10th アニバーサリー<4>
ジョーに連れられて賑やかな市場から、数本奥まって飲食店の多い一角にやってくると、そこには『陽気な海男亭』と書かれた素敵な雰囲気の結構大きなレストランがあった。見るからに新しく、作られてから数年しか経っていない感じのお店だ。
村ではレストランなんて無かったから初めて見るそのたたずまいに心を躍らせていると、ジョーが案内してくれたのはその裏にあった二階へと続く階段だった。
「二階の半分は店主の家族が住んでいて、その残り半分がリッツの家ってわけ」
階段を昇りながら説明してくれるジョーに頷いていると、ジョーが先ほどリッツから受け取った鍵を使って扉を開けた。開ける直前に扉にかけられていたプレートが一瞬目にとまった。
『マイヤース ヴァイン事務所』
「ヴァイン事務所?」
「そ。リッツとアンナがやってる仕事。元は葉脈って意味だけど、今はそれ自体が組織名みたいになってるんだ。ま、簡単に言えば運び屋さん&困りごとよろず引き受け業みたいなものだよ」
「マイヤースって、私の名前ですよね? リッツさんの名前じゃないんですか?」
「ん~、まあ色々あるんだよ。入って入って」
促されて入った室内には応接用のソファと書き物机があった。まるで孤児院で村人や来客があると通す応接間みたいだ。キョロキョロしているとアンナにはお構いなしにジョーが奥の扉を開いた。
「こっちこっち」
手招きされてその扉をくぐると、そこには普通の生活空間があった。壁際には台所があり、きれいに洗われた食器が一人前だけ干してある。中央にある少々大きい丸テーブルには花瓶に入った花が飾られていて、椅子が二脚だけあり、そのうちの一脚の前には明らかに食べかけの食器が置かれたままになっていた。乾いたスクランブルエッグが痛々しい。
でもそれを除けばとても暖かい雰囲気に満ちた優しい部屋だった。カーテンも食器もテーブルクロスもアンナの好みにとても近い。
キョロキョロと周りを見ていると、暖炉の上に飾られた一枚の絵が目に入った。結構大きなその絵を見て息を呑む。
そこに描かれていたのはリッツとアンナだったのだ。しかもリッツは真っ白なマントのついた礼服に身を包み緊張した面持ちで描かれていて、隣に立つアンナはウエディングドレスを身につけて幸せそうに微笑んでいた。絵の右下にはさりげなくディル・サバティエリと銘が入っている。
「あの……これ……」
指を差すとジョーが困ったように鼻を擦ってから、大きくため息をついて口を開いた。
「そうだった、これがあったっけ」
「これって私……ですよね?」
幸せそうな自分を指さし、それからリッツを指さした。
「これはリッツさん……」
「うん」
「じゃあ私とリッツさんって夫婦なんですか?」
「まあ、これ見たらそれ以外無いよね。師匠は隠したかったらしいけど、ここに来れば絶対バレるっつうの。動揺してたから判断を誤ったな」
「動揺してた? 誰が?」
「師匠」
そういうと肩をすくめてジョーは肩をすくめ、次の扉に手をかける。
「リッツさん動揺してたようには見えませんでしたけど?」
「いつもの師匠と比べると、格段に動揺してたよ? あ、普段の師匠を知らないんだったよね。ごめん」
「じゃあ、私の名字なのは?」
「師匠の名字、この街で名乗るにはちょっと有名すぎて不向きなんだよね。ちょっとシアーズで歴史ブームってやつが起こってて……」
そう言いながら、ジョーは小さく首を振り笑って話を変えた。
「ま、色々あって最近はこの街ではマイヤース姓を名乗ってるよ。他のところでは普通に本名を名乗るらしいけど」
説明してくれながらジョーが開けた扉の向こうでアンナを呼ぶ。中にはいるとそこは夫婦の寝室だった。大きなベットは起きたままなのか整えられていない。十年後の自分はここで毎日寝起きをしているのだ。リッツと一緒に。
そう思うと目の前の現実の想像できないほど変わってしまっている自分の状況に目眩がして思わず立ちつくしてしまった。
そんなアンナを放って、ジョーはクローゼットを開けると旅行用の丈夫な鞄に淡々と荷物を詰め込み始めた。荷造りには慣れているようだ。軍人はそんなことも得意なのかなと感心している間に荷物は出来上がる。
「これでよし! 基本のお泊まりセットは準備したから、アンナが入りそうな物をだして」
「はい」
返事をしてクローゼットを覗き込んだものの、何をしたらいいのか分からない。そもそもどれが自分の物なのかも分からないのだ。困っていると、ジョーがぎゅっと肩を抱きしめた。
「必要なかったら別にいいんだよ。気にしないであたしに言って。困った時はお互い様だって、アンナの口癖だろ?」
ジョーの言葉に頷いた。確かにそれはアンナの口癖だ。今の自分と十年前の自分は同じなのだと実感してしまった。
「さ、行こっか」
「はい、ジョーさん」
「ジョーでいいよ。あたしたちは友達なんだから」
「でも私……」
「記憶がないから駄目? だったら今友達になるって事でどうよ?」
あまりに前向きな提案に思わず笑顔になってしまった。
「はい! 友達になってください」
「堅苦しいのは無し。もう一回」
「私と友達になって?」
「そうそう。それでいいの」
満面の笑みでジョーは重たそうな荷物をいとも簡単に持ち上げた。
「さ、あたしんちへ行こう」
「力持ちだね」
「まあね。師匠には負けるけど」
師匠……リッツだ。
「リッツさんはジョーの何の師匠なの?」
先ほどから師匠と聞いているが、どういう師弟関係なのかさっぱり分からないのだ。
「あたしは師匠の剣技の弟子だよ。ああ見えて師匠もの凄く強いんだ」
「そうなんだ……」
アンナが記憶を失ったと分かった時の、あの泣き出しそうな顔を思いだした。そんなに強そうにも思えなかったのだが。でもアンナの疑問はそっちのけでジョーが胸を張った。
「一生で一度だけでも勝ちたいもんだね。それがあたしの目標」
そう言いながら促されてアンナは先ほどのリビングに出る。するとそこで足が止まってしまった。そこに歳を召した一人の男性が座っていたのだ。
「え……?」
先ほどまでは全く気配すらしなかったその人物の髪は束ねられているが長く、白髪が多い金色でこちらを見た瞳は水色だった。そしてその人物からは何とも言えない威厳のような物を感じる。今まであったことのないタイプの人物だ。
立ちつくしていると後ろから来たジョーが声をあげた。
「陛下!」
慌てたように荷物を床に置き、ジョーがその人物の前で膝をついた。
「え? え?」
戸惑っていると、男性は穏やかに笑った。
「ここは王城ではないぞ、ジョー」
「ですが……」
相変わらずひれ伏したままのジョーに優しく立つように促した男性は、椅子から立ち上がり、ジョーの肩を叩いて穏やかに微笑んだ。
「驚かせるつもりはなかった。少々先回りをしてあれを外しておいてやろうと思ったんだが、間に合わなかったようだ」
男性が指し示したのは、先ほど見た結婚式の絵だった。
「何故です?」
困惑したまま聞いたジョーに、男性は微笑んだ。
「リッツがパニックに陥ったまま私のところに来てな、このまま仕事に行くから何かあったら頼むというわけだ」
「あ~」
アンナには分からないが、ジョーは納得したように頷いた。そんなジョーに軽く頷き返すと男性は言葉を続ける。
「自分との現在の関係を知られたくないといっていたというのに、荷物を取りに行かせたというから気を利かせて絵を外しに来たのだが」
「そうですよね」
ジョーがため息をついて頷いた。
「だが遅すぎたようだな」
「ええ、まあ」
言葉を濁したジョーに頷くと、男はアンナを真っ直ぐに見つめた。
「初めまして、アンナ。私はエドワード、リッツの友人だ」
「よろしくお願いします」
ジョーがあんなに緊張する人だからきっと大変な人なのだろうが、アンナにはエドワードが何者なのか全く見当が付かない。首をかしげてエドワードを見つめていると、エドワードが微笑んだ。
「不思議そうな顔だな」
「はい。何でこんなにジョーが緊張してるのかなぁって思って」
率直に聞くとエドワードは吹き出した。
「確かに知らなければ疑問だな。実は私は少し前までこの国の王様をやっていてね」
「ええ~!?」
王様といえばこの国で一番偉い人だ。今まで生きてきた中で一番偉い人と言ったら村長ぐらいだが国王はその何万倍も偉いはずだ。
「わぁ……王様だぁ~。どうしようジョー、初めて見ちゃった!」
「あ、アンナ、いくら何でも失礼だって!」
「だってだって、初めて見たもん!」
じっとエドワードを見つめると、エドワードが楽しげに微笑んだ。
「変わらないな」
「え?」
「初めて会った時も、同じようにいわれたものだ」
「……初めて会った時……」
思わずそう呟いてから俯いてしまった。そうか、この人と出会ったのも初めてではないのだ。記憶がない十年は想像以上に長いかもしれない。するとアンナの肩に優しく手が乗せられた。その優しさにリッツを思い出して顔を上げると、エドワードが優しく頷いた。
「十年経っていても君は君で他の人間になってしまったわけではないということさ。忘れてしまったならこれから積み重ねればいいことだ」
「え?」
「あまり気に病んではいかんぞ」
忘れているなら思い出せと言われるかと思ったのに、エドワードはそう言って肩を叩いてくれた。それで少しだけ気が楽になる。思い出せと言われると焦るが、そう言ってくれれば少し安心する。
「はい」
小さく深呼吸をすると、ジョーを見上げる。心配そうにこちらを見守ってくれていたジョーもアンナの顔を見て明らかにホッとしたように笑った。
「うちにいく? 結構豪邸だからびっくりするよ」
あえて明るくいったジョーにアンナは笑顔で頷いた。
「では私も途中までレディたちとご一緒させて頂こう」
冗談めかしてそう言ったエドワードが片目をつぶった。年をとるとみんな頑固で堅物になっていくと何となく思っていたアンナはこんな人がいることに驚きつつも、少し嬉しくなる。こんな風にお茶目に歳をとれたら素敵だ。
家を出るとエドワードは階下に繋がれた馬に荷物を載せた。どうやらかなり急いで絵を外しに来てくれたようなのだ。こんな風に一生懸命になってくれる友達を持っているリッツという人は、いい人なのかもしれない。
友達が沢山いる人に悪い人なんて絶対いないのだから。
歓楽街から大通りを越えて、坂道を登っていくと、どんどん高級住宅街になっていく。門の隙間から見える広い庭には、野菜ではなく美しい木々や花々が咲き誇っていて、自分にはとてもじゃないが向いていなそうな雰囲気だ。こんなところに住んでいるジョーとフランツはすごいお金持ちなのかもしれない。
その高級地を歩きながらキョロキョロと見渡していると、ある一軒の屋敷の前でジョーとエドワードが歩みを止めた。その豪邸の大きさに目を見張って立ちつくしていると、荷物を下ろしたジョーに笑われてしまった。
「信じられないって顔してる」
「うん……だってすごい豪邸だよ。孤児院と教会が二つぐらい建ちそうだもん」
「まあね。でもこの家、元手タダだから」
「なんで!?」
「元々お化け屋敷だったのを、師匠がオバケ退治して手に入れたんだ。だからこの家、元々は師匠の家だったんだよ」
「……リッツさんの……」
何だか聞けば聞くほどリッツはすごい人のようだ。そんな人と夫婦だなんて、一体十年のうちに自分はどうなってしまったんだろう。自分はしがない孤児で、農業と水の精霊を使うしか取り柄のない普通の女の子だというのに。
「ありがとうございました、陛下」
「ああ。頼むぞ、ジョー」
「は!」
最敬礼するジョーから、エドワードがゆっくりとこちらに視線を向けた。全て見透かされているかのように澄んだ水色の瞳に魅入られたように釘付けになる。なんて深い瞳だろう。
「アンナ」
「あ……はい」
みとれていて一瞬返事が遅れると、エドワードは急にいたずらっぽく目を細めた。
「リッツがキスをしたことを詫びていたぞ」
「え……あ……」
思い切り優しくて、それでびっくりしたけれどすごく気持ちよかったのを一瞬にして思い出してしまって赤面する。リッツからすれば夫婦だから当然だったのだろう。
でも……。
「詫びていた……?」
「アンナにとって一番好きな人ではないのに悪かったそうだ」
唇へのキスは一番大好きのキス……そんなアンナの考えをリッツは知っていたのだ。
でもそれってどういう事だろう。まるでもうアンナにとってのリッツが、重要ではなくなってしまったみたいないい方だ。
そう思いついた瞬間、何故だかゾクリと寒気がした。それがもの凄く怖いような気がしたのだ。
そしてあの泣き出しそうな表情を再び思い出して胸が締め付けられそうになる。
「あの、王様」
「なんだい?」
「リッツさんって今どこにいるんですか?」
「仕事で走り回っているが、夕食には顔を出すそうだ」
「そうですか……」
この気持ちをなんといったらいいのか分からなくてアンナが俯くとエドワードはホッとしたように呟いた。
「どうやら大丈夫そうだな」
「え?」
「いや、こちらの話だ」
笑顔でそういうとエドワードは、ヒラリと馬に飛び乗った。年相応の動きにはとても見えない軽やかな動作に目を見張る。
「それではまた」
「あ、ありがとうございました!」
アンナとジョーが頭を下げるのに軽く頷くと、あっという間にエドワードは視界から駆け去ってしまった。