一章 宮廷騎士シースティア・ラ・ソール
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大商人ポーエックの街道を南下した地に、サーキス王国の王都サークはある。
サーキスは、かつてカルン大河と呼ばれたカルン川流域の沃土による農耕と、その河口におかれた港による交易によって栄える国だ。
暦は春、種蒔きを終えたばかりの、新緑も清々しい季節。港の方でも冬時期の海の荒れが治まり、交易船が寄港しはじめて活気に湧く季節でもある。
サーキスという国自体が、繁栄を約束された春の時代にあった。
王都の中心に程近い、つまり王宮の近辺を囲む高級地にソール・デレフ伯の邸はあった。伯は王国の西端に領地を持つ中級の貴族で、普段は領地経営を代官に任せ、宮廷に出仕している。彼には、今年十九になる養女がいた。生まれて間もない友人の遺児を引き取ってはや十九年。いまや彼女は吟遊詩人の美貌麗声、音曲や刺繍など、よほど女らしい事より、剣を好んで女だてらに宮廷騎士を務める市井にも評判の娘である。
今日も、ソール・デレフ伯の邸では庭に並んだ樹木に巣をつくる野鳥で賑やかだ。
季節がくると、毎朝日の出とともに騒がしくなる。その内、巣には卵が産まれ、余計に騒がしさが増すだろう。その光景は、彼女の私室の二階の窓からも見えた。
鳥の声に微睡みながら春眠の心地よさに浸っていたが、いよいよ窓から日差しが差し込むようになると、シースティアは観念して起きることにした。明るすぎる朝日が少し眼にいたい。気怠さを感じながら寝床から裸体に近い体を起こす。従者の名を呼んで、あるはずのない返事を待つ。欠伸を噛みながら意識がはっきりするにつれ、その名の持ち主がもういない事を思い出すと、彼女は別の召使いを呼んだ。
年季の入った女の召使いが彼女の身仕度を手伝う間、シースティアは昨日の出来事をおぼろげに思い出す。寝呆けた頭のなかに、それは意味もなく思い出され、そして記憶の引き出しに再びしまわれると、彼女の寝呆けた頭は出仕の遅刻の言い訳を考えることに注ぎ込まれた。
結局、彼女が王城の騎士門に着いたのは、定時を二時間も過ぎてからだった。
騎士門とは、王城にある南向きの正門と残る三方の小門とは別に加えて構えられた南東の門のことを指す。王城の南東にはそこから直通して騎士団の棟があり、騎士門は正門と並んで強固に造られた門であって、武門の象徴といえた。しかし強固といえども、あくまで象徴に過ぎない。王都の外壁を突破されるような戦に、勝ち戦は見込めないからだ。
騎士門に辿り着いたとき、シースティアの頭に騎士長を納得させられる言い訳は思いついていなかった。
城壁を左手に、騎士門をあと二十歩程というところで馬を止めて鞍上で唸る。駄目だ、どうしても思い浮かばない。このまま踵を返して仮病でも使おうか。しかし風邪一つひかない自分が病などと云えば、男どもは嫌な誤解をしてくれるだろう。ことにガブレイなどにはいい嘲笑の種にされてしまう。例え自分が聞いていないところであっても、あの男に笑われるのは身の毛がよだつほど不愉快だった。
思わず想像して眉間にしわを寄せた彼女は、見慣れないものを騎士門の脇に見つけた。塵芥の固まり、ではなくて何かが入ったずた袋、でもない。シースティアは言葉でそれを表現しようとしてことごとく失敗すると、それが如何なるものかを確かめるためにも、とりあえず騎士門はくぐる事にした。
「シースティア様、おはようございます」
門兵が馬上のシースティアに挨拶する。だが、彼女の視線はすでに正体不明のずた袋にあった。
「おいこら、お前! シースティア様がおいでになったぞ」
門兵が叱り付ける。すると、むくっ、とずた袋が顔を上げた。ずた袋ではなくて人間だ。それには随分と汚いが一応、という修飾が加わる。
ぼさぼさ頭にほこり模様のマント、腰には剣帯。シースティアは今朝方記憶の隅にあったものを再び引っ張りだした。
「ああ、昨日の少年か!」
「申し訳ありません。この小僧があなたの推薦だとぬかしまして、早朝から入れろと騒ぐものですから。念の為、確認しておこうと」
そして門兵は遠慮がちに、
「………あの、お知り合いなのでしょうか」 と付け加えた。
「ごめんなさい、悪かった」
三時間待ったという少年の言葉に、彼女は笑顔で謝った。騎士長に遅刻の挨拶に行った後、彼女の控え部屋でのことである。
騎士の多くは王城内の騎士団棟にある宿舎に寄宿するが、彼女の様な貴族家の子息令嬢ともなると話は違う。また、騎士の位もいくつかに分かれ、この国で宮廷騎士といえば、騎士団の中で特に貴族並みに王宮への出入りに自由が利き、具体的には国王の直臣待遇で玉座の間まで入廷を許された地位にある騎士ということになる。
彼女の場合は貴族でもあり、騎士としても宮廷騎士の地位を持つ、いわば高級士官である。彼女ほどになると、騎士団内に自室が与えられるわけである。
さて、王城にわずかながらも居室を構える彼女は、非常に機嫌が良かった。騎士長は公用で定時の出仕に間に合わず、まだ姿を見せていないと知ったからだった。
「で、少年。名前を聞いていなかったわね」
「ルセカー」
簡素な木の椅子に座らされた少年は、行儀よく両手を膝の上に乗せて答えた。シースティアは自分の机からそれに向き合った。
「……ルセカー、何? それとも何ルセカー?」
「ない、ただのルセカー。他にもあったけど、今はそれだけだ」
「なかなか複雑そうね。それに大した名前だわ。ロークァークの騎士と同じ名だなんて」
ロークァークの騎士ルセカーといえば吟遊詩人に歌われるほどの名声を持つ騎士である。ロークァーク地方の戦乱を、その武勇と知略で治め、平和を取り戻したという最も新しい伝説だった。彼はまだ存命していて、三十も越えてはいないはずだ。
「まあいいわ。ともかくあなたは今日から私付きの従者になるわけだけど……」
そこまで言って彼女は少し顔をしかめた。
「……ちょっと、あなた臭うわよ? ちゃんと宿で湯浴みをしたの?」
「宿には泊まってない。金が無いから」
よくもまあこの王都で警備兵に咎められなかったものだ。夜間においても巡回の兵が厳しく王都を取り締まっている。王都には物乞いなど浮浪者をはじめとする貧民がいないが、存在しないのではなく警備兵がそういった市民権のない者を取り締まって追い出しているのである。
「お金が無いって、昨日の酒代はどうしたの!?」
「あれはどっかのおっさんの奢りだった。酒場の親父に飯も食わせてもらったし………見物料だって」
「それでも、あなた旅してこの国まで来たんでしょう?」
少年が旅姿をしていればそのくらいは分かる。少年はこくこくと二度頷いた。
「路銀はどうしたの」
「使い切った。一年前に。あとは農家で働いて食わせてもらったりしてたな」
当然、何日も空腹で過ごすこともあった。旅はそんな状態で峠道を歩かせたりと、身体を酷使させることもある。のたれ死に寸前までいったこともあったが、それでもやっていけたのは、ひとえに生き延びようとする強い気概があったからだ。そこのところの説明は、少年は特に加えなかった。
生き延びて、生き延びた先に目的があるわけでもなかった。生きるために旅をしていた様なものだ。今は違うが。
「わかった、ようくわかったわ。あなたの一番最初の仕事は……」
断末魔のごとき悲鳴が、騎士団宿舎の水場から騎士団棟全体に響き渡ったのは、それから数分後、真昼になろうとする時刻のことだった。
何事かと仕事中の者は顔を上げ、厩舎の馬は飼い葉桶から鼻面を上げた。手すきの者などはわざわざ水場まで見物に訪れた。
泉水の脇で、シースティアがルセカーの服をひん剥いて手ずから洗ってやっているのを彼らは面白そうに眺めた。彼女手ずからと、聞くだけ聞いた者には羨ましがる者が多くいるだろうが、手ずから石磨き用のモップを持って、とくれば辞退願いたいところだ。
少年はモップの硬い毛でガシガシと磨かれて文字通り垢剥けると従者用の支給品の服を着せられ、今度は散髪だ。
「なにもう、硬い髪ね! 洗髪くらいまめになさい!」
鋏が刃こぼれしそうな、針金のような髪をばさばさと切り落とす。小一時間後にはさっぱりとした従者姿のルセカー少年が出来上がったが、見栄えの悪さはあまり変わっていなかった。なにしろ、ぼうぼうがぼさぼさに変わっただけであるから。
「とりあえず、形だけは何とかなったわね」
溜め息をつくと、シースティアは腕組みしてルセカーの爪先から頭のてっぺんまでを、一通り値踏みしてみる。
「ほんっと、取り敢えずね」
彼女はもういちど眉根を寄せた。
「ど、どうでもいいだろ、格好なんて!」
顔を真っ赤にしてルセカーは叫んだ。なにしろ、服を残らずひん剥かれたのだ。繊細な少年心は複雑である。
「さてと、最後に……」
「まだあるのか!」
「その剣を預かるわ」
シースは腕組みしたまま人差し指を立てて言った。
「これは駄目だ!」
ルセカーはずたぼろのマントにくるまれた幅広の剣を、まるで玩具を取り上げられそうになった子供のように抱き締めた。彼がシースに向ける眼差しは、大切な何かを奪い去られる怯えを含んでいるように見える。それを見たシースティアは、一度うつむいて眼を閉じると、真摯な瞳を静かに見開いた。
「従者は特別な場合を除いて帯剣を許されないわ。あなたが騎士になるまで、あるいは、ここを出ていくことになるまで、私が責任をもって保管します。だから諦めなさい」
今度はルセカーが俯く番だった。計算も何もない躊躇いの迷いが渦巻く。騎士になる為には剣を渡さなくてはならない。それ以外にはありえない。ただ渡したくないという感情だけが彼を無為に迷わせていた。
「大事なものなのね?」
ルセカーは頷く。
「約束する、きっと返すから」
子供を諭すように彼女は言葉をかける。背丈が頭半分低いだけだが、少年がまだ少年である事に変わりはなかった。
突然、ルセカーは剣をマントごとシースティアに突き出した。
「預ける、それから、子供扱いするな!」
自分がそんな風に諭されていることに気づいた彼は、赤い顔で言った。
「十二、三なんて子供じゃないの」
彼女の方もいたずらっぽい笑みが顔を覗かせる。
「十四だ!」