける。

 好きな人に触れられているはずなのに、痛くて怖くてどうしようもない。目の前の恋人が涙ににじんで歪み、更に恐怖を増していく。

「やめてリッツ……」

 こらえきれずに声を上げて泣き出してしまった。何が起こっているのか分からなくて、自分の愛おしい人がまるで知らない人になってしまったみたいで、総てが怖くてパニックに陥ったのだ。

 嫌々するように全身を振るわせて叫ぶ。

「いやぁぁぁぁぁ!」

 その瞬間、リッツがハッとして顔を上げた。目が合った瞬間に、リッツの表情が激変した。狂気に囚われたようだったその瞳は、見たことがないぐらいに狼狽えている。そして目の前でいつもは楽しげで陽気な笑みを浮かべているその顔から、みるみる血の気が引いていった。

 愕然って、こういう表情をいうのだろうな、と……しゃくり上げながらぼんやりと思った。

「あ……俺……」

 何故か怯えたようにリッツはアンナから身をひいた。体中の力が抜けて、アンナは壁にもたれたままずるずると座り込む。しゃくり上げると、涙がまたボロボロとこぼれ出した。

「俺……ごめん……こんなつもりじゃ……」

 リッツもアンナの正面でがっくりと座り込む。

「アンナ……」

 怯えたような目で恐る恐る伸ばしてきたリッツの手を払いのける。

「触らないで!」

 自分の身を守るように体を縮めて丸くなると、リッツは手を下ろして力なく笑った。

「はは……。俺、何やってんだろ」

 シャツの前をかき合わせてリッツを睨んでいると、リッツは地面を見つめて呻く。

「何で最愛の女を強姦してんだ。馬鹿か、俺は。これじゃジンの野郎と変わらねえなぁ……」

「強姦……」

「こんな抱き方ねえよな」

 アンナは絶句した。抱くって……これ?

 これでも昔より少しは色々なことを知った。特に医学を専攻していると、戦争における犯罪とその被害者の治療も習うこととなる。軍医の学校なのだから当然のプロセスだ。その中でも戦乱時に多い強姦は、治療法まで細かく記されている。戦時における強姦とは、侵略した相手を屈服させるために起こる犯罪である。それは無理矢理に相手が望まぬ性行為を強制することだ。

 だが今は戦時中ではないし、アンナはリッツに取って占領した国の侵略した相手でもない。普通の恋人だ。ならばアンナの意志を無視して行為に及ぼうとしたということになる。

 ということは、リッツはただ単にアンナと性行為をしたかったと言うことになる。

 またアンナは混乱してしまった。性行為って子供が欲しくてすることなのに? 

 特殊な生まれであるアンナとリッツの間には、子供が出来ないと知っているのに?

 つまりアマリアとそんなことをしているリッツは、子供が欲しいということだろうか? アンナとでは子供が出来ないから、アマリアと関係を持ったのだろうか。

 先ほどの恐怖と、この混乱でどうすることも出来ずに座り込んでいると、リッツがやがて力なく微笑んだ。

「ごめん。こういう男で」

 じっと見つめると、リッツはアンナのシャツに手を伸ばした。また何かされるのかと体を縮めると、リッツが優しく言った。

「本当はもっとお前が大人になってから、ちゃんと時間を掛けて愛したかった」

 ため息混じりにリッツはそう言ってから、小さく笑った。

「こんな風に終わるなんて、想像もしてなかった」

 終わるって、何だろう? 何が終わるんだろう。

 でも混乱しているアンナは何も聞けない。

「シャツ、直せるか?」

 問われて、自分がとんでもない状態であると初めて気がつく。シャツのボタンは開けられ、下着はずれてむき出しになっているし、汚れた壁のせいで土埃だらけだ。震える手で何とか下着は戻したけれど、シャツのボタンがどうやっても留められない。

 そっと伸ばされた手に一瞬竦んだが、予想に反してリッツの手は優しくアンナのシャツのボタンを留めてくれる。でも顔を上げることはできなかった。疑問と苦痛と恐怖と愛情と嫉妬と。色々な感情がごちゃごちゃに絡まり合った毛糸みたいに頭の中に転がっているみたいだ。

「悪かった。本当にごめん。許してくれなんて、都合のいいことは言わないから、今日はちゃんと送らせてくれるか?」

 柔らかくいつも通りの、でも本当に静かなリッツの声に、小さく頷くことしかできない。言葉すら出てこない。いったい何を言ったらいいのだろう? 

 怒ればいいのかな。それとも……悲しめばいい?

 でも驚くぐらい、好きの感情が抜け落ちている。どうしてだろう。あんなに沢山溢れていた感情がどこに行ってしまったのか分からない、好きっていう感情が迷子だ。

 立ち上がろうとしたけれど、腰が抜けてしまったのか足と腰に力が入らなくて立てない。そういえばこれも人生二度目だなとぼんやり思う。

 前にリッツが目の前でジンを惨殺しようとした時、腰が抜けて立てなかったっけ……。

 そんなアンナを察して、リッツは優しくアンナを横抱きに抱き上げた。こうされるといつもはリッツの顔をじっと見つめてしまい、リッツはそれに答えるように優しいキスを返してくれる。

 だけど、今日は顔なんて見れないし、キスもして欲しくない。

 怖い? 嫌い? 好き?

 どうしよう、わけがわからない。分かることは一つだけ。今は顔を見たくないということぐらいだ。

 気まずいまま家に帰り、気まずいまま夕食を食べて、いつも寝る前はリッツにお休みをいいに行くのにそれも言いに行かないままアンナは部屋に引きこもった。

 リッツには子供を作りたい愛人がいること、そしてずっとアンナを抱きたかったことを考えて、ただ悶々と眠れない夜と過ごした。

 子供が出来ないアンナをリッツは愛せないのだろうか。リッツは子供が好きだから、他の人との間に子供を作ろうとしたのだろうか。

 でもリッツはアンナを本当に愛してくれているのに。愛してくれていたはずだったのに……。


 翌日アンナが目が覚めた時には、リッツはもう家にいなかった。仕事に行ったのかと思ったが、その日の夜も、また次の夜も帰ってこなかった。

 部屋を調べたアニーが、部屋から旅に出るときに荷物を詰めているバッグが一つと、日常の細々したものが一式、そして軍学校で着ている軍服が一揃え消えていると聞いた時には、アマリアのところに行ってしまったんだなと他に何も考えられなくなってしまった。

 終わるって、こういうことだったのかとしみじみと寂しさを噛みしめる。アンナはどうしようもない喪失感を感じて座り込んだ。


 リッツはもうアンナのところに帰ってこないのかも知れない。 

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