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10th アニバーサリー<2>

 柔らかな太陽の光でアンナは目を覚ました。この光はもうすぐに昼になろうとしている光だ。

 ……お昼?

 思わず勢いよく身体を起こしたが、次の瞬間に襲ってきた激しい頭の痛みに思わず目をキツく閉じて呻く。こんな痛さを感じた事なんて生まれてこの方一度もない。

 何かを巻かれたような頭を押さえながらゆっくりと目を開けると、目の前の光景に言葉を失った。見たことのない場所にいる。

 陽光が差し込む窓は高い天井に比して大きくて、上側がアーチ状になっている。そしてベットはいつもの見慣れた自室のこじんまりとした物ではなく明らかに大きい。そして清潔な布団とシーツは新品のように真っ白で糊がきいている。

 おかしい。昨日は確かに三十年近く使ってきた孤児院の自分のベットで寝たはずだ。その時は頭が痛いなんて事もなかった。それにこんな大切な日に昼過ぎまで寝てしまうなんてあり得ない。

 だって今日は、待ちに待った年に一度の紅芋掘りの日なのに。芋パーティの準備をしなくちゃならないのに。

 大混乱に陥りつつ見渡すとベットの横に置かれた椅子には、見たことのない男の人が一人、座ってウトウトしていた。黒髪でかなりの長身、大降りの剣を持っているから、村では見たことがない兵隊さんに違いない。この人に聞けば何か分かるかもしれない。

「あの……」

 小さく声を掛けたが、男はぴくりともしない。

「あの!」

 大きな声で呼びかけると、男は驚いたのかがたっと音を立てて転がりそうになって立ち上がり、こちらをじっと見つめた。吸い込まれそうに綺麗なダークブラウンの瞳だ。

「ようやく気が付いたか」

 男はそういうと、心の底から安堵したというような柔らかな微笑みを浮かべた。大人でもこんなに無防備な微笑みを浮かべるものかと、ドキリとする。こんな風に笑う大人、しかも男の人は見たことがない。

 思わず見とれていると、男は静かに近づいてきて、アンナの頬に触れた。養父以外の男の人にそんなことをされたことは一度もなかったからびっくりしたけれど、頬を撫でるその手が優しくて抵抗する気が起きない。

「怪我をした時、お前無意識に自分を治癒したんだってさ。さっき軍医長に聞いたぜ。大したもんだな。御陰で軽傷で済んだ」

 さらりとそう言われて驚いた。この人はアンナの特殊能力を知っている。どうして、どこで知ったのだろう。村の人以外が知るわけがないのに。

「……どうかしたのか? 変な顔をしてるぜ?」

「え……?」

 どんな顔だろうと、思わず顔に手をやる。だが男はくすりと優しく笑うと言葉を続けた。

「まあ仕方ねえよな。昨日まで忙しくって今日は大怪我じゃ休まる暇もねえし。もう一眠りしてから帰ろうな」

 帰る……どこに? 村に? ここはどこなの?

 困惑して頭の中身がプディングになってしまいそうだ。ひたすらパニックに陥っていて気が付くと、男の顔がすぐ近くにあって焦る。

 そして次の瞬間頭の中が真っ白になった。事もあろうに、この男はわけが分からずに混乱するアンナにキスをしてきたのだ。

 反射的に男を思いきり突き飛ばした。

「何するんですか!!」

「へ?」

「は、初めてあった女の子にキスするなんて! しかも唇に!」

「……アンナ?」

「唇へのキスは、一番大好きのキスなんですよ!? 初めて会った人にそんなことするなんて、失礼です!」

「初めて……?」

 男は眉をしかめてから、急に怖い顔をしてアンナの肩に手を掛けた。強い力に思わず呻く。

「うっ……」

「初めて会ったって……俺と?」

 益々強くなる力に、顔を歪める。

「初めて会いました! 痛いです!」

「そんな……」

「本当の本当に初めて会いました! 私、絶対に嘘は着きません!」

 呆然としたように、男はゆっくりと手を放した。

「お前……記憶が……」

「はい?」

「俺の記憶が……ないのか……」

 その顔が徐々に哀しみとも恐怖ともつかない表情に変わっていく。まるで孤児院に初めてやってきた不安いっぱいの子供のようだ。

「あの……」

 その痛々しい表情が心配になって男を見上げると、男はハッとしたように表情を変えた。今まであった不安感は一瞬にして一欠片もなく消え去り、人のいい青年といった表情に変わる。でも同時に先ほどまであった優しい表情も消えてしまった。

「ええっと、聞いていいか?」

「……はい」

「今はユリスラ王国暦何年の何月何日だ?」

 当たり前のことを聞かれて戸惑いながら答える。

「王国暦一五七二年の九月三〇日ですけど……」

「……もしかして今日は紅芋の収穫日か?」

「そうです。よく知ってますね」

「ああ。知ってるさ。よく知ってる」

 そういうと男は弱々しく微笑んで立ち上がった。

「軍医長、頼むよ」

 男の呼びかけに応じてやって来たのは、初老の男性だった。白衣を着ているところを見ると医者らしい。アンナの村には医者はおらず、養父が医者代わりだったのだが、知識としてアンナも医者ぐらい知っている。

「どうした?」

「すっぽり記憶が抜け落ちてる。丁度十年だ」

 男が小声で医者に言った言葉に思わず目を剥いた。十年、十年分の記憶が抜けている?

「外傷は問題ない。そのまま退院出来るが……十年分の記憶がないとはな……」

「ああ。十年前と今じゃ、天と地ほどあいつの状況は変わってる」

「……そうだな」

 本人抜きで話が進んでいく。

「あの、それってどういう事ですか?」

 二人の会話に割って入ると、二人は目配せをした。そこにどういう意味があるかは分からないが、軍医長は小声で男に何かを言うと去っていってしまった。再び男とアンナの二人きりになってしまう。

「あの……」

「俺はリッツ・アルスター。アントン神官に頼まれてこの街でお前の後継人のようなことをしている。よろしくな」

 真っ直ぐ見つめられた瞳には嘘はなさそうだ。小さく頷くと、男はニッと笑って話を続ける。

「お前は今日、馬車にはねられて頭に怪我をした。さっき言ったように自分で無意識に治癒魔法を掛けたから大事には至らなかったようだが、記憶を十年分無くしちまったようだな」

「そんな……」

 にわかには信じられない話だ。

「信じられないと思ってるだろ?」

「何で分かるんですか!?」

 考えを読まれて思わず大声を出すと、リッツは楽しげに笑った。

「十年前からお前を知ってるからな」

「そうなんですか」

「ああ。今の本当の日付は、王国暦一五八二年九月三〇日だ」

「一五八二年……」

「そ。そしてここは王都シアーズ。この国の王様がいる街さ」

 そう言いながらリッツは窓の外を見るように促してくれた。恐る恐るベットから立ち上がり、窓際に立つ。

 そこからは大きな街と、青い海が一望できた。

「うわぁ……」

 生まれてこの方見たことのない、美しい街の景色だ。ずっと一生ヴィシヌで暮らすと思っていたのに、十年後にはこんなところにいるなんて想像したこともなかった。

「すごい! すごく都会ですね!」

「ああ。ヴィシヌとは比べ物にならないぜ」

「信じられない……こんなところにいるなんて……村を出たこともなかったのに」

 静かに横に立つリッツを見上げると、目を細めて寂しそうにしているのが分かった。目が覚めたときの無防備な笑顔と突然のキス。一体十年後の自分と隣に立つリッツはどういう関係なのだろう。

「あの……リッツさん」

「なんだ?」

「私とリッツさんって、どういう関係なんですか?」

 率直に聞くと、リッツは困ったように小さく息をついて頭を掻いた。

「さっき言ったとおり、アントン神官から頼まれた後継人っていうんじゃ駄目か?」

「でも……」

「お前はこの街に医術を学びに来てた。治癒魔法だけではいざという時に足りないことがあるからだと言ってたぜ」

「私が?」

「ああ。そんでお前はこの街で立派に医術を納めて医者になった。俺はそれをずっと応援していたのさ」

「私、お医者さんなんだ……」

 驚いた。農業をやろうとか、教会の神官になろうとか考えていたのに、十年後は医者だなんて、一体何があったんだろう。隣のリッツを見上げてみたが、リッツはアンナの視線に気が付いているだろうに気が付かない振りをして目の前の景色を見つめている。

 それだけの関係の人が、あんな風に優しくキスをするのだろうか?

「リッツさん、あの」

 再び訊ねようとした瞬間に、大きく扉が開く音がした。振り返って扉の方を見ると、男が立っていた。軽く息を切らせて扉を閉めた男はゆっくりとこちらを振り返る。

 リッツよりも数個年上だろうか。金の髪をぴっちりと後ろになでつけ、銀色に輝く眼鏡をかけている。眼鏡の中から覗く瞳は澄んだ青だ。

「よ、フランツ」

 リッツが軽く片手を揚げた。それに小さく頷いてから、乱れた前髪を軽く撫で付けてフランツと呼ばれた男がアンナを真っ直ぐに見つめた。

「怪我、したんだって?」

「はい」

 返事をすると、フランツは眉を寄せた。

「……大丈夫だった?」

「大丈夫です。ありがとうございます」

「……」

 フランツは無言でリッツを見つめた。リッツは苦笑して肩をすくめる。

「ここ十年の記憶がすっぽり抜けてる」

「じゃあ……」

「ああ。まだ村の外に出たことがないそうだ」

「……そんな……」

 表情に乏しいフランツだったが、明らかに落胆したような表情を浮かべた。どうやら彼もアンナの消えた十年に関係している知り合いのようだ。

「あの……」

 なんと言えばいいのか考えながら呼びかけるのと同時に、扉が再び勢いよく開け放たれる。当然まだその前に立ちつくしていたフランツは吹っ飛んだ。

「!」

 驚きで言葉を失ったアンナの目の前に現れたのは女性だった。腰に剣を差し、ブラウンの髪を後ろで結い上げ、そして明らかに軍人という制服を着ている彼女は、リッツよりも少し若いぐらいだろうか。暗い色調の軍服に身を包んでいるのに、華やかな印象の美人だ。

「ごめんねアンナ! 怪我をしたって聞いたからすぐ来ようと思ったんだけど、どうしてもこれなかったんだよ! 交代の奴に急用が出来ちまってさ!」

 動揺したように両手足を動かして一気にそう言った女性は息を大きく吸い込む。

「馬車に轢かれたんだったよね? 大丈夫だった?ああ、大丈夫じゃないからこうなってるんだよね!もう、本当に心配したんだから」

 女性がようやく一息ついたところで、扉に吹っ飛ばされて壁との間に板挟みになっていたフランツがよろりと怒りを身に纏って立ちあがった。

「……大丈夫じゃない」

「フランツ! 何してるのそんなとこで?」

「何って……」

「壁に張り付いちゃって。壁が好き?」

「……君に吹き飛ばされたんだ、クレイトン少尉」

 そう言われた女性は息を呑んで一気に青ざめた。

「私に? 嘘でしょう?」

「嘘をつく理由が僕にあるかな、少尉」

 明らかにフランツは怒っているようだ。そんなフランツを前に女性は弱り顔で頬を掻き、ちらりとリッツを見たりアンナを見たあと、大きく息をつき肩の力を抜いてフランツに向き直った。

「ごめん! あたしが悪かった」

 潔く両手をパチンと合わせて深々と頭を下げる女性に、フランツは表情を変えないまま小さくため息をついた。

「ドアの開閉は静かにね、ジョー」

 表情も口調もそのままだったが、呼び名が変わっただけであからさまにホッとしたように女性が胸をなで下ろした。

「は~い」

 しおらしく返事をしたジョーという女性は、すすっとアンナの横にやって来て耳元で囁いた。

「怖い怖い、流石は鉄面皮の宰相秘書官室長だね」

「宰相秘書官室長?」

 聞き慣れない言葉に小さく頭を振る。何だろう、ここにはアンナの知らないことが溢れている。ここにいるべきなのは自分ではなくて、リッツが言っていた十年後の自分なのだ。そう考えると、何だかこの場にいるのが自分で申し訳ないような気分になり、頭を下げる。

「ごめんなさい」

「え? 何々? 何で謝るの?」

 困惑したジョーに見つめられて、俯いた。

「ごめんなさい。分からないんです」

「え? 分からないって……」

「私、十年間の記憶がないんです」

「うそ……」

「ごめんなさい」

 しばし重苦しいほどの沈黙が部屋の中に流れた。

 酸欠の魚みたいに口をポカンと開けたまま立ちつくすジョーにかける言葉が見つからず、俯いてシーツを見つめていると不意に頭に大きな手が載せられた。顔を上げると温かな手の主はリッツだった。

「お前が気にすることはないさ。事故だから仕方ねえよ」

「でもみんな悲しそうな顔をしますよね? 私のせいで人を悲しませたくないんです」

 力を込めてそう言うと、リッツは優しく微笑んだ。

「ああ。分かってる。だからそんな顔をするな」

「だけど……」

「いいんだよ。お前の知らない王都を観光しに来た程度に考えとけ」

「王都観光?」

「ああ。お前らもそう思うだろフランツ、ジョー」

 リッツが明るくそう言葉を投げかけると、フランツはは小さく息を吸って頷き、ジョーは笑顔を浮かべた。二人とも大人なのだ。

 とどめとばかりにリッツが楽しげにアンナの肩をバシバシと叩いた。

「だからお前もしばらくのんびりすることだ」

 そう言われると嫌だというのもおかしい。

「記憶、いつか戻るんでしょうか?」

「戻るに決まってるさ。だからしばらくといっただろ?」

「そっかぁ……」

 何だかリッツが言うと本当にそうなるような気がして力が抜けてきた。きっと大丈夫に違いない。

「分かりました。もう落ち込みません!」

「ああ。そうしてくれ」

 頷いたリッツが再びアンナの頭に手を載せると軽く叩いた。

「今日からしばらくジョーとフランツの家に住んでくれ。いいよな?」

 思いがけない言葉に目を見開いた。十年この街に住んでいるなら自分の家があるだろうに、どうしてこの二人の家に住むのか分からない。でもアンナ以外は全員当たり前のように頷いた。

「女性の細々した物は、ちょっと俺には分からないから、数日分のしたくはジョーと二人で今からうちにいって持って行ってくれ」

「あたしが? 師匠が一緒に行ってあげればいいじゃん」

「俺は今後の仕事の算段を付ける。それに見知らぬ男が女性の旅行支度を後ろで眺めてたら気味が悪いだろうが」

「……確かに」

 納得したジョーが頷くと、間髪入れずにリッツが立ち上がった。

「じゃあ悪い。後は頼む。俺は仕事に行ってくるからな」

「え? もう?」

「ああ。頼んだぜ」

「ちょっと師匠!」

「毎日夕食には顔を出すからな。ほい、うちの鍵」

 ジョーに向かって鍵を放り投げると、リッツはそそくさというより、何かを避けるように迷いなく扉に向かって歩いていった。

「あの……」

 何故だか分からないけれど置いて行かれたような不安な気持ちになり、その背中に声をかけるとドアノブに手をかけていたリッツが振り返った。

「そんなに心細そうな顔するなよ。絶対に大丈夫だ。俺が保証するから」

 何の根拠もないのに、何故かその一言に頷いてしまった。するとリッツも頷くと軽く片手を上げて去っていった。

 扉が閉まるとフランツが、静かにベットの近くにやってきた。

「僕はフランツ・ルシナ。リッツの友人だから心配しないでくれ。僕らの家はかなりの広さがあるから、君の部屋ぐらい余裕で確保できる」

 ともするとぶっきらぼうないい方なのだが、何故かそれが気を使っている口調に聞こえる。

「そうそう。もしよければあたしと相部屋でもオッケーだよ。乙女同士色々話すこともあるしさ。あ、あたし、ジョセフィン・クレイトン。ジョーって呼んで。家にはあたしたちとあたしの父さんと母さんが住んでるけど、いい人たちだから気を回す必要ないからね」

 どこまでも明るいジョーに、アンナは首をかしげた。

「あ、じゃあお二人は夫婦なんですか?」

「はぁ?」

「……」

 両親と娘が住んでいるところに男性が一人だからそう思って口にしたのに、何故だか二人とも顔をしかめた。

「誰がこいつと?」

 お互いに指を差し合った二人に、思わず吹き出した。孤児院の子たちみたいに口ではこういっても実は仲良しなのかもしれない。

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