表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
49/56

貴族たちの憂鬱<7>

 いっそのこと水の球であの男を攻撃してみる?

 いやいや、あの男は幽霊だ。だとしたら水の精霊の技が効くはずなんて無い。有効なのは光の精霊だけれど、アンナはそれを使えない。

 アンナはフランツの後ろで炎が揺れているのに気がついた。先ほど男にこの中へ押し込まれた時に、ガラスが割れて飛び散り、中のオイルが床に広がって引火しているのだ。

 炎の勢いはまだ強く、アンナとフランツを照らし出せるほどに明るい。

「ふざけるな、犬がっ!」

 男の絶叫が響いた。そのとたんに、床が一斉に沈み始める。

「え、え、嘘!」

 まだ思いついてない!

「とりあえず、通路に乗るんだ!」

 エドワードの言葉に、アンナは近くの通路に向かって走った。フランツも必死で通路に向かう。やがて細い通路を残して床が総て水の中に消え去った。

「あっぶねぇ……」

 リッツが呟いた。いつの間にかこちらの方へと歩み寄っていたのだ。

「リッツ!」

「よう。アンナ、こりゃ最悪の事態だな」

「うん。絶体絶命だよ」

 足下の水が激しく揺れて、水しぶきをはね飛ばしている。落ちてきた砂粒を餌だと思って一斉に水面からこちらに向かって口を開けているのだ。

 水を吸い込むような音が小さく響き、水面に無数の小さな穴が開閉するのをみて、ぞっとした。

「なあ、お前、何キロある?」

 突然の一言に、戸惑ったが、すぐにこの通路のことで体重を聞かれていると気がついた。

「え……? ええっと、今は四十八キロ……かな?」

「じゃあ、お前はどうだ、フランツ?」

「僕は……六十キロと少し」

「……足して十キロオーバーか。厳しいな」

 リッツがため息をついた。意味の分からない行動に、アンナは首をかしげる。

「何で体重を聞いたの?」

「ん……いや、万が一の時、お前たち二人に生き残って貰おうかと思ったのさ」

「ええっ!?」

「俺とエドは結構でかい。生き残るのがどっちか一人じゃ割に合わねえし、俺たちが生き残ったところで、あいつが黙って返してくれることもなさそうだ。で、テレンスはフランツより重そうに見える」

「……テレンス?」

 初めて聞く名前だったから繰り返すと、今まで気がつかなかったもう一人がアンナににっこりと笑いかけた。

「やあ。可愛い子がいるね。君もヴァインかい?」

 人が良さそうな顔をしている。

「はい。あの、あなたは……?」

 アンナが尋ねると、アンナの隣にいたフランツが声を上げた。

「参与!」

「やあ、フランツ」

 男が穏やかに手を上げて答える。

「っていうことは、この人を連れて行けば依頼完了だね?」

 隣のリッツを見上げながら尋ねると、リッツが苦笑した。

「ああ。ここから逃げられればな」

 確かにこのまま死んでしまっては依頼を成し遂げる事なんて出来ない。どうにかしてこの状況から逃れねば。

 焦るアンナと対照的に、リッツは妙に悟ったようにアンナに笑いかけた。

「いざって時には、お前とフランツが残れば脱出出来る可能性が高いし、お前たちは今後のユリスラに有用だ。俺も、エドも……たぶんテレンスもそう思っている」

「リッツ!」

「勝手なことを!」

 アンナとフランツの口から、同時に怒りの言葉が飛び出す。

「怒るなよ」

 リッツが苦笑する。その姿を見て、恐怖が足下から這い上がってきた。アンナは知っているのだ。リッツが本気であることを。

 エドワードを見ると、エドワードも穏やかに微笑んでいる。あの態度は、最後まであがこうとしているんじゃない。どうにかしてアンナとフランツを助けようと考えているのだ。そして初めて会ったテレンスという人物も頭を掻いている。

「参与! 本当にそうお考えですか!?」

 フランツが食ってかかると、テレンスは照れたように笑う。

「ああ。未来は若者に託すことが最上だよ。君が宰相として若すぎるというのなら、宰相閣下に死ぬまで粘って貰うしかないね」

「そんな勝手な!」

「だってフランツ。君はきっとユリスラを背負って立つ存在になれるよ。君には私にはない、確固たる国家への理想がある」

「参与!」

 フランツが苦しげに顔を歪めた。きっとテレンスは、決意を固めきっているのだ。

 アンナは唇を噛みしめた。

 このままでは、シャスタとフランツの信頼する政務官を、本当に大切な仲間を、最愛の人を失ってしまう。

 総てを守ると決めた。そのために強くなった。それなのにこんな時に役に立たないなんて、何のために努力した時間だったんだ。

 その時、ふと気がついた。

 先ほどの炎がこの細い通路上に残っているのだ。炎はまだオイルに引火して燃え続けている。これならもう少し持つだろう。

 アンナは精霊を感じる心の目を研ぎ澄ました。どう考えてもこの空間は水の力が強い。炎の力は弱いだろう。でもフランツなら、あの炎を使って精霊を使える。

 相手は魚だ。そして魚と水といえばアクアパッツァだ。炎があれば表面上の魚を煮る事が出来る。例え魚が煮えなくても、魚は熱さから逃れるために、底に沈むに違いない。

「フランツ! アクアパッツァだよ!」

「は!?」

 フランツが思いきり眉をしかめる。

「魚なんだから、煮ちゃえばいいんだよ!」

 魚がいなくなり、水だけの空間が出来れば、そこから水竜を呼び出すことが出来る。水竜を呼び出すのには、大量の水はいらない。水の表面が境界なって水竜はアンナの元に召喚されるのである。でももし表面にまで魚がいたら、水竜が魚に浸食されてしまう。そうなれば水竜を使って安全な橋を架けることが出来ないのだ。

「……意味が……」

 戸惑うフランツより先に、リッツが笑みを浮かべて頷いた。

「なるほど。フランツ、炎の球を出して、水面ギリギリで止められるか?」

「! そうか。人食い魚と言っても、魚なんだ」

 言葉に出さずとも、二人ともアンナのわざの性質を分かってくれている。即刻理解したフランツは、先ほど床で燃え続けるランプの炎を見つめる。炎の力は弱いけれど、あの炎の力を借りれば、フランツの実力なら十分可能なはずだ。

「止められないけど、幾つか打ち込めば、魚は追い払えると思う」

 顔を上げたフランツには、自信の色があった。これなら大丈夫そうだ。

「魚がいなくなれば水竜で幽霊のいるところまで橋を作れるよ! あっちが客席なら、絶対にあっちには出口があるはずだよね? リッツ?」

「間違いなくな」

「決まりだね!」

 アンナは水面を見下ろした。魚たちは水面に集まってじっと獲物が落ちてくるのを待っている。隣でフランツが目を閉じ、使い込まれた炎の槍を手に神経を集中させていく。

「勇気と力を司る炎の精霊よ。われに力を与え給え」

 いつもの無表情とは異なった、澄んだ声が静かにフランツの口から流れ出す。

 政務官としての経験が長いから、精霊魔法を使うのに慎重になってしまうと、前にフランツがこぼしていたのを思い出す。

 やがてフランツは目を開いた。眼鏡の奥で青い瞳が輝きを増す。

「出でよ、炎の球!」

 凛とした声と同時に、フランツは頭上で大きく両手を広げた。その腕の中に、巨大な炎が生まれた。薄暗かった空間が、一気に明るい炎に包まれた。

「精霊使いか!」

 男がわめいた。でも焦ったってもう遅い。

「うわぁ……」

 テレンスが感嘆の声を上げる。そういえば政務官としてのフランツが炎を使ったのは、自分が殺されかけた時の反撃ただ一度だけだ。テレンスは精霊使いとしてのフランツを知らない。

「魚を焼け! 炎の球!」

 真剣なフランツの声なのだが、何となくおかしい。でも今はそれどころではないのだ。

 フランツの手を離れた炎の球は真っ直ぐに水面に落ちていく。黒々としていた水が明るく照らされ、そのグロテスクな姿が照らし出される。

「うっ……」

 アンナは思わず呻いてしまった。隣でリッツも思い切り眉をしかめている。水面を銀色の魚影がひしめき合っている。その総てが牙の生えた口をパクパクと開け閉めしているのだ。

 まるで水面に、大小無数の穴が空いて、一己の生き物として呼吸を繰り返しているようだ。

「なんかやだ……。なんかすごく、やだ」

 嫌悪感で背筋とふくらはぎがざわざわする。

「あれが体中に潜り込んできて、人を食うんだぜ」

 更に恐ろしいことを、リッツが呟いた。

「リッツ! その言葉はやだ!」

「はは……わりいわりい」

 二人でそんな会話をしていたら、フランツの炎が水面と激しくぶつかり、ものすごい水蒸気を上げて爆発した。

「あのね……」

 フランツに睨まれた。フランツは再び両手を掲げ、もう一撃魚たちに炎をぶつけようとしている。

「ごめんなさい!」

 素直に頭を下げると、フランツはもう一撃を水面に加える。明るく照らされた水の中には、無数の魚の死骸が浮いている。

「巨大な……アクアパッツァ鍋。何人前かなぁ」

 思わず呟くと、リッツに吹き出された。

「馬鹿か。人を食ってた魚を食うのかよ」

「うわぁ……それ、想像したら嫌かも」

 再びフランツの炎が水面とぶつかって激しく爆発を起こす。

 もうもうと立ちのぼる蒸気が、ここまで漂ってくる。

 アンナはその場に這いつくばって水の中を確認した。立ちのぼるその匂いは、強烈に生臭い。

 そして魚の姿はなかった。死んだ魚の姿もないから、もしからしたら水槽にいる仲間に食べられてしまったのかも知れない。

「大丈夫! これでいけそう!」

 アンナは水面に目を凝らして立ち上がった。白銀の杖を両手に構えて心を研ぎ澄ます。アンナの心の中にある水がアンナに反応して水音を立てた。

 真っ直ぐに目を見開く。

「ここに来て、水竜!」

 黒々とした水の表面が激しく沸き立ち、すさまじい勢いで吹き上がった。見慣れた水竜の姿だ。水の表面を使って召喚される水竜は、澄んだ水をたたえて輝いている。

 表面と魚との間に距離が出来たお陰で、魚の姿はなかった。

「竜使いか……」

 テレンスの呟きを背中で感じた。最上級の精霊使いを、竜使いというのだ。正式に精霊魔法を学んだことのないアンナは、シアーズで軍事を勉強するまでそんなことも知らなかった。

「水竜! あの男の人のいるところまで橋を架けて!」

 アンナが命じると、水竜は咆吼を上げて真っ直ぐに、男のところに突っ込んでいく。激しく打ち付ける水に、男は悲鳴を上げて逃げ惑う。

 水竜に破壊された石壁がばらばらと飛び散る。

「小娘っ! 小娘っ! 小娘ぇぇぇぇぇっ!」

 男の姿は絶叫と共に徐々に薄れ、目の前から消えていく。

 やはり幽霊だったのだ。

 アンナの隣で幽霊嫌いのフランツが、よろめく。でも気絶されると困ってしまう。

「さあ、渡ってください!」

 水竜を長く扱うと、力を消耗する。ここは水の力が強いけれど、男性が泳いでわたれるほどの大きさを維持するのは、アンナでもきつい。

「テレンスさん、先にどうぞ」

 ヴァインは依頼人優先だ。

「よし! テレンス、先に行け。エドも先に行ってくれよ。向こうに何があるか分からねえし」

 明らかにエドワードを先に逃がそうとしているリッツに、アンナも、当のエドワードも気がついた。やはりリッツはエドワードが心配なのだ。

 だがここでごねるようなエドワードではなかった

状況は押し迫っている。

「分かった。行こうか、テレンス」

 あっさりとテレンスを促すと、水竜に戸惑うテレンスよりも先にエドワードは水竜に身を躍らせた。水竜の表面に顔を出しながら泳いでいけば、浮くことが出来て下に落ちたりしない。

 エドワードを見て決心したのか、テレンスも水竜に入っていく。その後にフランツが続いた。

「リッツも先に行って」

 水竜からリッツに目を移して微笑むと、リッツは一瞬躊躇ったが笑顔を浮かべた。

「……ああ」 

 水竜を操るアンナが先に、通るわけには行かない事に気がついたのだろう。術者は常に自らの術に責任を持つ。それは精霊使いの鉄則で、アンナであっても変わらない。

 水竜に飛び込んだリッツを見て、アンナは初めてリッツの背中の怪我に気がつく。あの怪我はただ事ではない。やはり咳き込んだのは怪我のせいだ。

 向こう岸に着いたら治してあげなくては。

 リッツが向こう岸に着いたのを確認して、アンナは水竜に身を躍らせた。

 水の精霊使いであるアンナは当然のことながら泳ぎは得意だ。それにみんなと違って、水竜を知り尽くしているから、表面に浮き上がらずとも向こう岸までたどり着ける自信はある。

 あの生臭い水を媒介として呼び出されたとは思えないほど、水竜の水は澄んでいた。清冽な水の心地よさに、今までの何処か気持ちの悪い感覚が洗い流されるような気がして、こんな状況なのに、出るのが惜しい気になった。

 あっという間に泳ぎ切ったアンナは、水竜から出て、先ほど男がいた客席の先端に立った。振り返って目の前にある水竜の頭を撫でる。

「ありがとうね、水竜」

 水竜は嬉しそうに一声啼くと、元の水に戻って流れ落ちていく。

「さ、これでここを出たら、依頼完了だね!」

 そう言いながらアンナは全員を振り返った。みんながアンナの方を向いていた。だから後ろを見る事が出来たアンナだけが気がついた。

 反射的に両手を構えて叫ぶ。

「エドさん! どいて!」

 とっさに水の球を打ったが、それよりも先に素早い影がエドワードに襲いかかったのだ。

「エドさん!」

 アンナが叫んだのと同時に、エドワードがはじき飛ばされる。未だ全員が客席の先端に立っていたのが災いした。

 エドワードは相手に刺された上、壁を乗り越えて水の中に落ちていったのだ。

「エド!」

 とっさにリッツがその腕を掴む。政務官二人が動けない中、アンナはリッツを手伝うべく、欄干から飛び降りようとした。エドワードが落ちかけているのはすぐそこだ。

 だがそのとたん、足首を掴まれて、アンナはバランスを崩した。

「どこに行くのだ、娘……」

 欄干から、男の顔と手が生えていた。

「!!」

 そのあまりに不気味な光景に言葉も出ない。

 ほの白く光る男の顔が、にたりと気味の悪い笑みを浮かべる。

 眼球がぐるりとあり得ない動きをした。

 生きている人間の動きじゃない……。

 アンナの異常に気がついたフランツがアンナに駆け寄ろうとしたが、何者かに体当たりされて床に転がる。

 そこにはエドワードを刺した者の姿があった。

 小鬼族だ。

「ハモンドの邪魔した。許さないっ!」

 小鬼族が甲高く叫ぶ。縮れた赤毛を振り乱し、小鬼族は激しく跳ね上がっている。

「ハモンド! とどめさせ!」

「よくやった」

 アンナは足首をギリギリと締め付けられて、徐々に水に向かって引きずられていくことに気がついた。振り向いて見たアンナだったが、思い切り血の気が引いた。

 先ほど追い立てたはずの魚たちが、再び水面に渦巻いていた。このまま落ちれば食べられてしまう。

 焦ってフランツにもう一度炎の球を頼もうとしたアンナだったが、フランツは小鬼族とにらみ合っていた。

 精霊使いのフランツが一番に目を付けられて当然なのだ。

 そしてリッツは、エドワードを引き上げるのに必死で、こちらまで手が回らない。

 フランツは、小鬼族と戦闘状態に入った。炎がフランツの手から生まれては、小鬼族に向かって放たれ、激しく爆発を繰り返す。

 でも、全く当たらない。素早い動きの小鬼族に苦戦しているのだ。

 テレンスに至っては、この欄干から生える顔と手に、腰を抜かしているようだ。やはり宰相参与という要職にあるとは言え、軍人とは違い官僚なのだ。

 必死で生えた手を振り払っても、しっかりと食い込んだ手はなかなか離れない。

「どうしてこんな事をするの!?」

 引きずられながらアンナは男の首を睨み付けた。

「エドワード・バルディアと、私の邪魔をするお前を許しておけぬ。殺してやる!」

「何言ってるの! あなたが自分勝手な事をして、人を苦しめてきたのが悪いんだよ!」

 こんな状況だけど猛烈に腹が立ってきて、アンナは男の頭を見据えた。

「王様も貴族もそれ以外の人たちも、みんな命は同じなの! そんな当たり前を理解できない人になんて殺されないもん!」

「小娘っ! 生意気をいいよって!」

 冷たい手が、アンナを一気に引きずって行く。

 落ちると思った瞬間、誰かに手首を掴まれていた。顔を上げて愕然とする。

 目の前にあったのは、脂汗を流してアンナの腕を掴んだリッツの顔だった。片腕には当然エドワードがぶら下がっている。

「エドさん!」

 アンナはエドワードを見た。背中を刺されている。意識があるのかよく分からない。とっさにリッツの掴んでいない方の手をエドワードの背中に当てて、治癒魔法を使う。不安定にぐらぐらと体が揺れた。

「アンナ! そんな場合じゃない!」

 叫ぶリッツの額から、汗が落ちた。リッツは背中に傷を負っているのだ。

 今のリッツが引き上げられるのは、アンナかエドワードのどちらか一人だろう。フランツは手が離せないし、テレンスは……やはり役に立ちそうにない。

 アンナは足下の水面を見た。

 人食い魚がうごめいている。あの中に落ちて、無事でいられる時間は、どれだけあるだろう? 

 意識を保てる時間が一分でもあれば……魚が入っていても水竜をもう一度呼べる。

 水竜にこちらへ放り投げて貰えば……多少食べられるけど、命はつなげるかも知れない。

 でもこのままでは、エドワードとアンナ、二人とも魚の餌食だ。エドワードは意識レベルが分からない。あっという間に魚にむさぼられて骨だけになってしまうかも知れない。

 そしてエドワードとアンナの二人を目の前で失うようなことになれば……リッツはおそらくその場で命を絶ってしまう。二人の後をおって、水に飛び込んでしまうだろう。

 そんなのは絶対に嫌だ。

 全員が助かる方法……それを考えなければ。

「落ちろ、落ちろ! 生きながら内蔵まで魚にむさぼられるといい!」

 狂ったように男が叫んでいる。いつの間にかアンナの足首を掴んでいた感触は消えていた。もうアンナが落ちると確信したのだろう。

 でも、人の命を大切に思えない卑怯者に殺されたりはしない。

 絶対に、死なない!

「リッツ」

 アンナは愛おしい夫を見上げて微笑んだ。リッツは口を開くことも出来ずに、歯を食いしばっている。そんなリッツに語りかけた。

「私を放して、その反動で一気にエドさんを引き上げて。リッツの怪我だとそれが最大のチャンスだよ」

 リッツの目が見開かれる。

「……嫌だっ!」

 苦しい息でリッツが呻いた。

「駄目。このままじゃ、二人とも死んじゃうし、下手したらリッツも死んじゃう。三人とも死んじゃうよりも助かることを考えよう」

 アンナはリッツを安心させようと笑顔を浮かべたが、リッツは歯を食いしばったまま首を振る。

「アンナ。私は十分生きた。落ちるなら私だろう?」

 いつの間にか目を開けていたエドワードが笑う。「リッツ。俺を離せ。アンナを引き上げろ!」

 エドワードが今まで聞いたことの無いような調子でリッツを怒鳴りつける。

 リッツは顔を歪めて叫んだ。 

「嫌だぁぁぁぁぁっ!!」

 アンナはリッツの夢を思い出す。どちらかを助けろと言われたら、リッツは自分が死んで二人を助けると言ったのだ。でもこの状況では、リッツが死んでも誰も助からない。

 アンナも昔はそうだった。自分の命を投げ出して守ることしかできなかった。誰彼構わず、放っておけないとその身を投げ出してしまっては、リッツに怒られたものだった。

 リッツも仲間を守るためになら、命を投げ出すくせに。

 だけどもう、昔とは違う。

 リッツ・アルスターという、ユリスラの英雄の妻になったんだから、何も出来ない普通の女の子でなんていられない。リッツを支えるために、リッツと共に生きるために、アンナはもっと強くなりたい。

 アンナは覚悟を決めた。

 全員が助かる手段は一つしかない。

「リッツ」

 アンナは柔らかな笑顔を浮かべて見せた。

「私、言ったよね? 私の持つ総ての力を使ってでも、絶対にみんな助けてみせるって」

 アンナは水を見つめた。魚たちがうごめいている。一分、いや三十秒? 時間はあるかな?

 ううん、それだけ持たせてみせる。

 寂しがりで、甘えん坊のリッツを残して死ぬ事なんて出来ない。絶対にリッツより長く生きると誓ったのだから。

 だったら魚に多少食べられちゃって、少し顔かたちが変わったりしても生きていれば何とかなる。

「その代わりリッツ、私がどんな姿になっても、ちゃ~んと今まで通りに愛してね」

 言葉と同時に、アンナは思い切りリッツの手の甲に、自分の爪を突き立てた。一瞬にして、アンナの体は宙を舞った。リッツとエドワードが遠ざかる。

「アンナ!」

 叫んだリッツだったが、アンナの言ったとおりに反動を使って、一気にエドワードを引き上げた。

「馬鹿やろぉぉぉぉぉっ!」

 リッツの叫びと同時にエドワードが欄干の上に消えるのを確認して、アンナは手を頭上に掲げた。

「水の球!」

 巨大な水の球を自分自身よりも先に水の中に投げ込み、その直後にアンナは水の中に落ちていた。

 水の球がクッションになって、魚たちとアンナの間に、少しだけ綺麗な水が生まれる。

 だがそれは一瞬で、ものすごい痛みが足を襲った。スカートから出ていた足に魚が群がっている。全身に魚が群がって、服ごとアンナを食いちぎろうとする気配がある。

 痛みに叫びそうになりながらもアンナは魚に食いつかれたまま手を交差させた。

「水竜っ!!」

 叫んだのか、言葉になっていなかったのか分からない。痛みに意識が朦朧としてきた。

 だが次の瞬間、激しい衝撃に下から突き上げられていた。魚で被われていた視界が、一瞬にして拓け、無骨な石の天井が見えた。

 激しい水竜の咆吼が部屋中に響き渡った。

 その瞬間に、魚がアンナから離れて落ちていき、水竜からもはじき飛ばされた。

 水竜が……怒ってる?

 水竜が再び激しく咆吼を上げる。怒りに充ち満ちている。まるであの時の……アンナが暴走させてしまった、スイエンでの水竜のようだ。

 ぼんやりとアンナは水竜の中で自分にかじりついていた魚をつまみ上げた。

 ……魚は死んでいた。

 アンナはハッとした。治癒能力には、もう一つの力がある。それは命を奪う能力だ。体の中の水を利用して傷を癒すことは、反面、体の中の水を利用して命を奪う事も出来るのだ。

 それ故に、精霊魔法を学ぶとき、水は最も闇に近いと言われる。

 アンナは当然ながらそれを使ったことがない。でも感覚としては知っていた。水竜は今、その力をアンナのために使っているのだ。

「水竜……」

 アンナは呼びかけた。水竜は怒りに支配されている。主人であり、友であるアンナを傷つけられて怒っているのだ。

 これではこの場にいる全員に危険が及んでしまうかも知れない。アンナは水竜の中に静かに潜り、体の中で手を組んだ。

 心の中で水竜に語りかける。

 大丈夫。私は無事だから。だからお願い。私を、リッツのところに戻して。

 そして大切な人たちを傷つける、憎しみの満ちた幽霊を追い払って。

 祈りが通じたのか、水竜が穏やかに上昇をしていくのを感じた。でもアンナの意識は反対に薄れていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ