黎明館へようこそ!<6>
「お祖父様……なんで?」
ぽかんと口を開けるグレイグを無視して、エドワードはフランツに笑いかけた。
「君に呼び捨てにされるのは久しぶりだ。ロシューズ以来かな?」
「ええ、エドワード。僕は正直、怒ってます」
「君がグレイグに怒っているときは丁重になるのに、私だと反対になるのか?」
「はい。エドワードとは仲間のつもりでしたが……何か?」
冷たく見据えると、エドワードは珍しくたじろいだ。
「それで、大公妃様はどこです? 風使いは大公妃様だけですね?」
「は~い、ここよ」
フランツたちから死角になっていた角から、大公妃パトリシアが顔を出した。
「お、お祖母様!?」
愕然とするグレイグを尻目に、いつものように楽しげに並んだ救世の英雄コンビを睨み付ける。
「いつ気がついたんだ?」
楽しそうなリッツの問いかけに、フランツはゆっくりと腕組みしながら答える。
「冷静に考えたら分かることだろ。リッツがエドワードを手に掛けるわけがない。僕はリッツとエドワードとアンナの仲間のはずだ。あの旅の中で二人の絆を知ってるし、アンナとの繋がりだって知ってる」
言いながらフランツは髪を掻き上げ、ため息をついた。
「まあ二人ともそんなこと考えていないのかもしれないな。なにしろ僕が感じてた絆を信じてはいなかったんだから」
淡々というと、リッツがまずいという顔をし、エドワードは何かを誤魔化すように束ねている後ろ髪を掻いた。
「それとも何か? リッツとエドワードにとって、僕は仲間ではなく単なる被保護者だとでも?」
リッツは気まずそうにエドワードを見て、エドワードは困ったようにリッツを見た。そして二人は全く同じ行動を取った。フランツに向かって頭を下げたのだ。
「ごめん、フランツ」
「フランツ済まなかった」
怒りはまだまだ胸の中にあるが、目の前で元国王と元大臣に頭を下げられては許すしかない。
「……まあ、こうなった原因はグレイグでもあるからこれぐらいでいい」
静かにそう言い切ると、リッツたちは明らかにほっとした。でもその代わりに素っ頓狂な声を上げたのはグレイグだった。
「俺? 俺が何をしたんだよ!」
「……僕に王族の立場を誇った」
「だってあれは……謝っただろ? フランツ許してくれたじゃん!」
「ああ。僕は許した。でも許さなかった人がいたんだきっと」
静かに首謀者三人を見回すと、リッツとエドワードがおずおずとパトリシアを指さした。
「そうよ、私よ、私が首謀者よ」
堂々と胸を張ると、パトリシアは扇を音を立ててバンッと広げた。
「グレイグもちゃんと分かってたから安心した。これでいつでもお父様の元へいけるわ」
あっけらかんとしたすがすがしい言葉に、リッツがうろたえる。
「何いってんだよ! まだおっさんの所に行くなんて言うなよ!」
「言葉の綾よ、やあねぇ。私この世が楽しいから、まだまだ生きるに決まってるじゃない。第一、可愛いアンナの結婚式に出てないわ」
扇で顔を覆いながら高笑いをしているパトリシアで目覚めたジョーはあっけにとられたように座り込んでいる。
そして先ほどリッツに殺されたはずの使用人たちは、何の問題もなくスッと起き上がった。
「では陛下、閣下、下がらせていただきます」
使用人たちは綺麗に敬礼をして、きびきびとした明らかに軍人の足取りで階下に去っていった。
「あれは……あの人たちは?」
震える手で指さしたグレイグに、リッツが平然と答えた。
「引退した元査察官」
「査察官……じゃあ今までのことって……」
「おう。全部嘘。決まってるだろ。俺がエドを手に掛けられるわけないし。エドを殺すぐらいなら自殺するよ、俺」
あっけらかんと言い放ったリッツに、グレイグががっくりとうなだれる。そんなリッツに手を伸ばして、エドワードがリッツの肩を抱いた。そのままいたずらな顔でにんまりと笑い、全員が見守る中で楽しげにリッツの頬に唇を寄せた。
「何するんだよ!」
「これからも時々、ああして甘えてくれて構わないぞリッツ。何しろ私もお前を愛しているからな」
「ふざけるな! 願い下げだ!」
……いつもの二人だ。
「私とリッツの関係は、基本こちらだ。今日の演技とは真逆だな」
片眼を瞑ってみせたエドワードに、グレイグは言葉も無い。
「んっ! んんっ!」
エドワードの横で手を縛られ、猿ぐつわをはめられたアンナがぴょんぴょんと跳ねている。
「ああ、忘れていた。すまないな」
微笑みながらエドワードに猿ぐつわと手の戒めを外されたアンナは、大きく息を吐き出した。
「もう! 忘れないでよ!」
むくれるアンナを、リッツが抱きしめる。
「ごめんごめん、愛してるよ、アンナ」
その二人もいつも通りだ。ふとアンナの演技が真に迫っていたことを思い出した。
「アンナはいつから演技上手になったんだ? リッツに手玉に取られている時、涙まで流していただろ。騙され掛けたよ」
尋ねると、アンナは真っ赤になった。
「だってだって……リッツが人質に取る前に押し倒してキスしてきて、それが気持ちよすぎたんだもん」
「は……?」
「それでリッツ、人を縛って抵抗できなくさせておいて、敏感なところをみんなの前で触りまくったんだよ? 声が出ちゃいそうで堪えるのに必死だし、恥ずかしくて涙も出てくるでしょ!」
涙目でリッツを睨み付けたアンナに、今まで一言もなく座り込んでいたグレイグが吹き出した。
「あ、あは、あはははは。二人とも公衆の面前で何やってるんだよ。いったいどんな性癖の持ち主なんだよ。あははははは」
壊れたようにグレイグが笑う。
「グレイグ?」
気遣うように話しかけたフランツに、グレイグは顔を向けた。涙がにじんでいる。
「はは。よかった。俺てっきりもう、死ぬって、絶対に死ぬって思ってて……俺……生きてる。生きてるよ、フランツ」
「ああ、生きてるよ」
「うん。生きてるな。生きてる。はは」
そういうと、不意にグレイグは口をつぐんだ。そしてぽつりと呟く。
「そっか、俺、王族としての覚悟できてたんだ。全然気がつかなかった。でも王太子の俺は責任取る価値しかないんだな。王族って空しいな」
引きつけたように笑うグレイグは、何かを得て、何かを失ったように呟き続ける。フランツはグレイグに歩み寄った。
「確かに王太子としての君には、国民全ての命を守るために責任を果たす価値しかない。人を支配し、全てを踏みつけにする権利は君にはない」
「……とどめ刺しに来たのかよ、フランツ」
グレイグは膝を抱え、顔を両腕で隠してボロボロと涙をこぼした。
「俺自身の価値なんてなくて、王太子だからちやほやされてたって言いに来たのかよ。なのに王族だからっていばって、馬鹿だって言いに来たのかよ。フランツも俺が責任を取る以外無価値だと思って見てたんだろ。なのに我が儘で、駄目な奴って、思ってただろ」
しゃくり上げたグレイグが、フランツの顔を見るでもなく呻く。フランツはため息をついた。
「君は馬鹿だな」
「ほらみろ。ずっと心の中でフランツだって俺を馬鹿にしてたんだ」
「ずっと馬鹿にしていない。今馬鹿にしている」
「なんだよ……俺の愚かさを糾弾しにきたのかよ」
グレイグは身体を小さく縮めた。堂々たる体躯の祖父と父を持つグレイグは、もうフランツより背も大きく立派な体躯をしている。十六にして英雄王エドワードと並ぶ美丈夫と、社交界で呼ばれるぐらいの整った顔の持ち主だ。
それなのにこうして膝を抱えていると、子供のようだ。見た目と中身のギャップは、フランツしか知らない。
フランツはちゃんと分かっている。グレイグが王族としての緊張感にさらされ、それが辛くて我が儘になっていたことも、自分勝手をしてどこまで自分をみんなが認めてくれるのかと試していたことも。
「君はいつも、傍若無人に振る舞いつつ、僕の顔色を窺っていた。君は僕が認めてくれているか知りたくて、怯えながら僕に我が儘言ってたね」
「! それ……ばれてたのか?」
「ああ。だって君は……僕の妹、コンスタンツェによく似ている。分からないわけがない」
だから自分自身に価値なんて無いんだと思い込んで、涙しているこの今の状況も、ちゃんと理解している。
「王太子としての君にかしずく人々には、そうして責任を取ったらいい。公的には一政務官である僕にだってグレイグ王太子殿下の前に跪く覚悟ぐらいある。君が望むなら、一緒に王国の責任を負う覚悟があるんだ。だけどグレイグっていう友人の前に膝を付く気は無い。背伸びばかりしてるけど、君は僕よりも六歳も年下だ。僕の前でぐらい緊張しないで過ごせばいいだろ」
「フランツ……」
「王族の君ではなく、君個人を僕は見ている。君がどういう人間かはちゃんと僕が知っている。僕は君自身の価値をちゃんと認めてる。僕は君の友達だ。少し正直になれよ」
そう言い切ると、グレイグがしゃくり上げて泣き出した。本当にコンスタンツェとよく似てる。どうやらフランツは、こういうタイプに弱いらしい。
仕方なくフランツはしっかりとグレイグを抱きしめてやった。フランツの方が確実に細身で、何だかアンバランスだが、仕方あるまい。
こうするのはコンスタンツェ以来二人目だ。
「ほら泣くなグレイグ。君はジョーよりよっぽど子供だな」
困って背中を撫でてやると、泣きながらグレイグが怒鳴った。
「どうせまだ、二十歳にも満たない子供だよ! 子供にこんな覚悟決めさせるなよ! リッツの馬鹿! お祖父様とお祖母様の馬鹿!」
ますます泣くグレイグに逞しい腕でしっかりと抱きしめられて、全く身動きがとれない。所詮フランツはひ弱な政務官だ。困りながらため息をつく。
「リッツ、エドワード、大公妃様……こういうの、勘弁してくれます? 僕は子供のおもりは得意じゃない」
「子供で悪かったな!」
見つめていると、三人はあっさりと肩をすくめた。
「ああ、疲れた。さ、夕飯夕飯っと」
いつもの食欲の権化と化した言葉に、アンナが飛びつく。
「牛肉、フルコース~」
なるほど、あれほど豪快に飛び散っていた血飛沫は、今日の夕食の牛肉か。
「まだ片付け中だ。お前はあの血まみれの中で食事を取る気か」
ため息混じりのエドワードに、リッツは口を尖らせる。
「ちっ。腹へってんのに」
「とりあえず全身の血を洗い流して着替えてこい。風呂の用意はしてあるだろう」
「へいへい。風呂といい、料理といい、最近のあいつらはほとんどプロの召使い集団だな」
リッツがくるりと方向を変えてこちらを向いた。そういえばリッツが以前使った個室は、こちらにある。
「誰がお料理してるの? お掃除も査察官の人?」
アンナが呑気にリッツとエドワードに尋ねている。するとリッツは意味深に笑った。
「聞いて驚け、今日のフルコースを作っているのも査察官だ。というか、ケニーだ」
「え……」
アンナが絶句し、フランツもグレイグの背を撫でる手を止めた。
「リッツ、ケニーさんって」
恐る恐る尋ねると、リッツは二人を驚愕させたことが満足だというように笑った。
「知ってるか? ケニーな、今シアーズの料理人免状を持ってるんだぜ? 専門は王国南西部料理だ。メインはもちろんパエリアだな」
つまりあの地獄のパエリア以来、ケニーは黙々と本当に料理の修業をしていたと言うことだ。なんという真面目さ……というか、融通のきかなさだろう。
「……軍を辞めて料理人になるの?」
アンナの問いかけに、エドワードが渋い顔をした。
「ケニーほどの軍人を一料理人にされては敵わんな」
半ば本気で嫌がっている。確かにケニーは剣の腕前、機転、捜査能力、そしてこの面々の秘密に関して全ての条件を整えている奇跡の人材だ。
「夕食までに私も部屋でシャワーを浴びるわ。誰かさんに懐かれて私まで血まみれ」
血に濡れたドレスをつまみ上げてパトリシアが肩をすくめる。
「へへん。ざまあみろだ」
犯人リッツは、子供のようにパトリシアに舌を出した。でもそれに反応したのはアンナだった。
「ふうん。リッツ、パトリシア様にもすりすりしまくったんだ。エドさんを一番愛してて、次がパティ様とかいいだしたりするのかなぁ~」
焼き餅を焼いたアンナに、リッツが思い切りやに下がる。
「ばっかだなぁ。俺にはお前しかいないって。なあアンナ……シャワー浴びてくるから、夕食までさっきの続きしようぜ」
リッツがアンナを腕に抱きしめ、人前もはばからずに唇を塞いで身体に甘く触れ始めた。最初は抵抗していたアンナも、その手をリッツの黒髪へと伸ばし、頭を優しくなで始める。
まったく、勝手にしてくれ。そう思った瞬間、思いも寄らない事が起きた。
「え……あれ……アンナ……?」
急にリッツががっくりと膝を床に付いたのだ。そのままリッツは廊下に音を立てて崩れ落ちる。
「……おい、リッツ?」
焦ったように駆け寄ったのは、エドワードだった。
「リッツ、おい」
床に膝を付いてエドワードが頬を叩くが、反応が全くない。眠っているのではない。これは完全に、気絶しているのだ。
「アンナ……これは……?」
困惑して顔を引きつらせたエドワードに、アンナはあっさりと種明かしをする。
「治癒魔法って、反対に相手を倒すこともできるって知ってました?」
「あ、ああ」
「私、軍学校に入るまで全然知らなかったんです。だから闇に近い精霊って呼ばれてるらしいですよね、水の精霊」
淡々とそう言うと、アンナは完全に意識のないリッツの横に座り、手首を握った。しばらくしてから首筋に手を遣り、またしばらく黙る。やがて小さく頷いて立ち上がった。
「うん。脈はあるから大丈夫っと。そのうち目が覚めるでしょう」
全員が言葉も無くアンナを見ている。やがて全員を代表して、エドワードが口を開いた。
「リッツに何をしたんだい?」
「リッツの頭を撫でながら、少し血液を脳から減らしました」
「え……?」
「つまり今リッツは貧血で気絶してるんです」
「な……」
エドワードが言葉を失う。
「私よりもエドさんの方を愛してるって思わされたこと、実はかなり怒ってます、私。なのに事が済んだから抱かせろなんて都合よすぎ」
鼻息荒くそう言い切ると、腕を組んでアンナは倒れ伏したままのリッツを見下ろした。
「罰としてしばらくそこで転がってなさい」
全員が青ざめて黙りこくった。この場で一番怖いのは、実はこのアンナだとみんな初めて気がつく。触らぬ神にたたりなしという言葉があるが、触らぬ女神にたたりなしだ。
「エドさん」
「な、何だね?」
「エドさんも……リッツの隣で眠ります?」
笑顔がものすごく怖い。エドワードも青ざめて首を振る。
「いや、遠慮しておこう」
「そうですか。愛し合ってるのに残念。じゃあパティ様はいかがですか?」
にっこりと笑いかけられて、さすがのパトリシアも冷や汗をかいて一歩引く。
「私も遠慮するわ。エディほどリッツを愛してないし……」
「ですよねぇ。じゃあやっぱりリッツの浮気相手のエドさんが適任ですね。だってリッツだけ責任を負ったら可哀相じゃないですか」
じりじりとエドワードが後ずさる。こんなエドワードを初めて見た。そして……こんな風に底光りのする目でエドワードを見るアンナも初めて見た。しかも顔は笑っているのだ。
そういえばリッツのいない談話室で、ジョーとフランツに向かって、アンナは恥ずかしげも無く言っていた。『リッツに抱かれるようになってから、何だか妙に嫉妬深いんだよね、私』と。
「さあどうぞ。愛する恋人と一緒の方がきっと、リッツも喜ぶと思いますけど?」
「すまなかった。反省しているよ」
「二人きりにしてあげますよ? 夢の中で存分に楽しんでください。ここ、廊下ですけどね」
「本当に悪かった、アンナ。勘弁してくれ、この通りだ」
エドワードが手を合わせた。この状況、エドワードが完全にアンナに押し負けている。昔からは考えられなかったすごい状況だ。
じっとエドワードを見据えていたアンナだったが、やがて諦めたのかにっこりと笑った。
「じゃあエドさん、リッツが起きたら言っといてください。黎明館にいる間は、私に指一本たりとも触れさせませんって」
「あ、ああ」
「行こう、ジョー。お風呂入って着替えて、ご飯まで散歩しよう。牧場ね、すごく広くて綺麗だよ」
「あ、うん」
あっけにとられる他の面々を置き去りに、アンナはジョーを連れて颯爽と去った。一番怪我をしたのがジョーだと分かっているから、手当てする気なのだろう。
「フランツ……」
腕にしっかりとフランツを抱いたまま、グレイグが尋ねる。
「何?」
「アンナって……最強?」
フランツは他に言葉も出てこずに、ため息混じりに頷いた。
「僕が知る中ではね」
「なるほどね。これはリッツほどタフな恋人じゃないと、身体が持たないな……」
こうして黎明館の惨劇は、全員にアンナ・マイヤースの恐ろしさを強烈に印象づけて幕を閉じたのだった。