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春はいい。寒暑に悩まされずにすむ。馬上の旅では願ってもない。
陽光のきらめきを生命の息吹が優しく照り返すのを暖かく感じながら、騎乗の一行が王都への帰路に歩を重ねていた。
「やれ、身に過ぎる領地というのは、手にも余るものだな。様子を見るだけで骨が折れる」
「お疲れ様でした、閣下。王都に着きましたら、どうぞ羽を伸ばしてお寛ぎくださいまし。幾日かは出仕もお休みになられればよろしいかと存じます」
家人の騎士が主人を労う。
「そうしたいところだがな」
苦笑に嘆息を交えて、ソール・デレフ伯爵はそう洩らした。
日々抱えている現実が、穏やかな景色を見ているとまるで嘘のようだ。
伯爵の、真ん中で分けて左右に真っすぐ落とした髪は、元は濃い茶色をしていたのだが、今では灰色が多く占めてしまっている。髪の色を謂うのに、さてどちらを基準にして謂えばよいのか。白髪まじりの茶色か、それとも茶色のまじった灰色だろうか。伯爵の刻んできた苦労がその髪にあらわれているのである。
今ある苦労が無ければ、どれほど幸福なのだろう。そう思って、彼は詮のない想像をやめた。今ある苦労はかけがえのないたった一つの大きな幸せの為にある。それが無ければ、ただひたすらに虚しいだけだ。
「今はただ、この景色のみ」
ひとときの幸福を、彼は満足とすることとした。
ルセカー少年の騎士見習い生活が始まって二週間が過ぎた。まず初日と二日目。シースティアはルセカーが出入り可能な城内を案内して廻ったり、仕事の要領を教えた。ルセカーとしては、シースティアが存外暇そうなので手伝うことも少なかろうと踏んだのだが、それこそ存外で、三日目に彼は身分不確かながら騎士見習いの従者に取り立てられた幸運を不幸ではないかと疑った。
従者の仕事が、どうして騎士の手伝いだけなものかよ、と、少年の摘み食いを見つけた騎士棟の料理長が拳とともに彼にのたまったものである。確かにそれは甘かったかと反省はする。しかし少年には、どうしても自分のこなしている仕事量が他の従者たちより多いような気がしてならなかった。周囲で休憩している先任の従者達を傍目に、書類運びから馬房掃除、宿舎の備品の修理に武具の手入れ、用はいくらやってもなくならない。少し経って知ったのだが、用事は自然発生するのではなく、シースティアが作るか見つけてくるのだ。冗談じゃない。騎士長のご機嫌取りに彼の雑務を引き受けたシースティアが、その仕事を自分に回してくると知ったときにはさすがに腹が立った。が、その怒りを主張する余力もなく、自由な時間ができると、怒りより眠気の方が先に体を乗っ取ってしまうので環境は一向に改善されず、再び睡魔に屈するという悪循環に陥って数日を過ごしてしまった。最初は余計な思考を持つ暇もなかったが、それでも慣れれば愚痴をこぼすくらいには余裕が出てくる。しかし手が空かない。そのぶん口が達者になるものだ。
「今に見てろ、あんにゃろう」
洗濯板に、恨み辛みごと泡ぶくの衣服を擦り付ける。
「誰が野郎なの」
途端に拳骨が降ってくる。どこかで見張っているのではないかと疑うくらい地獄耳だ。
「まだまだ元気があるようね、明日の仕事も今日片付けてもらおうかしら」
「じょ、冗談だろ!」
城内でのルセカーの仕事はもっぱら雑務で占められ、その忙しさは眼も廻るほどだが、ソール・デレフ伯邸ではすこしゆっくりとできた。シースティアが意地悪く見つけてくる仕事にしても絶対量は知れているし、使用人の女たちや老僕が、なぜかルセカーを気に入ってくれて、彼らがうまいこと彼女の眼につきそうな仕事を片付けてくれたからである。そのおかげで、邸での仕事はシースティアの身の回りの世話がほとんどだった。主だったのが出仕などの身仕度、つまり着替えである。普通の貴族女性ならば、そういった世話は女性が勤めるものだが、騎士であるからには戦場において女性の手は掛けられない。よって普段からそういったことは従者の仕事だった。
「脱がせて」
うら若い美女が少年相手に口にするには刺激の強い台詞である。最初の日、彼女はそういってルセカーをからかったが、少年の方は動じずに着替えをこなしてしまった。
「可愛げない」 というのが少年の主人の感想である。
その日も、城内のあちこちを駆けずり廻った。仕事はあらゆるところに落ちていて、拾ってくるのはシースティア、こなすのはルセカーだ。君の従者、助かるよ人手をまわしてくれて。そんな会話が聞こえてくる様だ。株があがるのはシースティアであってルセカーではない。
疲れ果てて、帰り道にシースティアの馬を牽いて歩いても、うとうととしていてどちらかというと馬に牽かれていたようなもので、道中の記憶がさっぱりないのがいい証拠だ。邸に着いてからも少々仕事があって、それは覚えがある。つまるところ、考えなくていい時分は頭が先走って寝ているのだ。
ようやく体と頭が同時に休める時間がきた。他の使用人たちは離れの部屋で一日の終わりを歓談で過ごすのが日課であるようだが、ルセカーにそんな余裕などなく、今のところそれに加わったことがない。
ともあれ、睡眠は何よりも先決事項だった。最近の彼の眠りは至福だ。あてのない旅で不安に包まれながら暗い眠りに就くよりは、考えるまもなく眠りに没頭できる。次の瞬間、
起きたときにはもう朝、というのが毎度のことだったのだが、いい加減身体が慣れてしまったのか、その日、目を覚ましたときには、まだ外は夜闇に包まれていた。
やけに喉が渇く、寝ている間も体力を消耗するというのは本当だろう。その渇きはルセカーにあっさりと微睡みを放棄させた。
ルセカーは慎重に自室を出た。シースティア付きの従者であるルセカーには彼女の隣の小部屋が宛がわれていた。つまりは隣に主人が目と耳を見張らせているわけである。別段悪いことをしている訳ではないのだが、わざわざ音を立てて苦手な人間を起こす手はない。彼女の部屋とは反対の方へ廊下を忍び歩きすると、ルセカーはそっと階段を下りた。
深夜の邸内は初めてである。寝静まった雰囲気からすると、夜が明けるにはまだだいぶありそうだ。
ルセカーはさっそく炊事場へ脚を運んだが、勝手が分からず水桶が見つからないので、裏庭の井戸から直接汲むことにした。
裏庭への勝手口を開く。
そこで、世界の一転を感じる。
静けさをまとう空気に、一瞬圧倒される。そのあとも、胸を締め付けるような雰囲気が辺りに漂った。
空に満天の星が瞬く。その瞬きとともに銀粒子が弾けて降りそうだ。
それはまるで星降る夜………似つかない名だけど、確かにそれは美しかった。
空に魂を奪われそうになる。星空は天高く、遥か彼方の煌めきが魂を誘って止まない。広い世界に、ちっぽけな人間である自分が心許ない不安感。それでいてこの解放感はどうだろう。
と、星が満天の空からこぼれるように流れた。自然、目線が流星を追う。瞬きほどの間に、星の軌跡は庭の樹に遮られてしまった。
ルセカーの視線がそこに移った途端、胸が騒つき始めた。何か不自然を感じる。そこの樹だけが、景色になりきっていなかった。
誰かいる。
ルセカーは何気なしに井戸に歩み寄り、縄付きの手桶で水を汲む。そして水を移すふりをして別の桶を拾うと、素早く樹の枝を目掛けて投げ付けた。
「誰だ!」
誰何の返答は銀色の刃で返ってきた。引きつった顔をしながら水の入った手桶で飛来する短刀を受けとめる。その隙にも、樹から飛び降りた黒い影が風のような速さで音もなく迫った。
逆手に持たれた短剣が喉笛を掻き切ろうと弧を描く。ルセカーが思い切り仰け反ると首に赤く一筋傷が残った。予想以上に間合いが広い。ルセカーには返す手もないが、手桶の
水を浴びせると声を上げて再び誰何した。
「誰だ!」
空桶を叩きつける。受けた刃が木屑を散らす。
「何事!? ルセカー!」
二階のバルコニーからシースティアが姿を見せた。彼女は曲者を認めると合点して室内に舞い戻る。
「このっ!」
執拗な短剣の突きを凌ぐので手いっぱいだったルセカーだが、侵入者の方にしても少年の思いの外の抵抗で、仕留めるのに時間を取られすぎた。
幾許も経たないうちに、剣を手に取ったシースティアが勝手口に現れた。途端、賊は最後の一撃をルセカーに見舞うと塀の方へ身を翻し、恐ろしい速度と跳躍でその向こう側に姿を消した。
「なんて素早い………!」
駆け付けたシースティアが賊を目にしたのは、実にほんの数秒間だけだった。彼女はそのあともすぐには緊張を解かず、周囲の気配と安全を確かめてから息を抜いた。
「大丈夫?」
足元にへたり込んでしまったルセカーの肩に手を置いた。
「…………あ、ああ」
手を伝わってルセカーの緊張がどっと解けたのが分かる。シースティアは少し微笑んだ。
「それにしてもよく賊が侵入したのに気づいたわね」
「たまたま外に出たら、なんか変だっただけだ」
なんか変、というルセカーの感性を理解し難かったが、なんとなく納得はできた。
「でも、賊を発見できたのは運がいいのか悪いのか五分五分ってところよ?」
「………なんで?」
「あの刺客、王都では有名な暗殺者なの」
「暗殺者が有名でいいのか?」
「存在だけよ、正体は誰も知らないの。とにかく、運が良かったわね。並みの騎士なら、死ぬのも気づかずに殺されてしまうほどの相手だから」
ルセカーはその言葉とわずか数分間の死のやり取りを反芻してごくんと唾を飲むと、遅蒔きながら冷汗が吹き出してくるのだった。
シースティアがその賊と以前にも出くわしていたのではないか、そう思ったのは動転した気分が落ち着いた後のことである。