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黎明館へようこそ!<2>

 王国歴一五七七年八月中旬、馬車はのんびりとシアーズ街道を走っていた。このまま北上すればあと少しで王室の公式な保養所である黎明館だ。

 ジョーはため息混じりに頬杖を付いた。

「何の因果かなぁ……」

 大体、もともとのジョーは孤児だ。それなのに何の因果でこうして王族二人と馬車に乗り合わせて、しかも王族の保養地に農作業をしに行こうというのだろう。しかもこんな気まずい空気の時に頼みになりそうなアンナは、全く使い物にならない。

 ため息をつきながら親友のアンナを見ると、アンナはリッツの膝に両手を伸ばしてその上に頭を載せて完全に眠っていた。どうやらリッツは昨夜、アンナを寝かさないぐらいに激しく抱いたのだろう。だから今朝のアンナは完全にふらふらな状態で、馬車に乗り込んだ最初のうちからうとうとと居眠りをしていて、あっという間に恋人の膝に頭を載せて眠ってしまったのだ。

「師匠」

 ため息混じりに窓の外を見ているリッツに声をかけると、師匠リッツは大きく欠伸をしながらジョーを見た。

「んあ?」

「今日出かけるってのに、アンナに対して扱い酷くない?」

「仕方ねえだろ。理性ぶっ壊れちまうぐらい可愛いんだから」

「アンナは表向きあたしと同じ十七歳だよ?」

「それを言われると、俺のアンナに対する獣っぷりに身震いするなぁ……」

 どうやら自覚はあるらしい。でも次の瞬間、リッツはだらしなく破顔した。

「でもまさか純粋無垢なアンナが、抱くことでこんなに色気のある、艶っぽい女になるとは、予想外だった。俺の方が完全にアンナの色気にやられてる」

「え~、想像付かないよ」

「ついてたまるか。あの色気たっぷりの顔は俺だけのもんだ。そもそも俺はこいつしか見えねえし」

 しみじみと呟くと、リッツは完全に安心しきって眠っているアンナの頭を、本当に愛おしそうに撫でた。アンナは微かに身動きして、幸せそうにリッツの太ももに頬をすりつけて眠ってしまう。

「もう俺は、こいつ以外に欲情しねえし」

「え~? 本気かよ、師匠?」

「ああ。きっとなジョー、俺はアンナ以外の女には今最も安全な男だぞ? どれだけ粉かけられても、どれだけ色気むんむんで迫られても、全く欲情しない自信がある。男としてどうだ、ってぐらいには」

「へぇ……」

 どれだけののろけだ、それは。呆れながらも肩をすくめると、リッツはさらりととんでもないことを呟いた。

「だからアンナに色目を使いやがる軍学校のガキ共は片っ端から痛い目を見せてやる。もちろん、剣技の授業で」

「大人げなさ過ぎだろ!」

「アンナに関しては大人げなんてあるもんか」

「ひ~っ、鬼か師匠!」

 くだらないやりとりをしていると、ひとこと突っ込みが入った。

「うるさい。眠れない」

 視線を向けると、アンナと同じようにうとうとしていたフランツだった。勉強魔のフランツなのだが、馬車の中で本を読んだりしないようで、いつもは手元にある本を開いたりしていない。アンナ曰く、『気持ち悪くなるんだって』ということらしい。

「そんなことないだろうフランツ。お前の友達はぐっすり寝こけているぞ」

 リッツが指さす先には、座ったまま天井を向いて大口を開けて眠っているグレイグの姿があった。グレイグは退屈に弱くて、馬車に乗るとすぐに寝るらしい。普段からでかい身体で中身が子供のグレイグをもてあまし気味のフランツが、深々とため息をついた。

「……静かでいいだろ」

「まあな」

 いいながらグレイグの祖父であるエドワードを見たリッツは、楽しげに笑う。エドワードは馬車の窓枠に片腕を置いたまま、微かに船をこいでいるのだ。

「珍しくエドも寝てるし」

 何だかエドワードを見たリッツの口調がいつもよりも少し冷たく感じられた。あれ、と思ったときにはいつもの表情に戻ったリッツが馬車の外へと身を乗り出した。

「お、黎明館だ」

 指さされた方を見ると、そこには生け垣で囲まれた農場があった。遠くから見てもかなり広大だと言うことが分かる。そのずっと奥に、四階建ての立派な建物が霞んで見えた。

「師匠、あれ?」

「そ。あれが黎明館さ」

 そんなやりとりの間も馬車はどんどん進み、『国営農場』の看板を通り過ぎ、やがて堂々たる偉容を放つ黎明館の前に付いた。眠っていたアンナを優しく起こし、エドワードとグレイグをたたき起こしたリッツが、真っ先に馬車から降りる。

「あ~肩こった。馬車って俺にはむかねえんだよな」

 大きく伸びをするリッツの隣に、エドワードが立った。二人の大きな背中が目の前にある。二人の英雄に憧れるジョーには、何だかその光景がものすごく感動だ。この二人が談話室で喧嘩をしたり笑い合っているのはよく見るが、こうして外で並んで立っているのは珍しい。

 見とれていると不意にリッツがエドワードの耳元に何かを囁き、エドワードが笑った気配がした。そんな親密さは一瞬ですぐ何事もなかったようにかき消える。

「ん?」

 何だか妙な違和感がある。馬車の前で全員がしばらく立ち尽くす。本当なら黎明館の人々が降りてきて荷物を片付けてくれるはずなのに、誰も出迎えがいないのだ。

「おかしいな」

 いつの間にか近くに来ていたグレイグに耳元で囁かれた。

「わっ! 殿下!」

「冷たいなぁジョー。俺のことはグレイグって呼べってば」

 耳元に暖かな息を吹きかけられて、思い切り飛び退く。そういえば同い年のグレイグは女性の噂に事欠かない。気がつくとあっさりと腕を腰に回されていた。しかも自分の手はグレイグの手の中にある。慌てるジョーの指先に、グレイグが口づけた。

「で、殿下?」

「せっかく一緒に来たんだから……君との仲も進展したいな、ジョー……いてててててっ! 痛い、フランツ!」

 女を口説く甘い口調が突然いたずらっ子に変わる。見るとフランツが思いきりグレイグの耳を引っ張っているところだった。

「誰彼構わず女と見れば口説く癖をやめろ、グレイグ」

「何だよ、恋愛は自由だろ」

「確かに自由だが、ジョーはやめておけ」

「え~。何でだよ? お前がジョーを好きなんじゃねえの? それとももうつきあってんの?」

 からかわれた瞬間、フランツは顔をしかめ、ジョーも眉間にしわを寄せてしまった。

「なんでこいつと?」

 同時に同じ事を呻き、ジョーがフランツを指さすと、同時にフランツに指さされていた。

「だって仲いいじゃん? 付き合っちゃえよ」

 面白そうにニヤニヤされて、思い切り不機嫌になった。言っていい冗談と悪い冗談があるが、この手の冗談をフランツは一番嫌う。

「冗談じゃない。僕とジョーじゃ水と油だ。例え太陽が西から昇ってもあり得ない」

「なんだぁ、つまらないな。ジョーは?」

「当然、願い下げです」

 第一フランツは優しくない。だからジョーにその選択肢はありえない。付き合うなら、絶対に自分を好きになってくれる、大人で優しい人がいいに決まっている。

 ちらりとまだ目をこすっているアンナを見る。

 アンナみたいに心の底から愛されてみたいなぁ……。もちろん師匠みたいな人じゃなくて、優しく甘えさせてくれる人に。

「お、ジョーはもしかしてリッツが好きだったり?」

「師匠としてはいいけど、あんな甘えた性欲魔人は絶対に嫌です」

 ジョーの一言にグレイグは大爆笑し、フランツは肩をすくめた。

「お前ら今、俺のことを言ってるだろ?」

 人間に比べてよく聞こえるというリッツが、不機嫌そうに振り返ったから、余計笑いがこみ上げてくる。

「いってないっす」

 陽気に答えると、リッツは顔をしかめた。

「うそこけ」

 ボソッと呟いてリッツは再び前を向く。そんな師匠が面白くて、吹き出しそうになった。

 ジョーの中でリッツに恋する選択肢は皆無だ。何しろリッツとジョーは似ている。育ち故か、ものすごく愛されたい願望が強いのだ。愛されたい同志が愛し合うことは絶対に不毛だ。

 リッツに取ってのアンナみたいに、心から愛してくれる人を見つけて、その人に包まれてみたいというのが、ジョーの切なる願いだ。

 その愛してくれる人の候補には、フランツやグレイグ、リッツ、当然エドワードは含まれない。

 とりあえず今一番愛しているのは、剣だ、といえるだろう。ヘレンなどには『色気のない!』といわれるのだが、本心なのだから仕方ない。

「黎明館の様子がおかしいから、とりあえず入ってみるが?」

 不意にエドワードに呼びかけられて、我に返って口を閉じる。馬鹿馬鹿しい恋愛話に花を咲かせていた若手と違って、リッツとエドワードは黎明館の様子をうかがっていたらしい。ジョーも気になって黎明館を見つめる。

 黎明館って国営農場の中にある王族の保養所で、普段から沢山の人が働いていると聞いているのに、中からは人の気配がしない。少し不安になってアンナを見ると、アンナもじっと黎明館を見つめているのが分かった。アンナは確かリッツとフランツとエドワードと共に前に泊まったことがあるはずだ。

「アンナ」

「何?」

「前もこんなに静かだったの?」

 小声で聞いたのだが、全員が黙っているからよく通ってしまう。

「そんなこと無いよ。前に来たときはすごく賑やかで……ね、エドさん?」

「ああそうだな。あの時は特別に人が多かったが、今日だって十人以上はいるはずだ」

 十人以上の人がいて、大公と王太子が着いたことに誰も気がつかない物だろうか。何だか薄気味悪くなって再び黎明館に目を遣ると、リッツの声が耳に届いた。

「……覚悟を決めといた方がいいかもしれないぜ?」

 そう言いながら振り返ったリッツは、いつもとは違う表情を浮かべていた。見たことのない顔だ。でもその顔を見たアンナが一瞬息をのむのが分かった。

「……アンナ?」

 小声で問いかけると、アンナが呟く。

「傭兵隊長の顔だ……」

「え……?」

 聞き返す間もなく、リッツとエドワードが黎明館の入り口に向かっていく。危険な状況ではこの二人、息がぴったりと合う。それがジョーの憧れる英雄二人なのだ。思い切り自分の憧れの世界に浸っていると、後ろからフランツにつつかれた。

「先に行くよ」

 気がつくと一人で取り残されていた。慌ててジョーはみんなの後を追う。軍人志望のジョーとしては、体力の全くないフランツよりも先に行かないと、格好が付かない。

 ジョーが追いついた時、リッツが迷い無く扉に手をかけていた。黎明館の両開きの扉が、力任せに思い切り引き開けられ、薄暗い建物内にさっと眩しい昼の光が差し込んだ。覗き込むと、扉の軋む音と共に、内部の様子が明らかになる。

 その光景が目に見えた瞬間、身体が竦んで動けなくなった。言葉が出てこず、耳の奥でつーんと耳鳴りが聞こえる。

「……これは……何事だ?」

 エドワードのうめき声に似た声が耳に入って、我に返った。

「ただ事じゃねえってことだけは確かだな」

 答えたリッツが、玄関ホールに入り、床にかがみ込んでホールの大理石の床を汚す一面の緋色に触れた。玄関ホールは、血の海だったのだ。

「……まだ乾いてない。行ってみるか?」

 振り返ったリッツに、エドワードが当然のように頷く。

「使用人たちが心配だな」

「ああ。エド、俺が先に行く」

 考え込むエドワードを庇うようにリッツが大剣を抜いた。

「ああ。君たちは、どうする?」

 静かに尋ねたエドワードの目を見て、とんでもない事態が起こっていることが分かった。旅慣れているアンナとフランツを見ると、アンナはリッツをじっと見据えていた。フランツは青ざめつつも手に炎の槍を握りしめている。

「俺も行きます、お祖父様!」

 全員の重い雰囲気を吹き飛ばすように、勇ましくそう言ったのはグレイグだった。フランツとアンナもつられるように頷いている。ジョーも静かに頷いた。一応軍学校の剣技クラスで主席だ。動じて立ちすくむわけにはいかない。

 屋敷の中に足を踏み入れたジョーは、周りに気を配りながら足音を忍ばせて歩く。だが大理石の廊下を平然と歩いている前の二人は、足音を忍ばせたりはしない。悠々と歩いているのだ。そんなリッツとエドワードの背中がとても大きく感じる。こんな状況でも二人はまるで動じていない。

 軍に入り、どんな職種に就くか分からない。ジョーの希望は今のところ尊敬するアルトマン校長が所属していた憲兵隊だが、その現場はこんな場所が多いはずだ。だからジョーだって動じていられない。

 長々と続く廊下には、何かを引きずった血の跡が延々と続いている。リッツとエドワードはそれを迷い無く追っているのだ。微かに視線を向けると、ジョーの横にはアンナがいて、後ろにはフランツとグレイグがいる。

 剣を抜いたグレイグは、緊張感に目を泳がせていた。昔よりも剣技に落ち着きがあるといわれているが、グレイグの剣技は未だ未熟だ。正直に言って、今のジョーなら打ち負かせる自信がある。

 だからいざとなったら、リッツを師匠に持つジョーが何とかしなければならない。大丈夫。リッツの剣技なら、普通の犯罪者を叩くだけなら申し分ない。

 緊張感で全身が強ばりつつもすすむジョーの前で、リッツとエドワードが足を止めた。そこは両開きの扉の前だった。血の跡はその閉じられた扉の向こうへと続いている。そこには金の枠飾りが付いたプレートが取り付けられていた。

『円卓の間』

「ここ、前に会議をしたところだね」

 アンナが前にいたリッツに語りかけた。

「ああ。俺をどう逃がさずに大臣に仕立て上げるかっていう会議のな」

 振り返ることなくそういったリッツが、迷い無くその扉を開ける。部屋の中は明かりが付いておらず、薄暗い。明るい廊下にいたから、一瞬室内の様子が分からなくて、目を細めてしまった。

 だがエドワードはそんな状況に慣れっこなのか、どんどんと中に入って行ってしまう。珍しくリッツはそれを止めなかった。何だかそんなリッツの行動に違和感がある。

 だが次の瞬間に、ジョーはその部屋には数人の男たちがいる事が分かった。エドワードに付いて飛び込もうとしたグレイグとジョーは、扉の前に立っていたリッツに制された。

「お前らじゃ足手まといだ。そうだろう?」

 静かに笑うリッツにぞくりとした。何だろう。直感がリッツの態度をおかしいと教えている。

 でも師匠であり教官であるリッツには逆らえずに、ジョーはその場に止まった。この間の騒ぎがあったからだろう、グレイグも素直に従う。

 部屋の中央に進んだエドワードの元に、悠々と大剣を抜き身で下げているリッツが歩み寄っていく。リッツが一緒にいるならば、とりあえず安心だろう。ようやく一息ついたところで、エドワードのよく通る声が耳に届いた。

「ここが王家の保養所と分かっての事か」

 静かに怒りを込めたエドワードの誰何が響く。だが男たちは黙ったままじっとこちらを見ていた。男たちの前には、ローブを着た男が一人立っている。

「お前が首謀者か?」

 問いかけたエドワードが一歩前に出たその時だった。攻撃は思いも寄らぬ方向からしかけられたのだ。

 その一瞬は、素早すぎて目に見えなかった。

 だが次の瞬間、目の前が赤く染まる。何が起こったのか分からずにジョーは固まった。その赤いものが血飛沫で、目の前のエドワードの背中から吹き出していると気がつくと、全く動けなくなる。

「陛下……?」

 フランツの誰何する声、そして目の前には、血塗られた大剣から、悠々と血飛沫を払うリッツの姿がある。

「え……師匠?」

 問いかけた声は声になっていたのか、自分では分からない。息が漏れただけだったかもしれない。

 だって……あまりに信じられない光景がそこにあるから……。

「残念だエド。そいつは首謀者じゃない」

 笑みを浮かべて、リッツはローブの男に笑いかけた。すると、軽くローブの男が手を上げた。

「そんな……嘘だ……」

 グレイグの呟きが耳に入った。隣にいるグレイグも同じように動けずにいるようだ。

「首謀者は……俺だよ、エド」

 よろめき、膝を突くエドワードの背に、冷ややかな言葉を浴びせたのは、血を払った大剣を静かに背負うリッツだった。

「リッツ……お前……」

 エドワードが口の端から血の筋を垂らしながら、絞り出すようにリッツを見据えた。リッツは先ほどと同じような冷酷な瞳でエドワードを見下ろす。

「油断してたろ?」

「ふっ……油断した……」

 エドワードはこの状況なのに、口元に笑みを浮かべている。信頼していたリッツに刃を向けられたことに笑うしかないという顔だ。

 助けないと、エドワードを助けないと。そう思うのに、信じられないことに、ジョーの身体は動くことを全て拒否した。

「動け、動け、動いて……」

 小さく口の中で自分に命じる。でも身体が全く動かなかった。

 そんなジョーに変わって、最初に動いたのはアンナだった。アンナは迷い無くリッツに向かって白熱する水の球を打った。アンナの最近の訓練のたまものだ。普段のリッツならその球を受けて吹っ飛ぶ。

 それを期待して、祈るような気持ちでいたのに、期待はあっさりと裏切られた。目の前のリッツは、いつものへたれなリッツとは、まるで別人だったのだ。

「水の球か……」

 静かに笑い、リッツは大剣を盾のように使い、水の球をはじき飛ばした。

「甘いなアンナ。俺を倒したいなら本気でこい。お前の技は全て分かってる」

「……リッツ……何で……」

「何で、か。それを聞きたいかな、俺の女神」

「リッツ……」

「知って後悔する事実もある。お前は身をもって知ってるだろうに」

 動揺するアンナの横から、フランツの炎の矢が飛び出しリッツを襲う。だが全く動じることなくリッツはそれを全て大剣で防いだ。今までそれを大剣で受け止めることなど誰も見た事がなかったから言葉も無い。

「くそっ! 僕の技も簡単に見切られてるって事か」

「ああ。五年も一緒にいるんだぜ? 当たり前だろ」

 そして初めて気がつく。

 リッツは……今まであえて彼らの前で全力を出すことをしなかったのだと。だがリッツの気が逸れた瞬間を狙って、エドワードが反撃に出た。リッツはあっさりとその反撃を大剣で受け止めた。

 流れ落ちるエドワードの血がしたたり落ち、大理石を赤く染めていく。

「お前……何故……?」

 呻くエドワードに、リッツは大剣を合わせたまま首を傾げる。

「何故? 分からねえかなぁ?」

 リッツが素早く身を沈め、大剣でエドワードの腹を一凪した。腹からも血が流れ落ちる。エドワードの剣がからからと音を立てて床を滑っていった。

 がっくりとエドワードは床に膝を突いた。そんなエドワードの前に、リッツは音もなく跪く。

 荒い息をつきながら、エドワードがかろうじて微笑みを浮かべてリッツを見た。

「分からんな。教えてくれるか?」

 いつもリッツに問いかける口調と寸分違わない口調だ。でも血は止めどなく流れている。

「じゃあ教えるよ」

「ああ……」

 痛みに息を詰まらせながら頷くエドワードの顎に、リッツは軽く指をかけたて上に向かせた。そして自分を見据えるエドワードを、吐息がかかりそうなほど至近距離から覗き込む。

「知ってた、エド。俺、お前のことを愛してるんだぜ? 誰よりも」

 あまりの言葉に、ジョーは絶句し、目を見開いた。隣でグレイグも小さく息をのみ、フランツも小さく息をつく。

 アンナは呆然と立ち尽くしていた。それはそうだろう。今までリッツはアンナの恋人だった。なのに唐突にこんな事になるなんて誰が想像しただろう。

「といっても、当然、四十年前のお前をだけど」

 そういったリッツは考えられない表情をした。苦痛に顔を歪めるエドワードの頬を優しく撫でながら、無邪気に笑ったのだ。

「俺にとって、あの頃のお前は精霊王に等しいほど、まばゆい、俺の救いの神だったんだ。だからずっとお前に憧れてたし、焦がれるほど愛してたよ。気付かなかった、エド?」

 子供のように楽しげにいいながら、リッツはどこからと無く取り出したいつものナイフで、エドワードの手を突き刺す。小さく声を上げたエドワードに、微かに申し訳なさそうに、リッツが謝った。

「悪い。お前の実力分かってるし、反撃されんの嫌だから。痛いよな? 傷つけてごめんな」

 言葉と行動の差にぞっとする。背筋がぞわぞわと泡立って来た。リッツは正常じゃない。完全に狂ってる。

「リッツ! いい加減に……っ!」

 叫んだフランツに、リッツはナイフを軽く手の中でもてあそびながら笑う。

「いい加減に何だ、フランツ? そこから動くなよな。ジョー、グレイグ、アンナもだ。お前らが駆けつけるのと、俺がエドの首を掻ききるの、どっちが早いと思う?」

「……分かった動かない」

 悔しそうに唇を噛み、フランツがその青い瞳に怒りを燃え上がらせた。でもリッツはせせら笑うだけだった。

「つうか、本当はお前ら邪魔なんだよなぁ。エドと二人きりになりたいのに。ま、許してくれないか」

 楽しげにそう言うと、痛みを堪えて動けずにいるエドワードの長い髪を、ゆっくりと持ち上げて、リッツはそっと口づけた。それから優しく髪に頬ずりする。そのあまりに色気に満ちた動作に、恐怖感がこみ上げる。

 リッツなのに、リッツじゃない。

 これ、誰だ。

 恐怖感がじわじわと忍び寄り、汗が額から流れてきた。それでも動けない。「髪、伸びたよなぁ。俺は短い方が好きだったけど。まあ、国王は長いって決まりだもん、仕方ねえか」

 のんびりとしたリッツの問いかけに、エドワードが苦痛の中で笑みを浮かべた。

「俺も短い方が好きだが……仕方ないさ」

「うん。そうだね。外見が変わるのは仕方ない。お前は人間で国王で、俺は精霊族だし。でもさ、宗旨替えはどうかな」

「……宗旨替え……?」 

「ああ。昔のお前が抱いていた理想を俺はずっと大事に抱えてる。今でも俺はあの頃のことを夢に見るんだ。でもさエド、これはねえだろ? ジェラルドまではまだ許すよ。でも俺、グレイグを許してないよ? こいつはあの頃のお前の理想を壊す。この国を歪める。こいつはハロルドになりかねない」

 にっこりと微笑んでリッツはこちらを見た。その視線は間違いなくグレイグに向けられている。グレイグがよろめくように一歩下がったのが分かった。

「俺の……父親か……」

 苦しげにエドワードは呻いた。

「うん。エドの母親を犯して連れ去った、最低最悪な身勝手男だ」

「……はは。確かに……」

「だから悪いけど、グレイグを消すよ? だってこいつの未来に期待できる? 王族であって当然、人がかしづくのが当然。そんな暮らししてんだもん」

 いいながらもリッツは、ずっとエドワードの髪に指を絡めて玩んでいる。ようやく手に入った大切な玩具のように、大切に愛おしむように。

「そんで悪いけど、お前も殺す。だってお前はもう、俺が全てを捧げたエドワードじゃないから」

 リッツの手が再び大剣にかかる。その気配に、アンナが叫んだ。

「リッツ!」

 立て続けにアンナの手から放たれた水の球を、リッツは迷い無く大剣で受け止めた。そしてにっこりとアンナに微笑みかけた。その笑顔にアンナが怯むのが分かった。

「アンナ、俺が救世の英雄だって覚えてるか? 意外と俺は強いんだぜ?」

「覚えてるよ。当たり前でしょう。私、リッツの恋人なんだから……」

 声を震わせるアンナに、リッツは限りなく優しく微笑んだ。

「そうだよな。うん。俺ちゃんとお前を愛してるよ。エドの次に」

「リッツ……」

「ちょっと待ってろよアンナ。年を食って考えが変容したエドを殺したら、お前をこの国の女王にしてやる」

 場に不釣り合いなほどにこやかなリッツに、アンナは声を震わせて叫んだ。

「嫌! そんなのいらない! エドさんを放して!」

 そして立て続けにアンナは水の球を放った。ことごとくリッツには届かない。

「そっか、残念。お前にはこの国の先行きを見守って貰う試練を果たして欲しいのに」

「試練……」

 一瞬アンナの口調が変わった。

 でもその言葉は同時に放たれた炎の矢で消え去った。今度こそリッツはしのげないだろうと思った瞬間に、何かに押し戻されるように、無数の炎の矢は空中でかき消された。

「え……?」

 呆然とするフランツにリッツが笑った。

「残念。こちらには風使いがいるぜ?」

 視線を前に向けると、ローブの男が杖を突き出した所だった。

「俺、精霊使いのダブルだ。勝てると思うならかかってこい。その前に、エドの首が飛ぶけどな」

 剣を持つ手が震える。リッツはジョーの師匠だ。敵うわけなんてないのが分かっているから、飛び出すこともできない。

 そんな中でリッツは愛おしそうに、血だまりに沈みかけたエドワードを抱き起こした。力が入らないのか、抵抗もしないエドワードをその腕にしっかりと抱きしめ、優しく腕を背中に回して囁く。

「なぁエド。この国、貰っていい? あの頃のお前が描いた理想の通りに、俺がお前を演じきるよ。俺はこの国の誰よりもお前を知ってる。お前だけを信頼してるし、心からお前を愛してる。だから眩しく輝いてた、あの頃のお前の理想通りにこの国を動かしていく。駄目かな?」

「お前に……何ができる」

 苦しい息の中で呻くエドワードに、リッツが笑った。

「死なないで国を治められるよ。少なくとも……八百年はね」

「人は生きていれば歪む……」

「そうだね。俺も歪むだろうな。今みたいにさ。それとも俺はとっくに歪んでいるのかな。だって最愛の人を手にかけちまったし」

 リッツは、大切そうにしっかりとエドワードを抱きしめた。

「つうか好きだから許せないんだよ。愛してるから許せないんだエド。昔のお前に今のお前が泥を掛けるようなことがな」

 足ががくがく震える。二人の昔話をずっと聞いてきた。だからこのリッツが、エドワードの知っている昔のリッツなのだと言うことが分かる。

 あの頃の自分をさらしたくないといっていたくせに、もう自分を隠していないリッツに怯える。

 そう二人の昔話に出てきたのは、傭兵になって、逞しくなる前の、どことなく危うさを秘めた、殺して貰いたがりの精霊族の青年、リッツの姿だった。

 ここにいるのはあのリッツだ。

「それにこれっていい考えだと思ったんだ。このまま行けば、もうすぐエドは死んじゃうじゃんか、俺を置いてさ。だったら今、俺がお前を殺してお前に成り代わった方がよくないか? だって……お前が死んだことにならない。俺がお前になる。お前は俺になる。どうかな?」

「リッツ……」

「一緒に死ぬのもいいけど、俺の手でお前を殺めて、永遠を手にしてもいいかなって思ったんだ」

 そういうと、リッツは片手に瀕死のエドワードを抱いたまま、もう片手で懐から短剣を取り出した。

「二人きりってのがよかったけど、まあ贅沢も言えないよな。大勢ギャラリーはいるし」

 ボソッとリッツが文句を言う。でもその目が完全に据わっていて怖いぐらいだ。

「さあ、しゃべりすぎたかな。これで終わりにしようか」

 リッツは本当に嬉しそうににっこりと微笑んだ。今までのリッツなら考えられない表情だ。

「エド」

「ん……?」

「愛してるぜ」

 きっぱりとリッツはそういった。完全に諦めたように、エドワードは目を閉じる。

「お前の愛情はよく分かった……」

「伝わってよかった。じゃあ……もういい?」

「嫌と言っても殺すんだろう?」

「うん」

「待って、リッツ!」

「やめろ!」

 アンナとフランツの叫びと、リッツの静かな言葉が重なった。 

「お休み、エド」

 そういうと、リッツは全員をゆっくりと眺めてからエドワードの頬に優しく唇を寄せた。甘くその頬に口づける。

 リッツの手の中にあった短剣が、鈍い光を放った。次の瞬間には、その短剣が、深々とエドワードの胸に突き立っていた。

 血に塗れたエドワードの身体がびくりと大きく痙攣してから、やがて力を失う。

「……お祖父様!」

 叫んだグレイグに、エドワードの血に塗れたリッツが禍々しい微笑みを向けた。エドワードの身体から血塗られた短剣を抜き取ると、滴る血をゆっくりとなめ取る。

「リッツ! 貴様!」

 叫んだグレイグに、リッツはにんまりと笑う。口の端を歪め、ダークブラウンの瞳に暗い影を落としながらの笑みは凄惨だった。

「さ~て王太子殿下、狩りを始めようか」

「狩り……?」

「人の一世一代の告白を聞いていなかったわけじゃねえよな? お前を消すって、言ったろう?」

 グレイグが息をのんだ。フランツがさっとグレイグの前に立ち、リッツに向かい合う。

「陛下を殺しただけじゃ足りないのか?」

「ああ。グレイグを殺さないと意味がない」

 そう言いながらリッツは穏やかにローブの男を見遣った。それから納得したように頷く。

「ああそうだ、ゲームをしよう。確か賭け事は好きだよな、グレイグ。街の賭場に身分を隠して出入りしているぐらいだし」

「くっ……」

 グレイグが歯ぎしりをした。そんなことは初耳だったのか、フランツが眉をしかめる。だがお構いなしにリッツが言葉を続けた。

「家の扉は外から封じさせた。俺の許可があるまで開かない。逃げ出すのは不可能だ。つまり狩り場はこの黎明館の中限定、ということになる」

 妙に遠い現実感の中でぼんやりと見ているジョーの前で、完全に動かなくなったエドワードの髪を、血塗れの手で撫でていたリッツが淡々と説明している。

 この人物は、ジョーの師匠リッツ・アルスターではなかったか? こんなに冷静沈着で、こんなに狂気に満ちた人だったのか……。

「この館にはまだ使用人が数人いる。そしてお前の臣下がフランツ、ジョー、アンナの三人。俺はエドの血統を絶つためにお前を狩り出す。お前らが俺を殺せればお前らの勝ち、そして俺が使用人を含めて全員を狩り出し、口を塞いでしまえれば俺の勝ちだ。俺は全員が死に絶えた後、悠々と悲劇の英雄の顔をして王都に戻る。そして……ユリスラを手にしてやる。お前らに阻止できるかな」

「そっちのお仲間は何人いるんだよ。公平じゃないだろ?」

 かすれた声で問いかけるグレイグに、リッツは淡々と返す。

「俺とあいつで十分だろう。本当は俺一人で十分だが……精霊使いが二人いるしな」

 リッツは満面の笑みを浮かべて、腕の中のエドワードをもう一度抱きしめた。

「こいつら片付けたら綺麗にしてやるから、待ってろよ、エド」

 怖すぎる……。ジョーは自分が全身を振るわせて怯えていることに気がついた。憧れの二人がこんな悲惨すぎる結末を迎えるなんて、夢にも思わなかった。

 やがて満足したのか、リッツはエドワードを床に放り出すと立ち上がって笑った。

「狩りの開始は三十分後だ。逃げるなり隠れるなり反撃するなり、好きに決めろ。時間は無制限だ」

 不意に腕を捕まれて振り返ると、見た事がないぐらい真剣な表情のグレイグがいた。

「殿下……?」

「リッツ!」

「ん?」

「俺だけを殺すという選択肢はないんだろうな?」

 あまりに自己を犠牲にした一言に、ジョーは目を瞠る。いつものグレイグからかけ離れた言葉だったからだ。でもそれに対するリッツの答えは冷淡だった。

「無い。俺を殺すか、俺が全員を始末するか。二者択一だ」

 悠々と笑うリッツに、グレイグは背を向けた。

「行くぞ、フランツ、アンナ、ジョー。作戦を立てる。悪いが俺は……リッツを殺すしか選択肢がないようだ」

 腕をつかまれたまま、ジョーは部屋から連れ出された。扉が閉まる直前に聞こえたリッツの声が耳に残った。

「さあ、楽しくなってきたな、なあ、エド?」

「師匠……嘘だろ……」

 呟きは誰の耳にも届かず、夢のように明るい廊下に消えた。

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