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背中合わせの親愛<3>

 フランツの仕事量はすさまじい。

 ジョーは今日一日でぐったりと疲れて、シャワーを浴びた後に自宅のソファーに沈没していた。フランツの護衛になってまだ一日なのに、何だかもう、うんざりしてきた。

 ジョーとジャンの二人の役回りは、簡単だった。ジャンはフランツから少し離れて室外から犯人を突き止めるべく周りに気を配る。ジョーはフランツの少し後ろにいて常に気を配り護衛するのだ。

 そうなるとジョーは、はからずしてフランツの一日の仕事を目の当たりにすることになる。

 まずフランツは昨日部下たちが片付けた書類の決裁を、すさまじい速度でこなしていく。手と目はせわしなく動いているのに、体が全く動かない状態で数時間を過ごすのだ。

 それが終わると本日の決済や、宰相への直訴状を簡略にまとめて書類にまとめる。読み終わった書類と直訴状は、みな同じ様式の紙に書かれており、それを手際よく綴り紐で縛りファイリングしていくのだ。

 そんな作業の合間に、他の部署から苦情を言いに来た人々の相手をする。

 一方的に自分たちの書類の正当性と、フランツの判断能力を責める人々に、書類を揃えてきっちりと反論し、ぐうの音が出ないほどに理論的に克つ冷静に相手を追い詰める。その間当然ながらフランツは言葉を荒げることはせず、ただ淡々と無表情に簡潔に語っていく。

 だが誰も気がついていないようだが、眼鏡の中の青い目は、相手に挑みかかるように青く燃えている。その目を見る度にフランツが激しさを内に秘めた、炎の精霊使いであることを思い出す。

 フランツはこのことを全く公言しておらず、彼が精霊使いであることを知っているのは軍学校一期から三期生だけだ。軍学校の生徒は初期のキャンプで、エドワードに欺され、フランツの炎に焼かれまくったのである。

 宰相であるシャスタは当然知っているが、上司の補佐官、参与、そして直接の職場である宰相秘書官室では誰も知らない。フランツは仕事と関係ないことは、完全に置き捨てているのである。

 アンナもフランツも王国屈指の精霊使いでありながら、精霊使いとは別の道を黙々と歩んでいる。何だかそんな二人が少し格好いいと、剣しか能のないジョーは一時期とても羨ましく思っていた。

 何だか自分が足りない人間に感じられたのだ。だが師匠のリッツもそれで悩んだことがあると聞いて少し安心した。一つしか才能がないなら極めればいいかと思ったのである。

 その後もフランツの仕事は続く。

 苦情を受ける仕事をしながらも、フランツの仕事はまだまだ進んでいく。下から回ってくる文書もあれば、宰相など上から回ってくる書類もある。フランツにとってはこの上からの書類の方が苦痛のようだった。

 現在の参与はフランツをよく思っていない。フランツがここまで若くして出世してきた理由を、グレイグとの付き合いのおかげだと最初から決めつけている人物なのだ。

 だから護衛を務めるジョーにも、一々嫌味なことを言う。

 フランツとジョーが同居していることは、秘書官室では有名だ。何しろ性格の総てが正反対の二人だし、片や官僚、片や軍人。仕事まで正反対だ。この二人の同居は、真面目な官僚である秘書官たちにとって、楽しい話題なのである。

 だが参与にとっては、腹立たしいことこの上ないようだ。友として王太子グレイグを持ち、同居人は王国で十指に入る女性剣士。これなら出世もするだろうというのである。

 参与の口からフランツに対してはき出されたのは『愛人に護衛させるとはいい身分だな、ルシナ室長』という言葉だった。怒りに思わず参与を殴りつけてやろうと思ったのだが、気配に気がついたフランツに片手で軽く制された。そしてフランツの口から出た言葉に、ジョーの方が肝が冷える。

「愛人に秘書をさせる方にはかないません」

「室長! 私を愚弄するか!?」

「……心当たりがおありでも?」

「くっ! この鉄面皮が!」

 参与は扉を荒々しく閉じて部屋を出て行き、秘書室の全員がクスクスと笑いに包まれた。

「室長、言い過ぎですよ」

 ディケンズが笑うと、フランツはディケンズを一瞥して書類に目を戻す。

「書類を片付けたまえ」

「了解しました」

 笑いを残したままディケンズは書類に目を落とす。

 一日いただけで分かったのだが、年齢も性別もバラバラな、たった十人ほどのこの宰相秘書官室には、フランツの敵はいないようだった。フランツは敵対する相手には厳しいが、共に仕事をする人間にはきちんと向き合っているようなのだ。

 ただし仕事に関しては甘くない。ミスを見つければ書類を作成した秘書官を呼び出して、簡潔に間違いを指摘し直させる。それは小さなミスでも変わらないのだという。

 同じミスを繰り返せば冷たい言葉の一撃が落ちてくるのも全員分かっているから、最大限の注意を払って彼らは仕事をする。

 だがその冷たい一撃も決して相手を罵倒するものではない。『政務の頂点に立つ宰相閣下を支えるための秘書官が、こんなつまらないミスをしてはならない。我らの過信や慢心が、国の政務に関わることになりかねないことを肝に銘じておくように』という意味のことをいうのである。

 フランツは官僚としては確かに一流だ。でも一日中そこに立ち、色々な部署のフランツへの罵詈雑言を聞き、書類ミスを怒られる官僚を見ているのは、苦痛以外の何者でもない。

「あ~、疲れた」

「ならやめれば」

 唐突に後ろから声を掛けられて飛び起きた。洗い髪を拭いたそのままのぼさぼさ頭で眼鏡を掛けたフランツが、本を片手に立っている。宰相秘書官室にいた時とはまるで別人だ。

「僕は護衛なんて頼んでない」

「だ~か~ら、宰相閣下からの依頼なんだってば」

「たいしたことじゃないだろうに」

「たいしたことでしょうよ。命狙われてるんだからさ」

 いいながらごろりとソファーに身を投げ出すと、フランツも自分の指定席に座り、背もたれに寄りかかってぱらりと本を開く。いつもの光景だ。

 そんな姿が、何だか久しぶりに感じた。

 ……いや、本当に久しぶりだ。

「フランツ! 引っ越し!」

 思い出して言うと、フランツはため息混じりに本を閉じた。

「忘れてるかと思ったのに……」

「忘れないってば! どうして引っ越すのさ!」

「下宿しなくても生活が成り立つから」

「……それだけ?」

「それ以外に、理由いる?」

 真面目に聞き返されてジョーは口ごもった。

「え……だって、私に身を固めろって……」

「君の生活は破綻してるからね」

「破綻って……」

「前々から一度言おうと思っていたんだけど、このままじゃ君はただの男好きだ。君の想いは誰も知らないんだから」

「ううっ……」

 あまりな言葉に思わず呻くと、フランツは当然のように言い放った。

「さすがはリッツの弟子だよ。もう少し自分を大切にした方がいい」

「あ~……」

 思わず呻いてしまった。師匠のリッツはアンナと出会うまで、寂しさに女を際限なく求めて、周りの人々から女好きの称号を与えられた男だった。

「師匠と一緒にしないでくれよ。私はちゃんと恋愛してます」

 ふてくされていうと、フランツはため息をついた。

「出会ってすぐに関係して、それですぐに別れてって、恋愛?」

「うっ……」

「リッツと変わらないと思うけど?」

「ううっ……嫌だなぁ、師匠と一緒って……」

「だからもう少し自分を振り返って、ちゃんと相手を探した方がいい。君が信頼できるなら、ベイル中尉と、話し合ってみるのも手だと思うけど?」

「でもジャンは『この人』じゃないんだってば」

「……そもそも『この人』って何?」

 フランツに不審そうに聞かれて言葉に詰まった。それはジョーの直感であって、感覚のようなものだ。人に聞かれてこういうものだと説明することが出来ない。

 ふと顔を上げると眼鏡の向こうの青い瞳と目が合う。困惑して顔を逸らしてしまう。

 『この人』という感覚は、フランツに抱かれた時に分かった。だけどそれをフランツにはいえない。何しろあれは事故だし、お互いに忘れた方がいい事だ。だけど何とか『この人』という感覚を伝えたくて口を開く。

「分かんないけど……触れ合うと暖かいの……その……心とか……」

「心?」

「そう。なんていったらいいのかな……。運命、みたいな?」

 曖昧に言葉を濁すジョーに、フランツはため息をつく。

「今まで『この人』って感じたことあるの?」

 ジョーは俯いて唇を噛んだ。

 フランツだけだ、といいたいけれど、事故で終わっている二人の関係を、また持ち出してはいけない。こじれたらフランツは、ここを出て行ってしまう。

「無いんだね」

 あっさりとフランツが、ジョーを誤解してそういった。少しがっかりしながらも、かなりほっとして頷く。

「いないから探すんじゃん」

 投げ出すようにいったジョーに、フランツの短い言葉が投げかけられる。

「体で?」

「え……」

「体で見つけられるの?」

 思わぬことを言われて思わず固まった。

「僕は、そこが根本的に間違っている気がする」

 そういうとフランツは珍しく、指定席から立ち上がってジョーの目の前に座った。

「出て行くからいわせて貰うけど、僕にとって欲望と愛情は別のものだ」

「え……?」

「アンナや、リッツみたいに愛があるから抱き合いたいという感情が僕には分からない。リッツに欺されて娼館にいった時も、目の前に娼婦がいて逃れられないなら仕方ない、欲望を処理してやろうと普通に思ったし」

「……フランツ?」

 何だか聞いたことのないフランツの暗いサイドに引き込まれたような気がして怖くなったが、聞かずにはいられなくて思わず姿勢を正す。

「アンナに聞いてるかも知れないけど、僕が育ったのは父親の囲った女たちの住む、欲望と権力闘争が渦巻くハーレムだ。僕は子供の頃から、女たちの欲望はのし上がるための武器なのだとしか思えない状況で育ってきている」

 言いながらフランツは、まるでそこに何かが書かれているかのように、古い革張りの本の表紙を撫でている。

「僕の愛情は今のところ仲間や妹に向いているけど、愛欲を持ったことがない。愛しているから抱きたいと思えない。欲望は道具で、感情から切り離しておいた方が便利だと思ってる。そんな風だから僕は歪んでいる。君とはきっと違った意味で」

 静かにそういったフランツは、長めの前髪を掻き上げた。整った顔立ちなのに、目が暗く沈んでいるから決して美青年に見えない。

「君を抱いた時も、僕はいつものように感情を捨てて欲望だけで触れた。欲望しか無ければ、僕は家族だと思っていた君であろうと抱くことが出来る。僕はそれぐらいおかしい」

 手が所在なげに本に触れている。ジョーもどうしたらいいのか分からない。一緒に暮らすようになって十二年経つのに、フランツに個人的な話を聞いたのは初めてだ。

 ジョーとフランツには、決定的な心の距離があったのだ。きっとこのことは、リッツもアンナも、エドワードも知っているのだろうなと、何だかそれが寂しく感じる。 

「だけどそういう男も世間にはいると思う。僕のようではなくても、リッツのように愛と性欲を完全に分けられるタイプもいる。そういう相手には、君のようなやり方は通じない」

 そういうとフランツはジョーを見つめた。

「妙なことを言い出したと思う?」

「……ううん。何となく分かる。私、何か勘違いしてる?」

「それは分からない。君は愛情を確認するのにわざわざ相手と寝る。それ自体が愛であるかのように身を任せては、絶望する。僕はそんな君のやり方が疑問だ。愛情ってそんなに簡単な物なのか、それをよく分かっていない僕には、本当は何も言えない」

 そういうとフランツは小さく息をついた。

「君はもう二十二歳で、軍においてもきちんと評価されている遊撃隊員だ。もうそんな風に刹那的な生き方をするべき時じゃない。君にとって大事な人が誰か、どうしたら本当に大事な人に出会えるのか、それを考える時だと思う。アンナとリッツみたいに運命の出会いがあって永遠に離れることがない絆があるなんてことは普通に生きてたらある事じゃない。それでも君が『この人』を探すなら、もっと君らしいやり方で『この人』を探せるように考えたらいい」

「うん」

「そして僕は二十八だ。三十に手が届いてしまう立派な大人なんだ。これ以上エヴァンスさんの好意に甘えず一人で生きるべきだと思っていた。君と関係を持った時に、ちょうどいいタイミングだと思ったんだ」

 そういうとフランツは静かに立ち上がった。視線がフランツを追うと、フランツは窓際に立ちガラス越しに外を見た。

 フランツの手が暗い窓ガラスにそっと掛けられ、その姿が窓ガラスに映った。

「僕も君も、ここにいるのが普通だと思っているからどことなく甘えがあった。擬似的な家族のように感じてた。でも甘えの中でだらだらと同居していくのはお互いにおいてもいい事じゃない。自分の道があるのだから自分の足で立って、歩かないと駄目だ」

 そういうとフランツが振り返る。

「だって僕たちは所詮、他人なんだから」

 胸を突かれたような気がした。

 そうだった、フランツとは他人なのだった。出て行くというなら出て行かないでと止める権利は、家族でも恋人でもないジョーには一つもないのだ。

「だから引っ越すよ。ベイル中尉との約束だからもう少しはこの家にいるけど……でもジョー、一月待たなくても、答え出ただろう?」

「うん……」

 所詮他人……。

 ジョーは伸びをするふりをして、両腕を上げて顔の前で止めた。腕でまぶたを押さえる。ほどよく冷えた腕が冷たくて心地いい。

「僕はもう寝るから。お休み」

「うん。お休みフランツ」

 フランツが部屋を出て行くのを待ってから、ジョーはそのままの体勢で小さく呟いた。

「他人かぁ……そうだなぁ……他人だったんだよな、私たち……」

 分かっていたはずなのに、十年以上の間あまりにも近くにいすぎて忘れてしまっていた。

「体じゃなくて心で相手を探せなんて、無責任にもほどがあるよフランツ。心ならもう……フランツのところに行っちゃってる」

 他人なのだといわれてハッキリ自覚した。

 他人じゃなくなりたかった。

 ずっとずっとフランツと……本当の家族になりたかった。

 喧嘩しても、怒鳴り合っても、いつも何となく仲直りすることが出来た。嫌なことがあっても、こうして談話室でだらだらしていればどちらかが気がついて、何となく愚痴を言い合った。

 解決策を提示されるわけではない。ただ聞いてくれる。それだけで気が楽になった。

 お互いの嫌なところも、いいところもさらけ出して十年もの長い間ずっと一緒に暮らしてきた。そこにお互いがいるのが普通になっていて、いないと不安で寂しかった。

 ジョーが自分の地をさらけ出しても、フランツは平気な顔をして冷静沈着に言い返してくる。フランツは決して気を遣って愛想笑いを浮かべたりしないから、ジョーは自分の間違いを自分で悟り、謝ることを覚えた。

 アンナやリッツがいる時は、二人のごたごたに一緒に巻き込まれて、共同戦線をはってリッツに対抗してきた。そんなときは妙に気が合った。

 一緒にいることが当然で、いないのがジョーにとっては不自然だった。まだ二十二年しか生きていない人生の半分以上を、一緒に過ごしたから、このままずっと一緒にいられるんだと思っていた。

 両腕でまぶたを押さえているのに、涙が溢れて頬を伝った。

 『この人』って何かも分かった。

 ジョーはずっと好きだといってくれる人だけを好きになっていた。それは嫌いになられるのが怖かったからだ。好きだといってくれる人を好きになれば、最初から相手に弾かれることがない、それが楽だった。好きだといってくれる人を好きになれば、多少の我が儘を言っても、好きが続くかも知れないと思っていた。

 だけどたった一人の『この人』は、ジョーを好きになってくれる人ではなく、ジョー自身が好きになった人だったのだ。

 だから自分でも気がつかなかったけれど、フランツに抱かれて本当に嬉しかったのだ。ようやくジョーが本当に好きだった人に抱かれたのだから。

「アンナ……帰ってきてよ……」

 弱音が漏れる。

「話がしたいよ、アンナ……。どうしたらいいのか教えてよ」

 呟くとふとアンナの笑顔を思い出した。アンナはきっとこう言うだろう。

『ちゃんと話して気持ちを伝えた方がいいよ』と。でもそうするには勇気がない。終わりにされた想いをどうやってまた持ち出すのか……。その方法が分からない。

 だけどフランツが出て行くというのだから、出て行くその日にきちんと気持ちを伝えればいいかもしれないと思いついた。そうすればお互い気まずくなることを気にして口をつぐむ必要が無くなる。

 特別遊撃隊と宰相秘書官室長。この二つの職場は遠くて、家が違う二人は滅多に会うことなど無くなるはずだからだ。

 ジョーは涙をぬぐって立ち上がった。

 とにかく今泣くのはやめておこう。ジョーにはフランツを守る護衛の仕事がまだ残っている。ちゃんとそれをこなしてから泣いても遅くない。

 護衛の仕事が終わって、一人になってから、この広い談話室でたっぷり泣こう。

 フランツの指定席で、フランツのことを考えて。 

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