名残の雪<2>
アンナは、ため息をつきながらクレイトン邸の階段を下りていた。こんな時なのに……こんな時だからリッツの側にいてあげたいのに、そうできない自分がもどかしい。
唯一の救いは、行き場が無くなったリッツが、同じ館の中にいることだろうか。自宅兼事務所はたまに人の出入りがあるから、そこにいることは耐えられないようだった。
街を彷徨い歩き、翌日にボロボロになってリッツが現れたのはここ、クレイトン邸だったのである。
リッツの行くところはエドワードかアンナのところだから、エドワード亡き今、アンナのいるここしか行き場がなかったのだろう。
だが同じ館にいるけれど、リッツは談話室のエドワードの揺り椅子に膝を抱えて座ったまま身じろぎ一つしていない。アンナは手が離せない状況で談話室に入り浸っていることも出来ないのだ。
アンナは出産間際の妊婦を抱えている。アンナの親友でフランツの妻ジョーだ。もう三人目だし、普通のお産ならばこんなに大変ではなかった。リッツに着いていてあげる事も出来ただろう。
でも今回の胎児は逆子なのだ。それにジョー自身も遊撃隊の仕事で無茶したために体調を崩し気味だったから、予断を許さない状況だ。
それなのにジョーの夫フランツもいないし、手を借りるにも二人の息子、エディとシャスは幼すぎた。エディことエドワードは七歳、シャスことシャスタは五歳だ。
二人の名は、当然あのエドワードとシャスタから頂いたものだ。本人からも許可を貰っている。
以前この家にいたメイドのアニーはもういない。エヴァンスが六年前に亡くなった時に、一緒に死者の国へと旅立っていたのだ。
運悪く、普段この家にいる住み込みのメイドは、親の看病で、アンナが住み込むのと入れ違いで休みを取っている。
まさかこんな時に、エドワードの死が重なり、手助けとなるはずだったリッツに、全く期待が出来ない状況になるとは思わなかった。
そしてこんな時だからこそフランツは自宅に戻れないでいた。逝去したエドワードの国葬を行うための準備に、宰相秘書官室は大わらわなのである。
現在のフランツは、宰相参与兼秘書官室長を務めている。宰相は代替わりし、シャスタではない。
現在の宰相は、前にランディアで貴族の亡霊に取り殺されそうなところを、エドワード、リッツ、フランツとアンナの四人で救い出した、あのテレンス・フォーサイスだ。
参与と補佐官は総て秘書官室からの昇進に限るという決まりを引退前のシャスタが作っていってくれたから、フランツも精神的には楽になったと、ジョーに話しているらしい。
今までの仕事に参与の仕事も加わったフランツは、いつも遅くまで仕事をしている。その上国葬の準備だ。最近は帰ってくることすら出来ない日が続いているのである。
アンナはため息をついた。そんな事情があるから、全く手が足りない状況で、リッツにつきっきりというわけにはいかない。
だからアンナは信じるしかないのだ。
今のリッツは、昔のリッツと違う。
エドワードに殉じて……アンナを置いて自ら命を絶ったりしないと。
食堂に行きがてら談話室を通ると、いつも通り膝を抱えて動くことをしないリッツの姿があった。
エドワードが死んでから、もう五日になる。その間、飲むことも食べることもしようとしないリッツに無理矢理食べさせたのはフランツだった。
結婚してからのフランツは徐々に感情を取り戻してきていて、時折笑みを浮かべるようになっていた。
苦笑の方が多いが、笑う姿を見ることが出来るようになるとは思わなかったアンナからすれば、嬉しい限りだ。
自分の子供たちに相対するときは、柔らかな優しい表情をするフランツを見ていると、フランツが本当に求めていたのは、もしかしたら温かい家庭だったのかも知れないなと思う。
だがそのフランツからまた表情が消えている。心配の仕方が分からないフランツは、心配が度を超すと無表情になってしまう。
普段はリッツを目の仇のようにして、戦いを挑む子供たちも、遠巻きにそんなリッツを見ているだけで、近づくこともしなかった。
アンナはゆっくりとリッツに近づく。リッツは膝に顔を埋めたまま身動きすらしない。そんなリッツの前に立ち、抱えている膝ごと抱きしめた。
「リーッツ。今日の夕飯、何にしよっか?」
エドワードが元気だった頃は、こうして聞くと、冗談交じりに『そうだなぁ~、お前が喰いたい』とじゃれついてきたリッツなのに、全く反応がない。悲しいぐらいに。
アンナは黙ったままリッツの頭を撫でた。愛情と友情は別で、一番愛しているのはアンナだと、リッツ常日頃そう口にしていた。きっと今もそれは頭で分かっているのだろう。
それでもリッツにとって、自分の命よりも大切に思っていた親友の死は、考えてきた以上の苦痛を心に与えてしまっている。
「夕飯は美味しいもの作ろっか。寒いからグラタンもいいよね」
答えは返ってこない。でもアンナは気にせずに話しかけ続ける。こうするしかアンナに出来ることはない。
苦しみを乗り越えて、自分を取り戻したら、きっとリッツはまた今までのように笑えるようになる。アンナはそれを信じている。そのための手助けならば、してあげたいと思う。
ただ今は無理だ。
「ん~、何だか本当にグラタン食べたくなっちゃった。牛乳はまだあったかなぁ……」
独り言を呟きながら、リッツの頭をギュッと胸に抱きしめてから髪にキスをする。
「ええっとジョーと、エディと、シャスと、私と、フランツと、リッツ。六人分っと」
言いながらリッツから離れた時だった。
悲鳴のようなシャスの泣き声が聞こえてきた。考えるよりも早く、アンナは駆けだしていた。
先ほどまで二人は母のジョーと一緒に部屋にいた。ジョーは数日前から体調がいいと子供たちと遊んでいたのだ。
階段を駆け上がり、ジョーがいる部屋に駆け込む。ここは前にリッツとアンナが使っていた部屋で、今はジョーとフランツの夫婦が使っている。
「どうしたの!?」
部屋に入ったとたん、アンナの目に飛び込んできたのは、パニックに陥って泣き叫ぶシャスと、青ざめてシャスを抱いたまま立ち尽くすエディの姿だった。
その視線の先に、ジョーが倒れていた。じわじわと彼女の下腹部からは赤い液体がしみ出ている。駆け寄りジョーの肩を支えながらエディをみる。
「エディ! 説明しなさい」
孤児院にいた時のようにきっぱりと言うと、エディは青ざめた顔のまま口を開く。
「お母さんと遊んでたら……シャスが急にお母さんに抱きついて……それで……」
なるほど、前のめりに倒れたか。唇を噛みながらアンナがジョーのスカートを捲る。流れ出ているのは鮮血じゃない。破水してるんだ。
アンナは覚悟した。少し早いが、二人産んでいるジョーだからおそらくもう生まれる。取り上げるのは自分しかいない。
フランツはいない、アニーもいない。他に誰も手助けしてくれそうな人はいない。
でもやるしかない。
「アンナ……」
苦しげな息の中でジョーが口を開いた。
「何?」
「子供たちを怒らないで。私がちょっとハメ外しちゃったんだ」
「……うん。分かった。ジョー、ベットに戻れる?」
尋ねると、ジョーは弱々しいながらも笑った。
「平気。鍛えてるからね」
「さすが特別遊撃隊の第一隊長だね」
「へへっ……とーぜんっ……いてて……」
「ジョー、痛いの?」
「ん。覚えがある。きっと陣痛だ」
笑うジョーに手を貸して彼女を元のようにベットに寝かせると、アンナはジョーの二人の子供たちを部屋の外に出した。泣くのをこらえていたエディがボロボロと涙をこぼした。
「アンナ母さん」
エディとシャスは、アンナを母さんと呼ぶ。生まれてから四年もの間、エディと一緒にいたから自然とそうなった。
「なあに?」
「お母さんは死んじゃうの?」
不安に顔が歪んでいる。出会った頃のジョーにそっくりだ。
「エディ」
「はい」
「私は医者よ」
「うん」
「絶対に死なせないから安心して」
アンナが笑顔を浮かべると、エディはこくりと頷いた。
「エディ、シャスと一緒にお父さんを呼びに王城へ行ってらっしゃい。門番さんにはちゃんと話を通してあるからね」
告げるとエディは目を見開いた。まだ彼は一度も一人で王城に行ったことがないのだ。
フランツに連れられて幾度も王宮にグレイグを尋ねて行っているエディだが、不安いっぱいの顔をしている。
「門番さんに言うのよ? エドワード・クレイトンと、シャスタ・クレイトンです。父、フランツ・クレイトン・ルシナを迎えに来ましたって。そうしたら門番さんがお父さんのところまで連れて行ってくれるから」
不安そうな顔をしているエディの頭を撫でて、アンナは笑顔を見せた。
「エディ、あなたはあの英雄王エドワードの名前を貰った勇敢な男の子なの。だから絶対出来るわ。シャスもそうよ。二人とも勇敢な男の子。私はちゃんと分かってる」
泣いていたシャスが顔を上げた。エディも顔を上げる。
「さあ、急いで行ってきて。お母さんのことは私に任せなさい」
二人をまとめてギュッと抱きしめると、二人も抱きしめ返してくれた。
「行ってきます、母さん」
「行ってらっしゃい」
二人を笑顔で送り出したアンナは、大きく息をついた。準備を総て一人でやらねばならない。
お湯を沸かし、桶を用意して、柔らかな木綿を用意して、それから産着。
そうだ暖炉を燃しておかねばならない。寒いと週足らずで生まれた乳児は危険だ。陶器の懐炉が何処かにあったはず……。
どうしてこう……次から次へと!
アンナは唇を噛んだ。もし万が一のことがあったら、一人では色々と対処できない。せめて細々とした事を手伝ってくれる人がいれば、最善を尽くせるのに。
ぶつけようのない苛立ちを、詮無きことと押さえつけようとして、ふと気がついた。
……一人いるじゃないか。動ける人が。この家に。
アンナは階段を駆け下った。そのままの勢いで談話室に走り込む。
「リッツ!」
当然のことながらリッツは顔を上げない。そんなリッツにアンナは駆け寄った。
「リッツ! リッツ!」
がくがくと揺すぶっても、リッツは動こうとしない。アンナは思わずリッツの襟首を掴んでいた。死んだような目をしたリッツが、ぼんやりと焦点の合わない目でアンナを見上げる。
「手伝って欲しいの! ジョーの出産が始まるの。逆子で手が離せない!」
だがリッツは反応しない。
「お願い、手が足りないの! あなたしかいないの!いざという時に、誰かにいて貰わないと困るの! 本当に危険な状態なんだよ!」
必死のアンナの言葉だったが、リッツはぼんやりとした目をしたまま視線を逸らした。何もかもがどうでもいい……そんな顔をしている。
そんなリッツに、猛烈に苛立ちがわき上がってきた。
アンナの親友が……リッツの唯一の愛弟子が危険な状態に陥っていて、手助けしてくれればもう少し状況が好転するというのに動かないのは違う。
悲しみにふさぎ込んでいても構わない。でも正気に返れば後日後悔するような、そんな命のかかった場所で目を逸らすのは間違っている。
そうなってしまえばリッツは、自分で自分を責め続けなくてはならなくなる。
エドワードの死、ジョーの危機が一つの悲しみと後悔で結びついてしまったら、リッツはきっと立ち直れない。
何があっても、それがどんなに辛くても、そこに命がかかっていればほんの少しでいい、前を向いて欲しい。
永遠の後悔を引きずるのは……リッツなのだ。
襟首を持ち上げたまま、アンナはリッツの頬を平手で叩いた。思ったよりもすさまじい音がした。それでも前を向かないリッツに、立て続けに平手を食らわせる。
叩いているアンナの目から涙が溢れてきた。
「いつまでそうしてるつもりなの! そうしていればエドさんが帰ってくるの?」
リッツの瞳が初めてアンナを見た。その印象的なダークブラウンの瞳が揺れている。リッツの唇が小さく動いた。
「……エド……?」
「アンナ! 私はアンナ、あなたの妻です!」
ボロボロと涙が零れる。
「今のリッツは情けないよ! 弟子が危険な状態なのに、助けることもしないで自分の殻にこもって膝抱えてるなんて間違ってるよ! エドさんだったら絶対に拳で殴ってる! こんなに情けない友を持った覚えはないって、怒るに決まってる!」
アンナはリッツの襟首を両手で掴んだ。そして前後に振る。
「エドさんを失って辛いなら泣いてよ。私の腕の中で気が済むまで泣いていいよ。私はずっとあなたを抱きしめていてあげるから。でもこうやって殻にこもられたら、私は何もしてあげられない!」
「……アンナ」
「私だって、エドさんが死んじゃって悲しいよ! エドさんはずっと私の悩みを聞いてくれたんだもん。旅の途中でリッツとこじれた時も、ずっと側で励ましてくれたのはエドさんだもん。リッツがアマリアさんと浮気して家出しちゃった時も、リッツの事を話してくれたのはエドさんだもん!」
涙が止めどなく溢れてきてしまう。
「だから一緒に泣こうよ! リッツの荷物を半分持ってあげるって約束したんだもん、半分持たせてよ! あなたの辛いのを半分こしようよ。そのために私とリッツは愛し合って、夫婦になったんでしょう!?」
泣きながらそう言ってから、アンナは息を整えた。涙と感情の爆発で息が荒い。
「……くっ……」
リッツが俯いて、声を漏らした。
「リッツ?」
「くくっ……」
泣いているのだろうか? そう思った時だった。リッツが膝を抱えるのをやめ、顔を上げた。
リッツは笑っていた。笑いながら涙を流していた。だがその表情までうかがい知れない。大きな片手で顔を半分覆っているからだ。
「リッツ……」
「俺、成長してねえなぁ……。昔、エドに言われたのと同じ事をお前にまで言われてる……」
いいながらリッツは、天井を振り仰いだ。涙が頬を伝って落ちている。
「リッツ、大丈夫?」
「分からない。世界が不確かで足下がおぼつかない気がする」
その声が言葉とは裏腹に少しだけ現実に繋がってきたような力を感じて、アンナは座ったままのリッツを見つめた。
「力を貸して欲しいの、大丈夫なら助けて」
「助ける?」
夢見心地にぼんやりとアンナに応えたリッツを、アンナはまっすぐにのぞき込んだ。
「ジョーのお産が危険な状態なの。少しでいいから手を貸して貰える?」
「危険……ジョーが?」
リッツの表情が少し動いた。リッツは弟子のジョーをいつも気に掛けているのだ。
「手を貸して貰えるなら貸して。万が一の時に、手が欲しいの」
涙と鼻水を拭きながら尋ねると、リッツはまだぼんやりとした顔でアンナを見つめ返してきた。
「でも俺は何も出来ない」
「そんなことはない。出来るの!」
「でも……」
まだ定まらずに迷う瞳を見つめ返して、アンナはリッツの唇を優しく塞いだ。いつもは積極的にアンナをせめてくるリッツを、アンナの方から優しく包み込む。唇を離したアンナは、リッツの頬を両手包んで微笑んだ。
「暖かいでしょう?」
「……うん」
「一人で抱えるのは辛いよ。でも二人でいるから暖かいの」
「うん……」
「あなたにはまだ私がいる。私は絶対にあなたより先には死なない」
「うん……」
子供のように頷くリッツを抱きしめた。
「お願い。後悔しないようにリッツに出来ることをして欲しいの」
「俺に出来ること?」
「そうだよ。弟子とその子の命を救う手伝いをして欲しいの」
「俺に出来るわけ無い……」
俯きそうになるリッツに、アンナは強い口調で告げた。
「お湯を沸かしてたらいを用意して、暖かい木綿を集めて、懐炉を用意。全部キッチンの棚にあるから」
「え?」
「いつものあなたなら造作ないことだよ、リッツ」
まっすぐに見つめて強く言うと、リッツがおずおずと頷いた。
「それぐらいなら……」
「お願い。私はもうジョーのところに行くから。それを持ってジョーの部屋に来て欲しいの。できる?」
リッツしか頼める人がいない。だからまっすぐに思いを込めて尋ねると、リッツが五日ぶりに椅子からゆっくりと立ち上がった。
「それぐらいなら……俺にも出来そうだ」
よろめきながら立ち上がったリッツに、アンナは微笑む。
「お願いね」
リッツが台所に向かうのを見送る事もせずにアンナは部屋を駆けだした。
リッツを信じる。
リッツはアンナが選んだ、たった一人の夫だ。
涙の残りを片手の甲で拭い、階段を駆け上がる。ジョーのいる部屋に駆け込むと、アンナはジョーに駆け寄った。ベッドサイドにかかっていた自分の白衣を外して身につける。
「どんな感じ。ジョー?」
「痛いっ……すごくっ……」
「間はどのくらい?」
「そんなの無い!」
「分かった」
アンナはベットに飛び乗ると、布団を捲ってジョーの膝を立たせて下腹部を見つめた。流れ出ている液体が赤く染まっている。その量が多い。これは内部で出血が起きている可能性が大きい。
アンナは唇を噛む。聴診器を腹に当てると、胎児の鼓動が弱まっているのが分かった。このままでは母子共に危険だ。
アンナは覚悟を決めて、ジョーの腹に手を当てた。お産の準備よりも母子の命を助けることを優先したのだ。
「安らぎを司る水の精霊よ、われに力を……」
小さく呟き目を閉じる。ジョーの体内に残っている羊水に神経を集中させ、出血している場所を探して治癒させていく。それと同時に胎児の血液の流れを安定させる。
かなりの重労働だ。そんなアンナに構わずに、ジョーが痛みをこらえきれずに声を上げている。陣痛に間がない。生まれる。なのにアンナはこちらから手を離せない。
奥歯を噛みしめながら、アンナは冷や汗を流す。この手を離すわけにはいかない。だけど胎児をちゃんと取り出してあげる人がいなければ、母子ともに助からない。この子は逆子なのだから。
「ああっ! もう駄目だ! 出てくるよ!」
ジョーの叫びと同時に、胎児の足が出てきた。だがアンナは出血を止めるので精一杯だ。
その時、扉が開いてリッツが入って来た。台所に全部まとめておかれていたのに気がついたのだろう。その手には指定したとおりのものがある。
「アンナ、これ……」
「ああっ! い、痛いっ!」
ジョーの叫び声に、リッツはビクリと体をすくませた。リッツの視線がこちらを向いて、そして固まったように動きを止めてしまった。
「痛いっ! ああーっ!」
ゆっくりと、足が出てくる。駄目だこのままでは窒息してしまう。早く子供を出してあげなくては。 アンナは決意した。これしか方法がない。
「リッツ!」
「……え……?」
「赤ちゃんを取り上げて!」
「え……?」
「早く!」
リッツがじりじりと後ずさった。
「お、俺、無理だって……」
「無理でも何でもやるの!」
「無理だ! 剣は握れても、赤ん坊は取り上げられないって!」
青ざめて後ずさるリッツに、ジョーが叫んだ。
「師匠! 私の子助けてよ!」
「じょ、ジョー……」
「私と……フランツの子、助けてよっ! ううっ!」
痛みにもがくジョーを前にして、青ざめた顔で立ち尽くしていたリッツだったが、血にまみれたジョーをみつめ、そして大きく開かれた下腹部から、小さな足先が出ているのを見た瞬間、完全に血の気が引きつつも、覚悟が出来たらしかった。
「どうすればいい?」
「手を洗って。たらいのお湯でいいから!」
よろめきながら、リッツは持ってきたたらいのお湯で自分の手を洗う。
「……アンナ……」
「何?」
「指示してくれ……俺が……」
リッツはそういうと、ジョーの開かれた膝の間に蒼白な顔をして座った。
「俺が何とか取り上げる」
「うん!」
悲壮な表情で決意したリッツに、アンナは微笑みかけた。
「始めるよ、リッツ」
「おう……」
今まで聞いたことがないような緊張感に満ちた声でリッツが返事をした。
一時間後、ジョーの処置までしてアンナは一安心してベッドサイドの椅子に座っていた。
逆子で取り出すことが困難だったから、切開処置をした。医療用のメスを持ったことのないリッツだったが、やはり刃物を使わせたら、上手かったのだ。そんな自分にリッツ自身が驚いていた。
その切り傷も、産後すぐに治癒魔法で塞いだから、出血多量に陥ることもなく、ジョーも無事にお産を終えた。
生まれた子は小さかったが、かなり元気な男の子で、フランツによく似た金の髪と青い瞳をしていた。
「ふっしぎだよなぁ」
ジョーがしみじみと呟いた。リッツにたらいに入れて沐浴をされて、綺麗な産着を着せられた赤ちゃんは、ジョーの腕の中ですやすやと眠っている。
「何が?」
「私が生んだのに、なんでこんなにフランツに似てるんだろう」
「だってフランツの子だもん」
「あはは。そりゃそうだね」
「エディとシャスがジョー似だから、丁度いいよ」
「そっかな。えへへ。フランツに似ていい男になるぞ、こいつ」
惚気たジョーが赤ちゃんの頬をつんとつつく。赤ちゃんはもぐもぐと口を動かした。
アンナの治癒魔法はよく効いていて、子宮内部の出血を早く止められたからジョーは命の別状無くこうして元気にしている。元々出産と水の精霊魔法は相性がいい。体内の水で赤ちゃんを育てるからだろう。
でも本当にリッツがいてくれて助かった。アンナの指示を一つとして聞き逃さぬように、忠実にアンナの手となって子供を取り上げてくれたお陰で、逆子だった子供の命を救えた。
生まれた時、赤ちゃんは息をしていなかった。動揺するリッツにとっさに医学生に言うように『羊水の除去!』といってしまった。
普通は動揺するだろうに、リッツはためらいなく、赤ん坊の鼻に詰まった羊水を吸い出して、うつぶせた赤ん坊から水をはき出させた。
赤ちゃんの泣き声が響いた時、リッツとアンナ、そしてジョーは三人とも安堵の息をつき、無事にこの世に誕生した命に、喜びの声を上げた。
リッツはエドワードと出会う前、子供たちの世話係を務めていたのだ。だから溺れた子供にすることを応用したのだという。
そのリッツは今、ベットにもたれかかって呆けたように宙を見ている。着ていた服は血にまみれてしまっているが、安堵のあまり動く気力もないらしい。
そんなゆっくりとした時間が流れていたその時、扉の外が騒がしくなった。扉を開け放って入って来たのは、官僚の制服に銀縁眼鏡、固めた金髪が乱れ放題のフランツだった。
「ジョー! 無事?」
開口一番そういったフランツは、血まみれのままベットにもたれて座っているリッツを見て動きを止めた。
今日フランツは出勤前に、全く身動きしないリッツに無理矢理食事を取らせた覚えがあるから、ここにいることが不思議だったのだろう。
「リッツ?」
恐る恐る声を掛けたフランツに、リッツが弱々しくも笑みを浮かべて手を上げる。
「おう、おかえり」
「……ただいま」
反射的に応えたフランツに、ジョーが嬉しそうに呼びかけた。
「お帰りフランツ! 見てみて、フランツにそっくりなんだ!」
「僕に?」
「うん! 絶対にいい男になるって、アンナと話してたんだよ」
「そうなの。ジョーったら、惚気っぱなし」
アンナは戸惑ったように辺りを見渡すフランツに、微笑みかけた。三人が三人とも動く気が無くて、出産後の片付けが進んでいない。
特にリッツは、子供をジョーに引き渡したとたん、崩れ落ちるようにその場にうずくまってしまったのである。
「フランツ、リッツがこの子を取り上げたんだよ」
アンナはフランツの顔を見ながらゆっくりと状況を説明した。フランツの顔がみるみる驚愕に変わっていく。総ての説明を聞いてから、フランツはリッツに向き直った。
「ありがとう。僕とジョーの子を助けてくれて」
「俺は……アンナに言われたとおりやっただけだ」
「それでも、子供を助けてくれたことに変わりない」
フランツがきっぱりとそう言い切った。リッツはこれ以上否定する事も出来ずに頭を掻いている。アンナはリッツが照れているわけでも、困っているわけでもないことに気がついた。
リッツはもう、エドワードとの思い出に浸って暗く沈んでいない。
「助けられたのは……きっと俺の方だ」
リッツがそう、小さく呟いた。
「こいつを沐浴させてる時、こいつ、俺の指を掴んだんだ。すごい力だった。生まれたんだ、生きたいんだって、そう言ってた。俺もああいう風に生まれてきたんだよな……。この世に生きたいと、力強く願いながら生まれ出た」
リッツは呟くようにそう言った。その言葉にジョーが応える。
「そりゃあ生きたいよね、リッツ。せっかく私のお腹に入って生まれてきたんだもん」
一瞬、リッツが考え込むような顔をしたが、すぐにその違和感に気がついたのか立ち上がった。
「まて。その赤ん坊はリッツって名前か?」
「うん。エドワード、シャスタときたら、次はリッツでしょ?」
自信満々にそういったジョーに、リッツはため息をついた。
「師である俺を目の前にして、よくもまあ俺の名前を付けられるな……」
「付けられるよ。だってリッツにしようって前々から決めてたからさ。いいでしょ師匠?」
「駄目だ」
「何でさ?」
「俺が死んだみたいじゃねえか」
「ええ~? 陛下も閣下も許可してくれたのに師匠が駄目って何でさ?」
ふて腐れるジョーに、リッツは断固として頷かない。
「駄目だ。俺はずっと生きているんだからな」
そういったリッツは、自分の言葉に自分でハッとしたようだった。掌をじっと見つめてリッツは呟く。
「そうだ……俺は生きてるんだ……」
そしてその拳をギュッと握りしめた。
「生きていくんだ。エドの分も、みんなの分も、みんなを忘れずにいる限り、一緒に生きてくんだ……」
呟いたリッツは、俯いた。
歯を食いしばって、拳を握りしめているのが、アンナからは見えた。
今にも泣き出しそうな顔だなとアンナが見つめると、リッツはその視線に気がついたのか、全員に背を向けた。
「着替えてから、飯喰ってくる。何だか腹減ったからさ」
「行ってらっしゃい」
アンナはそんなリッツに笑顔で声をかける。リッツはきっと、一人で泣いてくるんだろうと思ったのだ。
何しろリッツと出会ってから、今年で二十年になるのだから、リッツの事なんてほとんど分かってしまう。
そしてその後は、アンナにちゃんと甘えに来てくれる。そうしたらアンナは、リッツを胸に抱きしめて、リッツの気が済むまで、思う存分たっぷりと甘えさせてあげよう。
そうすればきっと、リッツは今まで通りに前を向くことが出来るはずだ。アンナの愛する今のリッツは、昔みたいにすぐに死にたがったりしない。アンナと共に生きることを常に選んでくれるのだから。
出て行きかけたリッツだったが、扉を開けたまま振り返ることなくジョーに言葉を放る。
「リッツは駄目だ。でもアルスターの方はいい」
言い残してリッツは部屋を出て行った。後に残ったジョーが嬉しそうに笑った。
「アルスターか。お前の名前、アルスター・クレイトンに決まりだ」
一五九二年アルスター・L・クレイトン、生まれる。ミドルネームのLはルシナの略であり、彼はヴァイン本部の重鎮となっていくことになるのだが、それはまた別の物語である。




