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 トリスとの別れは、知らぬうちに忍び寄っていた。

 それは夏の近いあの日。

 彼女に目をかけた高貴な身分の人物が、彼女を愛妾に迎えたいと使者を寄越したのだ。

 使者は前金を持参し、後日その三倍の額を支払うという主人の意向を伝えた。

 いわゆる身請け、体裁はどうあれ彼女は売られるのだ。

 話を聞いたロジーは震えていた。娼館にとっても、トリスにとっても悪い話ではない。そして決定は女将の意思次第で、彼女がそうと決めればトリスの意思も、ましてやロジー

の口など挟む余地もないのである。彼女は行ってしまう。どうしようもなく、それは決まったことなのであった。

 その夜、トリスの部屋の戸をロジーは叩いた。

 夜更けの来訪を告げられたトリスは、そっと扉を開いた。来訪者がロジーであることは察しがついていたようだ。

「ロジー、お入りなさい」

 立ち尽くして何も告げないロジーを、彼女は部屋に招き入れた。

 トリスはロジーをベッドに座らせ、自分はテーブルに腰をすがらせて少年を見つめた。

 彼女は何かを言おうとして口を開き、それを言葉にするのを試みて、はにかむと首を振って諦めた。

 無言の間を先に破ったのはロジーだった。

「…………行くのか?」

「ロジー、一緒に逃げよう、どこか遠くへ行って暮らしましょう。二人なら、苦労してもどうにでもやっていける」

 ルセカー・・・・は、そこで違和感を覚えはじめた。彼女はそんなことは言わなかった。これは自分が望んだ夢なのだ、と。

 夢のなかの彼女は、自分をいだいて、耳元に何ごとかを呟いた。それは愛の囁きだったような気がしたけれども、やはり夢だ。何も思い出せない。

「……トリス」

 熱にうなされたルセカーの額の汗を、シースティアはそっと拭った。

「シースティア様、どうですか? 様子は」

 水差しを手にした少女が、ランプの灯りだけの薄暗い部屋に入ってきた。かつてのシースティアの従者エレの友人だ。名前はルーヤという。ルセカーを怒鳴りつけたあの少女だ。

 シースティアは、彼女のことを記憶していた。女性騎士として、女の騎士見習い従者のことはだいたい耳に入ってくる。なにより彼女はエレの友達としての面識もあった。

「まだなんとも。うなされているみたい」

 静かにシースは言った。

「毒を使うなんて、卑怯だ」

 ルーヤはシースの横に腰掛けると、祈るように手を組んだ。

「そう……そうね」

 生きるか死ぬか、それを突き詰めていけば、どんな手段も忌避することのない非情さを知る剣士としてのシースが、今はルーヤの言葉に頷いて、彼女の肩を抱いた。

 二人の胸には、共通の人物の死が影を落としていた。



 騎士団は王城の外にも施設を幾つか持っている。ルーヤが住む女子従者寄宿舎もそのひとつで、民間から借り受けた四階建ての建物に、騎士団に所属する女子従者のほぼ全員が寄宿していた。

 騎士たちは、ある一線では男女の別には頓着しない。戦場であれば当然のごとく無視される事柄であるからだ。一方で、平時の女子たちは、女らしくあることを、女社会の団結と暗黙の規律を互いに肌で感じることで、或いは無礼な男どもに感じさせることで守っていたが、寄宿舎が外部にあることについては、単に騎士団の敷地が足りなくなったという一点が、その理由であった。

「ルーヤ」

 夜更け。戸締まりの見回りに歩いていたルーヤを、暗がりから誰かが呼び止めた。

「あの男の子の具合、どう?」

 手に持つカンテラの灯りを差し向けると、ルーヤと同年代の少女たちが階段のなかほどから彼女を見下ろしていた。

 買い出しに市へ出掛けたルーヤが、傷を負って倒れた少年を運び込んで、寄宿舎はちょっとした騒ぎになった。

 ルーヤは野次馬と人手の区別をつけ、借りるべき手はきちんと借りて、彼女ら同僚たちには引きとってもらったが、彼女らにしても気になるのは理解できることだ。

「今、シースティア様が看てらっしゃるわ。熱がひどくて、わからない」

「そう……」

「さ、早く部屋に帰んなさい。風邪ひくわよ」

 夜着に肩掛けショールという彼女らの薄着をルーヤは見咎めた。

「う、うん」

 彼女らが階段を振り返って昇りはじめるのを確認してから、ルーヤがその場を立ち去ろうとしたその時だ。今し方、鍵を閉めたばかりの玄関の扉の外で、銅製のノッカーが鳴った。

 夜は深まり、その闇は深淵に差し掛る時分。

 ルーヤは扉を凝視して硬直した。

 静寂が不気味さを漂わせて、ルーヤの胸中に刃をあてられたような圧迫感を与えた。

 やがて、無機的なノックがもういちど扉を鳴らす。

 ルーヤは懐剣を確かめると、戸口にカンテラを掛け、後ろ手に抜き身の懐剣を隠して扉の鍵を開ける。ルーヤは息を飲んで戸を開いた。

「夜分失礼するよ。君はルーヤ、だったね」

 細く開いた扉から、優しげな細面が覗いた。

「ソール・デレフ伯爵閣下!」

 白が混じりの茶色の髪は、少し乱れていた。馬を飛ばしてやってきたのだろう。

「話は聞いた。ルセカーを救ってくれてありがとう、ルーヤ」

 ルーヤは恐縮した。エレを訪ねて伯爵家に一度行ったきりの、従者ごときの名前を覚えていて、それどころか頭まで下げられたのだ。どれほどエレという少女が大事にされていたかが分かる。

「閣下、礼などおっしゃられるには及びません。それにまだ容体は…………」

 そこでルーヤは、はっと手にした懐剣に気づいて、慌てて鞘に収めた。

「気を張り詰めていたようだね。周囲を私の配下の騎士が守っているから、少し気を緩めて休みなさい」

「はい……でもシースティア様が……」

「娘には私から休むように言っておく。さあ」

「では、部屋にご案内してから、少しだけ休ませて頂きます」



 いつのまにか、眠ってしまっていたようだった。意識が覚醒すると、目を離している隙に悪いことが起こったのではないか、そんな嫌な想像に駆られて恐くなる。そんなときは、まだ熱で苦しそうだけれども、乱れた呼吸でさえ安心させてくれる。

 シースは、ルセカーの額にあてられた布を桶の水でしぼり直した。

「様子はどうだね」

 その声に、シースは驚いたように振り向いたが、しかしその驚きはすぐに些末事として彼女の心からしぼんで消えた。

 シースは訪れた父親に首を横に振った。

「医者はなんと?」

「……運が良ければ見込みはあるとだけ」

「そうか」

「でも! あの娘の時もそうだった、医者はやっぱり運が良ければ助かると。でも結局、薬は効かなかった!」

「シースティア……」

 伯爵は我が子を抱き締めた。



 夜半に降りだした雨は、王都の街並を静寂で塗り込めた。闇と驟雨しゅううに閉ざされた街には、何かよからぬものが徘徊している様で不気味だった。

「こんなときに嫌な雨………」

 自室の窓辺に立つルーヤは、室温によらぬ寒気を感じて肩掛けショールを引き寄せた。

 灯を落とした部屋は暗く、外の闇と室内の闇に挟まれた壁だけが、彼女が手をついた壁だけが、自分の拠り所であるように彼女には感じられた。

 ルーヤが目にする窓硝子は雨水に淀んで歪んでいて、ところどころにどこかの家屋の窓から漏れる灯りだけが目に写った。

 敬愛するシースティアに任せ切りで、眠れる筈もなかった。

 会っていきなり口喧嘩した少年だけど、助かると良い。ルーヤはそう思っていた。もう、あんな思いはたくさんだ。

 その時、見るとはなしに見ていた窓の外を、ふっと何かが横切ったような気がした。

 ルーヤは目を疑った。確かにいま、黒塗りの景色にぽつりぽつりとある灯りの点を、何かが遮ったのだ。しかし、ここは四階だ。一体何が横切るというのだ。ルーヤは息を飲んで窓の外を凝視したが、目に見える変化はない。ルーヤは窓を開けて確かめようか、迷った。窓の掛け金に、おそるおそる手が伸びる。

「…………」

 ルーヤは伸ばした手を、しかし途中で降ろして窓を開けるのをやめた。たぶん、気のせいだ。

 用心深い彼女が、この時はなぜかそう思った。いや、そう思おうとした。それは彼女の本能の為せるわざなのか。この時、それは彼女にとって幸運だった。



 少し風が出てきた。雨音がしはじめたのは気づいていたが、窓硝子が風に叩かれたので、やや荒れ模様になったのだろう。

 シースは椅子から離れて窓辺に寄った。隙間から、吹き荒ぶ風が押し入ろうと音を鳴らしている。

 腰にある剣を、シースは確かめた。

「誰です、そこにいるのは」

 振り返ったシースは戸口を突き通すように視線を送った。しかし、気配の所在には微かにずれがある。

 その瞬間、燃え盛る暖炉が、ボゥッ、という音とともに煙を吐いた。

 シースは目を見張った。一瞬にして暖炉の火は消えた。が、そこから燃え移った炎に身を焼きながら、黒装束の男が歩み出てきたのだ。しかも苦しみ悶えるでもなく、炎は逆に屈伏したかのように消え去っていく。それにつれ、光は闇に。部屋は暗転する。消え入る最後の火が、黒装束の男が抜き放った半月形の短剣を光らせた。

 抜き放ちざまに、短剣が襲いかかる。その太刀筋を、シースは予測だけで受けとめた。剣を鞘から走らせるのが少しでも遅ければ、シースの細い喉は断ち切られていただろう。咄嗟に抜いた彼女の剣は、それでもまだ半分が鞘のなかであったのだ。

 部屋が完全に闇に落ちる。それでも、その一合によって弾けた火花の残光で目に焼き付いた像を頼りに、シースは斬撃を繰りだした。光が消えたかどうかの一瞬だ。並みの使い手ならこれで屠れただろう。だが、黒装束の男は一瞬の光が作り出した残像と同じ場所にいつまでも身を置くような簡単な相手ではなかった。

 もはや視界は完全に失われた。唯一の勝機を逃したかもしれない。身を床に転がして、こちらも場所を悟られぬ様息を潜めるべきか。だが、背後にはルセカーが横たわるベッドがある。

 こんなとき風の音が恨めしい。わずかな物音が生死を分けるというのに、それを遮って刺客の味方をする。

 唯一の味方は、部屋の広さだ。幸いそれほどに広くない。壁の両側までをシースの間合いは斬り込むことができる。もはやシースは、剣気を張って結界とするしかなかった。そこに踏み込めば斬る。必殺の気合いだ。

 集中力は時間の感覚を鈍らせるが、目が闇に慣れてきた、それほどの時間を生死の瀬戸際では長いというのか短いのか。

 闇に慣れてきた目の視界に、かすかに黒装束の姿が浮かび上がる。

「シースティア! 大丈夫か!」

 その時、扉が開け放たれ、カンテラの光が部屋を照らした。その時ばかりは、カンテラの灯が太陽のようであった。

「お父さま!」

 黒装束は、引き際とみるや暖炉に飛び込んだ。何か火種を残したのか、再び暖炉が燃え上がり追跡を断った。

「屋根だ!」

 伯爵は従えていた騎士に命じた。二人の騎士がとって返す。

「二人では駄目だ。数を揃えて追え!」

 外では彼に仕える騎士が警護に当たっているはずだ。呼べば十名ほどが集まるだろう。

「シースティア様、ご無事ですか!?」

「ルーヤ、あなたが報せてくれたの?」

「うむ、この子のおかげだ。私たちは見当違いの場所を守っていたようだ」

 間一髪の危機に間に合って、伯爵は安堵の息を吐いた。

 外を見回っていた伯爵の髪と服は雨でびっしょりだ。

 ルーヤは、やはり自分の感性を無視できなくなって人を呼びにいったのだ。そしてあわやの所でシースを救ったのであった。

「ありがとう、ルーヤ」

 ルセカーが意識を取り戻したのは、それから数時間後のことである。



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