10th アニバーサリー<3>
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。
皆様にとって、素敵な1年になりますように。
さかもと希夢
後ろ手で重たい扉を閉めると、リッツは扉にもたれかかったまま座り込んでしまった。
「誰か……冗談だといってくれ……」
呻きつつ顔を覆うが、誰も冗談だといってくれそうにない。
十年の年月は、リッツにとって全人生一六〇年の中でもっとも幸せな時間だったのだ。その時間がずっと続くんだと思っていたのに、こんなに突然終わりを迎えるとは思わなかった。
王城の医務室前で座り込む長身の男はかなり目につくらしく、通りかかる軍人が足を止めてはこちらに目をやる。
このまま見世物になっているわけにもいかないから、よろめきつつもリッツはゆっくりと立ち上がった。
混乱と絶望感にうちひしがれつつ、リッツが無意識に足を運んだのはやはりエドワードの元だった。今日アンナが尋ねる約束をしていたから、とりあえず現状の報告をしなければと思っていたせいだろう。
軍服の頃は何気なく出入りしていた王宮も私服姿でうろつくのはまずい。それは肝に銘じていたから、どんなにぼんやりしていても、王族関係者しか知らないルートを入って王宮の庭に出た。この庭に面した建物がエドワードとパトリシアの住まいだ。
テラスから重い足取りでエドワードの部屋に入り込むと、テーブルを挟んでお茶を飲んでいたエドワードとパトリシアが待ちかねていたように振り返る。
先に立ち上がり、リッツの元に歩み寄ったのはパトリシアだった。
「アンナはそんなにひどいの?」
声を潜め、眉を寄せて正面に立ったパトリシアがリッツを見上げた。
「え……ああ、大丈夫。命に別状はないって」
ぼそっと答えると、パトリシアはリッツの両腕をがっしりと力を込めてつかむ。
「じゃあなんであなたが死にそうな顔してるのよ」
「……そうか?」
そんなにひどい顔をしているのだろうか? 定まらない視線で目の前のパトリシアを見ると、パトリシアは紫の瞳に怒りを込めてにらみ返してきた。もうすぐ七〇になろうというのにその瞳の力はちっとも力を失わない。
「そんな顔でアンナは大丈夫なんていわれて、誰が信じられるというの? 正直に白状なさい!」
「だから大丈夫だって……」
「じゃあ大丈夫な顔しなさいよ!」
パトリシアに強く体を揺さぶられて思わずその手を掴んだ。強い目線で見返されて、なんだか前にもこういうことがあったなと、ぼんやりしつつも思い出してしまう。
確かエドワードが昔、大怪我を負ったときのことだった。あの時もリッツは死にそうな顔をしていると怒鳴られ、そんな顔をして全軍にエドワードの危機を知らしめるつもりかと殴られたのだ。
思い出すこともなかった遠い思い出だが、あの時はエドワードの危機とパトリシアの想い、二つのことに胸を締め付けられる気がした。
同時にパトリシアがエドワードを想うあまり、正直に心配するそぶりができないことを知ってしまった。パトリシアのそんな態度の多くが周りの大事な人に気を遣わせないためのにとっさに出ている行動なのだ。
本気で心配していると怒っているようにしか見えないのだが、本気で怒っていればいるほど彼女は本気で心配している。そういう女なのだ。
だからリッツには娘同様にかわいがってきたアンナを心配し、アンナのことで混乱の極みにいるリッツを心配しているのがありありと見て取れた。
「ごめん、パティ」
昔はそんな謝罪の言葉も出てこず突っかかった物だが、今はすんなりと言葉が出てくる。アンナの教育のたまものだろう。だが唐突なリッツの謝罪にパトリシアがこれから聞くのは良くない知らせではないかと微かに怯んだ。
「な、なによ」
「アンナは無事だ。軽傷で済んだ」
告げた瞬間に腹に重い一撃食らった。パトリシアは容赦がない。
「勿体つけないで早くそれをいいなさい!」
「ってー」
腹をさすると、イライラしたようにパトリシアは先ほど座っていた椅子に戻った。無事を確認したら人心地ついたのだろう。怒りながらも自らの手でポットから伏せられていたカップにお茶を注いで、空いている席に押しやる。
座れということだろう。エドワードを見ると、苦笑しながら黙って席を勧められたからいわれるままに腰を下ろす。
「それで、おまえの表情を見るとアンナに異変が起きていると推測できるが、何があった?」
「なによエディ。アンナは無事だって今……」
「ああ無事だろうよ。体はな」
「体は? 何よ抽象的ね」
眉を寄せるパトリシアからゆっくりとリッツへ視線を移したエドワードに見つめられると、すべてを見透かされている気分になる。口にしなくても分かるのではないかと思ってしまうのだが、エドワードは魔法の使い手ではないからすべてを見聞きしているわけではない。
話さなくてはと思うのだが、自分自身も認めたくないから言葉が張り付いたように出てこない。
エドワードはじっとリッツを見つめていたが、小さく一息ついたパトリシアがしびれをきらして口を開く。
「リッツが言いよどむのは何かを認めたくない時。つまりアンナに認めたくないことが起こっている……そういうことね? エディ」
「ああ」
「事故に遭ったというのに体は軽傷ですんでいる。それはとても喜ばしいことよ。それならこの馬鹿は可愛いアンナを気遣いつつも約束を果たそうとするアンナについてここに来るはず。でもそうなっていない」
「そうだパティ。アンナが無事だというのに一人で来たリッツは、どこまでも絶望的な顔をしている。これがもし精霊魔法に関することならば、こんな風にここに座っておらず対策を立てに走り回っているだろう。ならば精霊魔法関連のことではない。それになによりこいつはアンナが精霊使いであろうとなんであろうと関係ないのからそもそもその理由はないだろう」
昔から変わらず、言葉を詰まらせるリッツを二人で分析していく。ここにシャスタがいればきっと「推測はやめて話を聞かねば真実にたどり着けません」と正論をいうのだろう。
言葉が途切れ、カップの中身を見つめていたリッツに二人に視線が注がれる。意を決して言葉を発した。
「……記憶がないんだ」
ポツリとつぶやくと、二人は小さく息をのんだ。
「あいつ俺のこと……知らないってさ」
口火をきってっしまうとボロボロと止めどなく言葉がこぼれ落ちてきた。
「十年きっかり記憶がないんだぜ? 十年前の今日っていやあ、俺とあいつが出会った日だ。なのにあいつの記憶はその日の朝で止まってる。俺があいつのところに行ったのはその日の夜だったのにな」
「ちょっと……冗談よね?」
「冗談な訳あるかよ。何で冗談でこんなこと言わなきゃなんねえんだ」
怒りとも悲しみとも悔しさともつかない感情が言葉になってあふれてくる。こんな状況になるなんてこの感情を誰にぶつければいい? 自分を忘れたアンナか? 井戸端会議に夢中だった母親か? 飛び出した子供か?
分かってる、ぶつけることなんてできない。だから二人を相手に感情を言葉にしてはき出すしかない。
「いつも通りにキスしただけなのに、初めて会った人にキスするなんて失礼だって」
「リッツ」
エドワードが制止をするが、どうにも止まらない。片手で額を押さえつつ呻く。
「初めて俺に会ったんだってよ。絶対に嘘はつかないからその通りだってさ」
「リッツ、よさないか」
「あいつ、俺を怯えたみたいに見るんだぜ? 傭兵だった俺を初めて見た時みたいに……」
目の前が少し陰った。顔を覆っていた手を離して見上げると、その瞬間に思い切り力強く頬を張られていた。
「本当に馬鹿ね!」
「痛てえだろパティ!」
「殴った私だって痛いわよ! 七十の老女にそのごっついかおを殴らせないでちょうだい!」
「てめぇ!」
思わず昔のように立ち上がると、パトリシアは仁王立ちになりリッツに指を突きつけた。
「本当に辛いのはあなた? それともアンナ?」
頬を張られたよりも痛い衝撃がきた。
「あなたは忘れられたことを嘆いて悲しんでめそめそしてればいいわ。昔みたいにどうせ俺なんてって、落ち込んでなさいよ。でもまだ何も知らなかった頃のアンナがどれだけ混乱して、どれだけ辛い思いをしていると思ってるの?」
返す言葉もない。奥歯をかみしめて立ち尽くしているリッツに容赦ない言葉が浴びせられる。
「アンナを一番よく知っているのは誰? 十年前から今までのアンナを全部見ていたのは誰? 誰があの子の一番幸せになる方法を考えることができるの?」
「アンナの幸せ……」
「そうよ。記憶がなくなってもあなたの愛する人に替わりはないでしょう? だとしたら彼女が一番幸せに過ごせるために何をすればいいのか分かっているはずだわ」
いうだけいったパトリシアは長いドレスの裾を見事にさばいて椅子に座った。
「少なくともあの子を幸せにできるのは私やエディじゃない。あなたがそのための方法を考えて私たちに協力してほしいというなら、私たちは手を貸すわ」
一息に言い切って紅茶を飲み干したパトリシアはエドワードを見つめた。
「エディからいいたいことは?」
苦笑しながらエドワードは首を振る。
「ないな。君はいつも俺のいいたいことをすべてリッツにいってしまうから、君とリッツと三人でいると俺はフランツ並みに無口になってしまいそうだ」
他に人がいる時には出ることのない軽い口調でエドワードが肩をすくめた。
「そういうわけだが、リッツ、お前どうするか考えていたか?」
「……いや。あいつがいなくなったと思ったら、こう目の前が真っ暗になっちまって……」
この先絶望しかない、そんな気がしていた。だが苦しい状況に身を置かれたのはリッツだけではない。すべての人を幸せにしたいというアンナが記憶を無くしたことで、今後知らない自分への申し訳なさで潰されてしまうだろうことぐらいは見当がついた。
ならば自分にできることは何か。
ずいぶんと長いこと考え込んでいたのか、ふと顔を上げるとエドワードとパトリシアの顔がこちらを向いていた。昔はこの二人の顔が似ていると思ったことは微塵もなかったが、重ねた長い時間を経てなんだかやけに似たような雰囲気を持つようになっている。
その瞬間に何かが分かった気がした。
時間は重ねていくもので、後戻りすることはできない。アンナに記憶を思い出せといったところで、それは過去を振り返らせるだけに過ぎない。
だとしたらもっともいいのは、時間を重ね直すことだ。
「エド」
「何だ」
「これからヴァイス本部に行ってくる」
エドワードにそう告げると、エドワードは頷いた。エドワードとは反対に、パトリシアが眉を寄せる。こんな時に仕事はないだろうといいたいのだろう。だがエドワードはリッツを柔らかく見つめる。
「仕事の調整か?」
「……よく分かるな」
「俺もそれが一番いいと思っていたからな」
穏やかに頷いたエドワードにほっとする。
「安心した」
「何がだ?」
「エドが賛成だったから。反対されたら俺に他の選択肢はねえもん」
そう告げると何故かエドワードが吹き出した。
「何だよ」
「お前、今の口調もいってる言葉も、俺が拾ったばかりの頃と変わらんぞ」
「うっ……」
懐かしいことばかり思い出していたから、無意識に幼い言葉を使ってしまったらしい。
「面白いな。アンナは十年で、お前の人格の育て直しをしているらしい。な、パティ」
話を振られたパトリシアは不本意そうに小さくため息をついた。
「なによ。男二人で分かった感じになっちゃって。どういうつもりよ」
「時間を作って、アンナをヴィシヌへ連れて行く」
正直に言うとパトリシアは息をのみ、リッツの本気を伺うようにじっと瞳を見返してきた。
「本気なのね」
「ああ。知らない記憶を思い出せと言われるよりも、記憶がつながるところからもう一度始めた方がいいに決まってる。今のあいつの状況をあのアンナに押しつけたくないんだ」
アンナと離れるのは身を切られるように辛い。だが何も知らないアンナがおどおどとリッツを伺うのを見ているのはもっと辛い。
アンナにはいつも笑っていてほしい。
リッツの真剣さを確認したのか、パトリシアがため息をついた。
「私はアンナのところに戻って、何があっても自分だけはそばにいるから安心して頼れっていってくるのが先だと思うわ」
それはまさに女性の側からすれば正論なのだが、それが通じるのは妻としてのアンナだけだ。
「今のあいつにそれをやったら『私は大丈夫です!』っていわれちまう。信頼関係なしだからさ」
「そう? 女としてはそんな騎士がいるだけで心強いわよ」
そうだろうか? だがあの頃のアンナはそうじゃなかった気がする。自分が好きな人に好きになってもらいたくて、好きな人たちのために、強いては世界のみんなに幸せになってほしくて無意識で無理をしていた頃だ。
そんな自分の感情に気がついたのだって、リッツがアンナに愛を告げたときだったのだから。
「やっぱ俺、本部に行ってくる。外せない依頼だけは片付けてきちまうから、アンナたちが頼ってきたら助けてやってくれ。頼む!」
パトリシアとエドワードに頭を下げると、二人は苦笑して頷いてくれた。
「邪魔しちまった。俺行くわ」
立ち上がって庭へと続くテラスに降りた瞬間にエドワードに呼び止められた。
「ヴィシヌへ行くのはいいが、それは目的の半分だぞ。忘れるな」
エドワードの言葉の意味が分からず首をかしげると、エドワードは苦笑した。
「俺はヴィシヌに行くのは賛成だが、おそらくお前とは考えが少し違いそうだ。結局パティの方が正しいかもしれん」
最後はリッツに告げたと言うよりもつぶやきだった。リッツが眉をしかめると、エドワードは打って変わって明るく訊いてきた。
「一度アンナの顔を見ておきたいが、どこにいるんだ?」
「今はまだ医務室だろうよ。いや、自宅かな? 荷物を取りに行くようにジョーに頼んだし。それからジョーとフランツの家にしばらく住むようにいってあるから、会いに行くならしばらくしてからそっちに行った方がいいと思うぜ」
「……そうか」
なんだかエドワードが複雑な顔でため息をついて立ち上がったのだが、急いでいたリッツはそのまま二人に小さく頷くと足早に王宮を後にした。