あの日、あの夜<6>
エドワードに事情を話して、顔面を本気の拳で殴られて数カ所の顔面打撲を負って一週間。リッツはパトリシアには内緒で、なんとか王宮のエドワードのプライベートスペースにおいて貰っている。
軍の宿舎がとれなかったのは、やはりエドワードのしたことで、エドワードはアンナに『リッツが家出をした』とだけ聞いたらしい。まさかアンナを強姦して逃げ出したあげく、なじみの娼婦の元に転がり込んでいたとは思わなかったそうだ。
リッツを殴った後、エドワードはため息をついて兄の顔でリッツに『馬鹿が』といっただけで、それ以上は触れてこなかった。リッツが本気で反省して、どうにかしたいと願っていることをくんでくれたのだ。
だがどうしたらいいかという相談には応じてくれず、自分で考えろとだけ言われている。本当はリッツにも分かっているのだ。アンナの前で這いつくばって、土下座して、本気で謝罪し続けるしかないのだと。分かっているが、クレイトン邸を尋ねて行く勇気がなかった。アンナに合わせる顔がない。
守ると誓いながら、神の庭を出たことを後悔させてしまったアンナに、どうすれば許して貰えるのか分からない。もし一生許されないなら、どうしたらいいのか分からない。
アンナのいない人生を生きるなんて、考えることも出来ない。
「どうしたもんかなぁ……」
ため息混じりに軍服で王城から王宮へと移動する。途中で警備兵とすれ違う度に軽く敬礼を交わす。ほとんどがウォルター侯爵事件以来の顔なじみだ。私服だと外から回らなくてはならないが、制服というのは便利なものだ。
王宮にあるエドワードの自室に戻ると、珍しいことにエドワードがソファーでくつろいでいた。大公としての仕事に追われるエドワードはだいたいデスクにいて、リッツが帰ってきて初めて手を休める。
「ただいま」
声を掛けると、エドワードが顔を上げた。
「また帰ってきたのか」
毎日繰り返される言葉だ。
「帰ってきたら悪いかよ」
「悪いな。お前には帰る場所があるだろ?」
「……ねえよ」
呻くように言うと、リッツはエドワードの向かいの席に身を投げ出した。
「珍しいじゃん、こんなところでのんびりしてるなんてさ」
二人でいると、ついつい昔のように子供っぽい口調になる。何しろエドワードと出会った頃のリッツは、出会った頃のアンナほどではないが世間知らずだったのだ。
旅が終わり、初めてあの頃の話をしみじみと語り合うことができて、それ以来二人の関係は昔の友に戻りつつあった。
「たまにはのんびりもする」
「仕事は?」
「お前と違って、手が早いほうでな」
「遅くて悪うございましたね」
子供のようにそういってから、ごろりと転がって天井を見上げる。エドワードの前の国王によって綺麗に飾り立てられていた王宮は、売れるものを総てエドワードが売り払った後も、ここかしこにその頃の豪華さが見てとれる。
特にベットにいることが色々な意味で多かったという前国王があつらえた天井画は素晴らしい。この天井画を書いたのが、あの天才王宮画家サバティエリの師匠だったそうだ。天才の師匠はやはり天才、ということだろうか。
「まったく毎日毎日、そのでかい図体は目障りだぞ」
「ひでえな。友に向かって言う言葉か?」
「ああ。いくらでもいうさ。目障りだ。お前のいるべき場所へ帰れ」
こうやってエドワードは毎日、リッツにアンナのところに帰れと諭す。だがリッツは動くことが出来ないでいた。
「帰れねえよ」
「何故だ?」
「もう許してくれねえもん」
「それはそうだろう。謝っていないでこんなところでくすぶっているんだからな。謝りに帰ったらどうだ?」
エドワードの言葉は正論だ。でも帰れない。許されないことが分かってしまったら怖い。アンナを永久に失ってしまったと思い知ったら、生きていけない。黙ったままいるリッツに、エドワードはため息混じりに呟いた。
「アンナに会いたいだろうに」
あきれかえった口調に、思わず突っかかっていた。
「会いたいよ! 会いたいに決まってるだろ!」
「では帰れ」
「帰れないんだよ!」
「何故だ?」
「アンナが許してくれないのが分かってるから帰れないんだ。あいつが許してくれなかったら、俺、どうやってこれから生きていったらいい?」
思わず情けないことを口にすると、エドワードは冷たく言い放った。
「お前が考えろ」
「……冷てえな、エド」
呻くとリッツは目を閉じた。明けても暮れてもアンナのことばかり考えている。出会った時のアンナから、恋人のアンナまでをずっと考え続けている。思い出す顔は笑顔が多いはずなのに、目の前をちらつくのは裏路地で襲ってしまった後の恐怖の表情だったり、アマリアの家で告げられたさよならの言葉だったりする。
目を開けると天井画が目に入った。なんて幸せそうな綺麗な表情をした女神だろう。リッツだけの女神はもう、リッツに笑顔をくれたりしないというのに。
「さよならを言わたんだ」
「聞いた」
「もう駄目なんだよ、俺は」
起き上がって呻き、頭を抱える。リッツの弱音に、エドワードは黙ったままだ。いつもエドワードはリッツが気の済むまで愚痴りたいときは黙っていてくれる。
「あんなことしなきゃ良かった。ちゃんと抱かせてくださいって、アンナに言えば良かった。意味が分からないならきちんと教えれば良かった」
ため息が漏れる。
「俺、馬鹿だな」
馬鹿すぎてどうしようもない。
「こんなに愛してるのに。あいつが望むなら俺の命だってやれるぐらい愛してるのにさ」
再び深々とため息をつく。
「何で強姦したあげく、他の女を抱いたりしたんだろう」
「……馬鹿だからだろ。お前の話は堂々巡りだな」
「うっ……」
「いつまでもぐだぐだとここにいるな。こっちの気が滅入る。とっととアンナの前に土下座して謝ってこい」
「許されなかったら?」
「許されるまで何時間でも何日でも、ずっと謝り続けろ。お前に出来るのはそれだけだ」
「分かってるよ!」
本当に堂々巡りだ。
「リッツ」
「ん?」
「お前がもしもアンナに許されたら、お前は今後どうする気だ?」
「ありえねえって」
「もしもだ」
エドワードに強い目で見られてリッツは考え込む。
「……もし許して貰えるなら、もう二度と他の女を抱かない。一生涯アンナだけを愛する。アンナが許さなければアンナに触れない」
「ほう。本気か?」
「本気だ!」
「アンナを抱かなくても大丈夫ということか?」
「んなわけあるか! ものすごく抱きてえよ! ずっとあいつが欲しかったんだ。全部あいつを俺だけのものにしたかった。欲しくて欲しくて、独占欲でずっとおかしくなりそうだったんだ!」
爆発しそうになる感情を、リッツは必死でこらえた。これは封印しなければならない感情だ。もう押し殺さねばならない感情なのだ。リッツは大きく深呼吸をして呼吸を整えた。
「だけど、アンナが俺を怖いなら、アンナには指一本触れない」
「出来るのか?」
「やるさ。アンナが許してくれるなら、そばにいるだけでもいい。近くにいられるだけでもいい。もう二度とアンナを傷つけないために他の女を抱くなんて愚行はしない」
そのための決意は出来ていた。
「そばにいるのを許してくれるなら、俺はずっとアンナのそばにいる。あいつが望むままに傍らにいたいんだ。アンナにしてしまったことを許されるまで、何十年でも何百年でも、俺はあいつの傍らでただ黙って許しを請う。俺にはそれしかない」
断言すると、エドワードは静かに笑った。
「たいした決意だが言う相手を間違えていないか。相手は私ではなく、アンナだろう?」
エドワードの言葉に、リッツは気がついた。エドワードはリッツと二人でいる時はいつも昔のままに、少し柄が悪い。でも思い起こせばエドワードは今日はその口調を表に出していない。
「エド……何か隠してるだろ?」
じっと見つめて追求すると、エドワードが腕を組んだ。
「ようやく気がついたか」
「何を隠してるんだ?」
「それは自分の目で見ればいい」
エドワードがソファーから立ち上がって、大きな窓にかかるカーテンをさっと引いた。
リッツは息をのむ。そこに立っていたのは、アンナだった。アンナの大きな瞳からは涙がこぼれている。
「アンナがお前の本当の気持ちを知りたいと訪ねてきてな。こうしてお前が帰る時間に合わせて隠れて貰った」
立ち上がったリッツは、よろよろとアンナへ向かって歩み寄る。
「アンナ……」
情けない。二週間離れていただけなのに、涙が出そうに愛おしい。微かでもいい、指先だけでもいいから、アンナに触れたい。
アンナの目の前に来たリッツは、自然に膝と両手を床に付いていた。許されないことを考えると、謝罪することすら怖かった。でも無意識に頭を床にこすりつけるように下げていた。
「ごめんアンナ。本当にごめん。俺が悪かった」
「リッツ……」
「許してくれなんていえない。だから、もう何もしないから、もう二度と他の女に触れたりしないから、お前のそばに置いてくれ」
頭を下げたまま顔を上げることも出来ない。顔を上げてアンナの顔が嫌悪感に歪んでいたら、怒りに震えていたら。それを考えるだけで怖くて顔が見られない。軽蔑されること、嫌悪されること、子供の頃からリッツはその視線に常に晒されてきた。もしアンナがそんな目をしていたらと思うと、恐怖で身が竦む。
リッツは更に低く床に這いつくばっていた。
「ごめん、ごめんなさい。本当に悪かった。最低最悪な男でごめん」
「リッツ……」
「何でも言うことを聞くから、俺を捨てないで。さよならなんて、言わないでくれ。側に置いてくれるだけでいいから……」
情けない本心がボロボロと零れる。今まで積み上げてきたプライドなんてアンナの前で全部崩れ去り、もうひとかけらも残っていない。ただただアンナの前にひれ伏して、何も得ることができなかった頃のように孤独に怯え、アンナの言葉をひたすら待っているしかない。
床に両手と頭を付いたままじっと待っていると、思ったよりも近くでアンナの声がした。
「顔を上げて」
「だけど……」
「これじゃ話できないよ?」
言われてこわごわ顔を上げると、涙を拭いたアンナが目の前で膝を付いて微笑んでいた。そこに嫌悪も軽蔑もなかった。
「反省、してる?」
小さく首をかしげてアンナが尋ねてきた。リッツは深々と頷く。
「死ぬほど反省してる」
「じゃあ、もう二度と同じ過ちは犯さないって、ここで私に誓える?」
「誓える」
「じゃあ、ちゃんと座って私を見て」
アンナに促されて床から体を引きはがして座る。アンナも床に座っていた。
「ジョーとフランツに聞いたの。性行為って、子供を作るだけじゃないんだね」
なんと答えたらいいのか分からずに黙ると、アンナは言葉を続けた。
「私、医学書でしか知らなかったから、変な誤解したみたい。リッツが欲しいのは子供じゃなくて私?」
柔らかく微笑むアンナの瞳をじっと見つめる。
「違うの?」
「違わない。お前が欲しい。ずっと欲しかった」
正直な気持ちがぽろりと零れた。
「前にリッツ、私に『お前が欲しい』っていったことあるよね? モティアナで。もしかしてそれって、こういう意味だった?」
「……ああ」
「遠回しすぎて分からないよ、リッツ。ちゃんと言ってくれないと」
アンナがふんわりと柔らかく微笑み、リッツの頬に手を伸ばしてきた。暖かな手のひらが優しくリッツの頬を撫でる。久し振りに触れるアンナのぬくもりが嬉しくて、動くことさえ出来ない。
「リッツの気持ち、さっき聞かせて貰ったよ」
エドワードだけだと思っていたから、本気で話した。それが総てアンナには聞こえていたのだ。その上でアンナは微笑んでくれている。
「一度だけだよ」
「え?」
「今回だけ、許してあげる。私も恋人同士ってどういうものか知ろうとしなかったから原因があるもん。でも二度目はないからね」
「アンナ……」
「もし今度私以外の女の人を抱いたりしたら、浮気だからね? 二度と許さないから」
笑顔で告げられ、信じられなくてアンナを凝視してしまった。
「俺を許してくれるの?」
口から出た声は情けないぐらいに震えている。アンナはそんなリッツに微笑んでくれた。
「今回だけだよ」
「本当に? だって俺、他の女を抱いただけじゃなくて、お前を強姦したんだぞ?」
「強姦じゃないよ。リッツは私を抱きたかったんでしょ? 恋人同士だもん、あることだよね?」
普通に微笑まれてリッツは目を見開いた。
「今回の騒ぎの原因はリッツが私が医学生だって忘れてたこと。見習いだけど私、軍医なんだよ? 軍医なら強姦の意味も知ってるし、医学生だから性行為で子供が出来ることも、ちゃんと知ってるんだから。出産の実習もしたし、もともとお養父さんの手伝いもしてたし、一人で子供も取り上げられます」
そうだった。アンナはいつまでも子供ではないのだ。今はもう立派な軍学校の医学生なのだ。いつまでもアンナを子供扱いして、勝手な思い込みで暴走していた自分が情けない。
「あのね、リッツ。ジョーとフランツに本を選んで貰ってね、ちゃんと一週間で色々勉強したの。だからね、リッツが私に何をしたいか、ちゃんと分かってるよ」
そういったアンナは、優しくリッツの頬を両手で挟んだ。
「だからもういいの。家に帰ろう」
そのまま引き寄せられて優しくキスをされる。軽いキスだったが、アンナからして貰うキスは、とてつもなく優しかった。
本当に許してくれているのだ。そばにいることだけでなく、こんなどうしようもないリッツがアンナを抱くことすら許してくれている。
なんてすごい人なんだろう。なんて素晴らしい女性なんだろう。リッツのような男には勿体ない女性だ。
本当に本当に、生まれてきてくれて良かった。
出会えて良かった。
「リッツ……泣かないで」
アンナに言われて優しくハンカチで頬をぬぐわれて、初めて安堵の涙を流していたことに気がついた。情けない。アンナの前で涙を見せたのは二回目だ。
初めて涙を見せたのはシーデナの森だった。アンナがヴェルディグリにくってかかった時、笑っていたんじゃない。泣いていたのだ。笑いすぎたように見せかけてぬぐった涙が幸せな涙だったことを、アンナは知らないだろう。
あの時にアンナが見せてくれたのも……リッツの未来だった。
黙ったままアンナを抱き寄せると、アンナはリッツをしっかりと抱きしめ返してくれた。小さな子供のように、腕に力を込めて抱きつき、アンナに頬をすり寄せてしまう。
言葉なんて何も出てこない。
そんなリッツが落ち着くのを待ってから、アンナはリッツの手を取ってゆっくりと立ち上がらせてくれた。繋いだままの手を離せずに、リッツは空いた手で残った涙をぬぐった。本当に情けなくて、でも幸せだ。
「エドさん、連れて帰りますね」
笑顔でそういったアンナに、エドワードが笑う。
「連れて行ってくれ。こんなに大きな男がいたら、全く休まらんよ。荷物はまとめておいたからな」
「はい。ご迷惑おかけしました」
アンナに促されて、リッツは荷物を手にした。総てきちんと詰め込まれている。リッツがここで連れ帰られることは、エドワードとアンナの中で決定事項だったのだろう。部屋を出て行きかけたとき、エドワードがアンナを呼び止めた。
「アンナ」
「はい」
「……情けない奴だが、頼むよ」
エドワードはアンナに自分が死んで以後のリッツを総てを託したのだ。それが分かった。アンナも分かったようで、真っすぐにエドワードを見て力強く頷いた。
「はい!」
「ではお休み」
「お休みなさい」
エドワードの部屋を辞しても、アンナはリッツの手を引いて先に立って歩く。いつもは恥ずかしくなるのだが、今はもうそんなことを思いもしない。
アンナに手を引かれたまま、不思議そうに首をかしげる守衛に少しだけ笑みを作って、空いた片手で軽く敬礼を返す。赤い目をして、少女に手を引かれる軍人は、彼らの目にどう映るんだろう。
どうだっていいか。今日は。
アンナが一歩先に立ってリッツの手を引きながら王城から家まで帰る道々、何の言葉も交わさなかったが、ただ幸せな時間だった。
王宮から帰ってきて久しぶりに全員で夕食を食べ、いつも通りに順番にお湯を使ってから枕を抱えてリッツの部屋に来たのは、もう夜も更けてからだった。
今日は、リッツに抱かれようとアンナは心に決めていた。リッツがアンナを欲しがるように、アンナにだって独占欲がある。もう他の女の人にリッツを渡したくない。アンナだってリッツが欲しいのだ。
この気持ちはシーデナでリッツの後ろ髪を切らせた時から変わらない。アンナは自分でも気がつかなかったけれど、本当はいつもリッツを独占しておきたかったのだ。でもみんなを平等に大切にしようという仮面をかぶせて、その感情を知らず知らず押し殺していた。
だけど今はもう本当に自分の欲をリッツにぶつけてもいいのかも知れない。二人きりの時ぐらい、アンナだって少しだけ我が儘がしたい。あなたは私だけのものなんだから、他の人を見たりしないでとだだをこねてみたい。
救国の英雄の一人で、名のある傭兵隊長で、だけどアンナの前では、寂しがり屋の甘えっ子のリッツ。大好きで大好きで、誰にも触れて欲しくない。彼の腕の中にいるのは、自分じゃなくちゃ嫌だ。
リッツはアンナだけの男なのだから。
ジョーの本に色々書かれていたけれど、曖昧で抽象的な事が多くて分からなかった。分かったのはどういう行為が行われるのか、それだけだ。でも分かっているだけで少し気が楽だった。相手がリッツで、何をされても大丈夫だと思っているけれど、知らないのはやっぱり怖い。
扉を開けて中に入ると、リッツが部屋の明かりを灯すでもなく、ぼんやりと燭台の炎を目の前に、膝を抱えてソファーに座り込んでいた。
「どうしたの? 暗いよ?」
驚いて正面に座ると、リッツが顔を上げた。何故だかアンナの顔を見るその表情は、不安でいっぱいだ。
「何かあったの?」
また尋ねると、じっとアンナを見つめていたリッツが、吐息混じり尋ねてきた。
「なぁ……」
「なあに?」
「本当に今日、ここに泊まるのか?」
当たり前のことを聞かれた。アンナはもう覚悟をしてきたのに。
「うん。泊まるよ。駄目かな?」
「いや、いい。俺もお前といたいし……」
「じゃあいいよね?」
「……ああ」
またリッツが沈黙する。
「なぁ……」
「なあに?」
「俺……どうしたらいい?」
「え?」
真剣に聞かれて、アンナは困った。リッツは本気で悩んでいるようなのだ。
「ええっと……どうしたらって?」
「あんだけ色々問題起こしといて、これは……。俺、虫が良すぎないか」
「意味が分からないよ?」
アンナが真面目にそう言うと、リッツはアンナを見て呻いた。
「まさか本当に、ここまで許して貰えるとは思って無くて……その……」
「ん?」
まっすぐに見つめると、リッツは少し焦ったように俯いた。
「ここで話しようか? 色々募る話もあるしさ。で、今日は俺がこっちのソファーで寝て、お前はベットを使うということで……」
そんなことを言い出したリッツに、アンナはため息をついた。そういえばフランツとジョーが、リッツはアンナを壊してしまいそうで怖くて抱けないのだといっていた。これがそういうことかとようやく気がついた。
今までの微妙な遠慮や、何となくアンナを避けるような態度の総てがここから来ていたのだと初めて分かった。リッツがどれだけアンナを求めているのか、エドワードと話していた時に、アンナに聞かれているのにも関わらずリッツは苦悩している。
「リッツ、私が何をしに来たのか分かってるよね?」
「……ああ」
「別々に眠ったら、私がこの部屋に来た意味ないよね?」
「ないな」
しばらくお互いに黙ってしまう。リッツは自分では決してアンナを抱きたいと言い出せないのだ。何しろリッツはエドワードのところで、アンナに許されるまでずっと傍らで待ち続けると口にしていたのだ。
アンナは小さく吐息を漏らした。このままでは本当に話し込んで、リッツと別々に寝る羽目になりそうだ。そうなったらまた同じ事を繰り返してしまうじゃないか。
もう二人の間に、隠し事とか、タブーは何も無いはずなのに。お互いにお互いを素直に求め合っていいはずなのに。
でもアンナにもリッツの性格は分かっている。リッツはただじっとアンナの許可を待つに決まってる。だから今日だけは、アンナからリッツに許しを出さなければならないだろう。
「リッツ……」
「ん……」
「抱いて……欲しいなぁ……」
緊張して、少し震える声で誘ってみると、リッツがおずおずと顔を上げた。
「……本当にいいのか? 許してくれるのか?」
「うん。許す」
「初めての男が俺でもいい?」
自信なさげに妙なことを言い出したリッツに、アンナは思わず吹き出してしまった。アンナはリッツとこの先ずっと、永遠に添い遂げるつもりでいるというのに、真剣な顔でこんな事を聞かないで欲しい。
初めてがリッツじゃなかったら、一体誰を相手にしろって言うんだろう。
「初めても最後もリッツだよ」
「アンナ……」
「ずっと一緒にいるって、約束したもんね」
「ああ」
リッツはようやく、少しだけ緊張した表情を崩した。
「すげえ痛い思いさせるかも知れないぞ?」
心配そうなリッツの言葉にアンナは微笑んだ。リッツは本当にアンナが大切で、だからこんなに心配なのだ。それがくすぐったくて嬉しい。初めて抱かれた時、相手を中へ受け入れるのはとても痛いというのは、ジョーの本で知った。だけどそれでもリッツを独占したい気持ちに変わりはない。
「大丈夫だよ。ちゃんと勉強してきて知ってるもん」
「だけど……お前は華奢だし……その……傷つけちまいそうで……」
大切に思われているのは知ってたけれど、こんな風に壊れ物みたいに、恐る恐る触れられていたとは気がつかなかった。
「いいよ。私はリッツの事、愛してるもん。ちゃんと覚悟してるってば」
笑うと、リッツが立ち上がった。ゆっくりとアンナに歩み寄ってアンナの髪に触れる。まだ少し濡れたままの長い髪は、結うことなくそのまま垂らしている。その髪にリッツは優しく指を絡ませ、髪に口づけた。
そんな今まで見たことのない色気のある動きをする指先にまで、どきまぎしてしまう。
「前みたいに怖い思いをさせるかもしれない」
本当に心配そうにリッツがアンナを見つめる。
「それなら、前よりもずっとずっと優しくして」
「アンナ」
「ちゃんと優しく触れてくれたら、怖くないよ、きっと」
アンナも手を伸ばしてリッツの頬に触れる。軽くはおっただけのリッツのシャツから覗く逞しい胸にまた鼓動が高鳴ってしまう。リッツを男性として意識してしまうと、本当に格好良くてぼんやりとしてしまう。
確かリッツは前に、黙っていれば二枚目だと言われることがある、と自分を称していた。黙っていなくてもリッツは二枚目だと思う。これはアンナの欲目だろうか。
「ね、リッツ」
「ん?」
「私のこと……好きだよね? 愛してるよね?」
「ああ。ものすごく愛してる」
「私もリッツが大好きなの」
優しく微笑みかけると、アンナの髪をもてあそんでいたリッツが、ようやく決意したようにアンナの目を見つめた。
「本当に俺が抱いてもいいんだな?」
「うん」
「許してくれるんだな」
「うん。いいよ。……リッツのものにして」
囁くように漏れてしまった本音に、リッツがビクリと体を震わす。
「俺のものになってくれるのか……」
「うん。その代わり約束」
「何だ?」
「もう二度と私以外の女性を抱かないこと。リッツは私のものだもん。他の誰にも、絶対に渡さないんだからね」
宣言して見つめると、リッツは柔らかく微笑んだ。
「誓う。二度としない。俺は永遠にお前の物だよ、アンナ」
「約束だからね」
「ああ」
言葉が終わると同時に口を塞がられていた。