あの日、あの夜<7>
リッツはため息をついて一人、食堂の自分の席に座っていた。目の前には自分で入れたコーヒーがぽつんと一つ置かれている。シャツを一枚羽織ったままで、何とかズボンをはいてきた状態だ。
いつもは朝食の準備を始めるアニーが忙しく歩き回っている時間だが、そのアニーはリッツの部屋でアンナの着替えと手当をしてくれている。
昨夜はやりすぎた。
初めてのアンナを、一晩で幾度も抱いてしまうなんて……あり得ない。一度許してくれただけでも、とんでもなくありがたくて嬉しいのに、始めてしまったら、とどまることが出来なかった。
痛がる彼女に何度押し入り、幾度攻めただろう。我に返ると、申し訳なさで穴があったら生き埋めにして欲しいぐらいだ。
そのあげくアンナは今朝方から熱を出してしまい、狼狽えるリッツを助けてくれたのは、クレイトン邸で最も早く仕事を始めるアニーだった。
アニーは状況を見て素早く判断を下し、リッツにアンナを抱えさせて手際よく血にまみれたシーツを引きはがすと新しいシーツに変えた。
その上でお湯を沸かすようにリッツに命じてお湯を持ってこさせ、アンナの体を綺麗に拭いて、夜着を着せてくれているのだ。
お湯を持ってきたリッツは、アニーにあっさりと部屋を追い出されてしまった。さすがにアンナの出血の治療を恋人とはいえ男に見せられなかったのだろう。
お互いの合意の元でしたことだけど……いくら何でもやりすぎだった。
ぼんやりとため息をつきながらコーヒーをすすっていると、珍しくフランツが降りてきた。そういえば今日は火の曜日。学校に行く日なのだからこの時間に起きてきて当然だろう。
「よう」
「あ……おはよう」
昨夜何があったのか察しているだろうフランツは、そういうとリッツの向かいに座った。いつもの席だ。
ちなみにリッツの隣はアンナで、フランツの隣はジョー。ジョーの隣はエヴァンスだ。食事をとらないアニーは滅多に席に着かないが、付くとしたらアンナの隣となっている。
「リッツ」
「ん……?」
「そのシャツ、変えた方がいい」
「なんでだ?」
「……背中……痛くない?」
「……まあ……」
昨夜、痛がったアンナがさんざん爪を立てたから、まっすぐに立てないぐらい背中が痛いのだ。でも何で分かったんだろうと訝しんだが、次に入ってきたジョーの言葉で分かった。
「おはよ……うわ! 師匠! 背中血まみれ!」
「はは……気付かなかった……」
シャツを着たときは白かったはずだから、その血は背中から流れ出たものだろう。
ということはパニックに陥る前にちゃんとシーツを見ておけば、血まみれのシーツの血が半分以上はリッツ自身のものだと分かったはずだ。
「こりゃ、しばらく剣を振れないなぁ……」
「とかなんとかいって、師匠学校サボる気でしょ?」
「……ばれたか」
「そりゃばれるよ!」
「でも今日は休むから」
「……へ? なんで?」
きょとんとしているジョーに、言いづらくて口ごもると、フランツが冷たい目線を向けてきた。
「アンナに何かしたね?」
「……何かって……」
誤魔化そうと思ったが、誤魔化し切れそうにない。ため息をつきつつリッツはコーヒーを一口飲んでから口を開いた。
「アンナが熱を出してる。だから俺は今日休んで面倒を見るよ。俺のせいだしな」
「……なんで?」
「……なんでって……」
フランツとジョーの二人の視線がじっと注がれる。
「だから……」
「だから?」
覚悟を決めた。
「俺が処女を何回も犯したから」
一瞬黙ったフランツとジョーが、低い声で呻いた。
「ししょ~……」
「リッツ……」
二人とも怖い。なんだかんだ言ってもこの二人はアンナの味方なのだ。
「しかたねえだろ! 四年の我慢炸裂だぞ? アンナも、ものすごく欲しがるし!」
「うそだぁ~」
「うそだね」
「ホントだって! まああれだ。お互いの合意の元にってやつで……」
誤魔化そうとしたが、二人はため息をついた。仲間と弟子のはずなのに、何故か二人の前でリッツは小さくなる。
「……お前らの言いたいことは分かってる。全部こらえ性のない俺が悪い」
「だよね」
「うん」
「……何だお前ら共同戦線張りやがって」
いじけたようにそう言うと、二人は当然のように頷いた。
「アンナとリッツ、どっちに付くかなんて、自明の理だ」
「さんせ~い」
「悪いのはほぼリッツであることも、分かっている」
「うん。同意!」
「くっ……」
返す言葉もない。
「百二十歳も年上のくせに」
「ううっ……」
「少し常識を身につけたら?」
「フランツお前……四十五年前のエドみたいな事を言いやがって」
痛いところを突かれたリッツは、ため息をついて黙った。確かにリッツが全部悪い。初めての女に、しかもかなり年若いのに、昨夜は乱暴すぎた。
その上、幾度となく求め合い、お互いに疲れ切って抱き合ったまま眠ったのは、真夜中をとっくに廻ってからというていたらくだ。合意の元にとはいえ、やはり確実にリッツが悪い。
あんなに優しくて綺麗で心のおおらかな彼女なのに、思い出すと血の気が引くぐらいに乱暴に抱いてしまうなんて……。
「やっぱ俺じゃあいつと釣り合わねえのかなぁ……」
ぐったりとテーブルに突っ伏して呻く。
「俺は女好きの駄目傭兵だもんなぁ……」
落ち込んでいると、ジョーが妙な励ましをしてくれた。
「傭兵としての師匠は悪くない! 女好きの駄目人間が正しいよ」
「……人間性全否定?」
「だってさ~」
「そうだね」
完全に一致している二人の意見に、リッツはため息をついた。
実のところリッツもかなり二人と同意見だ。
もう少しちゃんと我慢して、彼女を傷つけない方が良かった。もっと段階を踏んで、少しずつ彼女を手に入れても良かった。何も焦って一気に彼女を全部手に入れようとしなくても、アンナは腕の中にいてくれただろうに。
もしかして昨日アンナがリッツを誘ってくれたのは、落ち込むリッツに気を遣っていたからで、本当は嫌だったのだとしたらどうしよう。
本当はアンナはリッツに抱かれるのが嫌で、でもリッツを見ていたらかわいそうで抱かれてくれたとか……?
なにしろ困っている人がいたら、身を投げ出してしまうアンナのことだ、それがリッツであれば自分の身を犠牲にすることも厭わないだろう。そう思いついた瞬間に、軽く血の気が引いた。
それなのに調子に乗ってずっとアンナを放さず、幾度もむさぼった。アンナもそれに答えて幾度もリッツに縋り付いて甘えてくれた。
……でも、やっぱりアンナには気を遣わせていたのかも知れない。
「はぁ……」
思わずため息をついた。はっきり言って駄目すぎる。気を遣ってあげなければならないのは、経験豊富なリッツの方だったろうに。
「やっぱ俺は駄目男なんだなぁ……」
突っ伏したままそういうと、ジョーとフランツが深々と頷いた。反論したり言い訳する余地もない。動かず、口も開かなくなったリッツに、フランツとジョーがため息をついた。
「アニーは?」
「アンナの世話。男は出ていけって」
「そんなにひどいんだ」
ジョーが呟いて、フランツはため息をついた。
「じゃあ僕が朝食の支度をするよ」
「私も手伝う」
仲間と弟子が揃って立ち上がろうとしたとき、扉の外から切羽詰まったようなアニーの声が聞こえた。
「アンナ! 熱があるのよ!」
その瞬間リッツは弾かれたように立ち上がっていた。そのまま扉を開け放って二階に向かおうとしたのだが、階段を見上げて足を止める。熱で真っ赤な顔をしたアンナが、手すりにもたれるように荒く呼吸をしていた。
「アンナ……」
呆然と声を掛けると、アンナはリッツに気がついた。動けずにいるリッツの元へよろめきながら手すりを伝って降りてくる。慌てて階段を駆け上がり、アンナに近寄ると、アンナが嬉しそうに身を投げ出してきた。
「うわっ!」
思わず叫ぶと飛んできたアンナを抱きしめて、片手で手すりを掴んだ。片手一本に自分とアンナの全体重がかかった。背中の傷に小さく呻く。でもここで病人で怪我人のアンナを落とすわけにはいかない。必死でこらえてどうにかこうにか転げ落ちるのを防いで、リッツは大きくため息をつく。
「危ないだろ、アンナ」
「えへへ。受け止めてくれると思った」
「馬鹿」
全く読めないアンナの行動に軽く目眩を感じつつ、アンナを抱き上げて階段の数段上に座らせて、ようやく手すりから手を放す。
背中の傷がまた開いたのかひどく疼いた。痛みをこらえるためその場に座り込む。後でアニーに手当てして貰おう。
「寝てろよ。俺もすぐに……」
いくから、といいかけて考え込む。もしアンナがリッツに気を遣って抱かれてくれただけなら、行かずに離れていた方がいいのだろうか? 近くに来るのは嫌じゃないのだろうか。
迷っていると不意にアンナの手のひらが両頬を包み込んだ。熱で暖かい。
高いところにいるアンナを見上げて、その何も変わらない優しい微笑みを見つめる。背の高いリッツがアンナを見上げるなんていう構図は滅多になくて、まるで自分が小さな子供になってしまったかのような感覚だ。
「リッツ」
「ん?」
「自分を責めてたんじゃない?」
「……」
見透かされて黙った。アンナにはそれだけでバレバレだ。
「やっぱり。アニーもリッツが悪いって言うし、きっとフランツとジョーもそう言うんだろうなって思ってた」
アンナの視線がちらりとリッツの後ろに向けられる。おそらく二人がそこにいるのだろう。
「アンナ」
「リッツ、ちゃんと言っておくからね。私はね、あなたが欲しくて抱かれたんだからね」
大人びた口調で、柔らかく微笑まれて胸が熱くなってしまった。アンナの包み込むような愛情に、幸せになってしまう。
「リッツが他の誰かとしていたのが悔しくて、私にだけ夢中になって欲しくて抱かれたの。あなたに気を遣ったわけじゃない。ちゃんと分かっていてくれなきゃ、寝ていられないよ」
「うん」
「私ね、あなたにだけは欲張りなの。今までずっと我慢してただけなんだよ。だからやっとリッツを独り占め出来て、私、とっても幸せなんだから」
アンナの手がゆっくりとリッツの頬を撫でている。されるがままにその感触を味わう。
「ちゃーんと分かっててね。あなたは、私のものなんだからね、リッツ」
やがてアンナがリッツのあごに手を掛けて、いつもしているのとは逆に上向きにしてから口づけてくれた。いつの間にか上手くなったアンナのキスを受けながら、ただじっとその甘い感触に身を任せる。
唇を放したアンナの胸にそっとすり寄ると、アンナは優しく頭を抱きしめて撫でてくれた。
本当にアンナはリッツを全部許してくれているんだと思うと嬉しくて、アンナに子供のように安心しきって縋り付く。
これでは本当にどっちが大人か分からない。
やがてアンナはリッツの頭を撫でながら、にっこりと微笑んで階下へ目をやった。
「だからね、誰も私のリッツをいじめちゃ駄目だよ。この人はぜ~んぶ私のものだからね」
宣言したアンナの声で我に返った。そういえばこの場にその二人とアニーがいるのだった。こんなに情けなく子供のようにアンナに甘える姿を見られていたら、今後格好も付かない。恐る恐る階下を見ると、二人が苦笑しているのが見えた。
……一応の家長の威厳はどこに?
リッツは咳払いをしてから、アンナを抱き上げて立ち上がった。アンナの腕が首に巻き付く。
「急病で休むって、アルトマンに伝えてくれ。欠勤届は明日出す」
今更格好も付かないが、一応教官で師匠としてジョーに告げた。案の定ジョーは少し引きつった笑いを浮かべつつ敬礼を返す。
「……了解」
後ろからの突き刺さるような視線を感じながらも、リッツはアンナを抱えたまま自室に引っ込んだ。
扉を閉めると大きくため息が漏れた。今までずっと作り上げてきたイメージを一応は守ってきたのに、台無しだ。いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「体、大丈夫か?」
「ん……だるいよ。それに……やっぱり痛い」
アンナはいつも正直だ。そういえばアンナはずっと、リッツの前では正直に総てを告げてくれていた。抱かれている時ですらそうだった。つまり気を遣って、心にもないことをリッツに言うわけがないのだ。そんなことすら忘れていた。
「ごめん、その、色々と……」
「いいよぉ。欲しかったのは私も同じだし」
「だけど……」
「大丈夫だってば」
「でもアンナ、痛いだろ。俺……どうしたらいい?」
動揺していると、アンナがおかしそうに笑った。
「自分である程度治すよ。でもそれ以外はいいんだ。だってリッツが残した感触だもん」
「そんな、いいって、全部治せってば」
「やだ。なんかちょっと勿体ないもん」
「頼むよアンナ。お前が苦しいの、俺、嫌だよ」
懇願すると、アンナが吹き出した。
「リッツ、いつもの大人っぽさはどこに行っちゃったの?」
「え?」
「何だかものすごく幼く見えるよ」
「あ……」
「何だか前に話を聞いた、昔のリッツみたい」
取り繕うのを忘れると、結局リッツはエドワードと出会った昔と変わらないのかも知れない。でも今更取り繕う意味もないから、ため息をついた。
「こんな俺は嫌?」
「ううん。嫌じゃない。リッツの事は全部好き」
「!! アンナ……」
もう、嬉しくて言葉にならない。自分でも駄目男だと思っているのに、そんなリッツをアンナは総てひっくるめて愛してくれる。幸せに浸っていたら、てきぱきとアンナに指示された。
「私をベットに下ろしたら、シャツ脱いでね」
「え?」
「背中、治してあげるから」
「……ばれてたのか?」
「ばれてたっていうか……」
アンナは困ったように首をかしげた。
「私の爪の中に、血と表皮が詰まってたの」
「表皮って……」
「これだけの表皮を削ったら、相当の怪我のはずだもん。普通に治るのを待ったら、完治まで一週間近くかかるよ?」
さすが医学生……的確だ。
「私、結構リッツの事えぐっちゃったでしょ?」
「えぐるって……」
「だって……背中に思いっきり爪立てちゃったんだもん。ごめんね。痛いでしょ?」
「大丈夫だ。だからお前優先で……」
「いいの。もっとリッツの余韻を味わってたいもん。リッツ、とっても格好良かったよぉ?」
アンナは本当に幸せそうに、嬉しそうに笑う。でもやっぱり申し訳がなかった。
「アンナ~頼むからお前優先で……」
ほとんど頭を抱えながらリッツが懇願すると、アンナは更に、リッツが有無を言えないように、にっこりと微笑んだ。
「それにリッツ、明日出勤して仕事するんでしょ?剣が握れない剣技の教官って、ただの役立たずだよ」
「うっ……ごもっとも」
それを言われると反論の余地はない。それにこうまで言うなら、アンナはもうてこでも考えを変えない。アンナの頑固は昔からだ。
どうやら体力のないアンナは、自分を治さない理由を作って、残りの治癒能力を全部リッツに使ってくれるつもりらしいのだ。
その優しさをリッツはきちんと受け止めることにした。おとなしくアンナをベットに下ろすと、ベットの端に座ってシャツを脱いだ。
「うわぁ、血まみれだよ」
「……本当だ」
脱いで初めて気がついた。これはジョーが驚くわけだ。洗濯しても落ちるかどうか。アニーには本当に迷惑を掛けてしまいそうだ。ため息混じりにシャツをソファーに放る。
「リッツ」
「ん?」
「背中治したら、一緒に寝ようよ。なんだか一人じゃ寂しくて……」
アンナがもじもじとそういった。体を重ねなくてもいい。でもぬくもりが欲しいのはリッツも同じだ。この二週間の心の距離をもっともっと縮めたくて触れ合いたい。だからアンナに気を遣わせないように軽く返す。
「おやすい御用だ」
「腕枕、してくれる?」
「お望みなら、お姫様」
ベットの大きさと天蓋にアンナがよくお姫様みたいと口にしていたのを思い出して言うと、アンナが真っ赤になった。
「もう! 恥ずかしいよ」
口調は怒りつつも、アンナは優しく背中を癒してくれる。その感触が心地よくて、うっとりと目を閉じてしまった。そういえばここ最近ずっとちゃんと寝てない。眠くなってきた。
「はい、お終……きゃっ」
振り向きざまにアンナを抱きしめてベットに転がる。驚くアンナをギュッと抱きしめた。
「愛してる」
精一杯の想いを込めて囁くと、アンナも顔をほころばせて抱きしめ返してくれた。
「私も」
しばらくそうしていてから、軽く腕を緩めた。アンナの頭がコトンと片腕に乗る。空いた腕でアンナの体を引き寄せた。
「んじゃ、昼食までお休み」
冗談めかして言うと、アンナもクスクスと楽しそうに笑った。
「食べて寝てじゃ、牛になっちゃうよ?」
「こんな時ぐらいいいさ。一回だらだらしたぐらいで牛になってたまるかっての」
「そうだね~」
顔を見合わせて笑いあう。
そうだ。もう何も迷うことも、落ち込むこともない。彼女はここにいるのだから。