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貴族たちの憂鬱<2>

 王国歴一五八四年秋。

 リッツは、妻アンナと共にユリスラ王国ランディア自治領区ランディアの街にいた。アンナが長いこと妄想してきた、フランツとジョーの仲が上手くいったことで安心しての遠出である。

 滞在期間は不明だ。仕事が終われば帰ることになるだろうが、期間を区切れるような仕事ではない。場合によっては長逗留になることだってある。

 リッツとアンナはランディアの街に、ヴァインの支部を設けるために滞在している。

 自治領主や、街に既に存在する様々な組合や協会といった集団との交渉も二人の仕事だ。利害が絡むこともあるから、この交渉がなかなか難儀だ。

 だが最近ではアンナもしっかりと役に立ってくれていて、リッツとしては心強い。

 なにしろ出会った当初のアンナと来たら、交渉ごとにはまるで疎かったのだ。疎いなんてもんではない。彼女を連れて交渉に行くと、大事になるのがいつものパターンだった。

 だが今のアンナはきっちりと書類をまとめ上げ、ニコニコとあの温厚な表情を崩すことなく、一生懸命に相手の感情に訴えかけ、交渉をいつの間にか有利に進めてしまうという特技を身につけた。

 何しろ彼女にはまるきり嘘がない。

 リッツの場合は相手を丸め込んで納得させるのが得意とする手なのだが、アンナはリッツとは正反対なのだ。

 ヴァインについてアンナは熱く語り、それがどれだけこの国に役立つかを訴え、その上で平和と国民の幸福を語り、商業としての成功例を出してくる。

 決め台詞はこれだ。

『みんなが幸せに暮らせるための仕組みを、共に作っていきませんか? 私たちには、皆さんの力が必要なんです!』

 この言葉総てが、アンナの本気なのである。きらきらと輝くエメラルドの瞳でそう言いきり、じっと見つめられれば、大抵の相手はアンナの誠実さと、揺るぎない信念に心を揺さぶられる。

 そしてヴァイン受け入れを、本気で考え始めるという次第だ。リッツはそんな妻の姿を見ている様な顔をしながら、相手の表情を探り、落としどころを探して交渉の決断を下すだけでいい。リッツをうさんくさげに見る人であっても、アンナがいることで契約が早く成立してしまう事が大半だ。

 恐るべし、アンナ。無欲の勝利だ。

 もしもアンナが宗教団体を起こしたりしたら、あっという間に信者を増やせそうで怖い。人々を引き込む、無敵のオーラが彼女には備わっている。

 当然自分の出自を知っていて、ほんとうに女神になれてしまうアンナが、そんなことを考えるわけはない。

 自治領主との交渉を終え、協力体制を取ってくれる港湾地区の区長と話を付けてきた。この情報を船便でシアーズの本部に送れば、ダンが直接乗り込みをして、この支部の構成を整える手はずになっている。

 そこに本部の人間を一人付けさせて、当面の管理者にしなければならない。そのためには、人の採用をする必要がある。

 人を見る目だけはかなり高い『陽気な海男亭』の四兄妹の末っ子で、唯一の女性であるアイビーにも長期出張手当を出して、一緒に行って貰うことになるだろう。

 まだまだ人手が足りないから、マイヤース事務所総動員だ。その間、マイヤース事務所はリッツとアンナ以外、開店休業状態に陥る。次の場所を探して交渉していくのに、人員が足りなすぎるからだ。

 現在ヴァインの支部があるのは、シアーズ、ファルディナ、サラディオ、グレインなどの自治領区の中心になっている街である。そのため王国中央部への進出はほぼ軌道に乗っており、近隣の街からも直接本部へ、支部を持ちたい旨の連絡を受けていて、本部長に就任したアマリアは、大忙しの日々を送っている。

 本部の人員は現在三十人以上はいるだろう。そのうちの半分は常に、誘致を希望する各地区を廻る遊撃隊で、残りが総てのヴァインを管理する事務職の人間たちだ。

 最初は体裁を整えるだけのお飾りの本部長だったはずなのだが、アマリアは有能だった。さすがは元娼館の女王で、人繰りや人の管理は完璧にこなしたのである。

 その影の支配者は言わずと知れたフランツである。現在、宰相秘書官室長を兼任しているヴァイン統括者フランツにとっても、アマリアは頼れる部下となっている。

 フランツの存在は極秘事項である。だから表向きは統括者はアマリアなのだが、彼女は王国中枢にいるフランツをたてて、部下として完璧にフランツの理想をかたちにしている。

 今更ながらリッツは、すごい女性たちを恋人にし、愛人にしていたなぁと、アンナとアマリアに感心しきりだ。その上、この二人のどちらにも頭が上がらない。

 表向き軌道に乗りつつあるヴァインの活動だが、難点が一つある。それは言わずと知れた金の問題だ。

 今のところヴァインに所属するほとんどの人々がアンナの理想を実現するべく、安月給で動いてくれてはいるが、これがずっと続くとなると問題だろう。

 そんなわけで創始者であるリッツとアンナが率先して動かなければ、とてもじゃないがヴァインはまだやっていけない。

 だから身動きできないフランツに代わって先発部隊として二人が動くのだ。

 だが先発部隊がやる仕事は、昨日の内に早々終えてしまった。あとはダンと、アマリアが派遣してくる一人と、アイビーにお任せだ。

 ランディアの街は、シアーズに次ぐ規模を誇る大きな港町である。しかも王都シアーズに、最も近くて最も遠い街として知られている。

 シアーズの街へ手紙を送る場合、船便であればたった半日で手紙はシアーズに着く。つまりシアーズからわずかそれだけしか離れていない。

 だが陸路を使うとものすごく遠い。シアーズの街の東側には、シアーズ山脈が長々と横たわっている。この山脈によって、ユリスラ中央部と東部は完全に隔たられているのだ。

 もし陸路でランディアからシアーズに向かうのならば、馬車で旅人の街道をファルディナ方面に北上してから、途中の国人の街道を通って川を渡って王国中央を通る、最も大きい旅人の街道に出て、そこから南に下らねばならない。

 つまり、二人の馭者が休み無く馬を走らせる馬車便に乗って一週間以上かかる計算になるのである。

 そのため、シアーズからランディアに来るには間違いなくみな、船便を利用することとなる。ダンと交替するのは数日後になるだろう。

 この街でやることは他にないから、ダンがくるまでのんびりと観光をして帰ろうと、ベットに寝転がって、夫婦でうきうきと観光ガイドを捲っていたのだが、そうは問屋が卸さなかった。

 ヴァインの存在を広く知らしめるために始めた困り事引き受け業の依頼が、ここまで追いかけてきたのである。

 当然依頼も船便に乗ってやってきた。

 もう夜も更けてきたし、仕事も片付いたし、拒まないだろうと愛するアンナをベットに押し倒したとき、ノックとほぼ同時に無遠慮に扉が開け放たれたのだ。

 反射的に剣を手にしたリッツが見たのは、見慣れた従者を連れて、楽しげに微笑んでいるエドワードの姿だったのである。

 その従者はいつもきっちりと固めた前髪を、完全に家でくつろいでいるときのようにぼさぼさにしたまま、銀縁眼鏡をかけたフランツだ。

 アンナの胸に顔を埋めて固まったまま動けないリッツと、しっかりリッツに抱きついていた手のやり場に困っているアンナに、エドワードはにっこりと微笑みかけたのである。

「お邪魔だったかな? 終わるまで扉の外で待っているかね?」

 その直後、当然のごとくリッツはアンナに思い切り突き飛ばされてベットから転がり落ち、床でアンナが嬉しそうにエドワードとフランツと言葉を交わすのを聞いたのだった。

 そんな再会から数時間、リッツはため息をつきつつ、ベットから軽く身を起こして室内に目を転じた。夕食を食べ終わって、見慣れた三人がのんびりとくつろいでいる。

 リッツは食後ふて腐れてベットに転がってみたのだが、アンナは全く構ってくれなくて、ちょっと寂しかった。だがそれはいいのだ。

 それ以上に問題なのは、ここにエドワードがいることだった。エドワードは御年七十七歳にして、元気なものだ。

 七十五歳の誕生日を期に、大公としての一切の公務から身をひいた。現在は王宮で悠々自適の生活をしているはずだ。

 そのせいか暇をもてあまし、剣技の稽古をふっかけられて、グレイグが傷だらけになっていると聞いている。

 だがエドワードはどう見たって六十代半ばにしか見えない。その事にリッツはいつも少し、ホッとしている。

 何しろエドワードは数ヶ月前、倒れているのである。公務から身を引いたとはいえ、エドワードには未だにやらねばならない仕事がある。その仕事が立て込んだのと、風邪を引いたのが重なったのだ。

 だからリッツも心配で、シアーズにいる時は、エドワードの傍らで時を過ごすことが多くなってきた。時にはそこにパトリシアがいたり、シャスタがいることもある。

 四人揃えば昔話ばかりだが、それが楽しかった。リッツの中には存在しないリッツが傭兵になった後の三人の話を聞くのは面白かったのだ。

 苦労したと言いながらも三人はいつも笑顔で、いい時間を築いてきたんだということが、ありありと見て取れた。

 そんな表情を見ると、少し寂しい事もあったが、総てを受け止めたいと思っている現在は、それが穏やかな幸福となっている。

 あまりシアーズにいられないから、こうして親友と時を過ごすことは重要なことだった。

 そう、リッツはもう覚悟を決めている。

 エドワードの時計は、今後あまり長く時を刻まない。人間である限り、エドワードが生きられる時間は、長くても二十年無いのだ。

 失うと考えれば怖くてたまらない。でもアンナが傍らにいてくれるからようやくついた、総てを受け入れるという決意。仲間から逃げまくっては、今のリッツは後悔する。

 こうして思いを受け止めて、時間を大事にしたいと思っているからだ。リッツにとって、親友と一緒にいる時間は、妻と一緒にいる幸福な時間と同じぐらいに大切なのである。

 だが……だがだ。

 何故、ここにエドワードがいるんだ。いや、いなくちゃならないんだ? 

「なあ……」

 頭を掻きながら、リッツはまず一番の心配要素であるエドワードに視線を向けた。

「何だリッツ?」

「何でここにいるんだよ。お前さ、もう遠出もできないっていってたじゃんか」

 遠慮無くそういう。アンナと結婚してから、リッツの中で身構えてきたものが崩れ落ちてしまい、エドワードやフランツと接するときも、素の状態に戻ってしまっているのだ。

「観光だ。と言えばお前は信じるか?」

「……観光って……」

「秋は観光に適した季節だ。そう思わんかね、アンナ?」

 エドワードが笑顔で話をアンナに振ると、アンナはにっこりと笑って頷いた。

「いい季節ですよね。料理もとってもおいしいし、山がいろいろな色に変わるの、とっても素敵です!」

「そうだろう」

「そうですよね!」

 二人で完結してしまいそうな話に、リッツは割り込んだ。

「うそこけ、エド。本当の目的は何だよ? 目的がなけりゃお前が観光に出歩くわけねえだろう」

「え~? そうなんですか、エドさん?」

 少々残念そうなアンナに軽く肩をすくめて見せてから、リッツはエドワードが座っている椅子のテーブルを挟んで真向かいに座った。

「で、そろそろ教えてくれって」

 正面からじっとエドワードの顔を見ると、エドワードが軽く笑った。

「秋は旅行の季節だというのもあながち嘘ではない。リモフィスはそれは綺麗なところだからな」

「リモフィス?」

「そうだ」

 頷いたエドワードに、アンナが再び目を輝かせる。

「どんなところなんですか?」

「リモフィスは、ここから馬車で約半日のところにある村だ。かなり風光明媚な高原地帯であると聞いているぞ」

「わぁ……」

 アンナの目がきらきらと輝いている。仕事の時はしっかりしているくせに、こうしてエドワードといると、旅をしていた当時の祖父と孫にあっという間に戻ってしまう。

 幾つになってもこの好奇心旺盛なところは変わらない。リッツと二人でいても、初めて行く場所に関してはこんな感じで、二人きりの時はあまりの可愛さに、ところ構わず襲ってしまいたくなるほどだ。

 リッツにそんな不穏なことを考えられているとはつゆ知らず、アンナはエドワードにリモフィスについてのくわしい説明をねだっている。リッツはため息をついた。

 北部に行くと、鉱山なども存在する王国南東部にありつつも、リモフィスは趣が異なる。最初から貴族の保養ありきで開拓された場所だからだ。

 ユリスラ国内は結構知っているリッツだが、ランディアの街を知っていても、リモフィスにまで足を伸ばしたことはない。

 あそこは内戦前、大貴族の館が幾つか建っているという、一大保養地区だったのだ。貴族の連合軍を倒す側だったリッツには、そんな場所に縁など無い。

 だがリモフィスの噂は聞いたことがある。

 内戦前に貴族の保養地であったリモフィスは、内戦後、貴族のほとんどがその屋敷を手放したため、一時期、豪奢なゴーストタウンになったのだそうだ。

 現在は富裕層の保養地として再び発展してきているのだが、それでも内戦前ほどではないらしい。つまりかなり寂れた保養地なのだろう。

 エドワードに尋ねるとまた混ぜっ返される可能性があるから、先ほどからため息混じりに頬杖をついているフランツに話しかけた。

「お前こんなところにいてもいいのか? ジョーの奴が寂しがるだろ?」

 からかい気味に言ったのだが、フランツはあっさりと首を振る。

「グレインに長期出張中。帰ってくるのは十二月だ」

「ふうん。じゃあお前が寂しそうだな」

 リッツだったら三ヶ月アンナが帰ってこないなんて耐えられない。だがフランツは平然とリッツを見返した。

「別に。この間に溜まっていた本を片付けてるし」

「……あっそ」

「帰ってきたらまたあの調子になるし、今のうちに自分の事をするよ」

 ジョーは師匠リッツと非常によく似ていて、好きな相手を離すことが出来ないたちなのだ。お陰でフランツは、かなり頻繁にジョーに押し倒される状況におちいっている。

 ようやく念願かなってフランツの恋人になったジョーは、嬉しくてかなり浮かれていると、アンナに聞いた。

 笑えることに、軍人で剣士のジョーの方が官僚のフランツより格段に力が強い。幾度かフランツは、押し倒されたと言うよりも、柔術の技をかけられたように意識を失ったこともあるという。

 とはいえ遊撃隊員のジョーは出張が多く、二人が一緒にいる時間はもしかしたらリッツとアンナ以上に少ないかも知れない。

 からかいがいのないフランツに、リッツは頭を掻いて言葉を換えた。

「で、依頼って何だ? 依頼主は?」

 率直に聞くと、フランツは一瞬だけ逡巡してから口を開いた。

「依頼人は、シャスタ・セロシア宰相閣下と……宰相秘書官室長。つまり僕」

「シャスタとお前?」

「ああ。人捜しを頼みたい」

 そう言ってフランツは鞄から手紙を取り出した。その鞄の懐かしさにリッツは口元が綻んだ。古びてはいるが、全く破れたり壊れたところのないその鞄は、一緒に旅をしていた頃、フランツが妹のコンスタンツェに貰った物だ。

 最近のフランツと言えば、政務官の制服にオールバックに銀縁眼鏡、小脇には書類鞄というのが見慣れた姿だったから、ばさばさの髪にこの鞄という出で立ちは妙に新鮮さを感じる。

 一瞬の懐かしさに眼を細めていたリッツだったが、目の前に広げられた手紙の内容に目を見張った。

『敬愛する宰相閣下殿

 もし私が一月以上戻らない場合私が死んだものとしてください。その際には、私にと望まれていた宰相の地位を、私の部下ルシナ宰相秘書官室長にお譲り頂くよう、お願いいたします。

 彼なら私以上に立派な宰相としてこの国を治めていくことが出来るでしょう。

 忙しいこの時期に個人的な我が儘を聞いて頂きありがとうございます。本当に申し訳ありません。            テレンス・フォーサイス』

「何だよこれ?」

「読んでの通りだ」

 フランツがため息をついた。

「その手紙を閣下が見つけたのは、つい数日前だ。その時点でフォーサイス参与が休暇を取ってから三ヶ月がたっている」

「……三ヶ月か……」

 リッツは呻いた。大抵この種の手紙を残す場合、そのリミットを大幅に過ぎていたならば、手紙の筆者が生きている可能性は限りなくゼロに近い。

「このフォーサイスって?」

「僕の上司だ。僕が命を狙われた時に、唯一僕を心配して、宰相の耳に話をいれ、ジョーたちを護衛にさせた張本人だ」

「いい奴じゃねえか。それで、どんな奴なんだ?」

 手紙を読み返しながら尋ねると、フランツは小さく息をついた。

「分かり易く言えば経済に関してすごい切れ者だ。貴族の地位にありながら、没落しきってスラムで暮らしていた親を蹴散らして、宰相参与にまでのし上がってきた人だからね」

「うげ……俺そういうギラギラしてる奴、好きじゃねえなぁ」

 小声で呟くと、フランツは苦笑した。ジョーと付き合うようになってから、フランツはこうして少し感情を表に出すようになっていた。

 無表情に見慣れていたリッツはアンナ共々最初はかなり驚いたが、今ではこちらの方が自然で慣れてしまった。

「仕事面だけならそういう人だけど、私生活は正反対だ。分かり易く言えば……師匠みたいなどこか抜けた感じだと思って貰えばいい」

「……オルフェさんと同じ……」

 つまり生活無能力者ということか。

「お前、そういう奴好きだなぁ……」

「好きで部下をやってるんじゃない。でも宰相閣下はかなり彼を買っている。来年には宰相にと内示が出ているしね」

「お前は?」

「……その場合、僕が宰相参与という話だ」

 昇進の話だというのに、フランツはつまらなそうな顔で再び頬杖をついた。ヴァインに軸足を移したいフランツからすれば不本意だろう。

「補佐官すっ飛ばして参与なんて、たいした昇進じゃねえか。喜べよ」

 軽くフランツに言うと、フランツは大きくため息をついた。

「補佐官職は無くして、秘書官室を本格的に運用する計画だ。政務部の各部署、それから軍から財務関係者を集めた特別な場所になるだろうね」

「ふうん。いいじゃねえか」

「よくない。秘書官室の環境が整ってない。整うまでは参与になっても仕事を兼務する羽目になる」

 つまりものすごい仕事量を抱えているフランツは、今まで以上の激務に追われる羽目になるということらしい。

「……相変わらずお前は仕事好きだな」

「好きでやってるんじゃない」

 軽く嫌味を効かせたリッツの言葉に、明らかに不本意そうにフランツが眉を寄せた。これ以上この話題を突っ込んでも実りはないだろう。

 リッツは静かに話を戻した。

「で、そのフォーサイスとかいうのがいるのが、リモフィスってことか」

「そう」

「シャスタは何だって? 連れ戻してこいって?」

「出来れば。僕は是非、参与には戻って頂きたい」

 沈痛な口調で言ったフランツに、リッツは気がついた。この依頼の本当の依頼人はヴァイン創始者であるフランツなのだ。フランツが一番フォーサイスに戻って来て欲しい理由が、透けて見えてくる。

「つまりお前は宰相になりたくないから、人身御供を探そうって算段だな?」

 多少からかい気味に聞いたのだが、フランツはにこりともしないで肩をすくめた。

「ああ。まだ二十代の僕が宰相なんておかしいに決まってる」

「……シャスの奴は、三十になる直前ぐらいで宰相になっていると思うけどな」

 ボソッと呟くと、背後から冷静なる訂正が入った。

「シャスタが宰相に就任したのは、三十を過ぎてからだ。それまではグラントが粘った。その間シャスタは、あちこちの部署に修行に出されて死ぬ思いをしていたぞ」

 言いながらエドワードは、フランツとリッツがついていた席の空いている場所に座った。当たり前のようにそこはリッツの隣だ。いつの間にか、お茶の支度をしたアンナはフランツの隣、リッツの正面に座っている。

「堅物親父はそんなに長く頑張ってたのか」

「当然だろう。国庫は空、国民は飢えている、王宮の中は宝飾品だらけだ。王宮の高級品を売りさばくだけでも相当の手間だった」

 しみじみと語ったエドワードは、アンナの淹れたお茶に口を付けた。リッツの知らない時間の流れの話だ。それを聞くと何となく申し訳ない気分になる。

 それを知ってか知らずか、エドワードはテーブルに肘をつき、指を組んだ。

「備蓄庫に異常なまでに蓄えられていた食料を放出して、貴族の保管していた食料総てを接収したところで、ようやく国民全体に食料が行き渡る有様だった。季節も冬だったからな。ありがたいことに翌年は豊作で助かった。まあ、まだ最後の貴族の抵抗があって少々苦労したがな」

 エドワードは肩をすくめて、フランツを見ている。

「その辺りはシャスタに聞いているかな?」

「聞かせて頂きました。だからこそです。僕にはまだその器はありません」

「そうかな? そんなこともないと思うが?」

「ありません。断じて」

 かたくなに主張するフランツを眺めながら、リッツの中で後ろめたさが広がっていく。自分として生きていけるようになったら、過去の自分があっさり王都を捨てたことが、本当に申し訳がないのだ。

 言葉の出ないリッツを察してくれたのは、当然ながら妻のアンナだった。

 リッツの前にお茶を差し出し、お茶を取ろうとして伸ばした手の甲を、何気なさを装ってやさしく撫でてくれる。顔を上げると、柔らかく微笑まれた。

 いつからか、アンナには、リッツの感情が総て伝わるようになってしまった。その伝わり方は、エドワードとはまるで違って、常に心の中が暖かく繋がっている感覚だ。

「まあ、君が宰相になるまでもう少しだと、覚えておくんだな」

「嫌です」

 秘書官室長にまでなったフランツが拒否する言葉になど耳も貸さず、エドワードは再び三人をぐるりと見回した。

「さて話が逸れたな。シャスタとフランツは、このフォーサイスを連れ戻したいわけだ。それを聞いて私は無理に同行した」

「……無理にって」

 リッツが小声で呟くと、フランツが小声で呟いた。

「僕も聞いてない。突然行くって……」

 二人とアンナの視線を受けても、一瞬たりとも怯むことなくエドワードは笑った。

「大丈夫だ。パティの許可は得てきた」

 相変わらず、他の面々の許可は受けても来ないらしい。これでは今頃シャスタは生きた心地もしないだろう。

「で、何で無理に来たんだよ」

 何を言っても無駄なことは分かっているから、リッツは多少投げやりに尋ねる。

「先ほど言ったろう? 貴族の最後の抵抗があって、少々苦労したと」

「……それが?」

「その貴族はランディアの自治領主だった」

「!」

「内戦後、ランディアに新たな自治領主が立ち、貴族はリモフィスに移り住んだ。そこから不平分子を集めて反乱を始めた、というわけだ」

「じゃあ、内戦最後の戦いの地って……」

「そう。これから行く目的地、リモフィスだ。そしてその反乱を起こした貴族は、バーンスタイン公爵。フォーサイス参与の血縁者だ」

「……血縁者?」

「そうだ。かなり遠いらしいがな」

 エドワードはそう言いながら紅茶を口に含む。その先の説明をため息混じりのフランツが続けた。

「バーンスタインの本家は、取りつぶしになってるけど、分家は残ってる。フォーサイス参与は、バーンスタインに招かれたと言っていた。バーンスタイン家は昔かなりの名門で、その家督を潰さないで欲しいと言われたらしい。これからそこに向かいたい」

「なるほどなぁ。ま、そういうことなら俺は別にいいぜ。アンナは?」

 依頼をこなすのはリッツだけではない。よほどのことがない限り、依頼を受けるのはマイヤース夫妻ということになっている。つまり今のリッツとアンナは、二人で一人のヴァインのコンビなのである。

「もちろんいいよ。フランツを助けてくれた人だもん。ジョーを間接的に幸せにしてくれた人が困っていたら、助けたいもの」

「よし。決まりだ。じゃあバーンスタインって奴の屋敷に行って、フォーサイスとやらを助ければいいんだな?」

 リッツが笑顔をフランツに向けると、フランツはあからさまにホッとした顔をして頷いた。その顔を見ると、フォーサイスが生きている可能性が低いなんて、口が裂けても言えない。

「じゃ、馬車を探してくる。四人なら小型の馬車を借りて自分たちで操縦した方が早いからな」

 善は急げだ。立ち上がり駆けたリッツは、ふとエドワードの存在の謎を思い出す。

「なあエド。本当に来るのか?」 

「そのつもりだが?」

「お前もう八十に手が届くんだぜ? ここで待ってるってのどうだ?」

 なるべく嫌味にならないように爽やかに告げたはずなのに、エドワードがつかつかとこちらに歩み寄ってきてリッツの頬をつまみ上げた。

「それは私が耄碌して使い物にならんということを遠回しに言っているのか?」

 水色の瞳が、ギラリと鋭い輝きを放つ。

「いたひって! はなへよ、エド!」

 ものすごい力で捻り上げられて、リッツはもがく。七十七にしてこの握力、確かに半端ではない。確かに普通の老人とは違う。違うけれど……。

 心配なんだよなぁ……。

 リッツはため息をついた。

「何だ? まだ言いたいことがあるのか?」

「なひ! なひからはなへ!」

「放してくださいだろう?」

「はなひてくらはい!」

「よし」

「いってーっ……」

 エドワードが危ない目にあったら、リッツが命を張ればいいだけの話だ。なんだかんだ言いつつも、リッツはアンナだけではなく、エドワードを失っても、正常でいられる自信がこれっぽっちもない。

「大丈夫だよリッツ」

 ようやくエドワードから解放されて、ひりひりと痛む頬を撫でているリッツに、アンナがにっこりと微笑んで胸を張った。

「いざとなったら、私が命を張ればいいんだから」

「お前が張るな! お前がいないと生きられないって何年言い続ければ理解してくれるんだ!」

 アンナに死なれたら、リッツは確実に生きていられなくなる自信が十二分にある。情けないことに。それなのに過去何度もアンナは危険にあっさり身をさらしてしまう。

 そのたびにどれだけリッツが肝を冷やし、鳥肌を立て、不幸のどん底にたたき込まれてきたのか分かっているのだろうか。

 アンナを恨みがましく見つめると、アンナは不思議そうな顔で、リッツを見返した。

「理解してるよ?」

「してたら簡単に命を張るんじゃない!」

「簡単に張ってないよ。だってエドさんに何かあったら、エドさんが大好きなリッツが死んじゃうかも知れないもん。だから私が命を張るの」

 自信満々にアンナはそういって胸を張った。

「……お前ね……お前に何かあったら、俺、本気で生きて行けねえんだぞ?」

「大丈夫! 絶対に死なないから!」

 妙に説得力のあるアンナの断言に、リッツは言葉を失って、ため息をついた。そんなやりとりを聞いていたエドワードが吹き出した。

 しばらく笑っていたエドワードは、ようやく笑いを納めて口を開く。

「安心しろ。お前やアンナに助けて貰うほど、まだ衰えていない」

 自信に満ちた笑顔でエドワードは三人を振り返った。フランツは引きつりながらも頷くことしかできないようだ。

 リッツはため息をついてから髪をかき回した。

「どうしてそこまで行きたいんだよ、エド」

「バーンスタインの名が引っかかる」

 いいながらエドワードは腕を組んだ。

「何が?」

「実は、最後の戦いでバーンスタインの名を持つ一族は絶滅しているはずだ。男たちは戦って死に、女たちは庶民に落ちる自分を恥じて命をたったのさ。屋敷の中じゅう、血の海だった」

 だがフォーサイスは、バーンスタイン公爵に招かれたと言っていた。

「分かった! フォーサイスさんは、バーンスタイン一族の幽霊に呼ばれちゃったんですね!?」

 アンナの素っ頓な言葉が響いた。あまりにあまりな言葉に、リッツは額を押さえてため息をつく。結婚して丸五年。付き合ってからはもう十年ほどになるが、この突拍子もない思いつきは、今もそう簡単に消える物ではない。

「あのなぁ……」

 ため息混じりでアンナの頭に手を乗せると、アンナはにっこりと笑った。

「分かってるって。冗談でしょ?」

「分かってるなら……」

「だって、もしかしてもしかするって事もあり得るよ?」

 嬉しそうにアンナの唇が綻びる。そういえばアンナは不思議大好きなのだった。こんな時に、アンナを悪のりさせてしまうのは、エドワードだ。

 エドワードは案の定、アンナに向かってにっこりと微笑んだのだ。

「死者の呼び声と言う奴だな。契約を交わそうと館に乗り込んだが最後、無数の蒼く冷たい手の群れに体を拘束されて、そのまま取り殺される……」

「エド……あのなぁ……」

 それにいつも通り突っ込もうとした時、静まった部屋の中に椅子が倒れる音が響いた。

 驚いて振り返ると、そこには真っ青な顔をしたフランツがいた。もう秋だというのに、額から汗が流れている。

 そういえばフランツは、幽霊や闇の精霊の支配する悪霊が大嫌いなのだ。

「……冗談ですよね、陛下?」

「どうかな? それを知りたいのさ、フランツ。何しろ私は、自分の持ち物だった幽霊屋敷の探索をすることなく、お前たちが退治しまったのだからな」

 そういえば、クレイトン邸の幽霊事件の時、エドワードはいなかったのだ。世界の総てを見てみたいなんて夢を持っていたエドワードも、好奇心……というよりも探求心が強いのである。

 興味津々と言った顔で目を輝かせるエドワードと対照的に、フランツは青ざめた顔で叫んだ。

「絶対に嫌です!」

「そうかそうか。では行こう」

「へ、陛下!」

「私はアニー以外の幽霊を見たことがなくてな。楽しみではないか」

「嫌です!」

 フランツは部屋の片隅まで後ずさって、両耳を塞いで頭を振った。

「もう聞きたくありません!」

 人には得手不得手があるというが、こちら方面は本当にフランツの泣き所だ。だが意外にもヴァインでは、このような幽霊絡みの依頼は多い。リッツとアンナからすれば慣れっこである。

 軽くパニックのフランツからエドワードに視線を移して、小声で尋ねる。

「……バーンスタインの名を語って、宰相参与を狙っている奴がいるって方が適当じゃねえの?」

「それでは面白くないだろう?」

 そういえばエドワードは、王宮の中で暇をもてあましているのだった。

「若人をいじめるなよな」

 リッツは耳を塞ぐフランツに目を向けて、ため息をついた。 

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