背中合わせの親愛<4>
ジョーとジャンが来てから、ぴたりと襲撃が無くなった。特別遊撃隊の存在に恐れを成して中止したのだろう。結局それぐらいのいたずらだったのだ。ここまで大事にする必要なんて無かっただろうに。
フランツは恨めしくそんなことを考えた。彼らが護衛に来てから、ジャンが犯人を捕まえてみせると豪語した一月がたとうとしていた。だが未だに犯人は捕まらない。襲撃が止んでしまえば捕まえようにも打つ手がないのだ。
一応の手がかりにと調べた弓矢は、軍の訓練用に使われる王城にはありふれたものだったし、階段に掛けられた紐に至っては、政務部でいらなくなった書類を束ねるのに使われる麻ひもを更に編んで丈夫にしたものだった。煉瓦はその場に積んであった補修用だ。
総てがこの王城内でありふれたもので、それに触ることが出来たものなど山ほどいる。つまり総ての品が、みなありふれていて何の証拠にもならないのである。
そんないたずらのために、フランツは重い気分にさせられている。
ちらりと振り返ると、暗い目をしつつも周りに気を配るジョーの姿がある。護衛に来た初日の夜に引っ越しの話をしてから、ジョーは暗い目で黙ったままじっとフランツの後ろに立つようになった。
秘書官たちからも一瞬驚かれるほどの暗さに、フランツはため息をつくしかない。どうやら色々きついことを言い過ぎてしまったようだ。何しろ彼女の恋愛観を思い切り壊すことばかりいったのだから。
苦情申し立てに来た他の部署の秘書官や補佐官も、ジョーの顔を見ると幽霊にでも出会ったかのように青ざめ、苦情を早々畳んで逃げ帰る始末だ。楽といえば楽だが、フランツはジョーにこんな顔をさせるためにあの話をしたわけではないから、自分のやり方に問題があったことを痛感している。
だがどう話したらジョーにショックを与えず話が出来たかが分からない。昔よりまともに人とコミュニケーションがとれるようになったとはいえ、やはり未だにフランツは人付き合いが苦手だ。仲間以外との距離の取り方がいまいち分からない。
そんな中で例外的に楽に話が出来るのがジョーだった。ジョーといれば気を遣う必要がない。ジョーには何を言っても大丈夫だった。傷つけば傷ついたとフランツに抗議してくるから謝ればいいし、逆にジョーが腹の立つことを言ってくれば腹が立つことを伝えれば向こうが謝った。
ジョーと話すことによって、人はこう言うと腹を立てるのだなとか、ここまでは言っていいのかも知れないという範囲をフランツは少しづつ理解していった。
ジョーもまた傍若無人過ぎる振る舞いを、フランツと話すことで、どこまでが社会人として許されるのかを学んでいた。
リッツとアンナがいなくなり、早く寝てしまうエヴァンスがいなくなった夜の談話室には、いつも二人でいた。
別に二人で何をするでもない。フランツは本を読み、ジョーは愚痴を言ったりごろごろしたり、柔軟体操をしたりする。時にはゲームで勝負ということになって、エドワードがおいていったチェスをやったり、オルフェに貰ったテリトリアルをしたりする。
大概フランツが勝った。師弟揃って剣術は一流なのにゲームに弱い。
このジョーの暗さも少しずつ治っていくだろうと思っていたのだが、ジョーの暗さは相変わらずだった。家に帰っても談話室でどんよりと膝を抱えているから、傍に行きづらくて幾度もため息混じりに自室に引き上げた。
フランツは残り少ない時間を、一緒に過ごしたいと思ったのだが、ジョーはそれどころではなかったらしい。
そんな状況だからフランツは幾度もジャンにジョーと配置換えするよう申し出たのだが、ジャンもため息をついて首を振る。ジャン自身もこの状況に気がついて配置換えを提案したのだが、あっさりと断られたというのだ。
今日も今日でジャンに声を掛けて同じ答えをいわれてため息をついたフランツに、ジャンはきつい目を向けてきた。きっとフランツが何かを言ったと気がついているのだろう。
それともジョーが何かを話したのだろうか?
だがフランツはジャンに背を向ける。ジョーがジャンに話して、二人で解決できるならそれでいい。ジョーとジャン、二人はフランツから見ても似合いの二人だと思う。
きっとジョーの『この人』という幻想が壊れて現実を見るようになれば、寂しいがフランツなどよりもずっと上手くいくだろう。
寂しい……?
自分の感情にフランツは戸惑った。ここ一月、引っ越し先を探しながらも、ふと手が止まってしまう。この家のどこで本を読めばいいんだろう、と思うのだ。そしてすぐに自分一人の家なのだから好きなところで読めばいいのだと気がつく。
当たり前の事に手を止める理由が自分でも分からずに、いつも小さく息をつくと何事もなかったように書類を捲る、そんなことを繰り返している。
フランツはため息をついた。
十年家族のように暮らしてきたジョーと離れて一人暮らしをする。気付かなかったがそれはフランツにとっても寂しいことだったのだ。一緒にいるのが当たり前すぎた。
少し長くいすぎてしまった。リッツたちがあの家を出て行った時に、フランツも官舎に入れば良かった。
他人だというのに情が移ってしまった。最初から偶然同じ家に住むことになっただけの他人だと分かっていたのに、二人の時間はあまりに気楽で暖かかった。
一人暮らしを始めたら、最初は少し寂しそうだ。だがそのうちに一人に慣れていくだろう。何しろフランツには大量の仕事と信頼の置ける部下、そして手のかかる王族の友人がいる。
「ルシナ室長」
呼ばれて顔を上げると、フランツを毛嫌いしている参与の姿があった。
「何でしょうか」
「すまないが、この書類を近衛部隊に届けてくれないか。内密な書類なので君に頼みたい」
珍しいこともあるものだ。だが参与の方が上司であり、命令は正当なものである。フランツが参与を見上げると、参与は嫌らしい笑みを浮かべた。
「護衛と一緒に何処かに消えないでくれ給えよ。仕事中だからな」
この男は一緒に暮らしているだけで、何らかの関係があると思い込んでいるようだ。まったく失礼なことこの上ない。例え男女が一つ屋根の下で暮らしていても、そうならないケースだってあるのだ。
フランツとジョーがいい例だ。
出来ることなら今ここに積まれている書類を片付けてから行きたい、そう思って時計を見ると、もうすぐ昼食だ。
「了解しました。いつまでに届けましょう?」
参与は自分の嫌味に顔色一つ変えないフランツを睨め上げた。
「今すぐだ。分かったな?」
なるほど参与殿はフランツに食事をさせないという新手の嫌がらせを思いついたようだ。まったく無茶を言う。だがこれがすめば再び書類を片付けられる。嫌な仕事は先に終わらせるに限る。
「では今すぐに参りましょう。ディケンズ秘書官、後を頼む」
「了解です」
頷いたディケンズは、参与が隣の扉に消えたのを見計らってから笑いながら小声でフランツに言った。
「とんだとばっちりですね、室長」
「ああ。ついでに昼食を取ってくるから戻りは少し遅くなる。順に休憩を取るように」
「了解しました」
全員を見渡してからフランツは立ち上がった。後ろにいるジョーを振り返ると、ジョーは頷いてフランツへと歩み寄る。
一歩前をフランツ、後ろをジョーが歩く。もうすぐ昼休みだからか、色々な部署の人間が出てきていて、廊下は混み合ってきていた。この中の何処かにジャンがいるのだろうが、人が多くなってくるとよく分からない。
「昼食は?」
後ろのジョーに尋ねると、ジョーが答えた。
「室長に合わせますので、お気になさらず」
「そう」
今までは言っても言っても公私が混同していたジョーなのに、あの日以来、驚くほど公に接することが上手くなった。
大変に助かるのだが、違和感を覚えてしまうのは、やはり慣れないからだろうか。ジョーなのに表情も口調もジョーではないみたいだ。
こういう風にちゃんとジョーが公私を分けられることを望んでいたのに、出来てしまうと少し寂しい。
フランツはいつものように前だけを見てさっさと一定の速度で廊下を歩く。
政務部をでて、王城を横切って軍務部を通り過ぎて、王宮に近い場所に近衛兵舎がある。
ウォルター侯爵事件の際に、一番の殺戮現場になり、居合わせたフランツが火竜で怪物と対峙し、初めて国家を守るために人を殺めた場所でもある。
あれからもう十年が過ぎていることを思いだし、フランツは軽く驚いた。
ついこの間のことのように思い出せるのに、なんて長い時間がたっているんだろう。あの頃のフランツはまだ十代で、何も分かっていなかったのに、今はもう二十八歳で、官僚として王城に勤めている。
過ぎた時間のあまりの長さに、目眩がしそうだ。
そして同じ頃、少年のようにボロボロの格好でフランツの前に立ち、無表情なフランツに怯えたようにアンナの後ろに隠れたのが、今フランツの後ろで護衛を務めるジョーだった。
あの頃に比べると見違えるように美しく、強く、明るくなった。
その彼女と今、離れようとしているのだ。
「室長」
ジョーに声を掛けられて、足が止まっていたことに気がつく。
「ああ、すまない」
「どうしました?」
君の事を考えていたよ。とはいえない。
何故だか彼女を突き放した日から、昔のジョーの事や、今までジョーと交わしてきたたわいない会話をよく思い出す。シアーズに来て初めて一人で暮らす状況に、もしかしたら多少感傷的になっているのかも知れない。
「なんでもない。急ごう」
フランツは再び足を速めた。近衛兵舎は距離も時間もかなりかかる場所だ。少し急ぎ目に歩かなければ、戻りが遅くなってしまうだろう。過去を思い出し、懐かしんでいる場合ではないのだ。
政務部を抜けて王城に出た頃には既に各部署の昼食の時間と重なりつつあり、広い王城のロビーはかなりの人で混み合っていた。
こんな時間に書類の受け渡しをするなんて、嫌がらせ以外の何者でもない。これまでも困った参与に幾度となく遭遇してきたが、このような陰湿ぶりは初めてだ。
ふと視線を感じてフランツは正面を見た。
人混みの中に見たことのある顔があった。みなが自分の行く方向を眺めて歩いているのに、雑踏の中で男は一人まっすぐにこちらを見ている。
フランツは眉をひそめた。フランツを罵倒するあまり、グレイグを悪し様に言ってしまい、シャスタに『王家につばを吐くか!』と一喝されてやめさせられた前の補佐官だ。
前補佐官がじっとこちらを見ながら歩いてくる。フランツは彼は今どの部署に行ったのか知らない。秘書官室と関わりが無くなった人間の行動を追うほどフランツは暇ではないのだ。だが実力者であったから違う部署で仕事をしているのだろう、ぐらいには思っていた。
だがフランツは妙なことに気がついた。
この前宰相補佐官は、こんな時間だというのに王城の正門の方からやってきたのだ。
王城の門は大概開かれているから、番兵の審査を通れば誰でも場内に入ることが出来る。それは軍務部であれ政務部勤務であれ問題ない。
だが昼近いこの時間に、門の方からやってくる人はほとんどいない。
仕事で外に出ていたのだろうか? でなければ体調が悪くて遅刻をしてきたのだろうか?
だがそれは自分自身の中で、正当な理由を探す防衛意識に他ならない。
なぜならフランツは確かに感じていたのだ。
待ち伏せされた、と。
足を止めたフランツの元に、ゆっくりと揺れるような足取りで元補佐官は近づいてくる。
「中尉」
声を掛けると、ジョーが前方に不審者を見つけて、剣に手を掛けフランツの横に並んだ。
「……丸腰にみえますが」
小声で言われて頷く。
「確かにそう見える。何をしたいんだ?」
フランツを守るジョーに気がついたのか、元補佐官は笑みを浮かべた。
「よう、ジョー。元気そうじゃないか」
「……え……?」
「冷たいね。忘れたのかい? たった二週間といえども何度も抱いただろう?」
みるみるジョーの顔色が変わっていく。
「中尉?」
青ざめたジョーが唇を噛む。その意味に気がついて、フランツはため息をつく。ジョーはこの男とも付き合ったことがあるのだ。掛ける言葉も見つからず、しかも妙な腹立ちを覚えつつ、フランツは目の前の男を見据えた。
だが官僚の制服を着た男は平然とフランツの前でわざとらしく両手を開いた。武器を持っていないというアピールだろうか?
官僚の制服であっても、一応護身のために武器を吊ることが出来るし、参与や補佐官の中には武器を持っている者も少なくない。フランツの場合一番の武器が精霊魔法だからいつも丸腰だ。だが前補佐官も腰に武器を携帯していない。
待ち伏せしたのに丸腰だというのか?
フランツは眉を寄せた。
一体に何を企んでいる。この人混みの中で。
人混みの中にいれば、三人はただ立ち話をしているようにしか見えないだろう。ジャンも迂闊に近寄れないに違いない。
フランツは気がついた。この状況でもし遠くから狙われたとしても、ジョーにもジャンにもフランツを守るべき手がない。
しまった、はめられた。
フランツは心の中で舌打ちした。
やがて男は口の端をつり上げながら口を開いた。
「ルシナ室長、君も元気そうで何よりだ」
「お久しぶりです、ロイド補佐官」
「ああ確かに久しぶりだ。君のおかげで楽をさせて貰っている」
近くで見たロイドの目は血走っていた。
「なにせ、自宅療養中だ」
フランツはロイドの表情で悟った。
ロイドは一連の事件に関わっている。だがこの状況から考えれば、主犯ではないはずだ。本当に自宅療養していたのなら、フランツを見張って罠に陥れることは出来ない。
フランツをこのタイミングでこの場所へ来させたのは、現在の参与だ。つまりあの参与が関係しているに違いない。政務部内で起きた幾つもの事件は、あの参与が犯人だ。
思ったよりも近くに敵がいたのだから、特別遊撃隊の二人が来たことを確認しておとなしくしていることが出来たのだ。
参与は邪魔なフランツを消すために、フランツと護衛のジョーの二人に恨みを持つロイドをたきつけたに違いない。
自分はいたずらを仕掛けるだけで、決して手を汚さない。
汚い男だ。
フランツは奥歯を噛みしめた。
でも、一月で特別遊撃隊が離れることも知っているはずだ。
ならば特別遊撃隊がいなくなってからフランツを殺した方が楽なのでは無かろうか。そう思うと不思議だった。
何故このタイミングで、襲ってくるのだろう。ジョーは剣術の達人なのに。
青ざめた顔のジョーがフランツを見る。
「知り合いですか、室長」
「ああ。二月ぐらい前まで宰相補佐官を務めておられた」
「そんな……私……」
「……知らなかった?」
「知らない。知ってたら付き合わない」
眉をひそめるフランツに関係なく、ロイドの目はフランツの横で青ざめるジョーを見据えている。
「ひどいじゃないか、ジョー。酒を飲んで荒れてただけで振るなんて。仕事でひどい目にあった男を慰めてくれるのが女というものだろう?」
ロイドは嫌な笑みを浮かべた。
「俺が苦しんでるんだから、俺の気の済むまで体を差し出すのか、女ってものだろうが」
「知らないわよ! 私、そういう男嫌いなの」
青ざめながらも、ジョーは言い返す。
「気の強い女だ。だが残念だ。いい体をしてるのに男にたてつくところは減点対象だ」
フランツは二ヶ月前を思い出す。
ちょうど彼がシャスタによって配置換えを命じられたころだ。その腹いせか、ロイドと同じくフランツを毛嫌いしていた参与は補佐官の恨みとばかりに、フランツに陰湿な嫌がらせをしたのだ。
そしてジョーは官僚と別れて大酒を飲み、嫌がらせで酒を飲み過ぎたフランツと関係を持つに至った。
「まさかあの時荒れていた原因って……」
「気がついてくれたかい、ジョー。そうだ。俺がこいつに、宰相補佐官をクビにされたことに荒れてたのさ」
「嘘だ……」
「嘘なものか。その苛立ちをお前で晴らそうと思ったら、俺をぶん殴って逃げやがった。とんでもない女だ」
ジョーの顔からみるみる血の気が引く。やはりあの大荒れの原因となった官僚はロイドだ。
「その上、腰巾着の情婦だと? 俺を馬鹿にするのもいい加減にしやがれ!」
ジョーはきつく唇を噛んで立ち尽くしている。フランツの危惧したとおりだ。ジョーの恋愛のやり方は、時にこうしたひどい男を招いてしまう。後悔しても関係を持ち、付き合った事実は消えない。
フランツはジョーの気持ちを考えると、いたたまれずに奥歯を噛みしめた。
「やけに簡単に男と寝ると思ったが、それもこれもそいつのために俺を貶めるためだったんだな、ジョセフィン・クレイトン?」
「違う!」
更にジョーを貶めるような言葉に、ジョーは激しく首を振った。
「ルシナ室長。お前はたいした身分だな。王太子の権力でのし上がり、邪魔者は女に諜報させるのか?」
「フランツは関係ない! あんたと付き合ったのは私でしょ!?」
「ああそうだ。まんまと欺された」
「欺して無い!」
激しく否定するジョーに、ロイドは耳を貸さない。やがてロイドはゆっくりと視線をジョーからフランツへと動かした。
「ルシナ室長」
「何でしょうか」
「どんな気分だ?」
「何がでしょう?」
「俺を追い落として手に入れた平穏は、どんな気分だ!」
目を血走らせて激高したロイドに、フランツは短く答えた。
「別に何も」
「な……」
「仕事場に気分も何もありませんので変わりません。私は国民のために働くのみです」
まっすぐにロイドを見据えていうと、ロイドは数歩後ずさった。
「あなたこそ、仕事に何を求めておいででしたか?ロイド補佐官」
ロイドの体がブルブルと震え出す。
「王太子の腰巾着め。お前がいなければ俺はもっと出世できた」
こちらを見るその目は、正気の沙汰ではない。
「お前は仕事も女も奪った。俺の誇りも何もかも!」
反射的にフランツは周りを見た。ロイドは丸腰だ。ならばもしかして参与が何処かから狙っているのではないか。あの弓矢で。
意識がロイドから離れた一瞬の隙に、刃がロイドの袖口から滑り出した。
ロイドは武器が見えないよう、服の中に仕込んでいたのだ。
ハッと気がついた時には遅かった。
「フランツ・ルシナ!」
白刃が目の前で閃いた。
とっさに一歩引いたが、動きの鈍いフランツは避けきれない。
とたん世界は妙に遅く、フランツの目の前で展開していく。
ロイドの血走った瞳の狂気が、刃の輝きで照り返すのが見えた。
大きく振りかぶった短剣が自分の正面に向かってくるのが見えた。
でも何も出来ない。
「死ね! 消えろ!」
殺られた、と覚悟をした瞬間に、力の限り後ろに引き倒されていた。無様に尻餅をついたその瞬間、世界の動きが元に戻る。
パタパタッと音がして何かが床に飛び散った。
フランツの顔にも液体が降りかかり、その生ぬるい感触が頬を伝う。
眼鏡に飛んだ液体が赤く落ちていくのを見て分かった。
血しぶきだ。
目を見開くと、ゆっくりと血しぶきの向こうで、軍服の後ろ姿がかしぎ、一つに結った茶色の髪が、目の前から消えた。
「な……」
それがジョーだと気がついた瞬間に、我に返った。
「ジョー!」
苦悶に表情を歪めて、ジョーが体を折っている。見る間に血だまりが床に広がっていく。人で賑わっていたホールが水を打ったように静まりかえった。
「ジョー! しっかりして、ジョー!」
「お前も動揺するんだな、ルシナ室長」
くつくつと笑うロイドの手に、血に染まった短剣があった。
流れ落ちる血液がジョーのものだと思うと、頭に血が上ってきた。
「ルシナ室長!」
離れた位置にいたジャンの声が響く。だが遠すぎる。
「お前もすぐに女と同じ目に遭わせてやるさ。せいぜい死の国で仲良くやるといい」
下卑た笑みを浮かべてそういったロイドの目が、ぎらぎらと喜びに輝いている。
それを見た瞬間、猛烈な怒りがこみ上げてきた。
「さてルシナ室長、祈りの時間をやろうか? 我が国の守護精霊王に祈る時間をな」
そう言って短剣を振り上げたロイドをフランツは見据えた。喉の奥から低い怒りの声が漏れる。
「許さない」
「なんだ?」
「上司だと思って無能なあんたに我慢してきたが、これは許せない」
血しぶきで曇る眼鏡を床にたたきつけ、フランツはゆっくりと立ち上がった。だがフランツの運動神経の鈍さを知っているロイドはそれをせせら笑う。
「動きの鈍いお前が、この俺と戦うのか? 俺には剣術のたしなみがあるぞ」
「……それが、どうした」
「な、なんだと?」
「それがどうしたと言っている!」
思わぬフランツの言動に、ロイドは怯えたように一歩下がる。
そんなロイドを見据えたままフランツは、ホールで動きを止めた人々に向かって大声で叫んだ。
「死にたくなければ近づくな。僕やこいつから離れろ!」
動けなかった人々が慌てて散るのを確認してから、フランツは顔に飛び散っていたジョーの血痕を片手で拭い、血のついた手のまま髪を掻き上げる。
ここで暴れたらどうなるだろう。
宰相秘書官室長はクビだな、たぶん。
でも……許せないものは許せない。
いまここにいるのは、怒りを抑えきれない一人の精霊使いだ。リッツじゃないけど、肩書きなんて糞食らえだ。
ちりちりとホールに掛けられていたいくつかのランプの炎が、フランツの怒りに共鳴する。炎の力は満ちている。
「お前を……僕は絶対に許さない!」
フランツは両腕を前に突き出した。
力を祈りに込めて両腕を左右に開く。胸の前に両手いっぱいの炎の球が生まれた。ロイドの目が、限界まで見開かれる。
「精霊使いだと!? 軍人でもないお前が!」
「そうだ」
「戦場でもないのに、こんな場所で精霊を使っていいと思ってるの……」
「行け、炎の球!」
問答無用にフランツは炎の球を放った。炎の球はロイドの右肩をかすめて、髪と肩を燃やしながら吹き飛び、奥の壁にぶつかって爆発した。
「ひ、ひぃっ……」
「外したか……」
燃え上がった髪の火にパニックに陥ったロイドの喉から無様なうめき声が漏れる。
恥も外聞もなく、ロイドはフランツに背を向けて逃げ出した。
「許さないって……言っただろっ!」
間髪を入れずフランツは両腕を開き、炎を出現させる。
「焼き尽くせ、炎の矢!」
フランツの両手から放たれた炎の矢は、容赦なくロイドの背中に突き刺さった。炎の矢は爆発を繰り返しながら容赦なくその体を焼く。
「うわぁぁぁぁ! たすけて、たすけてくれぇぇぇぇぇぇ!」
体中を炎に巻かれながら、ロイドがのたうった。
「熱い! 焼け死ぬ! 誰か、誰かぁぁぁぁ!」
もう一撃で殺せる。
そう分かったギリギリの線で、フランツは唇を噛んだ。
今は有事ではない。それなのに王城で人を殺してしまうのは問題がある。ここは国王陛下のおられる王城だ。こんなくだらない奴の血で汚すわけにはいかない。
誰もが固唾をのんで見守る中、フランツはジャンを呼んだ。
「ベイル中尉」
「はっ!」
「死なないうちに逮捕してくれ。叩けば火が消える」
「了解! でもジョーは……」
「応急処置はする」
「でも、あんなに血が……」
めずらしく動揺するジャンに、フランツは頷いた。
「大丈夫だ。それより消さないと死ぬ」
「はっ!」
慌ててジャンがロイドに駆け寄り、脱いだ上着でロイドの火を消している。火傷の跡は残るだろうが、一命は取り留めるだろう。官僚の制服は意外と丈夫で、あのぐらいの攻撃なら防ぐことが出来る。
フランツはジョーの元にかがみ込んで、軍服を開けた。脇腹にナイフが刺さったようだが、内臓まで達した怪我ではない。中から何かが飛び出している様子はなさそうだ。ただナイフは広範囲を傷つけていて、出血がひどすぎる。
「止血、止血……」
頭の中で今まで読んできた医療関係の資料を思い出す。するとアンナの顔と、軍の研修医を務めていた当時のアンナが持っていた本を思い出した。戦場での応急処置が適切に書かれていた実用書だ。
医療で役に立つ本を貸してくれといった時、アンナがすぐに出してきたのがその本だったのだ。
内臓まで達していない怪我で、止血することが出来ない部位の場合、傷口を焼けば血管が縮んで血が止まると本には書かれていた。
「……ふ、らんつ?」
意識を取り戻したらしいジョーに呼ばれてフランツは顔を見た。
「大丈夫、だった?」
「ああ。助かった。ありがとう」
「よかったぁ……」
安堵したようにジョーが微笑んだ。
この期に及んでフランツの心配をするジョーに、フランツは何ともいえない申し訳なさを覚えた。まさか秘書官室のごたごたに巻き込んでしまうとは思わなかったのだ。
「少し荒療治になるけど、命に関わるから止血する。いい?」
「死ぬより、いい」
「それはそうだね」
フランツはジョーの体を少しだけ抱き起こす。こうした方が傷口が小さくなる。小さい方が焼く範囲も狭くてすむ。
「きつい?」
「ちょっとね」
「これ、耐えられる?」
フランツが握った片手をゆっくりと開くと、そこに小さな炎の塊が生まれた。治癒魔法がない時の炎での止血は戦場では一般的だ。当然ジョーも知っていた。
「うわぁ……きついなぁ……」
ジョーが微かに顔を歪めた。
「僕もきついと思う」
「でもフランツが加減してくれるんだろ?」
「当たり前だ」
「へへ。なら、大丈夫。信頼してるから」
かなりの痛みのはずなのに、ジョーはまっすぐにそのブラウンの瞳でフランツを見つめた。
今まで見つめ合ったことなど無かったのに、その瞳にフランツへの信頼がはっきりと見て取れて、胸を突かれる。
こんなに近くに、こんな風にフランツに命を預けてもいいぐらい信用してくれる人がいるとは、思わなかった。
「ありがとう」
色々な意味を込めてそういうと、ジョーはいつものようにへらっと笑った。
「死んじゃう前に、お願い」
「当然だ。君を死なせたりしない」
気絶したロイドを担いでそばに来ていたジャンが、悲鳴に近い声を上げた。
「ルシナ室長! まさか……焼くんですか!」
「ああ」
ジャンが青ざめた。
「医務室まで距離がある。もうかなり出血しているからこれで止めるしかない。大丈夫、内臓まで達してない」
血にまみれながら傷口を片手で押さえつつ炎を構える。
「ジョー、行くよ」
「うん」
痛みをこらえつつ目を閉じたジョーの傷口にゆっくりと手のひらの炎を近づける。近すぎると無事なところまで焼いてしまうから、慎重に傷口だけに当てなければならない。
ゆっくりと傷口に近づけると、炎が傷口を焼く嫌な匂いと煙が上がった。悲鳴をこらえてジョーが必死に縋り付こうと両手を伸ばした。
痛みに全身を振るわせるジョーの苦痛を少しでも和らげたくて、炎を少しづつ押しつけながら、フランツは伸ばされた両腕を自分の首筋に絡めさせた。
痛みに耐えるジョーがしっかりと首筋に抱きつく。
「動かないでくれ」
動かれると、火傷が広がってしまう。
頷いたジョーだが、痛みに体中の力が入って震えている。そんなジョーの背中を、空いた手で優しく撫でる。必死で縋り付き、痛みをこらえるジョーの苦痛が、自分の苦痛にも感じられて辛い。でもこうしなければ出血でジョーを失ってしまう。
それだけは絶対に嫌だ。
ジョーを失うなんて考えられない。
しばらくして傷口からの出血が止まった。綺麗だった肌は見る影もないぐらいひどくただれてしまったが、思ったよりは少しですんでほっとする。
「……終わったよ」
声を掛けると、ジョーがほっとしたのかぐったりとフランツの腕の中で意識を失った。その重みに耐えきれずフランツはひっくり返る。もともとフランツには力も体力もない。
「……格好悪いな、僕は」
ジョーに潰されつつ大の字になって、思わず天井を仰いで呟いた。
「体力ないし、これじゃクビだし……無職になって、壁の修理費を請求されたらどうしよう……。どうして僕はいつも、こんな役回りばっかなんだろう……」
「大丈夫ですよ。格好いいですよ、ルシナ室長」
同じように力が抜けたのか、ジャンが隣に座り込んでしまった。
「よかった……。ジョーが助かって本当に良かった」
ジャンの呟きに、フランツは目を閉じる。ジャンは本気でジョーを愛している。軍学校の間からずっとだ。こんなジャンの愛情に、今更ジョーの大事さを実感してしまったフランツがかなうわけがない。
馬鹿だなぁ、と思うのだ。
ジョーが大切な家族だと、いつの間にかそう思っていた。仲間じゃなくて、友達でもなくて、ジョーは家族だ。
言いたいことを言い合えて、それでもお互いにずっと信頼をし続けられる。それはもう、ジョーが大切な家族だったからなのだ。
だからジョーには、家族としてフランツの一番近くにいてくれなくては困る。
フランツの大切な人として、談話室でごろごろしながら、馬鹿を言ってくれなくては困る。
フランツ相手に無邪気に笑って、つまらないことで突っかかってきてくれないと困る。
ジョーがいないと困る。彼女がいないと、いったいどこで本を読めばいいのだろう。
二人きりの談話室で、フランツは本をめくりながら、暖炉の前でだらしなく寝そべってうとうとするジョーを見る。
柔らかそうな髪が呼吸に合わせてゆっくりと揺れていて、それが何だかとても気持ちよさそうで、それだけで満たされたような気持ちになるのだ。
あの何気ない時間は、フランツにとってどうしようもなく大切だ。
なのに他人として、ジャンのところに行けと言ってしまった。
今回のことでジョーも男との関係を見直すに違いない。そうなればジョーを愛し、ずっと大切に出来るのはジャンであることにきちんと気がつき、ジョーもジャンを愛するようになるに違いない。
きっとジョーはジャンと幸せになるだろう。
しまった、早まった……。
動きを止めていた人々の輪の中から、一人の男が悠然と歩み寄ってきた。見覚えのある姿に、力が抜ける。
「リッツ……」
「なあにやってんだ、お前は。ぶつぶつと愚痴を垂れて。官僚になったら炎は封印しておくって言わなかったか?」
「……いたなら助けてくれてもいいのに」
「悪いな。俺はアンナだけの正義の味方なんだ」
「はいはい」
「というのは冗談で、お前を捜してたんだよ。先に秘書官室回ったらいなくて、追いかけて来たら炎の球が大爆発したのが見えてな。お前じゃねえかと思って走ってきたんだよ」
「そう」
「間に合えば助けたが、事が済んじまってたってわけだ」
そういうとリッツはあっさりと、気を失ったジョーを抱き上げた。ジョーの重みがなくなったフランツも、よろめきつつ立ち上がった。
「全く無茶をする。お前もこいつも。相手が怪しければ必ず剣を抜け、相手が怪しい動きに出た時は切り捨てる勢いで剣を向けろと教えておいたのにこのざまか。攻撃は最大の防御だと何回言えば覚えるんだ。精神修養が足りねえよ」
ため息混じりにそういったリッツが、ジャンを見た。
「ジャン、そいつも医務室行きだ。運んでやれ」
「……アルスター教官?」
「おう。久しぶり」
「きょーかーん……」
「情けねえ面するな。人混みだからって護衛対象から離れすぎだ、馬鹿。もう少し近くから護衛し、ジョーと二人で挟み撃ちするぐらいの機転を利かせろ!」
「はい」
「犯人背負って医務室へダッシュ!」
「はいっ!」
リッツに怒鳴られて、あたふたとジャンが完全に意識を失ったロイドを背負って走っていく。
ジョーの師匠であるリッツは、ジャンにとっては怖い鬼教官なのだった。そんな教え子の姿を見ていたリッツがフランツを振り返った。
「良かったな。軍医局にアンナがいるぞ」
「アンナが……?」
「ラッキーだったな。女子にその傷は辛すぎる」
それを聞いて力が抜けた。ひどい応急処置をしたが、アンナがいれば適切に処置をして治癒魔法で治してくれるだろう。
せっかくの綺麗なジョーの肌に、ひどい傷跡を残したくない。何しろクレイトン邸の次期当主でこれから本当の相手を見つけようとしている、嫁入り前の大事な体なのだ。
安堵のあまりよろめくと、リッツが腕を支えてくれた。
「お前がここで倒れても俺は運ばねえぞ」
「分かってる」
「行くぞ」
「ああ」
促されてフランツはリッツの後について医務室へ向かった。近衛隊舎に行かねばならないなと一瞬仕事が頭をかすめたが、家族が優先だ。
命を狙う手伝いをした奴の仕事など、リッツではないが『くそ食らえ』だ。
一息つくとフランツはまたリッツの後を追った。