貴族たちの憂鬱<6>
「何だかすごく……ジメジメしてるね」
アンナはランプを掲げて歩きながら呟く。後ろから来ているフランツは、足を取られないようにと、かなり注意を払っている。
地下室は何故かものすごい湿度で、あちこちに苔が生えているのだ。その苔がものすごく滑るのである。石畳の隙間、壁の割れ目など、隙さえあれば生えてやろうとする生命力の旺盛さは、目を見張るものがある。
関心しきりなアンナだったが、フランツにとっては苔の存在は迷惑でしかないらしい。
フランツの履いている靴は、遠出するときに履くきちんとした靴だけれど、アンナが履いているのは、危険な場所を旅するのにも使える、かなり滑り止めの効いた靴だから、この気の使い方の違いは仕方ないかも知れない。しかもフランツはアンナの半分以下の運動神経の持ち主なのだし。
アンナの呟きには、真剣なフランツの返事はない。だがアンナだってこの状態のフランツに返事を期待していなかった。
どちらかと言えばこれは習い性だ。いつもは隣にリッツがいるから、こうして呟くと返事が必ず返ってくる。そのせいか気になることを呟く癖が付いてしまっているのだ。
アンナはため息をついた。
リッツは大丈夫だろうか? この間、リッツが夢の話だといいながら、妙に心配な話をするから気になってしまって仕方ない。
リッツを助けるため、みんなを助けるためにこうして力を付けたというのに、当のリッツが自ら進んで命を投げ出したりしたら、助けられるものも助けられなくなる。
昔のように、消極的な自殺するようなことは無いだろうけれど、それでも危険を分かっている上で命がけで庇われるのは心が痛い。
リッツが自らを省みず、庇うことで傷つくとアンナの心が痛む。守りたいのに守れない歯がゆさで辛くなる。
アンナが命を張るというと、リッツは『生きられなくなるからやめてくれ』という。でもリッツがいなければアンナだって生きられない。あの力強く、優しくて、暖かなぬくもりを失ってしまったら、自分が自分でいられなくなってしまう。
お互いがお互いを大切な自分の一部だと思っているのだから、どちらかがどちらかを庇い続けるのは、間違っていると思う。
ため息をつきながら歩いていると、目の前に壁が立ちふさがった。壁に沿って左右に通路が分かれている。
「フランツ、どっちに行く?」
振り返って、少し後方を歩いていたフランツに声をかけると、フランツは少しだけ急ぎ気味にアンナの元へやってきた。
「……どっちがいいんだろう?」
「ね?」
地下に下りた階段からここまでは、真っ直ぐ歩いてきた。つまり今は少しづつ館の入り口側に歩いてきていることになる。
二人が落ちたのは入ってすぐのホール直下だったから、方向は合っているはずだ。でももしこの左右の道が極端に外側へ行ってしまったら、二人が落ちた地下室からは遠ざかってしまう。
「どちらがいいか、賭けてみる?」
フランツが何気ない仕草でポケットからコインを出し、フランツらしくない提案をした。その姿に親友の笑顔がだぶって見える。迷って決められないとき、親友ジョーはこうしてコインに命運を託す。
「フランツ、ジョーみたい」
思わずフランツにそういうと、フランツが自分の言動に気がついたらしく、ため息混じりに前髪を掻き上げた。
「やっぱり影響は受けてるんだな」
「それはそうだよ。今のフランツって、私たちよりもジョーといる時間の方がずっと長いんだもん」
「まあ、ね」
「このままフランツがジョーっぽくなって、ジョーがフランツっぽくなったら、二人ともすごくまともな人になるよ!」
剣技が最高で、冷静さを身につけたジョー。
書類捌きの達人で、軽いジョークを身につけたフランツ。想像すると、何だかすっごく楽しい気分になる。でもフランツには不評だったみたいだ。
「僕がまともじゃないって?」
「違うよ。フランツの実力のジョーの性格って、ちょっとすごいよね? 逆もすごいよ!」
「……僕はこのままでいい」
ため息混じりにフランツは髪を掻きむしった。
「今こういう話をしている場合じゃないだろ?」
「分かってるけど、ちょっとびっくりしたんだもん」
「アンナ……リッツが心配なんだよね?」
「エドさんも心配だもん!」
「あ、そう」
肩をすくめられてしまった。こういうフランツは昔とちっとも変わらない。何でだかアンナはフランツに呆れられるのが昔から大得意だ。
その時、薄暗がりにぼんやりと何かが見えた。目を凝らすと、そこに人が立っている。もっとよく見ようとアンナがランプを掲げると、その人影はこちらへ歩み寄ってきた。
「こんにちは。無事にたどり着けたようだね」
そこに立っていたのは、この城に来る途中で道を聞いた男だった。先ほどと全く変わらない姿で男は笑みを浮かべて立っている。
「あれ? おじさんさっきの?」
まじまじとその姿を見つめると、男は微かに口元を綻ばせた。
「そうだよ。実はこの屋敷の地下は、湖に繋がっていてね」
「湖に?」
アンナは城へ至る道に入る前に見ていた美しい湖を思い出す。森を抜けてきたけれど、山を登ったわけじゃないから、湖は結構近いのかも知れない。
「じゃあ、そこから来たんですか?」
「そうだよ」
男はまた穏やかに微笑んで頷いた。でもアンナはその微笑みに、何だか違和感を覚えた。ざわりとして何かが落ち着かない。
あの長い旅と、ヴァインとしての活動を通して、アンナは総ての人をすぐ信用するのではなく、疑うのでもなく、じっと観察することを覚えた。
それは自分の安全のためでもあり、仕事上の相棒でもあるリッツのためでもあり、同じ事務所で働いてくれているダンのためでもある。
今のところアンナの人に対する勘は、ほぼすべて当たっている。アンナは自分の直感を信じているし、リッツも信用できると言ってくれている。だから自分の勘を信じる。
「おじさん、ここに詳しいんですか?」
「ああ詳しいよ。長いことここにいるからね」
「この屋敷にいるって事ですか?」
軽くカマをかけてみる。これはリッツに教わった方法だ。否定しても肯定しても同じだ。目を見ろ。その時に嘘をついていたら必ず目が泳ぐ。目が泳いだらその時の答えと反対が正解だ。
男は笑みを浮かべた。
「さあ、どうかな」
男の目はアンナから逸らされて、微かに天井を見ている。誤魔化されてしまったようだ。でも男は怪しい。それだけは分かった。だけど昔のように「今嘘付いてますよね?」なんて聞けるわけもない。
一応これでもヴァインの実力派で通っている。大半はリッツのお陰ではあるが。
フランツを見ると、フランツは完全に男を怪しげに睨み付けている。フランツの場合、まず人を怪しむことから始める。
次にどう言えばいいのか、アンナは言葉に詰まった。リッツやエドワードがいれば、ここからこちらに優位になるよう話を進められるのに、アンナとフランツではどうしたって力量不足だ。
フランツは官僚としては一流だが、専門分野以外の質問や人付き合いを苦手としているのだ。つまりヴァインの創始者でありながら、今の何でも屋のヴァインに向かない人なのである。
言葉を失っている二人に、男は口の端をゆっくりと持ち上げるように笑う。
「人を探しているんだろう?」
男は明らかに今の状況を面白がっていた。アンナは男をじっと見つめ返す。
「……どこにいるか知ってるんですか?」
「知っているよ。ついてくるかね?」
そういうと男は二人の返事も聞かずに、二人に背を向けた。そのまま分かれ道を右に向かっていく。
「どうするんだ、アンナ?」
小声で尋ねてきたフランツに、アンナも小声で答える。
「行くよ。何かがあるのは確かだもん」
男は何かを企んでいる。それは何となく分かった。でも何かを知っていることも確かだ。それならば付いていくしかないではないか。
もしこの地下が狭ければ、どうしてもこの男と何処かでまた会うことになる。それならば最初から、監視出来やすいように、欺されるふりをするのが一番だ。
急いで見失わないように男を追う。男は少し前をゆっくりと歩いて進んでいた。何となく距離を置きながら、フランツと二人で黙って付いていくと、男はある場所で足を止めた。
「さあ、ここだ」
男が指さしたのは、一見するとただの石積みの壁だった。だが男は石積みに何気なく埋められた一つの石を力を込めて押し込んだ。
とたんに低い地鳴りが響きだす。
「これ……っ!」
玄関ホールでシャンデリアが落ちたときと同じ振動だ。しばらく続いた振動の後で、目の前の壁が重たい音を立てながら横にゆっくりと開いていった。
目を丸くしていると、男に中を指さされる。
「ここにいるよ」
怪しいと思ったけれど、ここで立っていても分からない。アンナはランプを掲げて、壁の内側を覗き込んだ。そこにはたった今まで水があったように濡れた床がある。
「……水……?」
呟いた時だった。後ろからフランツに突き飛ばされて、アンナはその中に転がり込んでしまった。
「フランツ!?」
反射的に受け身を取って転がったアンナの後ろに、フランツが無様に転がる。ランプが手元から離れて割れ、地面に落ちた。
中に入っていたオイルが漏れだして、そこに火が付いている。オイルで燃え広がるほどの量ではなかったのは幸いだ。
とっさに起き上がったアンナは、ここまで二人を案内してきた男を見た。男は唇を捲り上げるように、醜悪な笑みを浮かべていたのだ。
「フランツを突き飛ばしたの?」
片膝を立ててまだ倒れ込んで呻いているフランツを庇うように、白銀の杖に触れながら男を見据える。
「ああそうだ」
「どうしてこんな事を!」
男を見据えると、男は楽しげに笑った。
「どうしてだと? これは我が一族を虐殺した奴らへの復讐だよ」
「復讐?」
「そうだ。格上の親族を敬わぬ若造を閉じ込めたら、思わぬ収穫だった。まさかエドワード・バルディアが釣れるとはな」
アンナが眉をしかめると、フランツが呻きながら体を起こした。
「……参与はどこだ?」
「参与? ああ、あの若造か。バーンスタイン家再興に力を貸すようにと言ったのに、あっさり断りおった」
不機嫌そうに眉をしかめた男を、フランツは鋭く睨み付ける。
「とうに落ちぶれた貴族が、今更再興を計っても何も得るものはない。時代は変わったんだ」
冷静沈着にして、何にも動じぬ無表情。これが噂の鉄面皮だ。アンナはフランツの官僚としての顔を初めて見る。
「そんなことがあるものか。バーンスタイン家は名門ぞ? 王家の血も引く、公爵家なのだ! 小癪な農家の小倅に、取りつぶされたなど、納得がいかぬ。だが敗北を喫したこの屋敷を公爵家をふさわしいたたずまいに戻すために必要な金が足りぬ。金さえあればまた力を蓄え、再び王位を争うことも出来よう」
男は夢を見ているように瞳を彷徨わせる。何だか変だ。何故この男は、あの時代が終わったことを理解していないような言動をしているんだろう。
内戦からもう、五十年近く経っているのに。男の言動に気がついていないのか、フランツは男を見据えている。
「もう貴族は名誉以外何の特権も持たない。資金を投入し、屋敷を再建したところで、権力は戻らない。そして内戦後、国王となられたエドワード陛下と最後に戦ったとバーンスタイン家に未来など無い」
フランツは男を見据えたまま、淡々と事実を男の前に突きつけた。その瞳が青く光っているのにアンナは気がつく。
やはり炎の精霊使いだ。冷静なのに、フランツはいつも戦っている。前にリッツとエドワードから、アンナとフランツの正義感は近いと言われたことがある。官僚になってもフランツはその正義感を持ち続けているのだ。
だがフランツの言葉は男に届かなかった。男の目の前で石積みの扉が閉まっていく。
「黙れ庶民が! 農家の小倅と共に死ぬがいい。それが我ら貴族を侮辱した罪だ」
「まって!」
立ち上がって扉に駆け寄ったアンナだったが、扉は音を立てて閉まっていた。
「閉まっちゃった……」
閉じた扉は、綺麗に壁と繋がってしまい、どこが扉だったのか分からない。アンナは閉じ込められた部屋を出られる場所が他にないかと、周りを見渡した。
部屋はとにかく横に長い。短い方は五メートル四方しかないのに、長い方はその三倍はあるだろう。そして床はちょっと変わっていた。部屋の長い方の壁と床の隙間には、一メートルほどの黒々とした空間が広がっているのだ。
そこからは時折水音が聞こえる。
「水があるんだ」
呟きながら覗き込んだが、溝は深く中がよく見えない。つまりアンナとフランツは今、幅三メートルばかりの橋の上にいる状態なのだ。
「どうしよう……」
呟きながら前を見ると、正面の壁にぽっかりと穴が開いているのが分かった。
出口がある!
「フランツ! 出口が……」
フランツの元に駆け寄って、向こうの壁を指さした。するとその出口らしきところに、明かりが灯る。
「え?」
そこから三人の人物が入って来たのだ。三人は先にここにいた二人を見て警戒をしたようだったが、一瞬にして警戒を解く。
「アンナ、フランツ」
三人の中で一番大きな男がこちらに手を振った。アンナは思わず駆けだしていた。
「リッツ!」
「よう。無事か?」
片手を上げたリッツの表情を見た瞬間、アンナは察した。怪我をしている。しかもあまり大丈夫とは言い難い怪我を。
きっと何か無茶したんだ。
早く近くに行きたい。そう思ったのもつかの間だった。突然、長い橋上の通路の中心がゆっくりと沈み始めたのだ。
「え?」
アンナは慌てて足を止めた。先ほどまでは長く繋がっていた橋なのに、真ん中で分断されてしまったのだ。
いや違う。よく見ると、沈み込んだ石畳の中心に、こちらとあちらを結ぶ細い通路のようなものが残されているのである。
沈み込んだ床の部分を覗き込んでいると、そこに水が流れ込んで来ていた。黒々としているように見える水が、不規則な水音を立てているのに気がつく。
何かがいる。沢山うごめいている……。
「何……これ……」
呟くのと、甲高い男の笑い声が響くのがほぼ同時になった。甲高い声の主を捜して視線を彷徨わせる。すると水のある深い穴の側の長い壁の上に、沢山の人々が座れるようになった席があるのに気がつく。
まるでシアーズの闘技場のようだ。
ぞくりと意味の分からない寒気を背中に感じた。嫌な予感がする。ものすごく嫌な感じだ。
身震いをしたアンナの目に、リッツたちが入って来た入り口が閉じるのが見えた。この空間に閉じ込められてしまったようだ。
「ようこそ、我が闘技場へ」
男の声に、弾かれたようにアンナは声の方を見上げた。そこは座席の中央だった。あの男が座っている。
「お前は、あの時の……!」
リッツが声を上げる。すると男は楽しげに笑った。
「お前たちは罠に落ちたのだよ」
男が愉快そうに笑うと、中央の床がまた一列沈んでいく。慌ててアンナは後ろに下がった。先ほどと同じようにまた生き物のうごめく水が流れ込んでいく。沈み込んだ部分が何らかの生き物のプールになっていくのだ。
「リッツ! エドさん! 何かいますよ!」
水を指さして叫ぶと、大声を出そうとして咳き込んだリッツの代わりにエドワードが答えてくれた。
「フォルヌの熱帯雨林に住む人食い魚だそうだ。そこに落ちたら最後、骨も残らんらしい」
「え……?」
アンナは恐る恐る水の中を見た。目を凝らすと、沢山の魚がひしめき合っているのが分かる。これが総て……人食い魚……。
身震いをしてアンナは自ら離れた。いくら好奇心旺盛のアンナでも、この中から魚をすくい上げて、人食い魚の姿を見てみる勇気はない。
「フランツ~。人食い魚だよぉ……?」
振り返ってフランツに言うと、フランツは青ざめたまま小さく首を振った。
「……僕に言われても……」
そんなやりとりをしている間にも、床が徐々に沈み込んでいく。このまま沈み込まれたら、中央に残った細い通路しか足場が無くなってしまう。アンナは再び一歩下がって、フランツに並んだ。
一体全体、男はどうしようというのか。アンナは男を睨み付けた。すると男が口を開く。
「そんなに睨むことは無かろう、エドワード・バルディア」
どうやらエドワードが男を睨んでいたようだ。アンナはエドワードに目をやった。エドワードは、あの怖いぐらい鋭い水色の瞳を男に向けている。
「ハモンド・バーンスタインだな?」
「いかにも」
「お前は死んだはずだろう?」
エドワードの一言で、アンナは固まった。そういえばバーンスタインを殺したのは、ここに攻め込んだエドワードだ。エドワードはバーンスタインの顔を知っているのだ。
そういえばこの男を初めて見たとき、エドワードが見覚えがあると首を捻っていたっけ。
隣でフランツが、思いきりビクリと体をすくめたのが分かった。
「何をいうか。私が死ぬはずなかろう。一族はどうやら死んだようだが、私はお前たち反乱軍の卑劣な攻撃から地下に逃れ、こうして生きている。私がここにいるのだから、それが私が生きている証拠だ」
アンナは思わずフランツを振り返っていた。青ざめているフランツに小声で聞いてみる。
「……ね、アニーも最初自分が死んでるって認識してなかったんだよね?」
「……ああ」
「じゃあさ、この人も認識できてないよね?」
「でも、本当に戦乱を生き抜いて、こっそり脱出して、それでこの村で生きてたかも知れない」
何とか幽霊ではない方向に持って行きたいフランツが、そう言ったのだが、アンナは小さく首を振った。この男が生きていないことに気がついてしまったのだ。
「違うよぉ」
「何で?」
「だってフランツ。あの人に暗い廊下で会ったとき、暗がりなのにはっきり見えたよぉ?」
「あ……」
「薄ぼんやり……光ってたよねぇ?」
そうなのだ。あの暗がりから出てきたというのに、アンナの持っていたほのかな明かりだけではっきりと顔が見えたのはおかしいのだ。
つまり明かりを持っていないこの人が、自分で光っていたと言うことで、それは人間ではないと言うことになる。
「やめてくれアンナ」
フランツが口元を押さえた。
「黙ってくれ。これ以上聞くと……吐きそうだ」
本気でフランツが青ざめた顔で、苦しげに荒い呼吸を繰り返している。吐かれても困るから、アンナは口を閉じた。
再び男に目を向けると、男はやはり自分でぼんやりと仄白く光っているのが分かった。明かりなんて持ってない。やっぱり自分で光ってる……。
何も言えなくてただじっと男を見ているしかないアンナの目の前で、また床が沈み込んだ。もう床は三分の一は沈んでしまった。
一体何をしようというのだろう。すると向こう側のリッツが男に怒鳴った。
「おい。この悪趣味なゲームの説明をしろよな。意味も分からず魚に食われるのはごめんだぜ」
「ふふ。お前は小倅の犬だったな。犬風情が私にたいそうな口を利く」
「うるせぇ! 早く説明しろ!」
焦れたように怒鳴ったリッツが、軽く片手を庇っている。片手が使えないのだろうか。心配をするアンナをよそにリッツを睨んでいた男が、笑みを浮かべて両手を広げた。
「仕方あるまい。何も知らずに全滅されては面白くないからな。ここは我らのショー舞台だ。床は一定の時間を過ぎると少しづつ沈んでいく。そこに流れ込むはフォルヌ原産の人食い魚だ。魚の餌食になりたくなければ、真ん中に一本残された道に立つしかない」
アンナは男の視線を辿り、真ん中に残された通路を見た。幅は一メートルほどもない。それがこちら側と向こう側を繋いでいた。
「だがその橋には、仕掛けがあってな。その橋に一定上の重量がかかれば、数十分で落下してしまう。つまりその橋を落下させぬためには重量を軽くする必要があるのだ」
意味がよく分からない。アンナが考え込むと、リッツが低く笑った。
「……えげつねぇ」
リッツの一言に、エドワードは怒りを露わにした。
「つまりここにいる皆で、この橋が落ちぬ重量になるまで殺し合えということか?」
「そういうことだ。知りたいだろうから教えてやろう。この橋の限界重量は百キロだ」
「つまり……大人一人……か……」
リッツが呻いた。その一言でようやくアンナも理解した。
床はどんどん沈み、人食い魚が溢れていく。だけど落ちない橋は大人一人しか乗れない。つまり死にたくないなら、全員を殺して、自分一人が橋に残るしかないと言うことだ。
「すっご~~~~~く、卑怯でえげつないよ!」
思わずアンナは叫んでいた。
「人の命を何だと思ってるの!?」
アンナの抗議に、男は楽しげに笑う。
「貴族と庶民の命が同じだとでも言うのかね? 楽しいものだぞ? 友人同士、家族同士が、泣きながら殺し合う姿は。これほど刺激的なショーが他にあるかね?」
命の重さなんて、身分や人種で違うはず無いじゃないか。こんなに昔の貴族って身勝手だったのか。
思わずエドワードに大声で呼びかけてしまった。
「エドさん!」
「なんだね?」
「あの人、変!」
男を指さして断言すると、エドワードが吹き出した。リッツは呆れたような顔でアンナを見ている。でもアンナの言葉は止まらない。
「何でだね、アンナ?」
「目の前で人を殺していくのを楽しんで見るなんて! 人が殺し合うのがショーだなんて、頭と心が壊れてます。人として失格でしょ! こんな人たちが昔はぞろぞろいて、それと戦ってたんですよね?」
「そうだ。彼らを排除せねば、国民を救えなかったからな。それにしても……ぞろぞろか。虫か何かのように聞こえるな」
口をついて出た言葉だったのだが、何故かエドワードではなく、壇上にいた男が凍り付いた。エドワードは思い切り爆笑している。
「こういう人たちと戦争したんですよね? 何か分かりました! 痛い目に合わせないと分からない人って、確かにいるんですね」
孤児院の子もいたずらが過ぎると、お尻を思い切り叩かれる。泣きながら自分がとても悪いことをしたんだと気がつくのだ。
でも大の大人のお尻を叩く事なんて出来ない。ましてやそこに沢山の人々の命がかかっていたのだ。エドワードが内戦を起こし、国を救おうとした気持ちがよく分かった。
人を階級で差別し、平気で魚に食べさせられる人のお尻をペンペンしたって、人々の命の痛みを理解できるはずがない。
「おのれ娘! 私を侮辱するか!?」
声を荒げる男だったが、そんな風に怒鳴ったって全然怖くない。間違っているのは男の方だ。
「侮辱じゃない。命を侮辱してるのはあなたの方なんだから!」
アンナは男にびしっと指を突きつけた。男が動きを止める。
「馬鹿アンナ! そんなことより何か考えろ! 死ぬぞ!」
リッツの怒鳴り声でハッと我に返る。この男を断罪するのは後でも出来る。でも床が崩れて魚に食べられたら、どうにもならないのだ。
「そうだった」
アンナはじっと足下を見つめた。水の精霊は溢れている。湖からの水だというのは本当だろう。だけどもしここで水竜を召喚したとしても、水竜は水だ。魚に侵入されたら、元も子もない。魚から助けるはずの水竜自身に、大量の魚が含まれることになってしまう。
それじゃ全く意味がない。小さく息をつくと、リッツとエドワードが男と話して時間を稼いでいるのが分かった。急がないと、時間がない。