黎明館へようこそ!<3>
扉が閉まり、廊下を行く四人の足音が遠くなった。これぐらい離れれば大丈夫だろう。
エドワードは血だまりから身を起こした。最初の背中からの一撃が意外に強くて、今更咳き込む。まあ背中に血が詰まった革袋を背負っていたから、あれぐらい斬りつけてくれなければ破れないのだが。しかも最後は床に放り出された。床は大理石でかなり堅いから、打ち身になる。
ずっと腕に抱いておけとはいわないが、それだけは不本意だ。
「少しは加減しろ、馬鹿リッツ」
本人に苦情を言うと、リッツは苦虫を何十匹も噛みつぶしたような顔をした。
「馬鹿はどっちだ、馬鹿エド!」
「俺は王都からずっと前後に血の革袋を背負わされたんだぞ? 疲れてるのに加減なしか?」
「加減したっての! つうか、どれだけ俺が嫌いだてめえらは!」
思い切り素に戻って感情的にリッツががなり立てる。その手にあった物を、リッツは腹立たしそうに床にたたきつけた。その文字が書き込まれた紙の束は、ぱらぱらとめくれ、端々に先ほどリッツがのたもうた言葉が見て取れる。
「嫌い? とんでもない。俺はお前をちゃんと、パティの次には愛しているぞ?」
「嘘つけ! じゃあなんだ、あの脚本は! あああああ……アンナに嫌われた……アンナに嫌われた……もう俺生きてけねぇよ~」
フランツやジョーには嫌われてもいいらしい。
半分本気で泣きが入るリッツに、フードをかぶったもう一人の仕掛け人が颯爽とフードを脱ぎ捨てて高笑いする。
「ほほほほほ。いいじゃないの、あれだけ熱烈にエディを愛してるなら、アンナじゃなくてエディにこれから愛して貰いなさいよ。エディもあなたを愛してるようだし?」
堂々と言い放ったのは、エドワードの妻、パトリシアだ。全く悪びれる様子はない。我妻ながら、この演技力と、どこまでも自信に満ちた態度には頭が下がる。
「あの設定を作ったのはお前だろうがパティ! 何をぬけぬけと……」
「あら、あれほどエディに愛してるって連呼してくれなくてもよかったのよ?」
「うっ……」
「よくあそこまでいやらしく親友に触れるわよね、リッツ。あなた、どれだけエディが好きなのよ」
パトリシアの言葉にリッツが詰まる。エドワードとの演技に合わせる場所だけは、あの脚本もどきに台詞として書かれているが、それ以外の動き、言葉はほぼリッツの作り事だ。
まさかあの設定と、あのきっかけの言葉だけで、あそこまでリッツに愛されまくるとは、さすがのエドワードも考えても見なかった。
「お前を恋人に持つと、常にあんな感じなんだな。アンナも大変だ」
しみじみというと、リッツが真っ赤になって怒鳴った。
「やかましい!」
「リッツったらたらしね。男も女もたらし込んでるわ、最悪」
「うるせえって! 大体お前は、グレイグがいなくて、静かな王宮ライフを満喫するんじゃなかったのかよ!」
「そのつもりだったけど、こんなに面白そうな見世物、放っておけないじゃない!」
「面白いだと?」
「ええ。最高のバカンスになりそうよ。おーほほほほほ」
ひとかけらの迷いもなく、パトリシアが高笑いをした。対するリッツはぐったりと手で顔を覆ってうなだれている。
「だからって何で俺がエドに惚れてる設定だ……?」
「内戦の話をきっちり聞いてるアンナたちを騙すには、リッツがエディを裏切る話にできないじゃないの。内戦の話をどう聞いたって、リッツはエディに心も体も命も完全に全てを委ねてるんですもの。だったら愛故にリッツがエディを殺す方がありえるでしょ?」
「あり得ない! もし俺がエドを愛してたとしても、俺がエドを手にかけるなんて、万に一つもあり得ない! エドに手をかけるぐらいなら俺が死んだ方がましだ!」
「ほ~ら、それぐらいは愛してるじゃないの」
「がぁぁぁぁぁ! パティ!」
つかみ合う一歩手前と言ったところで、後ろに立ち並んでいた男の中から一人が前に出た。
「おやめください、大公妃様、閣下」
「とめるな、ケニーっ!」
「お止めしますよ。陛下も面白がらずに止めてください!」
そこにいるのは、ケニー・フォートだった。黎明館に先について、パトリシアと共に様々な準備を重ねてきたのは、彼らだ。当然ながらシャスタから、無茶をしでかすエドワードとリッツのお目付役も命じられているのだろう。つまりここに立ち並ぶ怪しげな男たちは、王国軍査察部の軍人たちなのだ。
当然ながらここにいる査察部は全員、元大臣であるリッツの正体を知っている。だからこそリッツがエドワードを斬り殺す演技中も、全く動じずに立っていたのである。
「もう俺やだ……これでアンナの信頼を全部失ったら、どう責任取ってくれるんだよ。四年かけてやっと本当の恋人関係に持ち込んだのに……」
がっくりとうなだれるリッツが面白くて、エドワードの中のいたずら心がうずく。
「アンナと俺の超スイートライフを返してくれぇ~」
手近にあった椅子を引き、疲れたようにドサリと腰を下ろしたリッツの背後に、黙ったまま歩み寄る。
「リッツ」
「ん? 何だよ、エド」
リッツが振り向く前にその身体を抱き、先ほどリッツにされたとおりに頬に甘く口づけると、完全にリッツが硬直した。先ほどの仕返しだ。死にかけの演技をしていたから、苦情を言えなかったエドワードの気持ちを思い知るがいい。ふとパトリシアを見ると、楽しそうににんまりと笑って頷いた。無言だが『やっておしまいなさいな』といっていることがよく分かる。
リッツは知らないが、再会後のリッツといる時、エドワードとパトリシアは、かなりの確率で色々な事項における共犯者なのだ。リッツに気がつかれぬように気心の知れた妻に笑い返すと、その特徴的な耳に息を吹きかけて低く囁く。
「俺が責任を取ってやろうか、リッツ。男を抱く趣味はないが、お前ならちゃんと愛してやれる自信があるぞ?」
とたんにリッツの髪が逆立った。思い切り肌が粟立っている。
「気色悪いこと言うな!」
「あれほど俺相手に愛してるを連発しておいて、その態度か?」
「ああそうだよ! ちゃんとエドを愛してるけど、意味が違うだろうが! 俺とお前は友達、親友、相棒だ!」
「それは残念だ」
しみじみとリッツを腕に抱いたまま耳元で低く囁くと、リッツが更に肌を粟立たせた。リッツと二人でいるときにここまで悪のりすることは絶対にないが、こうしてパトリシアがいると、どこまでもからかってやりたくなる。昔から変わらない、パトリシアを意識してのリッツの過剰反応が面白いのだ。こんな時のエドワードを人が悪いとリッツは言うが、そこは諦めて貰おう。
「その冗談はやめろ! とにかく放せ!」
「冗談? さてどこまでが冗談か分かるかな?」
「……へ?」
本気で目を丸くして考え込むリッツに吹き出した。反抗して過剰反応するくせに、そういう所は妙に素直だ。その昔のままの態度にいつも安堵する。
本当に、アンナには感謝しなくてはならない。彼女が傭兵として心をすり切れさせたリッツを、昔のように明るく癒してくれたのだから。
「安心しろ。俺もお前を抱きたいとは思わんよ」
「当たり前だろう!」
「だがまあ、お前が三十五年経ってようやく帰ってきて以来、抱き寄せられたのは初めてだったからな。そこは本気で嬉しかったぞ?」
真面目に言うと、リッツは言葉に詰まった。リッツの中の妙な遠慮には気がついている。自分が捨てた者たちへの後悔が、エドワードやパトリシア、シャスタと触れあうことを躊躇っているのも分かっている。
だがそのわだかまりが今日の演技の中に感じられなかったから、それが本気で嬉しかった。
「これからは昔のように、ちゃんと懐いてこい。可愛がってやるから」
「その言い方が気持ち悪い!」
「何をいうか。昔はよく抱きついて頬ずりしていたお前だったのに、いつの間にか大人になって……」
「やめろ~っ! 昔の俺を持ち出すな! それにガキ扱いするな! 俺はガキじゃねえ!」
暴れるリッツが面白くて、右腕を首に回して締め上げる。
「どこがガキじゃないだ、お前は未だに子供だ!」
「く、苦しい、エド! ギブ、ギブだって!」
もがくリッツに爆笑していると、冷ややかな声が降ってきた。
「もう、仲良しねぇ~。本当に憎たらしいこと。そう思わない、ケニー」
冗談に紛らわせているが、パトリシアは本気で嫉妬している。しまった、やり過ぎたかと思っても遅い。エドワードが羽目を外しすぎると、楽しんでいたはずのパトリシアが、むくれてへそを曲げてしまうのだ。
パトリシアはどうしてもリッツとエドワードの絆の方が、エドワードと自分の愛情よりも強いのだと信じて疑わない。いったいどうすれば夫として愛情を信じてもらえるのか、最近エドワードは困っている。
自分では十分に愛情を注いでいるつもりなのに、どうも通じていないようだ。
騒ぎ立てるリッツからそっと手を放し、パトリシアに微笑みかけると、ため息をつかれてしまった。
「……本当にもう……なっ!」
パトリシアの呟きが、小さな悲鳴に変わる。
「安心しろ、俺はパティも愛してるぞ」
音も立てずに立ち上がって、パトリシアに抱きついたのはリッツだった。
「リッツ!」
「うははははは。俺をからかった罰を受けろ~」
リッツがパトリシアに思い切り血にまみれた方の頬をすりつけている。
「ちょっと、やめなさいよ! リッツ! 汚れるじゃないの!」
「知るか! こうなりゃやけだ! 昔の片思い分まで全部まとめて甘え尽くしてやる」
「リッツ! やめなさいってば! ちょっとエディ、何とかして~」
「へへん。離すもんか。愛してるぜ、パティ!」
抱き合ってじゃれ合う親友と、その親友の元片思い相手を尻目に、エドワードはケニーの元に歩み寄る。
「それで、黎明館に居残っているのは何人だ」
「はっ。元査察官で軍を引退した者ばかり、男女合わせて五人です」
「そうか。彼らは上手くやるかな?」
「当然です。我々査察官は潜入捜査を最も得意としますから」
「それはよかった。では予定通りでいく」
「はっ」
ケニーの敬礼に頷いてからパトリシアとリッツに目を遣ると、まだ抱き合ってじゃれ合っている。心の中でパトリシアに苦情を言う。
君だって、俺といる時より、リッツといる方が生き生きとはしゃいで、数倍楽しそうじゃないか。
リッツ相手に嫉妬しても仕方ないのだが、あのパトリシアを完全に笑わせられるリッツが、少々羨ましい。パトリシアがリッツを羨ましがるのと同様にだ。
パトリシアもエドワードも静かな状況で、人に遠慮して育ってきたから、リッツの無邪気で開けっぴろげな性格を愛してやまない。だから傭兵を経たリッツも愛しているが、昔の天真爛漫なリッツを、二人ともこよなく愛しているのだ。
昔のエドワードを愛していたという、今回の芝居、本当はエドワードとパトリシアの気持ちと同じだ。昔の遠慮無く無邪気だったリッツを、我々は愛している。だから躊躇わず、何の遠慮もなく素直に感情をぶつけてきてもいいんだという、リッツへのメッセージなのだ。
おそらく夫婦二人で、夜中まで顔をつきあわせて考えに考えたこのメッセージは、リッツに伝わらないのだろう。まあ、それでもこうしてリッツが笑っているからよしとしよう。
何だか年を追うごとに、エドワードとパトリシアは、まるで親のようにリッツが可愛くなってきてしまっている。彼の行く先を見守りたいという気持ちが強くなって仕方ない。
こんな事を知ったら、リッツはきっと嫌がるだろう。あくまでもリッツに取ってエドワードは親友で、パトリシアは仲間なのだから。
でも親友でありつつ、兄でありつつ、親でもあるこの感情は、妙な物だ。精霊族のリッツと人間のエドワードならではの複雑な感情だろう。
「パティ、そろそろ服を交換しようか」
言いながら血にまみれた自分の服を脱ぎ捨て、ケニーが差し出した査察部の王国軍服を素早く身につける。
国王時代はリッツをファルディナに迎えに行ったとき以外身につけたことのないこの軍服だが、エドワードは王のローブより、こちらの方が自分にふさわしい気がしている。
そこにリッツからようやく逃れたパトリシアが、乱れた髪で、しかも息を切らせながら、かぶっていたフード付きローブを手渡してくれた。
「はい、エディ」
「楽しかったかい、パティ」
小声で聞くと、パトリシアは小さく笑った。
「ええ。とっても」
フードを手渡してくれたパトリシアの肩越しに、血塗られたリッツの姿が見えた。話の都合上、リッツは着替えることができないから、しばらくあの血まみれの姿のままだ。
そんな姿を見ていると、何だか妙な胸騒ぎがした。
「あいつはもし本当にこの状況になったら……俺を手にかけるかな……」
ぽつりとパトリシアに尋ねると、パトリシアが笑った。
「馬鹿ねぇエディ。エディを手にかけるなら、リッツは自分の胸を突くわよ。そういう思い詰めた所がある男だからこそ、エディは内戦が終わった後に、リッツを手放したんでしょう?」
「ああ」
「どちらかと言えば、お互いどちらかを殺さねばならなくなったら、リッツを殺すのはあなたでしょうね、エディ。リッツはあなたを殺して生きられないからエディはリッツが絶望しないようにリッツを先に殺すわ、きっと。そして国王という重荷が無くなった今、やるべきことをこなしたら、平然とリッツの後を追うのでしょう?」
そう言われると否定できない。唯一無二の大切な友を手にかけたなら、確かに平然と生きられる自信はなかった。
黙り込んだエドワードに、ため息混じりにパトリシアが呟く。
「ほうら、やっぱりリッツの方が大切じゃないの」
「違うな。もしもその相手が君なら、俺は自分で自分を殺すさ。君がそうするのと同様に」
穏やかに微笑みながらパトリシアの頭を抱き寄せて額に口づけると、パトリシアは頬を赤らめた。夫婦としてもう四十年ほど過ぎたというのに、こういう風に照れるところは、昔とちっとも変わらない。
「なんだよ夫婦でいちゃいちゃしちゃってさ。俺なんてアンナに嫌われたかもしれないのに……」
後ろから暗い声が聞こえた。リッツが恨みがましい目でこちらを見ている。そんなリッツについつい吹き出した。
「何をいってるんだお前は。アンナに、自分が本気ではないとヒントを与えていただろうが」
リッツが、まずいという顔をして視線をさ迷わせる。
「あなた……そんなことをしたの?」
パトリシアが目を丸くした。たじたじとリッツが後退する。
「え、あ、へへ、ばれた?」
「それで計画が台無しになったらどうしてくれるの、リッツ!」
「ほんのちょっとだよ! たぶん……分かってくれないと思うし……。だって完全にアンナ、俺を蔑んだ目で見てたもん……」
がっくりとリッツは再びうなだれた。
「アンナぁ、俺を嫌いにならないでくれぇ……」
悲痛な声を上げるリッツに、エドワードは笑った。アンナはきっと早々にリッツのヒントで謎を解くだろう。そしておそらく、協力者になってくれるはずだ。
リッツは自分の恋人の、すさまじい知力の高さに全く気がついていないらしい。
何しろ彼女は女神と同一だ。
「陛下、閣下、三十分経ちます」
ケニーの緊張感に満ちた声に、エドワードはすっぽりとフードをかぶった。リッツは大剣を置き、エドワードの剣をベルトごと身につける。今回エドワードの剣はいつもの物とは違い、刃が付いていないなまくらだ。
「んじゃ、またお前を愛してる演技をしようかな」
そういいながらため息混じりに頭を掻いたリッツの肩をぽんと叩く。
「ああ。しっかり俺を愛してくれよ。俺はお前の配下を演じてやるからな」
フードの男があの場にいたのは、このためだったのだ。エドワードが直接グレイグ見守れるようにと考えた策だ。
「じゃあ、行ってくるよ、パティ」
「行ってらっしゃい。私もこっそり見てるわね」
「IT'S Showtime!」
おどけた血まみれのリッツに、肩をすくめてエドワードはパトリシアに片眼を瞑った。