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10th アニバーサリー<5>

 とりあえず外せない仕事は片付け、ヴァイス本部から街道沿いの支部に届ける配送品も受け取って、ようやくクレイトン邸に顔を出すことができたのはアンナの事故から十日も経ってからだった。

 毎日顔を出すといったものの、どうにも都合がつかず、結局あの日から一度もアンナに会わずじまいだったのだ。それはそれで少々寂しかったのだが、正直なところほっとしてもいた。

 毎日顔を見てしまえば、毎日記憶が戻らないかと期待してしまうような気がする。それはアンナにとって気まずい物になるだろう。

 幽霊のアニーに迎えられて顔を出したものの、アンナとジョー、フランツのいる談話室にすぐに入る気になれず、少々逡巡してしまったのだが逃れるすべもなく意を決して談話室に入った。

 そこには結婚前と変わらない光景があった。なんだか懐かしくて、時間が巻き戻ってしまったような感覚を覚えた。

 アンナとジョーは最近はやりの小物の話や、どんな服が好みでどの店が可愛いかといった、たわいのない会話を楽しみ、ソファーには、洗い髪のままの手入れもしていないフランツが、前髪に埋もれた眼鏡のまま本を片手にだらしなく寝そべっている。

 眼鏡にかかるほど長い前髪では益々視力が落ちてしまうとアンナは常々フランツに文句を言っていたのだが、フランツは意に関していない。

 小さく頭を振るとリッツは意を決して談話室に足を踏み入れ、そのまままっすぐにアンナの正面に腰を下ろした。

「よう」

 どういう顔をすればいいのか思い悩んでいたのが嘘のように、アンナの前で自然に笑うことができた。どんな理由があって遠ざかっていようと、アンナに会えれば嬉しいのだ。

 だがアンナの方は驚いたようで目を丸くしてリッツを見ている。

「だいぶ慣れたか?」

「はい」

「そうか。そりゃよかった」

 だがそういったアンナの表情はいまいち冴えない。やはり気を遣って疲れているのだろう。そんなアンナの頭にリッツは子供にするように優しくポンと手を乗せた。

「なあ、お前一旦家に帰らないか?」

「え?」

 アンナが困惑しながらリッツを見上げてくる。この街に慣れようと躍起になっている彼女にとって、その言葉はヴィシヌを指すようには聞こえなかったのだろう。リッツはアンナの疑問に丁寧に答えた。

「つまり俺はヴィシヌにお前を送っていこうと考えてんだが、どうだ?」

「ヴィシヌに?」

 今までの戸惑った感じとは正反対にアンナの瞳が輝いた。まじまじと見つめられたその瞳には、本当にいっていいのか、喜んでもいいのかと書かれている

 本当にいいんだという想いを込めて頷くと、アンナは嬉しそうに頬を赤くした。だがそんなアンナとは対照的に気色ばんで立ち上がったのはジョーとフランツだった。

 二人から見ればリッツのやろうとしていることは、アンナとの離別に他ならないからだ。

 フランツはリッツの立場から、ジョーはアンナの立場からリッツとアンナの結婚までのごたごたを見守ってきた。それなのに目の前でリッツがアンナに向かって別れようといっているように感じてしまったようだ。

「リッツ、本気か?」

「それってまさか……」

 もうリッツの中では完全に心が決まっている。動揺する二人にリッツは一切揺るぐことなく、軽く肩をすくめた。

「何だよお前ら。何か問題があるか?」

「……それはヴィシヌにアンナを置いてくるということだね?」

 小さく呻くように尋ねたフランツに、リッツは小さく息をついてからできる限り穏やかに語りかけた。

「ああ。その通りだ。この状況ならそっちの方がいい」

「でもアンナだよ?」

「……そうだな。この子はアンナ・マイヤースだ」

「あ……」

 それだけでフランツには分かったようだった。ここにいるのはフランツもよく知っている旅に出たばかりのアンナなのだ。

 そのアンナにとってこの街での暮らしも、リッツとの夫婦関係も重荷になることぐらい、同じく旅の仲間であったフランツにとっては推測できることだ。

 フランツは小さく呟くと力を抜いて頷いた。リッツも頷き返す。

「何? どういうこと? 二人で納得してないで教えてよ師匠、フランツ」

 噛みついてきたジョーにリッツは口を閉ざした。察してほしかった。そうしなければアンナの目の前で彼女を傷つけることをいってしまいそうだった。

 だがジョーはいくら言葉を濁しても聞き入れない。苛立ったが仕方なくリッツは呻いた。

「だからこいつはアンナ・マイヤースなんだよ。アンナ・アルスターじゃねえんだ」

 ジョーが小さく息を吸い込んだ。ジョーも出会ったばかりのアンナを思い出したのだろう。あの頃のアンナは本当に純粋無垢で、世界に悪い人なんていないと豪語できるほどに世界を信じていたのだ。

「何度も言わすな、馬鹿」

 そう呟くと、ジョーは唇をかんで俯いた。再びアンナの方を見ると困ったような、それでいて今にも泣き出しそうな顔をしてリッツを見上げてきた。喜んだ自分を責め、自分たちを悲しませる自分を責めているのだろう。

 そんなアンナにリッツは明るく笑って片目をつぶって見せた。

「仕事を終えてきたから、一緒にヴィシヌへ行こうぜ。アントン神父には連絡済みだ」

「お養父さんに!」

「ああ。ヴィシヌでゆっくりしながら今後のことを考えればいいだろ」

「いいんですか?」

 アンナが恐る恐る先ほど声を荒げたフランツとジョーを見てからリッツを見上げる。二人に申し訳ない、でも帰りたい。その感情で心が揺れているのが分かる。だがアンナはアンナの幸せを考えるべきだ。

「当たり前だ。ヴィシヌはお前の故郷だろ」

 リッツが力強くそう断言すると、アンナは救われたような表情を浮かべた。その瞳にもう一度微笑みかける。

「気が付いたら都会で、自分のやりたいことが変わっちまってるってのはキツいだろ。だったら記憶が繋がる場所に戻るのが一番じゃねえか?」

「はい!」

「で、気力体力を元に戻して、それから先を考えりゃいいさ」

「ありがとうございますリッツさん!」

 瞳を輝かせながらアンナがリッツの手を両手を取った。そこにあるのは完全に親切な他人に対する感謝の気持ちだ。それ以上でも以下でもない。

 それでもここにいるのはリッツの最愛のアンナなのだ。だからそっとアンナの手を握りかえしてから手放した。不思議そうな顔をしたアンナにあえて明るく語りかける。

「明後日には発つからな。ヴィシヌに土産を買っていくなら明日支度しておけよ。一週間以上はかかるだろうから、日持ちのするものじゃねえと駄目だぞ」

「はい!」

 明るく楽しそうな久々の笑顔に、リッツは心の底からこの選択が正しかったことを実感した。ただ、アンナの記憶が戻らない限り、もう二度とリッツとアンナが共に暮らすことはないだろうことも分かる。

 胸の痛みを抱えつつも、十日ぶりの再会の翌々日、二人は王都シアーズを後にした。

 いつもならリッツと同等に上手く馬を乗りこなすアンナなのだが、記憶のないアンナが馬に乗れないと思い込んでいるため、リッツの操る馬に二人乗りで乗せて行くことにした。

 ただでさえ二人きり、しかもこうして密着度が高いとうっかり気を抜いたらアンナに「記憶を取り戻してくれ」と泣きついてしまいそうなきがして、旅路では少々馬を飛ばした。馬になれたアンナは記憶を失っても馬から転げ落ちることはない。

 だがそんな自分が不思議だったようで、休憩しているときにアンナが馬に乗れたのかどうかを聞いてきたから、乗れたと教えた。

 どれだけ苦しい道のりになるのかと旅立つ前は心配したのだが、心の底から楽しくはしゃぐアンナを見ていると少しだけ気が晴れた。やはり落ち込んで人の顔色を見ているアンナなんてアンナらしくないのだ。

 アンナの前ではリッツは明るくて底抜けに陽気に振る舞った。表情を表に出さないことも、性格を装うことも元々得意な方だ。ただそれをアンナの前でするのは、ウォルター侯爵事件以後初めてだった。そのことが少々辛い。

 もしかしたらアンナとの旅がこれでおしまいかもしれないと思うと、アンナが望んでいるようにしてやりたくて、泊まる街々で一番美味しい食べ物に綺麗な景色を見せて回った。そのどれもすべてにアンナは素直に感動し、喜んでくれた。

 一度だけ息をするのも苦しい瞬間に出会った。

 ファルディナの街の外れにある高台の高級なレストランのテラスから地平線上に沈む夕日を眺めながらの夕食をとっている時、アンナに「どうして私の好きなことをみんな知ってるんですか?」と聞かれたのだ。

 一瞬だけ目の前が眩んだ。

 心の中で「お前を愛してるからに決まってるだろう!」と叫びつつも平静を装って苦笑してみせると、アンナは次の瞬間に自分が記憶を無くす前はリッツの妻だったことに気がついたらしく申し訳なさそうな顔をして俯いた。

 向かいに座っているアンナに手を伸ばし、頭に手を置いたがアンナは申し訳なさそうに俯くばかりだった。

 そんなアンナをごまかすために、ミニケーキの盛り合わせの一つをフォークで突き刺してアンナの前に差し出した。目を丸くしたものの差し出された物を無条件に食べる習慣があるアンナが口を開けた。それを見計らいその口にケーキを放り込んでやった。

「美味いだろ?」

 笑顔でそう言うと、アンナはこっくりと頷いて食事を続けた。申し訳なく思わなくてもいいという口に出さないリッツの意志を理解してくれたらしい。

 そんな心の奥が痛みつつも少しだけ楽しい旅は一週間と少しで終わりを告げ、夕暮れ時にはヴィシヌの村ににたどり着いた。

 幾度か訪れた村の様子は、ここ数年全く変わっていない。一応村のメインストリートに当たる道を歩いて行くと、突き当たりに夕焼けに染まる教会と隣接する孤児院が見えてきた。

 アンナがぐっと声を詰まらせる。見ると目を潤ませて教会を見つめているのが分かった。やはり彼女は帰りたくて仕方なかったのだ。リッツの選択は間違っていなかった。

 アンナに一言告げて孤児院の裏の厩に馬をつなぎに行き、帰ってきたときにはもう孤児院の入り口にアンナの姿はなかった。きっと今のアンナの一番大事な人、養父アントンの元へ弾むように駆けていったのだろう。

 重い足取りで孤児院の扉を開けると、人の気配がしているが玄関ホールには人影がなかった。そのまま誰に出会うこともなく二階へと上がる。

 この時間は孤児たちが食事の支度をしている時間だ。おそらく二階にいるのはアントンとアンナだけだ。

 アントンの部屋の扉は開け放たれていて、楽しげな声が漏れている。何となく自分が行くと邪魔なのではないかと妙に落ち込んだ気持ちで思っていたのだが、顔を出さないわけにはいかない。

 部屋の中をのぞき込んだ瞬間、アントンと目があった。アントンの腕の中にはしっかりと抱きついたアンナがいる。どう言葉を発していいのか戸惑いつつ立ち尽くしていると、アントンが穏やかにほほえんだ。

「久しぶりだね、リッツくん」

 アントンにはすべての事情を書き綴った手紙を事前に送ってあるから事情は分かっているはずだ。だがアントンの娘を守り通せなかったリッツにはいわなければならないことがある。

「お久しぶりです」

「ああ。元気だったかね?」

「はい。申し訳ありませんでした」

 正直にそう告げてリッツは頭を下げた。それが例え不慮の事故だったとしても、リッツにはそうやって頭を下げることしかできない。幸せにすると、必ず守るといっておきながらほんの数年でこれではどうしようもない。

 頭を上げられないでいると、やがてため息混じりにアントンがリッツに顔を上げるようにといった。

「娘の性格だ。仕方あるまい」

「……すみません」

「君にそんなに謝られると、あの子に怒られてしまいそうだ。リッツくん、もういい」

 アントンが言うあの子は今のアンナではなくて記憶をなくす前のアンナだった。

 確かにアンナはあの状況を黙って見逃すはずもない。育ての親であるアントンはそれをよく分かっているのだ。

「疲れたろう? ゆっくりしていくといい。さあ、食堂へ行こう」

 アンナとリッツ二人を気遣うように、アントンは優しくそう言って微笑んだ。

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