10th アニバーサリー<7>
なんだかすごくいい夢を見ていた気がする。
そう思って目を覚ました時、リッツは一瞬どこにいるのか分からなかった。しばし考えてからようやくここがヴィシヌの孤児院であることを思い出し、次に昨夜のことを思い出し飛び起きる。
隣にアンナがいない。
記憶を取り戻してこの部屋にやってきたアンナと、一晩一緒に過ごして抱きしめたまま眠ったというのにそこにはアンナの影も形もない。
アンナと一緒に過ごしたことを思い出したからここが自宅だと錯覚したのだと気がつき、あわててカーテンを開けると、日の光はずいぶんと高い。どうやら今日は子供たちに農作業に起こされなかったようだ。
呆然としたままベットに腰掛けたが、布団をはねのけてしまったせいで寒くて、慌てて着る物をあさった。昨日ストーブの周りに干した服はすっかり乾いている。
服に袖を通そうとした瞬間、妙な恐怖感が迫り上がってきた。
リッツは確かに昨夜アンナと過ごしている。記憶もあるし感覚も残っている。でもこれが夢だったら……。
部屋の中を見渡してもアンナがいたという証拠なんてあるわけがない。
アンナと一緒にいたくて、アンナに名前を呼んでほしくて、アンナを抱きたくて都合のいい夢を見てしまったんだとしたら現実を突きつけられるのは辛すぎる。
もし下に降りていってアンナに会った時、普通に「おはようございます、リッツさん」とかいわれてしまったらどうしよう。
そう思うといても立ってもいられず、上着の一枚に腕を通しただけで部屋から駆けだしていた。
まさかあんなにリアルな手応えがあるのに、夢なんかではないだろう。いやでも寒かったし眠かったから夢だったのかも。色々な感情が交じり合い、不安が増す。
階段を駆け下り、食堂の扉を勢いよく開くと、子供たちの目が一斉にリッツに注がれた。みんな目を丸くしているのだが、リッツはそれどころではない。
食堂を見渡しお目当てのアンナを見つけてそこから目が離せなくなる。あまりにもいつも通りであまりにも普通だ。記憶のないアンナとあるアンナのどちらもここにいる場合区別がつかない。
「アンナ……」
ようやくのことで、アンナを呼ぶ。
「アンナ、あのさ、その……」
昨日の夜に記憶を取り戻して、俺と一晩過ごさなかったか? とは直接的すぎて聞けない。もし違っていたら、夢だったりしたら目も当てられない。だが現実であってほしい。
じっと見つめるとアンナがすました顔でにっこりとほほえんだ。
「おはようございますリッツさん。朝ご飯出来てますよ」
一番最悪の言葉に、リッツは力が抜けた。こんなところでここまで来て、目の前にこの純粋無垢のアンナがいて、それなのにアンナを抱く夢を見てしまうなんて、本当にもう駄目男だ。がっくりと肩を落とすと、アンナが歩み寄ってきて、シャツのボタンを留め始めた。
「子供たちの前でだらしない格好をしないこと。約束でしょ?」
小声でそういったアンナの口調は純粋無垢な世間知らずのアンナではなく、紛れもなくリッツの妻であるしっかり者のアンナ・アルスターだった。自然に頬が緩んでしまう。
一番上のボタンを留めたアンナが、そのままシャツを引き寄せてリッツへ優しくキスをしてくれた。
間違いない、アンナだ。
リッツのアンナだ。
「おはよう、リッツ……っ! ちょ、何!?」
こらえきれずにアンナを横抱きに抱き上げると、キスを返してからリッツはアンナをぎゅっと力を込めて抱きしめた。アンナの甘いにおいがする。
たった一人の大切な大切なリッツの妻。
「おはよう、俺のアンナ」
「ん……」
いつも通りの暖かな腕の中でアンナは目を覚ました。シアーズの冬はヴィシヌほどではないけれどやはり寒い。だからこうして暖かなリッツの腕の中にいるとベットから出るのが惜しくなってしまうのだが、起きないことには仕方ない。
記憶喪失から元に戻ってシアーズに戻ってきたのは数日前だ。何だかみんな夢の中の出来事だったみたいに不思議な気がする。
帰ってからすぐに訊ねたクレイトン邸では、ジョーが涙ぐみながら出迎えてくれて、みんなにどれだけ心配させてしまったのかよく分かった。
なんと言ってもあのフランツでさえも、大きく安堵の吐息を吐き出してうなだれたほどだったのだから。
その姿、フランツを鉄面皮だなんて言ってる文官の人たちに見せてあげたいとこっそり思ったのはフランツには内緒だ。心配してたのにそんなことを考えているのかと怒られてしまうのは分かり切っている。
こんな風に心配させてしまうのは本当に申し訳ないけれど、でもきっと同じ状況になったらまた子供を助けてしまうんだろうなと思うと、懲りない自分が何だかおかしい。
でもきっとリッツはそんなアンナを許してくれるだろう。
だって幾度記憶を失っても、アンナはもう一度リッツ・アルスターという、どうしようもない寂しがりな年上の男に恋をしてしまうのだから。
だから記憶を失ってしまってもアンナを遠ざけず、近くに置いていてほしい。それだけは絶対に忘れないでと、記憶を取り戻した夜にリッツに告げてある。
そっとリッツの腕から抜け出して寒くないように布団をそっと掛けた。枕元にたたんであった服を身につけると、静かに隣の部屋に移動する。
ここ数日は迷惑をかけた皆さんにお礼回りをしていたのだが、今日は何にもない予定だから、久々にリッツと二人のんびりとするつもりでいる。
のんびりするためには、美味しくて満足できる朝食が必要不可欠だ。特にアンナとリッツの夫婦の場合は。
「朝ご飯、何にしようかな~」
鼻歌交じりにリビングの椅子にかけてあるエプロンをとろうとすると、テーブルの上に乗っている小さな箱に気が付いた。昨日寝る時まではそこに何もなかったはずだ。そしてその箱の下には、一枚の紙が置かれていた。
箱の下から紙を取り出して広げると、性格とは正反対のリッツの綺麗な字が並んでいた。
『おはようアンナ。俺からの記念日のプレゼントだ。お前が記憶喪失に何ぞなるから渡しそびれちまった。指輪と同じであれだけど、お前にはやっぱこれが似合うような気がする。改めて俺と出会ってくれて、結婚までしてくれてありがとうな。これからも色々あるだろうけど、見捨てないでくれよ、奥さん』
冗談で締めくくられたその手紙を置き、小箱を開けてみる。その中には普段使いも出来そうなさりげなくて、でも少ししゃれたデザインのネックレスが入っていた。
そこに輝く石は、アンナの瞳と同じ色のエメラルドだ。
アンナはそっと自分の左手の薬指を見つめる。そこにあるのは五年前、リッツがゼウムとの最前線の街シュジュンから大剣を部下に託して戻った後で、アンナにプロポーズしてくれた時にくれた指輪がある。
その指輪に輝いているのもエメラルドだった。
あの時もリッツは、アンナの瞳と同じ色で似合うと思ったといって、照れくさそうに笑って指輪をはめてくれたのを思い出す。
五年経っても十年経っても、ずっとずっとそのことは忘れないだろう。アンナの気持ちが驚くほど変わらないぐらいに。
「リッツ!」
「ん~?」
扉を開けてベットに仰向けでほぼ大の字で寝ているリッツの上に飛び乗った。
「うわぁぁぁぁ、だからお前! 十年前にも寝起きの男に飛び乗るなと言っただろうが!」
布団の中でジタバタと叫んで暴れるリッツの上にそのまま倒れ込んで、リッツをぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう! とっても綺麗! 大切にするね」
「飛び乗って言うことか!」
「だってだって、嬉しかったんだも~ん」
「だも~んじゃねえだろ! 幾つだお前は!」
歳のことはあえて無視する。
「リッツ、大好き」
ぎゅっとリッツの胸に顔を埋めて言うと、アンナの抱擁に気がそがれたのかリッツは小さくため息をついて抵抗をやめ、アンナを抱きしめ返した。
「ま、いっか。お前のだし」
「なあに?」
「ん。愛してるよ、アンナ」
抱き寄せられて唇を塞がれてしまった。何だか誤魔化されたみたいだけど、幸せだからそれはそれで全然有りだ。
リッツがキスをしながらさりげなくアンナの服のボタンに手をかけた時、扉が激しく叩かれてダンが飛び込んできた。
「ボス、姉御! 依頼人だよ!」
「今日は休みだ」
リッツが無駄な抵抗を試みている。
「駄目だって、ボス! 緊急だってさ」
「ちっ、いい雰囲気だったのに。鍵かけときゃよかった」
ブツブツと文句をいいつつ名残惜しげにアンナのボタンをもてあそぶリッツの腕から、アンナはひょいっと身軽に立ち上がった。
ここで発破を掛けないと動き出さないリッツだということぐらい、十年でちゃんと分かっている。
「リッツお仕事しよう!」
「う~気が乗らねえ……」
「もうリッツは! ダン、お茶出しておいて。リッツにちゃんとさせたらすぐ行くから」
「了解!」
駆け出していくダンの背中を見送ってから、アンナはくるりとリッツに向き直って、弾むようなキスをする。
「さ、今日も一日頑張ろうね!」
「眠いんだけどなぁ」
まだぐだぐだと文句をいうリッツの両頬に手を添え、顔を真っ直ぐ見つめて、少しだけ声のトーンを下げて微笑む。
「お仕事しようね?」
「……へ~い」
観念したようにリッツが重い腰を上げて、のろのろと支度を始めた。これ以上となると朝から水浴びというお仕置きを食らうことを、リッツも十年のつき合い上よく分かっているのだ。
アンナはカーテンを開いて窓を開け放った。眩い太陽の光とディルが描く絵のように透き通った高い冬の青空が飛び込んでくる。
「ん~快晴!」
そしてまたいつも通りの日常が始まる。
そして二人は幸せに……あ、前回と同じことを!
鉄板の記憶喪失物、書くのは結構楽しかったです。
お次の主役は、お待ちかね(?)のフランツです。フランツの本編最終章で出てきた本名はフランツ・C・ルシナ。Cは……何の略でしょう?
そんな疑問を解決する、フランツの恋物語になります。
お楽しみに~!