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どこかで見たことのある店の入り口を、騎士と従者の二人連れはくぐった。そこは二人が、主人と従者の関係となる前に出会った酒場であった。
王都へやってきた日以来、従者の身となったルセカーは王都を見物するまもなく伯爵家と王城を行き来するだけの毎日であったから、このての界隈へは今日の今日まで足を向けたことがなかった。
「どうでもいいけど、何のご褒美だ?」
「あら、つれない言い方ね。今夜は刺客を撃退した勇者としてもてなそうっていうのに」
ルセカーの額を細い人差し指がつんと押しやる。
「よお、いらっしゃい」
店の入り口に二人を見つけた主人が声を掛ける。
「ちょっと、そこの席、あけてやってくれ」
主人はそう云って、立ち渋る先客をカウンターのむかいの席から二人ほど追っ払って、シースティアとルセカーのための席をつくった。どうやらそこに陣取らなければならないようである。シースティアは苦笑して腰を落ち着けることにした。
「ふたりとも、いつぞや以来だな。いろいろ噂は聞いているよ」
「こんなことばかりやってると、お客さん来なくなるわよ?」
「構わねえよ、あんたが来てくれりゃあさ。それに奴らだって、ゆずる相手があんたなら文句ねえさ。なあ」
親父は後ろのテーブルに追いやられた常連に振った。シースティアもそちらを振り返る。
「ごめんなさいね」
その一言で常連はたち所に顔を赤くしてしまった。これだから男ってのは。ルセカーは同性の情けなさに、内心で額に手をやっていた。どうもこの顔に騙されているのだ、皆は。自分がされた事をされてみれば分かるだろう。服を一枚残さずひん剥かれて、隅からすみまで床ブラシで擦られたのだ。まさしく隅からすみまで。だがやっぱり喜ぶんだろうなあ、こいつらは。ほとほと美人に弱い男の性を、少年は客観的に痛感した。
その点、ルセカーという少年には免疫があった。彼の生まれに理由があるのだが、本人が語らぬ事ゆえ伏せておきたい。
「さ、何でも頼んでいいわよ?」
「う、ああ」
と言われても、そらで言える酒の名前なんてたかが知れている。ルセカーは旅の寒さしのぎで覚えたアルニムという果実酒を頼んだ。栄養価が高く酒精のきつい酒で、旅のそういった持ち物にはもってこいなのである。味も多彩で、渋みから甘味まで造り手の加減に委ねられていて飽きない。好む人の多い酒だが、ルセカーの場合は他に名前が浮かばなかったせいもあった。
「じゃ、私はエール酒を」
シースティアもごく一般的なものを迷うことなく注文して、二人は杯を鳴らした。
その後のルセカーといったら、もくもくとつまみの料理に手をだすばかりで何も喋らない。シースティアはそれを、何故だがわからないが、上機嫌で眺めながら杯を傾けている。
「おいおいなんだ?」
主人がかやの外でつまらなさそうに声をかける。
「せっかく面白い話の種が来たと思ったのに、二人して黙っちまって」
「いえね、ルセカーの食欲を見てると、エレと初めて逢った時みたいだなって思ってたの」
シースティアはふふっ、と思い出すように笑った。
「エレがか?」
主人はルセカーの食べっぷりと比べるように思い起して意外そうだ。
「大ぐらいだったのか?」
ルセカーが料理を口に運ぶ合間に口をきく。
「やあね、芯の強いおしとやかな娘だったわ。ただ、その時はとってもお腹を空かせていたの。あなたみたいに、旅をしてここに辿り着いたって言ってたわ。考えてみれば、私の従者は二人とも外から拾ってきたことになるのね」
おしとやか、といわれても頭から鵜呑みにはできなかった。王都でのルセカーの経験では、女とは本来そういった生きものではないように思えるのだ。
「親父さんは知ってるわよね?」
「ああ、礼儀正しい娘だったな」
「あの娘ったら、私を呼ぶときはシースでいいわって言ったら、シース“様”って付けたのよ? 少し生真面目で、でも明るくて、男の子にしてみれば理想的じゃない?」
シースティアが自分に振るのを聞きながら、ルセカーは他のことを考えていた。エレというルセカーの知らない少女の死に、深く傷ついたであろう彼女が、こうも明るく少女の話題を口にするなんて。本当はどんな思いをしているのだろう。蔭の濃い緑の瞳の奥を見つめて、ルセカーはシースティアの心の奥底を覗き見ようと試みた。
「ど、どうしたの?」
声を上擦らせてシースティアは言う。ルセカーの自分を見る瞳は言いようもなかった。少年の大人びた瞳、しかしながらそれはやはり少年のもの。静かな視線に、シースティアはどぎまぎした。
「ふうん、シースでいいのか」
「え?」 とシースティアは眼を丸くした。
「オレ、なんて呼べばいいのかずっと考えてたんだ」
料理の方に向き直って頬張る。
「なんだ、その事ね。ええ、シースでいいわ。でも、やっぱりルセカーね。エレは“様”を付けたのに」
「だって、シースでいいんだろ」
「ふふっ、そうね」
なんだ、とシースは思った。少年の瞳は、ちょっとした物思いの瞳だったのだ。深い意味などない、偶然垣間みえた表情にすぎなかったのだ。
それから二人は、時が経つほどに杯を乾した。酒場は盛り場を装い、主人も二人だけを相手しているわけにもいかなくなって、店内のそこかしこで忙しくしている。
しばらく、また二人は黙って杯を傾けていた。
「ルセカー?」
そうシースが呼んだとき、周囲の喧騒が、少し遠い騒めきに感じられるくらい時間が過ぎていた。
「ありがとうルセカー」
静かに、シースは感謝の言葉を口にした。ごくん、とルセカーは口に含んでいた酒を一息に飲み下してしまった。それくらい彼女の雰囲気は違っていたのだ。
「あなたが居なければ、私はエレの事でいつまでも塞ぎ込んでいたかもしれない。あなたのおかげよ」
そして、リシャール王子のおかげなのだろうな、とルセカーは思った。
「だから、今日はそのお礼。賊を追い返したご褒美でもあるけど」
その言葉には何も返さず、ルセカーは杯の中の水面を見つめていた。
「こないだ酒場に来たのは、酒で紛らわせるため……だったのか?」
今度は、シースが無言だった。
と、ルセカーの肩に重みがかかった。暖かい重みだ。びっくりして身を捩ろうとすると、瞳を閉じたシースが、ルセカーの肩に寄り掛かって穏やかな寝息をたてている。ルセカーは身じろぎをやめて固まった。彼女の赤みを帯びた亜麻色の髪が、さらりと肩にかかってくすぐったい気分だ。
「ほお、ルセカー、坊やのくせに酒が強いな」
そこへ店の主人が戻ってきた。頼みもしないのに酒を注ぎ足す。
「坊やじゃない」 と真顔で言い返したつもりだったが、肩のシースが気になって、ちゃんと大人相手に張り合えたか分からない。ルセカーはぐっと杯を呷った。
「そうさな、それだけ飲んで酒に呑まれなきゃ一人前だ」 またまた注ぎ足す。
「それにしてもなあ、おい」
主人の眼はルセカーの肩に向いていた。
「この人を肩に眠らせるのはこの世にただ一人と思ってたよ」
「それってリシャール王子?」
「おいおい、あまり大きな声で云うものじゃないよ。周知とはいっても、なかなか公にはできない物事だからなあ。それより、お前さんも随分信頼されているようじゃないか。何かあったのか? ご褒美とかなんとかいってたけど」
別段隠す事でもないので、ルセカーは件の暗殺者の侵入の話を主人にしてやった。とはいえ、ルセカーは自分の手柄を誇るような性格でもないから、その話は実に客観的だった。
主人は黙ってそれを聞き遂げると、神妙に口を開いた。
「この人は優しい方だ。エレのことは俺も知ってる。良い娘だったさ。だから、あの時のこの人の落ち込み様はそりゃあひどかった。そんな方だ、お前のご主人さまは。だから、家族同然の家の者を守ったお前のことを、さぞかし心強く思ったに違いねえよ」
主人はそういって真剣に誉めてくれた。
「お前はいいことをしたんだよ」
また、彼は酒を注ぎ足す。それをまたルセカーは呷った。そういえば、エレの死の真相を聞きそびれてしまったと、ルセカーは思った。ぼんやりと重みのある肩を見やる。酒精が過ぎたか、少年の頬が赤い。
その日の払いは酒場の主人の奢りだった。