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旅路の果てに<6>

 リッツが帰ってこない。

 約束は夏の終わりだったのに、もう外には初雪がちらついている。

「リッツ……もう卒業式終わっちゃったよ……」

 小さく呟く。予定されていた名誉理事長である前大臣の挨拶も卒業式には無かったし、教官であるリッツもいなかった。卒業は素直に嬉しいのに、何故だかとても寂しい。

 アンナは一人リッツのベットにうつぶせになっていた。リッツが旅に出た頃は寂しくて辛かったけれど、今は不安で胸が押しつぶされそうだ。

 傭兵の仕事にけりをつけに行くとリッツに初めて聞いた時には、目の前が暗くなった。傭兵の仕事に行くと言うことは、シュジュンに行くと言うことだ。そしてそれは戦場に行くと言うことに他ならない。

 無事で帰ってこられるのか、本当に大丈夫なのかと、アンナはリッツを質問攻めにしたのだが、リッツは真面目にあの大剣の事を話してから、必ず帰ってくることを約束してくれた。

 その時リッツはいつものようにこう言って笑ったのだ。『俺が約束を破ったことがあったか?』と。

 思わずむくれて、リッツ浮気したもん、と言ってしまったのだが、リッツは頭を掻いて誤魔化してからアンナをベットに押し倒し、キスの雨を降らせながら囁いたのだ。

『絶対帰ってくるから。そうしたら結婚しような、アンナ』

 そう言われると逆らえず、いつものようにリッツの甘い愛撫に身を任せてしまった。リッツだから大丈夫、リッツだから絶対に無事に帰ってくる。そう信じてアンナは待ち続けていた。

 それなのに約束の日から一月が経ち、二月が過ぎた。そしてもう三ヶ月半が経とうとしている。

「嘘つき……」

 アンナはリッツの枕に顔を埋めた。また涙がこぼれてしまう。

 もしかしたら何かあったのだろうか?

 もしかしたら、大変なことになっているのではないだろうか?

 もしかしたら……死んでしまったのではないだろうか?

 そう思った瞬間に呼吸が止まるほど苦しかった。リッツがアンナを置いて死ぬ……そんなことあっていいはずがない。確かにアンナはリッツより絶対に長く生きると約束した。でもこんなに早くリッツを失うなんて絶対に嫌だ。

 だからきっとリッツは何かの事情があって遅れてるんだ、きっといつもみたいに『遅れて悪かった』って笑うに決まってる。そう一生懸命自分に言い聞かせ続けているが、さすがに三ヶ月を過ぎると苦しくて不安に押しつぶされそうになる。

 でもみんなに心配をかけないように笑顔でいることを心がけているから、みんなの前で相変わらず泣けない。唯一泣けるのは仲間であるフランツの前だけだ。本当は愚痴りたくてフランツのところに行くのだけれど、言葉が出てこずに結局黙ったまま泣くだけになってしまう。フランツは黙ったままアンナの横で本を読み、泣いているアンナにハンカチを差し出す。

 それだけだ。それだけだからちゃんと泣けるのだ。フランツはみんなみたいにリッツを責めたり、アンナを哀れんだりは決してしない。大剣の事、大陸間ネットワークのことを一番によく分かっているフランツにとって、リッツの決意は重要なものなのだ。

 フランツも仲間の不在は心配だろう。だがそれを感情に出すことはなかった。元々感情を表に出すタイプではないのだが、このことに関しては更に感情に蓋しているようにアンナには見えた。

 アンナは顔を上げて窓の外を見た。明日はダンスパーティだ。アンナのドレスは王宮のパトリシアの部屋にある。ダンスパーティをやると話した日からパトリシアが盛り上がって、ジョーの分と二人分を嬉々として揃えているのである。

「行きたくないなぁ……」

 思わずそう呟いてみた。リッツと踊りたかったから、アンナは誰にも声をかけていない。それなのにこの期に及んでもリッツは帰ってこない。

 急遽アンナはフランツにお願いしたのだが、いつもは嫌がるフランツが渋々引き受けてくれた。フランツはアンナの落ち込みを知っているから、断りたくなかったのだろう。

 フランツは本当はとても優しい子なのだ。アンナは一緒に旅をしてきて、それをよく知っている。アンナにとってフランツは、弟みたいな存在なのである。

 うとうとしつつもよく眠れずにアンナは夜を過ごして、朝食を食べてからにジョーと共に王宮へと向かった。

 昼食を食べてから衣装合わせをして、そのまま夕方に出かけることになっているのだ。

 はしゃぐジョーの隣で、アンナは遠くにいるだろうリッツを思った。

 何故、今、隣にいないの……リッツ。


☆    ☆    ☆


 リッツは昼近くにクレイトン邸へとたどり着いた。あまりにあまりな姿に、そのまま家に入ることも躊躇われて、井戸端に向かう。

 クレイトン邸の井戸は二つあり、一つは屋上のタンクに繋がれていて、毎朝調整して水をくみ上げることで各部屋に水を提供する仕組みになっていた。その水道管の隣には地下から続くボイラー室があって、ここで火を炊くと、一部の水道管にだけ熱が加わり、このおかげでクレイトン邸のシャワールームのお湯が出る。だがボイラーに火を炊くのはたいていみんなが集まる夜だけで、この時間はさすがにお湯はない。

 真冬の冷たい水を覚悟して、リッツは服を脱ぎ捨てて井戸水をかぶった。だが外が寒すぎて、井戸水の方が暖かく感じる。

「さ、さみい!」

 叫びながらも体中に付いた泥を落としていると、急に足下が暖かくなった。思わずその温かさの元にすり寄ろうとして、それが何だか分かったリッツは飛び上がった。

「炎かよ!」

「動くな!」

 リッツに向かって鋭い声が投げかけられる。顔を巡らせてそちらを見ると、炎を一つ手のひらにのせたまま、銀縁眼鏡の奥から鋭くこちらを見据えるフランツの顔があった。

「おっ! 久しぶり!」

「動くなっていってる」

「へ?」

 どうやらフランツはリッツの事に気がついていないらしい。反射的にひげ面を撫でてリッツは気がついた。伸び放題の髪に、ひげ面。人相が変わっているのだ。

「待てフランツ、俺だって!」

「誰?」

「俺だよ、俺! 今帰ってきたんだ!」

 燃やされてはたまらない。必死で訴えるリッツに、ようやくフランツが気がついてくれた。

「……リッツ?」

「そうだ。ヤバイヤバイ。焼き殺されるかと思ったぜ」

 安堵のため息をついたとたん、炎の矢が飛んできて、足下で破裂した。

「うわっ! 何するんだよ!」

 リッツが抗議するも、無言のまま第二波、第三波が繰り出される。

「フランツ!」

「今までどこをほっつき歩いてたんだ?」

 思い切り怒りのオーラをまとったフランツが、再び巨大な炎の球を出現させる。炎の球は高速でリッツの足下に飛び込み破裂した。飛び散る火の粉に、リッツはたたらを踏んだ。

「まて、本気で火傷するって!」

「怪我ぐらいどうってことない」

 問答無用にフランツは技を繰り出す。火傷しないようにリッツは必死になって逃げ惑うしかない。

「おいおい!」

「うるさい」

「うるさいって、お前な! 熱いだろ!」

「それぐらいどうってことない」

「どうってことある!」

 半ば悲鳴に近い抗議の声に、フランツはぼそりと呟いた。

「アンナは、ずっと泣いてた」

 告げられて足が止まった。言葉が出ない。

「約束の日が過ぎてから、無事なのか、生きているのか、それを案じて泣いてた」

 炎の矢が足下で破裂した。

「誰の前でも泣けなくて、僕が本を読んでいる隣で黙って泣いてた。みんなに気を遣って、学校でも陛下が来た時でもずっと笑ってた」

 飛び散る火の粉を浴びながら、リッツは黙って俯いているしかない。 

「きっと一人でリッツの部屋にいる時も泣いてたと思う」

 立ち尽くしたリッツだったが、炎の矢は計算し尽くされていたらしく、リッツにまで届かない。

「何故もっと早く帰ってこなかったんだよ」

「フランツ」

「何でアンナを苦しめるんだ。僕には何も出来ないんだぞ」

「……」

「約束は守れよ。僕はリッツじゃないんだ。アンナを受け止められない」

 炎の矢がリッツの足下に着弾しては火の粉をはじけ飛ばす。

「仲間にただ黙って泣かれるのがどれだけ辛いか分かる? アンナは僕の前で泣くけど、僕に慰めて貰いたいわけじゃないんだ。僕以外の人の前では泣けないだけなんだ。それを僕がどうにか出来る? アンナを本当に笑顔に出来るのは、リッツだけなのに」

 リッツには返す言葉もない。アンナを苦しめていたことも、泣かせていたことも予想していた。それでもリッツには汚れた手のまま帰ることが出来なかったのだ。

「何とか言えよ、リッツ」

「……悪かった。俺にはそれしかいえない」

「本気で反省している?」

「ああ。事情は全部、まずあいつに話したい。アンナは?」

 尋ねるとフランツは小さく息をついた。

「今日は夜遅くならないと帰ってこない」

「え……?」

「リッツの方から行ったらいい」

 意味が分からず立ち尽くすと、この様子を見ていたらしいアニーが台所の扉を音を立てて開け放って出てきた。井戸は台所の勝手口の近くにあるのだ。

「お帰りなさいリッツ。ちょっとそこに座っていてちょうだいな」

 そういうとアニーはキッチンの木製の椅子をどっかりとそこに据えた。

「今? 寒いんだけど?」

「座ってくださいませ」

 有無を言わせぬ口調にリッツはほとんど裸の状態のまま渋々腰を下ろした。すると大きなタオルが体に巻き付けられた。暖かくなってようやく一息つく。すると頬に石鹸をこすりつけて泡立てられた。

「アニー?」

 身動きできずにいると、アニーは無言のまま髭全体を泡立ててから、よく研がれたカミソリを取り出して、髭を剃り始めた。

「自分でやるけど?」

「駄目です。今日のリッツは王子様なんですからね。私が綺麗にして差し上げます。ええもう、文句の付け所がないぐらいにびしっと、格好よくね!」

「へ? 何? どういうことだよ、フランツ」

 フランツを振り返ると、フランツは肩をすくめた。

「帰ってきてくれて助かった。アンナとダンスするなんて、僕には到底無理だから」

「ダンス?」

「動かないで! 鼻をそぎ落とすわよ」

 アニーの怖い言葉に、リッツは固まった。

「それはやめてくれ」

「じゃあじっとしていて。格好良くしないと私のプライドが許さないわ」

 アニーはぶつぶつと呟きながらも手際よく髭をそり落としていく。

「意味が……」

「髪も切りますからね! こんな浮浪者みたいじゃ、アンナの王子様にはなれないんですからね」

 鬼気迫る様子でリッツの髭を剃るアニーのエプロンのポケットには、大量のはさみ、カミソリ、その他諸々が挟まっている。

 いったい何が始まるのかと戦々恐々としているうちに、驚くほど慣れた手つきでアニーはリッツの髭を総て剃り、職業的な床屋のように髪を切り始めた。

「上手いんだな、アニー」

「当然です。メイドとして上がった時から、エヴァンスの身支度をしていたのは私ですから」

「あ~なるほどね」

「黙ってないと口に髪が入りますよ」

「分かった」

 気合いの入ったアニーに開放されたのは、総てがきっちりと切りそろえられてからだった。

「……少し短くないか」

 ようやく自室のクローゼットから新しい服を身につけることを許され、食堂の椅子に座って文句を言うリッツに、アニーは平然として皿を出す。

「短くありません。ちゃんと耳は隠れるでしょう?」

「あ~……まあ……」

「はい。昼食を食べて休憩したら、衣装合わせますからね。髪はその時にきっちり撫でつけますからね」

「耳は隠れるって言ったじゃねえか」

「隠したらだらしない印象になるでしょう? 今日ぐらい覚悟なさってください」

 きりきりと動き回るアニーに聞くのを諦めて、一緒に昼食を取ろうと席に着いたフランツに尋ねる。

「……なあ、頼むから事情を説明してくれ」

「昨日、軍学校は最初の卒業式だった」

「あ……忘れてた……」

 確か挨拶をする予定だったような気がする。これはアルトマンに怒られそうだ。だが今はアンナの方が重要だ。

「それで?」

「今日は軍学校の卒業ダンスパーティの日だ」

「ダンスパーティだぁ? 男ばっかの軍学校で?」

「そう。ジョーと友達がアルトマン大佐を説得して開催したんだ。軍人なら女の一人や二人エスコートしてこいという趣旨だってジョーが言ってた」

「……あ、そ」

 リッツはジャガイモの温かいポタージュを口に運んだ。冷えた体に美味しい。

「あいつらには厳しいだろうなぁ。野郎一人で参加って奴も結構いそうだ」

「じゃあリッツが揃えれば」

「娼館の見習い当たりに声をかければ……って俺出入り禁止だったっけな」

「また行くようなら、僕がアンナに報告する」

「行くわけねえだろ。あいつ以外の女にもう欲情しねえんだから」

「……あっそ」

 素っ気なく言ったフランツは、アニーの並べた昼食を食べ始めた。あっさりとリッツの質問を忘れてしまったらしいフランツに再び尋ねる。

「で、俺は?」

「アンナはリッツと踊るって、ずっと誰にも声をかけなかったんだ。だけど昨日、僕に代わりに出てくれって打診があった。初めてユリスラに来た時に着た、ジェラルド陛下のお下がりがあったし、断れないから受けたんだけど……」

 フランツはため息をついた。

「帰ってきてくれて助かった」

「じゃあ、俺は?」

「アンナが、リッツが大臣の扮装なしで大臣の礼服着てくれたらな、って、アニーとジョーにずっと言ってたんだ」

「げ……」

「王子様みたいで絶対素敵なのにってさ。だから女性陣は張り切ってたんだけど……」

 リッツが帰ってこなかったから、みんながっかりしていたというわけらしい。なのにリッツが間に合う時間に帰ってきたから、アニーが張り切っているのだ。

「……恥ずかしいな」

「かもね。でもアンナの苦しみに報いる必要、あるだろ?」

 フランツの言葉にため息をついた。一年の約束が、一年と三ヶ月以上待たせてしまったのだ。だから彼女が喜ぶなら、何だってしてあげたい。彼女が望むなら、どんな格好でもしようじゃないか。

「分かった。決意した。俺はアンナの王子様になる」

 覚悟を決めていったのに、フランツはため息をついた。

「王子様というがらでもないだろうに」

「うるせぇよ」

 リッツがそんな柄じゃなくても、アンナはリッツの女神でお姫様なのである。

「そうだ。買い物だけ行ってきていいか、アニー」

 次の皿を出しに来たアニーを呼び止めて聞くと、アニーは眉を寄せた。

「時間かかりますの?」

「いいや。かからねえよ。目当てのもんは決まってるからさ」

「それならどうぞ」

 台所に下がっていったアニーは、やはりかなり本気でリッツを王子に仕立てるつもりらしい。これは大変だ。うっかり遅く帰ったりしたら、怒られるどころじゃ済まないかも知れない。

 目の前にあった昼食を平らげると、まだ食べているフランツを残したままリッツは立ち上がった。

「ごちそうさん! 行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 いつもの無表情ながら明らかにほっとした様子のフランツに見送られて、リッツは家を出て街中の少し高級な宝飾店へと急いだ。 

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