名残の雪<1>
王国救世の英雄エドワード、精霊族の戦士リッツ。
二人が出会って六十年目の冬、ついに二人の間に別れの雪が降る。
共に戦い、共に生きた年月の重みにリッツは……。
終わりにして、始まりの物語です。
「雪だな……」
かすれた小さな呟き声に、リッツは目を開いた。ずっと眠ったままだった友の目が開いているのを見て、嬉しさと同時に、えもいわれぬ不安感に苛まれながら言葉を返す。
「ああ。雪だ」
「最後の……雪かな?」
言葉の間に吐息のような息を吐きながら、友は静かに笑みを浮かべる。それはこの冬最後の雪であることを言っているわけではなく、彼が死ぬ前に見られる最後の雪であるという意味のようだった。
リッツは震えそうになる指を軽く組むふりをして、友に向かい合う。
「……そんなことないさ」
「そうかな」
「そうだって。来年も再来年も見りゃいいだろ」
微かに声が震えた。そうならないことなど、リッツはもう承知している。ここでこうして目を開き、言葉を発していることすら奇跡なのだ。
このまま目を覚まさずに、静かに死を迎えるだろう。そう聞いていたからだ。彼の家族もそれを知っていて、それなのにリッツが一人、こうしていることを許してくれている。
そう考えたリッツは、我に返った。そうだ。彼が目を覚ましたなら、彼の家族を呼ばねばならない。あわててベルをならそうとしたリッツの手を、友の手が柔らかく制止した。
「エド……?」
「家族に、言い残すことはない……もう十分に話をした」
満足そうに彼は笑う。それでも家族を差し置いて自分がここにいることに後ろめたさを感じる。
「だけど……」
「お前と話がしたかった。目が醒めてよかった」
友の……エドワードの言葉に、リッツは無理に笑顔を作った。望むようにしてあげたい。エドワードがそう言うならそうしたい。それでもやはり心苦しい。
「言い残す事って何だよ。やめろよ、そういうこというの」
「リッツ」
「パティもシャスタも心配してたぞ。ジェラルドとグレイグもだ。今呼んでくるから……」
言いながら腰を浮かせたリッツは、エドワードの目を見た瞬間に動けなくなった。その瞳は病の床にあっても、全く輝きを失わず、リッツを射貫くように見つめていたのだ。
気付かれている。エドワードの死を目の前にして目をつぶり逃げ出したいリッツの心を。三十五年もの間エドワードが年をとって死ぬことに恐怖して、シアーズに戻れなかったリッツの事をエドワードは黙って許してくれた。でも今回は違った。
言葉に出さず、エドワードはいっているのだ。
逃げるな、と。
「座れ」
「……でも……」
「今話せなければ、もう話せない」
エドワードにかすれた声で告げられた一言が心に突き刺さった。力が抜けたように、最初に座っていたベッドサイドの椅子に座り込む。
もう話せなくなる……エドワードと。もう二人の関係が終わりになる時が近づいている。
死という避けられない終末によって。
言葉が出ずに座り込んでいるリッツに、エドワードは静かに切り出した。
「お前に……言いたいことがあった」
「……うん」
「俺が預かっていたお前の命だが……アンナではなく……お前自身に返す。受け取れ」
「え……?」
「もうお前は自分の命を自分で大切に出来るはずだ。お前は自分で自分の命を抱えられる」
胸を突かれた思いだった。
自分は成長していた。
出会った時、リッツはエドワードに自分の命を預けた。エドワードがリッツの命を持っているから、返して貰わなかったから、リッツは死にたいと思っても死ねなかった。
エドワードに預けっぱなしにしてきたから、六十年もの間死なずに暮らせたのだ。そのお陰で最愛の伴侶と出会い、幸せを手にすることが出来た。
もしエドワードが命を預かっていなければ、傭兵としてのたれ死んでいたかも知れないし、内戦で無茶な死に方をしていたかも知れない。
そんなリッツだったが、いつの間にかリッツは誰かがいないと生きていても仕方がないとか、生きる意味が分からないと思わずに生きられるようになっている。
ひとえにそこにはアンナの力があった。振り向けばいつもアンナが柔らかな笑顔で、一人ではないと、一緒にいるからと言ってくれる。だから自分が本当は、暖かな人々の思いの中に生きてきたことに気がつけた。
でもここまで生きられたのは、命をずっと預かってくれていたエドワードがいたからだった。
「エド……」
「何だ?」
「死ぬなよ」
本音が漏れた。言っても詮無きことだと分かっている。エドワードはここ数日、意識のない状態が続いていたのだ。だからこうして話していること自体が奇跡なのだと分かっていた。
病に倒れてからずっとヴァインの仕事を減らして、エドワードの主治医として王宮に詰めていた妻、アンナからはエドワードがもう一月と生きられないことを聞いていた。それでもリッツは彼が死なないという奇跡を信じずにはいられなかった。
「まだ死ぬなよ」
「リッツ……」
「俺は……まだ……生きてて欲しいんだ」
唯一無二の友、エドワード。愛する妻とは違う、たった一人の親友だ。リッツにとってその存在は何者にも代え難く、大きな存在なのだ。
「無茶を言うな。八十四の病人に……死ぬなという方が無理だろう……?」
エドワードは言葉の端々で荒い息をつきながら、かすれた聞き取りにくい声でそう言うと、微かに笑みを浮かべた。それでもだだっ子のようにリッツは首を振った。
「無理でも嫌だ」
「子供か?」
「子供でもいい。まだ……まだ生きてくれよ!」
絞り出すように本音が漏れた。駄目だ。泣くな。もういい加減いい大人だ。あの頃のように、出会った頃のようにだだをこねることも、人目もはばかるほどに泣くことも許されない。
頭では分かっているのに、感情が押さえきれない。泣くのをこらえていると、エドワードが優しく名前を呼んだ。
「リッツ」
「……なんだよ、エド」
「ずっとお前に言いたかったことがある」
「何?」
涙をこらえ、流れてくる鼻水をすすりながら尋ねると、エドワードが柔らかく微笑んだ。
透き通った、何の気負いもない笑顔だった。昔一度だけ見た、自分の本当の夢を語った、あの時と同じ笑顔だ。
ああ……もうエドワードに背負うものは何も無いのだ。自らの病すらも、もう遠くにある。
それに気がついたリッツが息をのむと、エドワードは静かにリッツの目を見つめた。
「俺の夢を総て……共に叶えてくれてありがとう」
「エド……」
「国を……救うだけではなく……大陸を旅することも出来た。真実を知ることも出来た。お前がいたからだ」
お礼をいうのはリッツの方だ。エドワードが生きろといったから、リッツに死ぬなと言ったから生きてきた。生かしてくれたから幸せになれた。
そう言いたいのに言葉が出てこない。代わりに頬を熱い涙が伝った。
「お前がいなければ……俺はきっと……孤独と……重圧で壊れていた。お前がいたから……俺は前を見られた」
「そんなことない! お前はずっと俺の前に立って、眩しくて、まっすぐだった!」
「違う。お前がいたから……俺は自分でいられた。お前は俺の、片翼だった」
「エド……」
「お前のお陰で、いい人生だった。お前には本当に感謝している」
嗚咽がこみ上げてきて、必死でそれをこらえようとしたが、こらえきれない。子供のように涙をこぼすリッツの頬に、エドワードの手が伸びてきた。
枯れ木のようにやせ細った指が、リッツの頬をつまむ。
「泣くな、馬鹿……」
ふざけるとよくそうして頬を抓られていた。でも今はその手に全く力がない。
「……痛いだろ、エド」
「痛くしているんだから、当然だろう……?」
いつも通りにふざけることも出来ない。肩を振るわせて泣き続けるリッツの頭に、エドワードの手が乗った。優しくその手が頭を撫でてくれる。
こんな風にされるのは、五十年以上ぶりだ。三十五年の間リッツがそばから離れた後は、一度もそんなことをされた記憶がなかった。離れている時間が長くて、お互いに気恥ずかしさや、後ろめたさがあって出会った時のようにじゃれ合うことは無かったのだ。
だが今のエドワードは、あの頃のエドワードと同じだ。それが嬉しくて、そして切ない。
「リッツ……頼みがある」
「何だよ」
泣きながら尋ねると、エドワードがまっすぐにリッツを見つめてきた。その瞳は昔と同じく澄んだままだ。
「この国を頼む。王家ではなく……国民が幸せであるように、見守ってくれ……」
「……そんな……」
「もし、俺の血を引く者が……この国を滅ぼすなら、お前が正せ」
「そんなの無理だ! 俺はそんなこと出来ない!」
叫ぶと、エドワードは頭に乗せていた手でそっと、涙に濡れたリッツの頬を撫でた。
「大丈夫……お前には出来る」
「何の根拠があってそんなこと言うんだよ!」
「……お前の中には……俺がいる」
エドワードの手がゆっくりと、リッツの頬から肩に滑り落ちていく。
「エド……?」
「お前が俺から離れている間……俺の中にずっとお前がいた」
「……え?」
「俺は……俺の中のお前に、正しいかを問いかけ続けた。俺の中のお前が、俺を見据えている時は、俺自身を律した。お前の中にも……俺がいるだろう?」
リッツは唇を噛んだ。そうだ。大きな問題にぶつかった時、一番に判断をゆだねるのはエドワードならどうするか、それをリッツがやればエドワードはどう思うかだった。
確かにリッツの中にはエドワードがいた。
「だから……お前に未来を託す」
言葉は徐々に小さくなり、エドワードはベットに沈み込んだ。
リッツの心臓の鼓動が、早くなる。嫌な予感がじわじわと迫ってきている。その恐怖をはねのけたくてエドワードを呼ぶ。
「エドっ……!」
小さく息をついてエドワードが言葉を漏らす。苦しげな吐息混じりの微かな言葉だった。
「考えてみれば幸せだな……俺は。お前の中でずっと生きている」
「俺の中じゃなくて、ここで生きててくれよ!」
「リッツ……」
「まだ死なないでくれ! 頼むから!」
「馬鹿が……そんなに長く生きられるか……」
「嫌だ! 俺をおいてくなよ!」
再び涙があふれ出した。そんなリッツを見たエドワードが、昔のように人の悪そうな笑顔を浮かべた。
「……置いていく。悪いな」
「エド!」
「死者の国で……何百年でも待っててやる。やるべき事を……してからこい……」
エドワードが小さく息をついて目を閉じた。
「お前を……愛しているよ、リッツ」
「エド?」
「幸せになれよ……俺の……半身」
聞き取れないぐらいに微かに、エドワードはそう呟いた。それから満足そうに穏やかな表情を浮かべて動きを止めた。
大きなため息にも似た吐息が、エドワードの唇から漏れた。
涙を拭い、鼻をすすりながら、リッツは眠るエドワードを見つめた。勝手だ。この国を守れなんて。リッツに何が出来るというのだろう。今度目を覚ましたら、もう一度文句を言ってやる。今の一回が最後の目覚めだなんて言わせない。医者のアンナがなんと言おうと、また目を覚ますに決まってる。眠ったまま死んでしまうなんて、そんなことは絶対に無い。
次に目を覚ましたら、絶対に……。
そう思いながらリッツは投げ出されたままのエドワードの手を取って、かけ布団の中にそっと戻そうとした。
だがその瞬間に頭の芯がすっと冷えた。
エドワードの手は冷たかった。先ほどリッツを撫でた時には暖かかったのに……。
呆けたのは一瞬で、リッツはすぐに我に返り、立ち上がると腕の脈を探した。
どこも脈動していない。
満足そうに眠っているようにしか見えないエドワードの首筋に手を当てて脈を確認したが、掌に脈動が返ってくる場所は無かった。
「うそだ……」
体中の力が抜けて、ベッドサイドの床に座り込んだ。慌てていたからエドワードの手を戻すことが出来ず、その手はベットから垂れている。
「うそだよな……エド」
リッツは座り込んだままその手をそっと握った。そうしていないと底のない泥沼に沈んでいくようで、自分の存在を認識できない。
「エド、エドってば……」
さっきまで動いていたのに。
さっきまで頭を撫でてくれていたのに……。
頬に触れてくれたのに……。
話していたのに、笑っていたのに……。
「こんな冗談、やめろよ。なあ、エド……」
あまりに突然で、先ほどあれだけ流した涙が驚く程出てこない。
「言いたいことだけ言って、さっさと逝っちまうのかよ。ずるいだろ、エド」
エドワードの手を自分の頬に当てて、リッツは床に座り込んでいた。
もう一度動かないだろうか。
もう一度頭を撫でてくれないだろうか。
もう一度冗談交じりに抓ってくれないだろうか。
その手を握って、リッツはただただじっと、エドワードが冗談だというのを待ち続けた。忠実に命令を待ち続ける犬のように、身じろぎ一つせずにエドワードに名前を呼ばれるのを待ち続ける。
『そんな顔をするな、馬鹿』
『お前はまったく、どうしようもない奴だな』
『しっかりしろ。もう子供じゃないんだろう?』
エドワードが自分に向かって、そう言葉を発するのをじっと待った。
いつまでそうしていただろう。
気がつくと目の前にアンナがいた。アンナのエメラルドの瞳からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちている。
リッツは黙ってアンナを見た。アンナはリッツが握りしめたままいるエドワードの手をゆっくりと外しているのだ。
「駄目だ」
「……リッツ?」
「やめろよ、アンナ。もしかしたら動くかも知れないんだ」
「……え?」
「さっきまで動いて、しゃべってた。また起きるかも知れない。その時に、俺が一番近くにいたいんだ」
アンナの顔が目の前でくしゃりと歪んだ。
「アンナ?」
「手を放してリッツ。ね?」
「……だけど……」
「エドさんはもう……目を覚まさないんだよ」
「お前まで俺を担ぐのか? お前とエドは仲良しだもんな。いつもお前らだけで何か企んでたし」
「リッツ……お願い……分かって……」
「でもアンナ……」
「分かっているんでしょう? リッツも……」
涙をこらえながら呟いたアンナの言葉に、リッツは抗うことが出来ない。アンナは決して嘘はつかない。隠し事をする時はいつも、いい事を隠している時しかない。
アンナの事なんてみんな分かっている。だから……アンナがいうから……分かるしかなかった。
それに認めたくないのに、アンナが言っていることが本当なのだと、心の中の何かがもう既に認めてしまっているのだ。
ゆっくりとリッツの手からエドワードの手を放したアンナは、その手をエドワードの胸の上で優しく組んだ。その姿をリッツは夢でも見ているかのように見ているしかない。
やがてアンナは子供に向かうように優しくリッツに向き直った。黙ったまま座っているリッツの目をじっとのぞき込みながら、優しくキスをしてくれてから微笑んだ。
「パティ様たちを呼ぶからね。いい?」
返事をせずにいると、アンナは優しくリッツの頭を撫でてから、部屋を出て行った。
リッツはその後ろ姿を見送ってから、のろのろと立ち上がった。
ベットの上にエドワードが眠っている。満足そうに、何だか幸せそうに。
そっとそばに近寄ると、リッツはエドワードの顔を見つめて頬に触れた。冷たくなりつつあるその頬を撫でてリッツは呟いた。
「起きろよ、エド。そろそろ冗談だって言えよ」
当然ながらエドワードは動かない。リッツの前でいつも輝いていたエドワードの命は、もうここにはない。死者の国があるのならば、きっとそこにいる。
「なあ、起きろって。今なら悪い冗談で許してやるからさ」
ジェラルド・モーガンも、ギルバート・ダグラスも、フレーザー・カークランドも……内戦の中心となった三人の将もそちらにいる。
「なあ、エド。俺の方が話合うだろう? こっちに残れよ」
なのにリッツはあの頃と変わらない姿でここにいた。置いて逝かれてしまう。大切な仲間たちに。
リッツは力なく下ろしていた掌を、ぐっと握りしめた。
「今なら冗談を許すって言ってるだろ! 起きろよエド!」
怒鳴ったつもりなのに、怒ったつもりなのに言葉は小さな余韻を残して静かに消えてゆく。
何をいっても、もうエドワードは戻ってこない。あの叡智に満ちた水色の瞳は開かれることはない。
「何で……俺、こんなに寿命があるんだろう……」
久しぶりに感じる、時間への恐怖だった。それと同時に苛立った。
「やれるなら、俺の寿命はみんな分けてやるのに」
長く生きるよりも、共に生きたいのに。
短くても一緒に年をとり、一緒に笑い、一緒に死んでいく方が幸せなのに。
「エド……じゃあな……」
呟くとリッツは、エドワードの頬に唇を寄せた。親しい間柄だったけれど、何となく再会してからは、何処かに照れがあって、エドワードに触れることなど出来なかった。
出会った頃とは違い、年を経たエドワードの顔には、しわが刻まれている。色々と苦労をしてきただろう。深いしわもあるし、よく笑う人だったから笑いじわもある。
でもリッツにはあの頃と何も変わらないエドワードに見えた。
本気でぶつかり合った、あの頃の……。
昔のように無邪気にエドワードに触れられていればよかったのだろうか。そうすればこの心に疼く、後悔と悲しみを、少しは紛らわせたのだろうか。
ふと、初めて出会った時のエドワードの言葉が、浮かんでくる。
『俺が生きる場所を与えてやる』
うん。お前が俺を生かしてくれた。俺の居場所を作ってくれた。昔の仲間のところ、今の仲間のところ、そして……アンナの隣に。
『俺と一緒に来い、リッツ・アルスター』
ああ。一緒にいくさ。どこまでだって。
だから……まだ……逝かないで。
置いて逝かないでくれ……エド。
でもどんなに望んでも、エドワードはもういない。
リッツの手の届かないところに、たった一人で行ってしまったのだ。
頬に冷たい別れの口づけをして、雪の舞い散るテラスから外に彷徨い出た。
てのひらで本降りになりかけた雪をそっと受けると、雪はあっという間に解けて消える。
――人間は、儚いものだろう?
アンナやフランツに会う直前、故郷に帰った時の父親の一言が浮かんで、そして解けた雪と同じく消えた。
王国歴一五九二年二月。
ユリスラ王国、救国の英雄として人々の尊敬を一身に集めた英雄王エドワードがこの世を去った。




