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その夜、ルセカーは目を覚ました。身体の調子はずいぶん良くなった。でも体中の力が抜けてしまったようで、完調ともいえない。
いつかのように、夜半に目が覚めてしまったようだ。邸内は静かで、あらゆる気配が寝静まっている。身の回りの世話をしてくれているクレアも、ルセカーが寝付いたので引きあげたようだ。
身体は、眠りから覚めるたびに回復しているのが分かる。手足が動くので、そろそろおとなしく寝てはいられなくなってきた。ルセカーは、体を起こして寝台の横に座ってみた。頭がふらついたりしないのを確認してから、裸足の足を床に踏みしめて立ち上がってみる。意外と平気だ。
ルセカーは扉を静かに開けて廊下を覗いた。
寝静まっている、そう思えたはずだが、廊下の一番奥の伯爵の居間から明かりが洩れている。少し興味がわいて、ルセカーの足はそちらに向いた。
「…………“ギゼ”は、この件に関して手を引くつもりはない。が、かなりやばい橋を渡っている事も理解してほしい。もしかすると、殺された連絡役の口から、足がついたかもしれん」
明かりが洩れる隙間をルセカーは覗いた。円いテーブルの椅子に座る伯爵が見える。声の主は席を立っている様で、向き合った椅子には誰も座っていなかった。
「ところで伯爵、ルセカーは無事か?」
ルセカーはどきりとした。鼓動が迅くなって息苦しくなる。呼吸の音が気取られはしないかと不安になった。
「やはり気になるかね? ギゼは」
優しげな声色に、だが抜け目の無さがその言葉にはあった。
「意地の悪いことを言いなさんな。ルセカーのことを教えてくれたのはあんただ」
自分が話題となれば、立てた聞き耳にいっそう集中する。と、暗やみに潜むルセカーの口元を、何者かがふさいだ。
驚きはあった。だが恐怖は感じるまもなく、その必要を打ち消された。口をふさぐ、少しひんやりとした細い指先の手。屈んだ背に掛かる、柔かい温もりの重み。そして、耳に囁き掛ける声。間違いなく、それはシースだ。
「静かに……こっちにいらっしゃい」
暗い廊下をシースの手に引かれて歩くのは、記憶の底にある何かを呼び起こしそうであった。その気持ちがなんなのか、いつまでも判然としないままルセカーは歩いた。
シースは自室にルセカーを連れていくと、椅子に座らせた。自分はテーブルを挟んで向かい側に座る。
「気分とか、悪くない?」
ルセカーは首を縦に振った。その代わり、別の要求が腹の虫から為された。
「わかったわ。ちょっと待ってて」
シースはにこりと頬笑んで席を立った。
灯りの少ない部屋に一人残されると、急になにかが物足りなくなる。心の狭間をすき間風がぬけている。
ルセカーはしばらくじっと座って青暗い闇を見つめていたけれども、ふと椅子から立ち上がって窓辺によってみた。
思ったとおり。闇が晴れて、月明かりがそそいでいる。こうして月をみていると、どうしてこんなにも胸が痛いのだろう。
ルセカーの胸は、いま闇夜に現われた月のように、満ち足りていなかった。
「……トリス……」
「ルセカー?」
どきり、とルセカーは振り返った。お盆を手にシースが立っている。
椅子に座って、二人は再び向かい合った。シースが運んでくれたのは、夕食の残りのシチューとパンだった。
小さなテーブルに並んだそれらをルセカーが黙々と胃の中に収める間、シースはテーブルに片肘をついてじっと見守っていた。はじめはルセカーの猛烈な食欲に目を丸くして。それから、優しく穏やかな瞳で包むように。パンの最後のひとかけらを飲み下して、その瞳に気づいたルセカーは、仕事を終えて空いたはずの口から、なにを喋ろうか悩んだ。
目の前の女は、女だてらに騎士で、素性の知れない自分に最大の保護を与えてくれる。いまもこうして、彼女は気恥ずかしさで居心地が悪くなるくらいの慈愛をそそいでくれていた。またか。まだ自分は、保護される側の弱い子供でしかないのか。じわりと胸の奥、感情の襞から悔しさがにじみ出る。そう思うとシースの瞳を見ていられなくて、ルセカーは俯いて顔を隠した。
「ルセカー……?」
膝の上で手を握り締めていた少年は、ふと何かを思った。
「剣を……剣を、教えてくれ」
「ルセカー……」
シースは切ない瞳で少年を見た。
「あなたは、騎士見習いだものね。でも、剣を取らなくても、生きていけるのよ? 普通に暮らしていくなら、剣を持たないほうが幸せに生きていける。騎士にならなくても、この邸で働いていけるし……」
「剣が使えないと、守れない!」
守られてるばかりで、無力で、悔しくて。もうそんなのはごめんだった。
二人の間に、長いこと沈黙が横たわった。
そしてシースティアは、その日、頷くことはせず、ルセカーに眠るよう命じたのだった。
翌朝。明るい日差しが暗闇を取り払う。人の心からも。たとえ、表面だけであったとしても。
口元にはこんだティーカップを離して、シースは小さい溜め息をついた。
「どうかしたのかね?」
食卓を挟んだ席で、ソール・デレフ伯爵は娘の様子を見兼ねて言った。十九の娘に悩みの一つあってもおかしくはないのだから、溜め息一つくらいで年頃の娘の胸のうちに踏み込んだりはしない伯爵ではあったが、シースの手が食事を止めるにつけ、ぼんやりとしては何かを考え込む素振り。そして溜め息とくれば、聞かぬのも気が咎めた。
顔をあげたシースは、伯爵が自分の顔を見つめているのにはじめて気づいたような顔だった。
「……ルセカーが、剣を教えろというの」
「ほう、自発的にとは、いい事じゃないかね」
伯爵の言葉に、シースは少し眼を丸くした。
伯爵は、我が子に優しく微笑んだ。
「わかっているよ。お前が、まわりの者を危険な目にあわせたくないと思っているのは。けれども、彼は騎士を志した。これまでの生き方も、想像するに、危険と隣り合わせだったんじゃないだろうか。シースティア、お前の気持ちが、彼を殺すことだってあるかもしれないよ」
「それは……!」
「もちろん、彼はいい子だし、このまま我が家で働いてもらうのは大歓迎だ。あとは、お前がよく考えて決めなさい」
あの子は、きっと束縛すれば、反抗するだろう。一人で生き抜いてきた子だ。どうすればいいのだろう……。
「お茶を入れなおしましょうか? シースティアお嬢様」
給仕の番をするクレアが、思考のうちに篭もりそうなシースに声を掛けた。気分転換してはいかがですか? そう言ったのだ。
シースは、冷めたカップの中身を見下ろして、首を振った。
「いいえ、もう十分よ。ありがとう」
クレアの心配りを理解して、シースは微笑んだ。
「お父さま、ひとつ聞きたいのだけど」
「なんだね?」
「ワーズ・ワスマイルとは、何者なの?」
伯爵の表情が、ぴくりと反応したが、彼は隠さなかった。
「仕事の協力者だ」
「どういう?」
「彼には旧フローリア公国領の方で働いてもらっている。内容は、詳しく話せないがね」
ちょうど、シースティアが生まれた年のことである。サーキス王国は隣国で友好国でもあったフローリア公国を併呑した。ロークァーク地方の長引く戦乱により、大量の難民が流れこんだフローリア公国に対して、統治力不足と治安維持の支援という名目で派遣されたサーキスの軍勢は、公国の軍隊と一触即発の状況を作り出し、公国軍を暴発させて一気に武力制圧したのである。まったくもって強引な侵略劇だった。
この事件で政治的に功績があったのが当時デレフ子爵だったシースティアの父ジョゼフだ。彼はその功績により、フローリア公国のソール子爵領を伯爵号とともに与えられ、ソール・デレフ伯爵となった。ただ、伯爵号は彼一代のみで、ソール子爵領は子孫の代で分家するように定められている。ソールは、デレフと隣り合わせではなく、飛び地だからだ。占領地の管理の苦労は並みではない。したがって、管理させる代わり、領地の倍増を報償としたわけだ。
「ソール子爵領か……」
ソール・デレフ伯爵領でフローリア公国側というと、ソール子爵領であるから、シースは必然的にソール子爵領に思い至った。
「では、“ギゼ”って?」
シースがそれを口にすると、伯爵の食事の手が止まった。しかし、動じた様子はない。
「盗み聞きとは、あまり感心しないな」
この邸でギゼという言葉が発せられたのは、昨夜のワーズとの会談でのみだ。伯爵の語調が、めずらしく、わずかだが厳しいものに変わる。それだけ重要な事なのだろう。
「ごめんなさい、自分の従者を躾けようとしたら、偶然聞こえたの」
一方のシースは、悪びれずに淡々と言った。
「ルセカーも、聞いていたのかね?」
「たぶん、ほんの少しだけよ。すぐに見つけたから。でも、許してあげて。自分のことが話されていれば、気になるのは当然だわ」
自分のことは棚に上げて擁護する。
「わかった。お仕置きはなしにしておくとしよう」
一瞬見せた厳しさが幻であるかのように、伯爵は冗談めいた口調で言った。
「でも、私の従者がお父さまのお仕事で話題になるというのは、私だって興味があるわ」
「当然だな……そう、彼はある時から、ある人間にとって、ただの少年ではなくなった、ということだろうか……」
結局、伯爵の口から聞けたのはそれだけだった。シースもシースで、取り立てて聞き出そうとはしなかったのだが。
出仕の時間もあってシースは席を立った。気にもなるが父は話すまい。そう理解しているのだ。
身仕度を終えてシースが厩舎に足を運ぶと、なんとルセカーが馬装をすませて待ち構えているではないか。
「ルセカー、体調は大丈夫なの?」
「もう治った」
こくりと頷いてシースをやや見上げる眼差しは、連れていけ、でもなきゃ付いていくと訴えている。シースは、制止の言葉を飲み込んで微笑んだ。
「行きましょう、遅れるわ」