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旅路の果てに<2>

 まだ日も暮れたばかりの早い時間だったが、なじみの扉を押し開けると、変わることない明るい声に迎えられた。

「いらっしゃいませ! ってリッツ!」

「よう、チウジー」

「あなたなにしてんのよ? こんなところにいていいの?」

 仰天して大声を上げるチウジーを無視して、カウンターに座る。

「こんばんわ、リッツさん」

「よう、ルアン。チウジーは落ちたか?」

「……リッツさん」

「寂しい人妻をいつまでも寂しくさせとくなよ」

 リッツの言葉にルアンが困ったように笑う。

「ちょっと何の話してるのよ! ルアンが困ってるでしょう!」

「そうかぁ?」

 ルアンがチウジーを好きなのは確かなのだが、チウジーはおそらく死んだ夫と同じ蒼海族と恋に落ちることに抵抗があるのだろう。夫の身代わりにしてしまいそうだと、前に彼女を抱いた時に腕の中で聞いた。

 アンナと関係を持った今からすれば、もうあの頃のことはずっと昔のことのように色褪せてしまっているのだが、妙にそんなことは、はっきりと覚えている。

 アンナではないが『みんなが幸せになればいいのに』と最近思う自分がいる。アンナ化してきてるなと思うのだが、エドワードは傭兵時代に身についてしまった悪癖が抜けて、元々のリッツに戻りつつあるのだという。

「リッツ! 質問してるのはこっちよ! あなたたしかゼウムに行ったんじゃ……?」

「行ったぞ? で、ユリスラに帰ってたんだ」

 平然とそう言うと、リッツはルアンに酢豚と棒々鶏を注文した。

「あと酒。ルアンが料理に合うのを見繕ってくれ」

「はい」

「じゃあどうして舞い戻ってるのよ? アンナは?まさか振られたんじゃないでしょうね?」

「順調に付き合ってるよ。一応婚約してるし」

「婚約~!?」

「ああ親公認。金が貯まったら結婚するつもりだ」

 あっさりとそういうと、目の前のルアンまでもが動きを止めた。

「驚きました……」

「そうか? 俺にとってはもうあいつが恋人で婚約者なのが普通で、昔の俺たちを思い出せないんだ」

 小さく息をついたルアンが出してくれたのは、小さなグラスに入った甘めの酒だった。その酒をなめながら料理が出来るのを待っていると、他の客たちの対応を終えたチウジーが隣に座った。

「……本当にリッツはアンナが好きだったのね……」

「冗談には見えなかったろ?」

「まあ、見えなかったわね。でも意外よ。あなた、あの子を相手に健全な関係を続けていられる根性があったのね」

 ため息混じりにそういったチウジーに、リッツは頭を掻いた。

「あー、まー健全な関係は続けてねえな……」

「え?」

「あいつ、見た目の歳からしたら、かなりこう……色々な抱かれ方を知ってる方だと思うし……っつうか、俺がそうしちまったっていうか……」

「……うそでしょ?」

「本人は全く気がついてねえけど、たぶん俺以外の男じゃ満足できない体だろうな……」

 ため息混じりにそう言うと、チウジーは深々とため息をついた。

「ケダモノね、あなた」

「……認めるよ」

 苦笑したリッツの元に酢豚が置かれた。前に来た時と同じ、酸味があるのに香ばしい香りが漂う。酒を置いてリッツは箸を手にした。相変わらずルアンの腕はいい。黙々と酢豚を口に運んでいると、チウジーがため息混じりに言った。

「それで、他の女の話どころか自分の話さえもしたことがないあなたが、こんなにペラペラと自分の女と自分の話をしたのはどういう風の吹き回し?」

 チウジーなら察してくれるだろうと思っていたリッツは、案の定何かあると気がついたチウジーの目を見ず酒を一口飲んだ。

「預かって貰おうかと思ってさ」

「何をよ?」

「俺の幸せな記憶」

 そう告げてから飲み干したグラスをルアンに差し出した。

「今度は甘くないのくれ」

「はい」

「ちょっとリッツ、意味が分からないわ」

「だよな」

 頷くと、リッツは棒々鶏の鶏肉をつつきながら説明した。

「この大剣は師匠が俺に託したんだが、俺が傭兵をやめて別の道を歩む時、自らが見込んだ奴に託せという条件付きだったんだ」

「ふうん」

「俺は傭兵をやめて、アンナと一緒に夢を叶えるために生きるつもりだ。だからこの大剣を託す相手を見つけるために戦場に行く」

 リッツは箸を鶏肉に突き立てて口に運んだ。

「戦場では俺は傭兵隊長で血塗られた悪夢だ。そこにはこうして恋人と穏やかに幸せに過ごしている記憶は持って行けない。それでも俺とアンナの未来のためにはこの大剣を手放すことが必要なんだ。だからここでお前たちにこの記憶を託して記憶を封じ、俺はただの傭兵隊長として戦場に赴く」

 ルアンが出した酒に口をつけてから、リッツは笑った。

「今は十月半ばで、これから冬が来る。冬のうちにシュジュンに入って、春には戦場に赴くつもりだ。個人でやるかも知れねえし、元いた部隊にいれてもらうかもしれねえけど、先はまだ分からない。夏前にはまたスイエンに戻ってくるから八ヶ月ばかり預かって欲しくてさ。あいつもお前に預けるなら文句いわねえだろうし」

 そう言ってリッツはチウジーの前に懐中時計を置いた。それはいつも使っている物とは別で、この間の誕生日にアンナに貰った物だ。海岸に寝転がって、満天の星空の下で手を繋いでいると、アンナがそっとリッツに手渡してくれたのである。

 何故時計と疑問に思ったのだが、開けて驚いた。そこにはアンナの細密画が描かれていたのだ。

 ジョーと話し合って何がいいかを考えた末、王都の王立美術学院にいるディル・サヴァティエリに描いて貰ったと言うことだった。

「開けていいの?」

「ああ」

 懐中時計を開けたチウジーが、小さく息をついた。

「懐かしいわ、アンナ。大人っぽくなって、こんな風に笑うようになったのね」

「綺麗だろ?」

「ええ。三年前とは違って大人びて、とっても綺麗。幸せそうじゃない」

「だろ? 死ぬほど抱いてんのに、全く純真さと可憐さが変わらないんだぜ? ある意味すげえよなぁ、アンナ」

 リッツはため息をついた。アンナは軍学校で会うとびっくりするほど純真で清楚に見える。リッツと出会った頃と全く変わらず、エメラルドに輝く瞳で世界を見ている。彼女自身はリッツは一生涯ただ一人の夫になる人だから、何があっても自分が変わる事なんて無い、とのことだが、リッツにとってはすごいことだった。

 それと同時に、同級生や下級生の少年たちに憧れの眼差しを向けられているアンナを見ると妙に焦る。アンナを自分の物にしたくて奪い尽くしているはずなのに、アンナはいつも綺麗で、人の目を引く。

「何度抱いても全然奪い尽くせないんだよな、あいつの綺麗さって。どんどん綺麗になって行っちまうんだから」

「……あなたやっぱりケダモノだわ」

「自覚はしてるさ」

 苦笑しながらリッツは料理をつまむ。確かにケダモノだと自覚はしている。だがそれと同時に、アンナ以外では絶対に満足できなくなった自分もちゃんと自覚していた。ケダモノといわれようが何だろうが構わない。手当たり次第の昔よりは遙かにましだ。

 小さくため息をついた。こうしてチウジー相手にふざけた話をしているのは、気が紛れる。本当は彼女のことを思い出す度に、胸が締め付けられるように苦しいのだ。愛おしくて、大切で、寂しくて、切なくて。

 今すぐ飛んで帰って、彼女を抱きしめたい。

 でもこのままでは駄目だ。彼女と幸せになるためには、すべきことがある。彼女のためなら何でも出来るはずだ。

 それが例え彼女の嫌う人殺しの傭兵隊長に戻ることだって……。

「来月の頭に冬前の最後の船がシュジュンに行くらしいな。トウオに確認してきた。半月ばかり宿借りられるか?」

「いいわ。その代わり、女の連れ込みはうちの下宿は禁止ですからね」

「その心配はねえって。俺、アンナ以外の女には欲情しねえから」

「……節制してるのね?」

「いや、本気で駄目なんだよなぁ、これが。自分でもびっくりしてる。意外と真面目だな、俺」

 言いながら料理をつまむリッツに、チウジーはため息をついた。

「信用しましょう」

「サンキュー。これで宿、確保っと。で半月のろける場所も確保。戦場に行ったら全部封印だもんな、俺にだって人並みにのろける権利はある」

「はいはい」

「生きて帰ってきたら、またのろけに来るからな」

「分かったわよ。ごちそうさま」

 あきれ果てたという顔でため息をついたチウジーだったが、小さく首を振ると、ふと思い出したように顔を上げた。

「あ、そうそう、あの子も戦場にいるはずよ」

「あの子?」

「そうよ。アンナを巡って争ってたライバルのうち一人。スニールよ」

「へぇ……」

「まだ死んだって話を聞かないわ。向こうで会うかもね」

「生きてりゃあな」

 チウジーがもてあそんでいた懐中時計をひょいっとつまむと、目の前でふたを開ける。長い髪を下ろし、質素な服に身を包んだアンナが椅子に座ってこちらを見ている。そこにはアンナの眩しい笑顔があった。

 それを見ると、何故か別れ際のアンナを思い出して切なくなる。

 両手を広げて、ここに戻ってきてと言ってくれたアンナ。帰る場所がある。それはリッツが一番望んでいたことだ。そんな優しくて強いアンナを、リッツは心の底から幸せにしてあげたいと思った。

 だがリッツは知っている。リッツが背を向けるまでずっと笑っていた彼女だったが、きっとリッツが見えなくなってから泣いただろう。今までさんざん泣かせてきたから、彼女の泣き顔は想像しなくても簡単に浮かんだ。

 泣かせたくない。笑っていて欲しい。だからもう二度と離れないためにやるしかない。

「待ってろよ」

 小さく呟く。

 絶対にお前の腕の中に帰るから。

 


 リッツが旅に出てから五ヶ月が過ぎた。

 今日のシアーズは雪が舞っている。海風が吹くシアーズには雪が積もることがあまりないけれど、それでも雪は地面をほんのりと白く染め始めていた。

 きっと山脈を挟んで更に北側にあるシュジュンは……ゼウムとの国境線は更に寒いだろう。夏でもゼウムは寒かった。あそこは沢山雪が積もると前にリッツ本人に聞いた。

「リッツ、風邪引いてないかな」

 滅多に体調を崩さないリッツが、前にアンナの前で病気をしたのはシアーズの初雪の日だった。精神的に疲れていたリッツは振る舞い酒に酔っ払って庭に寝ていたのだ。それなのに凍死もせずに風邪を引いただけなのがすごい。

 リッツは本当に丈夫だ。大丈夫、元気でいる。

 アンナはごろりとベットで寝返りを打った。

 アンナがいるのはリッツの部屋だった。リッツがいないのに、アンナはやはり週に一度この部屋にやってきてしまう。そこで何をするわけでもない。すぐにボロボロにしてしまうジョーやグレイグにプレゼントするためにベットに腰掛けてマフラーや手袋を編んだり、学校の課題をやったりしている。

 そして時折リッツのクローゼットを開けてみる。

 そこにはリッツが使っていた数種類の軍服が掛かってるのだ。

 一つは大臣の時に着用していた軍服。階級章は元帥にあたるそうだ。そして大臣の時に着用していた大臣の礼服。白い軍服に金モールの肩当て、そして白いマントが付いていて、まるで王子様のようだ。だけどこの服を着ている時のリッツは、片眼鏡に付けひげだったから、間違っても王子には見えなかった。

「そのままで着たら格好いいんだろうなぁ……」

 想像するだけでちょっと嬉しい。

 そして同じ場所に無造作にかけられているのは、軍学校の教官として身につけていた少佐の軍服だ。将官にならない限り軍服はみな一緒らしい。教官をしている時のリッツに触ることがなくて気がつかなかったけれど、手に取ってみるとあちこちが擦れている。剣術を教えていたから、激しく動くことが多かったのだろう。

 そんな部分を見つけては、アンナは丁寧に治す。擦れたところには、丁寧に炭火をおこしてアイロンを当てたり、わかした蒸気を当てて毛羽立ちを治すのだ。それだけで少しだけ寂しさが紛れた。

 ジョーは余計寂しくなるからリッツの部屋に行くなと言うけれど、アンナにとってはここで一人で過ごす時間は大切だった。リッツがただ一人戦場にいることを知っているから、ずっと仲間たちと幸せにしていることに抵抗があるのだ。

 だから一日ぐらいはこうして一人でリッツを思っていたい。それに、リッツを思って涙を流せるのはこうして一人でいる時だけだ。みんなに心配はかけたくないから、みんなの前では笑っていたい。

 アンナは置かれたままのリッツの枕を眺めてから、そっとそちらに頭を置き換えた。もう半年になってしまうから、リッツの匂いは残っていない。それでもそれがリッツの物だと言うだけで、少しだけ落ち着く。

「リッツ……どうしてるの?」

 小さく呟き、頭の中でリッツを思い出してみる。

 照れくさそうなリッツの顔、嬉しそうなリッツの顔、少し不機嫌なリッツの顔、アンナの前で両手を床に付き、泣き崩れた時の顔、そして恋人になる前に見た、傭兵隊長としてのリッツのあの狂気を秘めた顔。それでも全部がアンナの大切なリッツだった。

「会いたいよう」

 まだ半分だ。あと半年待てばリッツに会える。リッツは約束を破る人ではないから、一年後にはきっと会えると分かっている。

 でも今すぐにでも会いたい。抱きしめて愛してると言って欲しい。そしてあの優しい手で宝物を愛でるように優しくアンナを抱いて欲しい。

「寂しいよ、リッツ……」

 アンナは、明かりを消したリッツのベットの中で体を小さく丸めて、自分で自分を抱きしめた。あのリッツの優しくて大きな手とは比べものにならないけれど、リッツがいつもそうしてくれていたように、思い出しながら体にそっと触れてゆく。そうでもしないと自分が消えてしまいそうな気がした。

 体を離れて心だけなら、空を飛んで会いに行けないだろうか?

 鳥人族の長老たちのように遠見の術を使ってリッツに会いたい。

 涙がポロポロとこぼれる。

 こんなに自分は寂しがりだっただろうか。こんなに甘えっ子だったろうか。リッツの事を甘えっ子だなんて言えない。アンナの方がよっぽど寂しがり屋の甘えっ子だ。

 リッツに触れて欲しくてたまらない。寂しくてそばにいて欲しくて、名前を呼んで欲しくて、笑って欲しくて……死んでしまいそうだ。

 いつの間にかしゃくり上げて泣いていた。声を殺してベットにうつぶせて泣き続ける。

 今日も一週間分たっぷり泣いたら、明日は笑おう。

 だけど今日だけは、こうしてリッツを思って泣くのだ。

「早く帰ってこないかなぁ……」

 涙を流したまま、アンナは目を閉じた。 

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