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貴族たちの憂鬱<1>

 情事の後の気怠く、暖かな時を過ごしていたリッツは、愛するアンナの髪をやさしく撫でながら幸せを噛みしめていた。

 彼女と出会う前のリッツは、こんな風に暖かな時間を過ごすことがなかった。女性と体を重ねることは、寂しさを紛らわすことで、こうして愛情を重ね合うことでは決してなかったからだ。

「幸せだなぁ、俺」

 へらへらと笑いながら腕に頭を乗せていたアンナの耳元で囁くと、アンナはくすぐったそうに笑う

「私も幸せだよ」

 本当に幸せそうにアンナが微笑み、やさしくリッツの髪を撫でてくれた。やさしい手の感触に目を閉じ、アンナの裸のままの腰を抱く。

「好きだ」

「わかってるよぉ?」

「分かってても言いたいんだよ」

 子供のようにすねてアンナを抱き寄せると、アンナはクスクスと笑った。

「もう、可愛いなぁ、リッツは」

 体を重ねるようになってから七年、結婚してからも五年経つというのに、アンナとこうしていることに全く飽きない。それどころか益々彼女のことを好きになってしまう。

 夜遊びもしなくなった。結婚して移り住んだ先が『陽気な海男亭』の上だからそんなに飲み歩かなくなった。自分でもこんなに一途で真面目だったとは夢にも思わなかった。

 かといって毎日こうして抱き合っていると言うわけでもない。

 最近はヴァインの仕事で、アンナと別々に行動することも多い。時には数週間別居ということもある。だからこそ、こうして二人でいる時間はめいっぱい一緒にいるし、離れるのも嫌だ。

「どうしたの? こんなに甘えて」

 アンナにすり寄ると、アンナが吐息混じりに、柔らかくて甘い声で尋ねてくれた。アンナがこんな柔らかい声を出すのは、ベットにいる時だけだ。

 普段は昔と全く変わらず、お節介で、心配性で、元気だ。しかも最近はてきぱきと仕事をこなす、有能なヴァインの一員になりつつある。

 世間知らずで、何処か抜けていてリッツを心底尊敬していたあの頃とは違うけれど、そんなしっかり者のアンナもどうしようもなく好きでたまらない。

 だからたまに心配になる。もしアンナを失ったら、生きていけない。ヴァインの仕事は重要だ。アンナとリッツだけではない。フランツやエドワードにとっても、ヴァインは夢なのだ。

 でもアンナにもしものことがあって、助けられなかったりしたら、後悔しても後悔しきれない。

 ふとリッツは前に見た夢を思い出した。あまりにリアルであまりに怖い夢だったから、ずっと覚えていたのだ。

 アンナの唇を深く塞いで、その柔らかさと確かな体温を感じ取ってから、リッツは口を開いた。

「なぁ。聞いてくれるか?」

「なあに?」

「俺の見た夢」

「うん」

 真っ直ぐに見つめてくれるエメラルドの瞳を見つめながら、リッツは静かに語った。

「あのな。お前とエドが、崖から落ちかけてんの。二人ともロープに掴まってて、どちらかを助けると、どちらかが落ちるんだ。で、俺は崖の上で、どちらを選ぶか迫られてる」

「うわぁ……私とエドさんって……」

 アンナがクスッと笑う。

「リッツって、エドさん、大好きだもんね」

「……まあ、親友だからな」

 何となくエドワードを大好きというのには抵抗がある。大好きと言えば大好きなのだろうが、どちらかと言えばそれは、親友としての思いだからだ。

 大好きという言葉が合うのは、どう考えてもアンナの方だ。

「それで夢の中のリッツはどうするの?」

「この場合、三人の人物がいて、そのうち一人が死ねば二人助かるってことだろ? だから俺は……」

 アンナとエドワードを助けるかわりに、自ら崖下に飛び降りた。どちらも選べないんじゃない。どちらを失っても生きることが辛くなるのが分かっているからだ。

「今もやっぱり、そういう選択になっちゃうんだね」

 アンナが困ったように笑い、リッツの背に腕を回してきた。アンナのことを好きになる前、アンナと初めて抱き合ったことがあった。リッツが死にかけたあの時だ。

 あの時と同じように、アンナがリッツをギュッと抱きしめて、子供にするように背中をやさしく叩いてくれている。

「……俺は子供じゃねえぞ」

「そうだね。でも暖かいでしょう?」

「……うん」

 アンナに包み込まれるように、アンナの胸にそっと顔を埋める。

「好きよ、リッツ。大丈夫だからね」

「何が?」

「不安になってるんだよ、リッツ」

「ん?」

「エドさん、この間、倒れたんだよね?」

「……うん」

 たいしたことはなかった。ただ少し無理をしすぎて、目眩に襲われただけだと聞いている。それでもリッツは肝が冷えた。そして実感したのだ。

 エドワードの時間は、もう残り少ないのだと。

 今は幸せだ。アンナとこうしていることで、心も体も満たされる。だけどもしかしたら終わりがあるのではないだろうか。

 エドワードの寿命のように。

 この間エドワードが倒れてから、そんな不安がつきまとうようになってしまった。アンナと恋愛をして、愛し合い、結婚してから、リッツはそれで総てが満たされていると思い込んでいた。

 でもアンナといることで落ち着いて周りを見回してみると、リッツにとって大切な人が沢山いることに気がついた。彼らがいるからリッツはリッツでいられる。

 失うことがこんなに怖いなんて、想像以上だった。

「アンナ」

「ん?」

「もしお前なら、どうする? 崖に俺とジョーがぶら下がってどちらかしか助けられなかったら」

 少しいじわるな質問だろうか。だがリッツの予想に反して、アンナは迷い無くリッツを見つめて言い切った。

「どっちも助けて私も死なない」

「……どっちか落ちるんだぞ?」

「落とさない。私の持つ総ての力を使ってでも、絶対に助けてみせる」

 力強く断言したアンナは、リッツににっこりと微笑み返した。

「私はそのために、精霊魔法を磨いて、医者になって、ヴァインにいるの。もう二度と力不足で泣かないために」

「……お前は強いな」

 呟くと、アンナは苦笑する。

「弱いよ、リッツ。私は誰も失えないの。ねえリッツ、どうして私が医者になったか、知ってる?」

 思いもよらない質問に、リッツはアンナを見つめ返した。

「いや」

「リッツを守るためだよ」

 やさしくアンナはリッツの頬を両手で包んだ。

「俺を?」

「そう。リッツが王城で死にかけたあの時、私の治癒魔法だけじゃリッツを救えなかった。私がいて、軍医長がいたから救えた。私ね、力不足だなって思ったの。だって大好きな人を助けることも出来ないんだもん」

「アンナ……」

「えへへ。実はね、白状しちゃうけど、私、リッツに一目惚れしてたんだよ? 初めて会った時に。それに自分で気がついたのって、神の庭からヴィシヌに戻った時だけど」

 再びの思いも寄らない告白に、リッツは目を見開く。アンナに惚れたのは自分が先だと自信を持って思っていたのに、こう来るとは思わなかった。

「だからね、いっつも役に立ちたい、リッツに役に立つって思われたいって、一生懸命だったんだ。なのにリッツったら、あの頃は私を面倒な子供だと思ってたでしょ?」

「うっ……ごめん」

 本当に正直そう思っていた。まさかこうやって心も体も深く愛し合うようになるなんて、夢にも思っていなかった。

「でもね、もしリッツがあの時ぐらいの怪我をしても、今の私は、リッツを救えるよ。精霊魔法もあの頃と比べたら格段に実力を上げてる。だから絶対に守ってみせる」

 アンナは自信に満ちた微笑みを浮かべて、リッツを見つめた。

「確かに色々な事に終わりはあると思う。私もリッツも沢山の辛い思いをするかも知れない。だけどリッツ、約束したでしょう? 私は絶対にリッツより先に死なないって」

「……アンナ」

「不安を感じても殻にこもったりしないで。怖さに震える時には私を抱いて。私もあなたをちゃんと抱きしめ返すから」

 やさしく力強い言葉に、リッツは縋るようにアンナを抱き寄せていた。どちらかを選ぶんじゃない。総てを選ぶために強くなった、か。アンナらしい。やはりアンナはリッツの光だ。

「アンナ」

「なあに?」

「愛してる」

「私もず~っと大好きよ、リッツ」

 顔を見合わせて唇を重ねる。どうかこの時間が永遠に続くように。お互いを支え合って行ける強さを、リッツ自身も持てますように。

「なぁ、もう一回いいか? 今、すっげえしたい気分なんだけどさ」

 耳元で囁くと、アンナが吹き出した。

「まさか最初から、これが目的で話してたわけじゃないよね?」

「違うって!」

「本当?」

「本当に本当だって!」

 そんなことで自分の妻の気を引こうなんてするわけがない。慌てて起き上がって否定すると、アンナはクスクスと笑った。

「だったらいいよ」

「本当に?」

「本当に本当だよ」

 リッツの真似をして頷いたアンナはベットでしか見せてくれない、色っぽくて甘さのたっぷりと込められた声で、リッツに向かって両手を広げた。

「リッツ……きて」

 リッツは遠慮無く、アンナを抱きしめた。

 まさか、その話に近い状況を経験するとは、その時二人は夢にも思わなかったのである。 

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