名残の雪<4>
「わぁ……」
アンナは空を見上げて声を上げた。もう二月も終わりかけで、三月を目前としているのに、空から雪のかけらがひらひらと舞い落ちてくる。
エドワードが亡くなった日と同じように。
「……エドさんの……雪だなぁ……」
アンナは窓を開けて、そっと手を雪に差し伸べた。落ちてきた雪は、綺麗な結晶になっている。でも一番寒いときとは違って水分が多く、あっという間に解けて無くなった。
今日はエドワードの国葬の日だった。アンナは国葬に参加しなかった。その代わりに前日、エドワードと最後の別れをさせて貰ったのだ。
その場にはリッツやフランツ、シャスタと妻のサリー、パトリシア、ジェラルドと子供たち、ジョーとその子供たちなど、英雄王エドワードではなく、エドワード・バルディアという一人の人間の本当の仲間たちだけがいた。
棺の中で眠るエドワードは死んだ直後に見たのと同じように、穏やかで、本当に幸せそうで満足げだった。
初めてエドワードに出会った時のことを、アンナは思い出してしまった。
『わぁ……王様だぁ~。どうしようフランツ、初めて見ちゃった! ね、触っても怒られないかな? 触ってもいいかな? ね、フランツ?』
『馬鹿、失礼だろ!』
思い出しただけで、少しだけ笑えた。
あの時、まだ国王だったエドワードが珍しくて、珍獣扱いしてフランツに怒られたのだ。
でもそんなアンナを、エドワードは本当の孫のように、いつも優しく包み込んでくれた。悩みも苦しみも、当たり前のように聞いて、いつもアドバイスをくれた。アンナにとってエドワードは、養父以外の最も信用できる大人の人だったのだ。
それぞれが思い思いの別れをエドワードに告げる中で、やはり印象的だったのはリッツだった。
ジョーの子供を取り上げた日から、リッツは一度もアンナの前に現れてはいなかった。久しぶりに見たリッツは、少し痩せていたが元気そうだった。
リッツはエドワードの胸の上で組まれた手に触れて撫で、それから愛おしそうにエドワードの頬に唇を寄せた。エドワードが生きていた時には、そんなリッツを見たことがなかったから意外だった。
そしてその後リッツは、少年のように笑ったのだ。
『ちゃんと受け取ったからな、相棒。俺は生きるぜ』
その意味は、アンナには分からない。でもリッツはエドワードの死を乗り越えてその場にいた。
アンナはじっとリッツを見つめていたのだが、目があったりはしなかった。そこにいたのは、話に聞いていた内戦の頃のリッツで、アンナの愛おしい甘えっ子のリッツではなかった。
その日もリッツが家に戻ることはなかった。あの日から、今までどこに行ったのか、それさえも分からない。
でもアンナは信じて待つ。リッツの中の何かが、きちんと片付くまで、アンナが口を出してはいけない。エドワードはリッツの人生で、リッツに最も多くを与えた人物だった。だからその死は、リッツ自身で自分の中に納めねばならない。
アンナもエドワードのように、リッツに与えられる人でありたいと思う。お互いに与え合いながら、永遠に愛し合える関係でありたいと願っている。
アンナは小さくため息をつくと、冷たい風が吹き込む窓を閉めた。暖炉の暖かい空気がアンナを包む。
アンナが今いるのは、リッツとアンナの自宅兼ヴァインの事務所だった。ジョーたちの状態が落ち着いたし、メイドが一人帰ってきたから、少しだけ休暇を貰ったのだ。
自宅に戻ったアンナは、無言のまま家中の掃除を始めた。かなり放置していたから、汚れがひどい。たまには家に風を入れないと、痛んでしまうし埃っぽい。
マイヤース事務所は今、休業中でダンは本部に詰めている。アンナはジョーの手伝いで、三ヶ月ほどクレイトン邸に詰めっぱなしだし、リッツはエドワードが死の床についてからずっと、仕事をせずに王宮に詰めていたのだ。
掃除を終えたアンナは、普段はリッツとアンナしか入ることがない、ベッドルームの窓辺に立っていた。雪が街に舞い落ちるのが幻想的だ。
エドワードの国葬だから……これでもうエドワードとお別れだから、一人でこうしてここにいたかった。エドワードといた時間を、一人で噛みしめたかったのだ。仲間と話し合うのではなく自分自身で、沢山与えてくれたエドワードの思いや、優しさ、厳しさ、強さを噛みしめたかった。
それに……リッツに会いたかった。
クレイトン邸ではなく、ここにいた方がリッツに会えるような気がしたのだ。今日は国葬で、リッツは弔辞を読むのだと聞いた。だからきっとここに帰ってこないだろう。
だけど……ここにいたかった。
事務所も、リビングも、ヴァインの仲間たちが集う場所でもあるけれど、この部屋だけはアンナとリッツ二人の場所で、絶対に他の誰も入れない。
この広いシアーズの街の、マイヤース事務所の中にある、小さな二人だけの場所。この広い世界で、ここだけが二人の場所だから。
窓ガラスに手を当てて外を眺める。冷たい窓ガラスがアンナの手のひらと吐息で白く曇った。雪がひらひらと舞い落ちるが、積もるような振り方ではない。きっとあっという間に消えてしまうだろう。
雪は人間の儚さとよく似ているのかも知れない。眩しくて柔らかくて綺麗だけれど、永遠にとどまったりはしない。
すぐに消えてしまうからこそ、空から舞い落ちるその形は、何よりも美しい。
不意に背中から抱きすくめられた。
暖かな吐息が耳にかかる。抱きしめてきた逞しい腕を包む服の袖口には、銀色の階級章が光っている。階級は元帥。大臣の階級章だ。
言葉も無くそっと寄りかかると、その腕が更にきつくアンナを抱きしめる。吐息を漏らしながら、アンナは小さく囁く。
「おかえり、リッツ」
「ん……。ただいまアンナ」
柔らかくて、少し寂しそうな声だった。腕にもたれたまま、見上げると、大臣の軍服に、喪章がついていた。
「もうお葬式は終わったの?」
「いや。途中で抜けてきた」
「いいの?」
「ああ。もういいんだ。だってさ、お別れじゃないだろ?」
振り返ってリッツを見上げると、リッツは静かに自分の胸に右手を置いた。
「エドはちゃんとここにいる。俺の中にいて、俺と一緒に生きてる。そうだよな、アンナ?」
「そうだよ」
仲間たちがもし死んでしまっても、自分たちの中に共に生き続ける。一緒に笑ったこと、泣いたこと、怒ったこと、喜んだこと、生き続ける限り心にそれを持ち続けていれば、仲間と共に歩むことになる。
「私たちが生き続ける限り、エドさんはここにいるよ。だから私たちは生きなきゃいけないの」
リッツの瞳を見つめて告げると、リッツは小さく頷いて、アンナを抱きしめた。
「心配かけて、ごめんな」
「心配なんてしてないよ。ずっとずっと信じてたもん。リッツはちゃんと分かってるって」
「……うん。ようやく分かった気がする。俺はずっと間違えてたって」
そういうとリッツは、微かに微笑んだ。見たことがないぐらい儚げで、寂しそうな笑顔だった。
「仲間が死んだら、何も残らないって思ってたんだ。それで総てが終わって消えちまうって。だから仲間が死んだことを知らずに生きていれば、ずっと心の中で生きていると信じて、俺も生きていけるって、そう思って逃げてた。三十年以上も、大切な人たちから逃げ回っちまったんだ。そのせいで大切な時間を作り上げる事が出来なかった」
黙ったままアンナは背伸びしてリッツの首を抱いた。優しく黒髪を撫でる。静かにリッツは言葉を続けた。
「グレインに戻って、俺がエドと出会った頃に世話になりっぱなしだった人たちの墓参りをしてきたんだ。ジェラルド、ローレン、アルバート、マルヴィル……みんな同じところに眠ってる。エドも……本当はそこで眠りたいんだろうな……」
リッツがアンナの頬に、そっと頬をすり寄せる。その頬は、冷たく冷えていた。
「不思議な気分だった。俺はとっくに死んだその人たちを、ちゃんと覚えてた。彼らが言いそうな言葉が、ちゃんと思い出せた。みんなに励まされた気がした」
リッツを見上げたら、窓の外を見ているのが分かった。先ほどのアンナと同じように静かに舞う雪を見ているのだろう。
「仲間が死んだら永遠に届かない遠くに行ってしまうと思ってたんだ。でも違う。俺が悩んだとき、お前にアドバイスを貰うのと同じように、俺は俺の中のエドにアドバイスを貰えるんだ。俺がエドならどうするかって考えれば、エドの答えがそこにある。きっとそれがこれからもずっと共に生きていくって事なんだと思う」
静かに腕から放されたアンナは、ベットに座った。リッツは軍服の上着を脱いでサイドチェアーに掛けて、アンナの隣に座った。ここから窓の外がよく見える。並んで二人で窓の外を見た。灰色に曇った空から落ちてくる雪は、まるで春に舞い散る花びらみたいに綺麗だ。
「仲間が死んで行くのを見たら、生きて行くのが辛いから自ら命を絶ちたいなんて、俺は馬鹿だった。四十年以上も馬鹿やってた。俺が死んだらお終いなんだよな。誰の思いも一つも残らない。書物の中に真実なんて残らない」
淡々と語るリッツの太ももに、そっとアンナは手を滑らせた。軍服の厚い生地は外の寒さですっかり冷え切っている。リッツの手がアンナの手に触れ、優しく指を絡め合う。
「俺、ちゃんと生きるから。ちゃんと未来に向かって歩くから」
「うん……」
「だからアンナ……側にいてくれ」
雪が、静かに解けてゆく。消えてゆくのではなくて解けて心にしみこんでいく。
「ずっと、俺の隣にいてくれ」
「うん。ずっとずっとリッツの側にいるよ」
見上げたリッツの瞳から、一筋の涙が零れた。涙を拭うこともなく、リッツはアンナを抱きしめた。
「エドも死んだ仲間も、ずっと俺の中にいる。それはちゃんと分かった。だからもう逃げたりしない。だけどアンナ……俺は寂しいんだ。寂しくて仕方ないんだ」
リッツの呻くような言葉に、エドワードと子供のように喧嘩をしていたリッツの姿が、エドワードに抓られて抗議するリッツの姿が浮かんだ。
お互いに穏やかに笑いながら、グラスを傾ける姿なんて、エドワードが病に倒れるまでは、毎週のように見た光景だった。
そして旅をしていた頃の二人のことも、昨日のように思い出す。背中合わせに剣を構え、冗談を飛ばしながらも、信頼を寄せる姿も浮かんできた。お互い何も口にしないのに、ぴったりと息を合わせて行動する二人の姿が浮かんだ。
リッツの中ではもっと沢山の、エドワードとの思い出が渦巻いているのだろう。
アンナも長い長いリッツとエドワードの昔話を聞いた。その中でいかに二人がお互いを必要とし、信頼し合って生きてきたのかを知った。
でも今、お互いに唯一無二の友と認め合った二人の間に、死という別れが訪れた。
死しても友は心の中にいる。
目を閉じればいつでも思い出せる。
でももう二度と、触れ合うことはない。
ぬくもりを感じることは決してない。
「アンナ……」
「なあに?」
「ごめん。今夜だけ……思い切り甘えていいか? 泣くかもしれねえし、わけがわかんなくなったりもするだろうし、ちょっと不安定だと思うんだ」
「うん」
「だけど、ちゃんと明日は笑うから」
リッツの少し無理をした言葉に、アンナはリッツをギュッと抱きしめる。
「明日じゃなくてもいいよ。リッツがちゃんと笑えるまで、たっぷり甘えさせてあげる。私を抱いて私のぬくもりがあなたの心と体を温められるなら、何日だって私を好きにしていいよ」
「アンナ……」
「だからリッツ。嘘の笑顔じゃなくて、本当の笑顔をちゃんと見せて。私にだけはもう、何も作らないで。私はあなたを、永遠に愛しているからね」
アンナを抱きしめるリッツの腕が震えていた。
「うん……アンナ……」
泣き出しそうに震える声で頷いたリッツに、優しく押し倒されてベットに倒れ込む。
アンナの中に何かを求めるように、むさぼるようにぬくもりを求めるリッツに身をゆだねた。お互いの体温を素肌で感じ、夢中で体に触れるリッツの重みを感じながら、その体を強く抱く。大きな体なのにとても寂しそうで、抱きしめずにはいられない。
アンナは甘い吐息を漏らして、カーテンを開いたままのガラス越しの窓から、空を見上げた。
また雪が降り出した。多分この冬最後の雪だろう。
雪と共に、一つの時代が通り過ぎていく。
この雪は……エドワードの雪だ。
ユリスラという国を潤し、孤独だった精霊族の青年を優しく潤し、そして人々の心に大きな幸福をもたらした英雄王エドワードの、想いの雪だ。
雪はやがて水になり、小川になり、大河になる。
そうしてエドワードの思いもまた、人々の心の中に流れ続けてゆく。
雪が舞う。
ひらひらと、儚い名残の雪が舞う……。
鳥の声と、いい香りでアンナは目を覚ました。身を起こしても、隣でずっと縋るようにアンナを抱きしめたままいたリッツの姿がない。
ベットを抜け出し、身支度をしてダイニングへと続くドアを開けると、香ばしいパンの香りと、焼いたベーコンの香りに交じって、コーヒーの香りが漂ってきた。ダイニングのシンクに軽く寄りかかるように立って、リッツがコーヒーを淹れている。
リッツは扉から顔を出したアンナに気がついて、照れたように、でも本当に幸せそうに笑った。
「よう。おはよう、アンナ」
リッツの笑顔は、ちゃんと本物の笑顔だった。それが嬉しくて、幸せで、アンナは最愛のリッツに、最高の笑顔を見せた。
「おはよう、リッツ」
季節が、冬から春へと変わろうとしている。




