旅路の果てに<7>
シャンデリア輝くホールに、楽団の生演奏。そして立食形式でいただける料理に、沢山の飲み物。ユリスラでは十八歳から飲酒が認められているから、シャンパングラスもワインも置かれている。
大きな暖炉には赤々と炎が燃え、真冬だというのにホールの中は春のように暖かい。
このダンスホールは、士官学校のダンスホールだ。軍学校と同じ敷地にある士官学校のものを借用しているのである。というよりも軍学校自体が、士官学校に間借りしている状態といってもおかしくないだろう。
そのダンスホールには昨日卒業した軍学校一期生七十人が顔を揃えている。大人の雰囲気漂うその場所には、賑やかで浮かれたような今まで感じたことのない空気が漂っていた。軍学校の男子生徒の大部分が女性に声をかけられなかったということで、急遽近くにある小さな服飾学院の女子生徒たちが招待されていて、なかなかにダンスホールは賑やかだ。
いつもはきっちりとした男子生徒たちも、華やかな女子生徒相手に緊張した面持ちで語りかけ、そして和やかな談笑をしている。
「はぁ……」
そんなダンスホールの片隅に並んだ椅子に座って、アンナはため息をついていた。いつもの仲間たちのはずなのに、ものすごく遠く感じてしまう。まるでみんな他人みたいだ。
ため息混じりに再びアンナは周りを見渡した。親友のジョーが、ジャンやマーク、ハンスなどの友達と笑い合っている。いつもは制服しか見たことのない彼らもドレスアップしていて、少し気取っているせいか大人っぽく見える。
今日のジョーは元々美人なだけあって、とても華やかだ。
バラを模したドレープが左肩に付いていて、そこから流れるように美しいシルエットがウエストまで続く薄紫のドレスに身を包んでいる。右肩はドレスから出ていて、筋肉に覆われつつも女性らしさを残したなめらかな綺麗な肩が覗く。
そのドレスのスカートはふわふわと広がるのではなく、美しい流れを作ってくるぶしまで続いていた。だが歩きやすいように、前が少し短く、足を動かすと微かに裾が流れて足が見える大人の作りのドレスである。
いつものジョーは制服かモスグリーンの作業服に剣を差して、化粧っ気無しの擦り傷だらけといった格好だから、男子生徒の誰もが立ち止まってジョーを見ては、ため息をついていた。きっとあまりの変身ぶりに開いた口が塞がらないのだろう。
もう一人の首謀者ヘレンは、クラシカルで派手な薄いサーモンピンクのドレスを身にまとっていた。前に国王即位の式典後に見た、ダンスホールの貴族の女性たちと同じ型のドレスだ。さすがはヘレン、大貴族の娘だ。近づくと見える花の刺繍は絹で、シャンデリアの明かりにきらきらと輝く。そしてドレスを彩る宝石は模様を描いていてとても綺麗だ。
大きく空いた胸元には、こぶし大の青い宝石がきらきらと輝いている。宝石の下からは大きな胸の谷間が覗き、男子生徒の鼻の下を伸ばさせている。その胸の大きさ、アンナには羨ましい限りだ。
だけど採寸して貰ったら、国王即位の式典後に着るためにあつらえた時よりも、アンナの胸がかなり成長しているらしかった。それも目に見えて大きくなっていて、リッツがいなくなってから下着のサイズを大きいものに変えたぐらいだ。それだけはちょっと嬉しい。でもいくら胸が大きくなったって、それを喜んでくれるリッツが今はいない。
それどころか帰ってこないかも知れない。だってもう約束の日から三ヶ月以上が経っているのだ。もし無事ならば、どうして帰ってきてくれないのか。本当に帰れない状態になっているのか、それすらも分からない。もしリッツに何かあったのなら、アンナはひとりぼっちになってしまう。
アンナは吐息を漏らした。こんな気分でダンスパーティなんて楽しめるわけがない。もしかなうならば、今すぐにでもシュジュンに飛んでいって、リッツを探したいぐらいだ。だけどリッツからシュジュンの怖さを聞いているから、アンナがそこに行ってもリッツを探せる気は全くしないのだが。
「はぁ……」
「アンナ~、ため息ばっかり付いてると、幸運が逃げちゃうよ」
いつの間にか近くに来ていたジョーが、アンナの目をのぞき込んだ。
「ジョー」
「師匠の口癖でしょ? これ」
「うん……」
「せっかくドレスアップしてきたんだもん、楽しもうよ」
「分かってるんだけど」
言いよどんだアンナも、初めてドレスをあつらえて貰った時とは違って、今回は少し大人っぽいデザインのドレスを身につけていた。といってもジョーのように片方の肩を出して着るような、素敵なデザインはどうも似合わない。
だから細い肩紐につられたドレスは、胸の下までは、刺繍がたくさん入ったシルクレースと少し落ち着いた赤の柔らかな布を合わせた布で作られている落ち着いたデザインだ。胸を強調するように、中央に縦にギャザーが入っていて、少し大きくなった胸の丸みをリボンのように包み込んでいる。
そして胸から下の切り返しは、同じような落ち着いた赤い布と、チュールを合わせてあって、ふんわりと波打つようにたっぷりのギャザーが寄せられている。くるぶしまで流れたスカートは、ドレス全体を清楚な柔らかさで包む印象を与えている。そして靴は細くて柔らかな皮で足首に巻き付き、包まれるように作られたヒールの入った、明るい茶色のダンスシューズだった。
髪はいつもアップにしているから印象を変えるために下ろし、ゆるめにリボンと共に編んだ三つ編みを花で飾って右前に流していた。昔と同じように三つ編みなのに、装飾が違うだけでこんなに大人っぽいなんて思わなかった。
これを総て見立ててくれたのは、パトリシアだ。用意してくれたパトリシアに悪いから、少しはアンナも動いた方がいいだろう。ジョーに言われるままアンナはジュースを手にして、立食の料理を少しつまんだ。
いつもとは違うクラスメイトたちも、大人のするようにアンナを褒めてくれたけれど、アンナは無意識に微笑みを返すだけで本当は何も耳に入っていなかった。
ホールの中には幾人もの教官たちがいる。アルトマンに至っては、リッツが持っている物とは違うけれど、白い礼服を身につけていた。
無意識に軍服に礼装の装飾をつけた教官たちを幾度も見てしまう。何故あの中に、リッツがいないのだろう。それが不思議で、そして寂しい。リッツがいればきっと、アンナのこの格好を見て嬉しそうに相好を崩してキスをしてくれるだろう。
誰に褒められても仕方ない。リッツに綺麗だって言って貰えないと意味がない。
アンナは何人ものクラスメイトにダンスに誘われたけれど、微笑み返して断った。誰とも踊りたいとは思わなかった。それにもし踊るなら、無理矢理今日この場所に来るよう頼み込んだフランツが最初じゃないと悪い。
それよりも何よりも……リッツと踊りたい。
あの逞しい腕に抱かれて、ワルツを踊りたい。前に踊ったのは、アンナの故郷ヴィシヌだったから、もう五年ほど前のことになる。
何だか昔のこと過ぎて驚いた。もうアンナはこんなに長い間、リッツと恋人同士でいるのだ。それなのに今はリッツが生きているのか死んでいるのか、それすらも分からない。
アンナは再び壁際の椅子に腰掛けた。やはり盛り上がれる気分じゃない。
俯いたまま、楽団が演奏する音楽に耳を傾けて、リッツの事を思う。出会った時のこと、リッツの優しさ、表情、色々なエピソードまで全部思い出す。
リッツの部屋で一人過ごす時も、詳細にリッツの事を思い出していた。今日はあの時のことを詳しく思いだそうと決めて、リッツの言葉、表情を一生懸命思い出した。それは時に、シーデナで一緒に見た朝日だったり、タシュクルですれ違う前の牢屋での甘いひとときだったり、初めて唇を重ねたスイエンの崖下だったり、恋人としてようやく素直に気持ちを伝え合った神の庭でのことだったりもした。
そうしていれば一人じゃないような気がして少し気が紛れたからだ。
不意に生徒たちのざわめきが止み静寂が訪れた。誰かがやってきたらしい。でもアンナには興味がない。
それよりも自分の中の記憶を追うことに忙しかった。やがて生徒たちが今まで以上にざわめき始めたのだが、アンナはぼんやりと膝に置いた自分の指先を見つめて、まだリッツとの思い出をたどっていた。
そんなアンナに、影が落ちた。指先と視界が暗くなって初めて我に返る。目の前に誰かが立っているようだ。
フランツだろうかと、顔を上げようとした時、目の前に立っていた人物がアンナの前に跪いた。
「え?」
顔を上げると、目の前には頭を垂れて片手を胸に当てた男性がいた。髪は黒く、その服は目の覚める白。そして緩やかに床に広がったマント。
その姿に息が止まる。呼吸も出来ずに前に跪く男性をじっと見つめる事しかできない。
やがて男性は顔を上げずにアンナに語りかけた。
「踊ってくれませんか?」
アンナしか知らない、アンナを誘う時の穏やかで甘くて、低い声。ずっとずっと聞きたくて、名前を呼んで欲しくて、愛していると言って欲しかった声だ。
涙がボロボロとこぼれ出す。
「さあ、お手を。姫」
冗談めかしてアンナに手を差し出しながら、男が顔を上げた。
「……リッツ……?」
思わず確認してしまった。一年前よりも精悍な顔つきをして、きっちりとした髪をしていたからだ。しかもいつもは隠す尖り気味の耳も、しっかりと出したままだ。これでは礼服と耳を合わせて考えられる人ならみんな、彼の正体が大臣だってばれてしまう。何しろ名前もそのまま使っているのだから。
「ん? どうした?」
なんだか妙な夢を見ているような、現実ではないような気分で聞き返していた。
「大丈夫、その耳? っていうか、礼服」
「お前ね、久しぶりに会ってまずそれって、どうなんだよ」
「だって、隠したかったんだよね?」
思わず恐る恐る言うと、リッツは苦笑した。
「今日はいいんだよ」
「何で?」
「今日の俺は、お前の王子様だから。だからお前も俺のお姫様ってどうだ?」
ちょっと照れくさそうにそういったリッツに、アンナは涙をこぼした。ようやく本物だと実感できた。
ここにいるのはリッツだ。本物のリッツだ。
アンナの寂しさが見せた幻覚なんかじゃない。
「リッツ!」
アンナは目の前で跪くリッツの首筋に飛びついた。リッツもしっかりとアンナを受け止めて抱きしめる。
「ただいま、アンナ」
「リッツの馬鹿! バカバカバカ!」
涙がボロボロとこぼれた。
「遅いよぉ! 一年の約束だったのに、三ヶ月以上帰ってこないなんてひどいよ!」
「ごめん」
「ずっとずっと待ってたんだから! ずっと寂しくて寂しくて、死んじゃうかと思ったんだから!」
「うん。ごめん」
しゃくり上げて泣くアンナの髪をリッツは優しく撫でながら、アンナの頬に幾度も口づけて静かに謝る。
「もうどこにも行かない?」
「ああ」
「本当に?」
「もちろん。ほら、大剣、無いだろ?」
リッツに言われて、首筋から少し離れて見たがいつもの背中を見ると確かに大剣がない。その代わりにリッツの腰には幅広な剣が取り付けられていた。リッツは約束通り本当にシュジュンで大剣を託して完全に傭兵の道を絶ってきたのだ。
アンナに仮のプロポーズをした時に約束したように。
「アンナ」
名前を呼ばれて、目の前のダークブラウンの瞳を見つめる。
「卒業、おめでとう」
「……うん。ありがとう」
「これからはちゃんとお前といる。もう二度と離さない」
「絶対?」
「絶対。約束だ」
笑顔でそういったリッツが、アンナの唇を塞いだ。久しぶりの優しくて長いキスに、アンナはうっとりと目を閉じる。
ようやくリッツが帰ってきてくれた。生きていてくれた。それが嬉しくてたまらない。やがて唇を離したリッツに微笑まれて、アンナも微笑みかえした。
「じゃああとは私が医者になるだけだね」
「ああ。今度はお前が頑張れよ」
「うん」
離れがたくてリッツの胸に頬を寄せると、リッツはアンナを抱えたまま立ち上がった。アンナも自分の足で立つ。ずいぶんと周りが静かだなと思って顔を上げると、生徒たちの視線が二人に完全に集まっている。
そういえばリッツは教官で、学校ではずっと生徒と教官のふりをしてきたんだった。それなのにあっさりと今日その約束を破って、しかも人前で深いキスまでしてしまった。
しかもそのリッツが身につけているのは、大臣の礼服なのだ。華々しく王都凱旋をした大臣の礼服は、みんなの記憶に新しい。
「リッツ、本当にその礼服で良かったの?」
小声で聞くと、リッツは苦笑した。
「だってお前が王子様みたいだから着て欲しいって言ったんだろ?」
「うん……そうだけど……」
「いいさ。今日だけ特別。なぁに、あいつらみんないなくなるんだ。どうってこと無いさ」
「本当に? でも教官はいるよ?」
「復帰してから、適当に誤魔化すさ」
いつもの適当なリッツの言葉に、アンナは吹き出した。
「もう、リッツだねぇ」
「おう。俺だぜ。変わらねえだろ」
顔を見上げると、リッツは少し緊張した面持ちをしていた。そういえばリッツは傭兵として戦場にいたのだ。
リッツは傭兵の時のリッツをアンナが恐れて手を払ったことを、未だに忘れられずにいる。だからアンナに恐れられるのではと、不安を感じているのだ。だからこれはそれを気にしての発言だとすぐに察する。
「うん。変わらないよ。すっごく格好いい」
「……馬鹿」
そういったリッツは、アンナの腰を引き寄せた。
「なあに?」
「踊ろうぜ。せっかく来たのに楽しまなきゃ損だ。久しぶりに酒も飲みたいし、豪華な料理も食いたい」
「欲張りだね」
「ああ。でも一番は、やっぱおまえと踊りたいな」
目を細めたリッツが、アンナに向かって気障に片手を差し出した。
「どうでしょう、俺の姫」
「喜んで」
楽団の奏でる曲はちょうどアンナの知っているワルツに変わった。アンナはリッツの手を取る。ふと振り返ると、呆然としている生徒たちの中で二人だけ平然とした顔をしているのが見えた。
一人はジョーで、もう一人は何があっても動じないジャンだ。
ジョーがアンナの視線に気がついて、満足げに笑みを浮かべて、片腕を突き出した。アンナもそんなジョーに向かって片腕を突き出す。近ければ手を合わせて喜ぶところだ。
「さ、お手をどうぞ、姫君」
「ありがとう、王子様」
言っていておかしくなったアンナは、クスクスと笑いながらリッツの大きな手を握る。リッツも自分の言動に照れているのか、顔を赤くしてアンナの腰に手を回した。
リッツが優しくステップを踏むのに合わせてアンナも踊る。
ジェラルド王即位式典の後のダンスパーティを思い出した。あの時アンナは、大人の男として貴婦人相手にダンスを踊るリッツに憧れ、貴婦人に嫉妬した。
だけど今、あの時と同じ礼服に身を包んだリッツが踊っているのは、アンナだ。しかもリッツは愛おしそうにアンナを見つめて微笑みをくれる。何だかとても不思議な気持ちだけど、とっても嬉しい。もう二度と貴婦人に嫉妬することはないのだ。リッツの腕の中にいるのはアンナなのだから。
そこにここ数ヶ月でダンスをマスターしたジョーが、ジャンを連れて一緒に踊り出す。でもジョーもジャンも剣術使いだから、どことなく優雅さに欠けていて、体術の組み手でもしているようだ。
そしてため息をつきながらもヘレンが取り巻きの一人の手を取り、優雅な動きでダンスに加わる。すれ違いざまに『教官が彼氏だったなんて、やられたわ』とため息混じりに言われてしまった。
そんな楽しげな三組を見て、生徒たちの呪縛も徐々にほぐれて、和やかな雰囲気がダンスホールに戻ってきた。
数曲踊って、みんなの雰囲気が元に戻ってきたのを見守りながら、アンナはリッツの広い胸に顔を埋める。暖かい。力強い心臓の鼓動が聞こえる。
ちゃんとリッツは生きてた。生きてここに帰ってきてくれた。それだけでもう、何もいらない。
「どうした?」
様子のおかしなアンナに、リッツが心配そうに小さく声を掛けてくれた。
「よかった」
「何が?」
「生きていてくれて、よかった」
「アンナ……」
「私のところに戻ってきてくれて……よかった」
リッツが足を止めてアンナを抱きしめた。
「俺もだ。帰ってこられて、本当に良かった」
踊りと音楽、さざめくような笑い声と明るい笑顔が溢れるダンスホールで、二人はただただお互いの存在を確認して、幸せを噛みしめた。




