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三章  望郷と、焦燥

    1


 故郷、その呼び名があそこに相応しいかは解らないが、生まれ育った場所には違いない。

 少年は、その小さな町の娼館で育った。その町は小さいが、周辺には開拓者たちの村落が点在し、近郊には太守の住まう大きな街もあった。多少の距離が、忍んで足を運ぶ種類の客に好まれて、また美しい女たちを多く抱える店との評判が、街の男たちを誘った。

 少年は孤児だった。いや、本当はそうでないかもしれない。娼館の女主人はそうと言わなかったが、娼館の女たちのなかに、少年の母親がいることは暗に知れた。

 娼館で、少年の居場所といえば、屋根裏の自分の部屋だった。その上に立つと天井に頭をぶつける寝台。壁の真ん中にある、大きさだけが自慢の窓。低い天井は、成長期になると窮屈な感じがした。

 夜、それは女たちの仕事の時間。その間、少年は階下に降りることを禁じられる。幼な子ならともかく、寝入るには早すぎて退屈な時間。窓辺にしゃがんで、月明かりの景色をぼんやりと眺めるか、それともこっそり抜け出して夜の散策に出掛けるか。夜の過ごし方は、どちらかに決まっていた。

「ロジー、そんなところでうたた寝したら風邪ひくよ?」

 その日は窓辺にいた。月がとても明るくて、外がはっきりと見える。波打つ丘陵、地平の彼方の小さな山影。群れからはぐれた小さな雲が、青白く照らされて無音に漂っている。でも、何時間も見ているには、やっぱり退屈な景色だった。

 うわごとを呟いて、うつつへと舞い戻ると、ロジーは口からこぼれた液体を拭った。

「トリス?」

 少年は、夢とうつつの狭間から彼を引き戻した声の主を振り返った。彼女は、下の階から梯子を昇って腰から上を覗かせていた。床から突き出た梯子の先に腕を掛けて、くすくすとした笑みを浮かべている。茶色の髪を結い上げて大人びた印象を作っているが、年の頃はまだ十六、七の娘だ。

「よだれ、白くなってるみたいよ?」

 寝呆ねぼまなこを擦ったロジーは、今度はほおを撫で付けた。

 トリスは屋根裏へ昇りきると、ロジーに近付いて少年の頬の汚れを確かめた。彼女の手がロジーの頬を包んで見つめている。もう片方の手は、ハンカチでいささか遠慮なく彼のほっぺたを擦りつけていた。

 吐息が肌に感じられるくらい、彼女の顔が近い。眼を逸らすと、肩の広く開いたドレスの胸元が眼に飛び込む。顔をそっぽ向かせないかぎり、少年の視界は彼女で一杯だった。

 ロジーは少し顔を赤くして顔を引いた。

 トリスが顔を曇らせる。

「ごめん、私、香水くさいね」

 仕事の時は、化粧も厚いし香水もたっぷり振りまく。そんな色香に騙される馬鹿な男が商売の相手なのだ。

 ロジーが顔を引いた訳を誤解した彼女は、そういって謝った。

「トリスはトリスだよ!」

 大きな声の主張に、トリスは眼を丸くした。そのあと、色香を放つ化粧と衣装に不似合いなほど無邪気な笑顔を花咲かせた。

「ありがと。じゃ、私は仕事に戻るから、もうお寝みなさい」

 彼女が去った部屋は、まるで灯りが消えたようだった。彼女という音楽が鳴りやんだ様だった。

 本当は仕事になんて戻らせたくなかった。トリスの腕をつかまえて引き止めたかった。でもそんな資格も力もなかった。彼女たちの力で、ロジーは養われてきたのだ。そして、こうしなければ生きていけなかった彼女たちだ。

 一度だけ、トリスの仕事を窓の外から覗き見した事がある。

 相手は、人目を忍んでやってきた高い身分の男だった。

 脂ぎった顔が厭らしい笑みを浮かべて、トリスの白い肌を撫でまわす。トリスがそれを拒絶する事無く受け入れて喘ぐ様を、ロジーは目のあたりにした。

 叫びだしたくて、それを我慢すると喉を掻きむしりそうになった。

 そして、醜い贅肉をかぶった男の身体に抱きかかえられたトリスの瞳と、目が合った。驚きに見開かれる彼女の瞳。自分がどんな顔をしたか分からなかった。ロジーは、その場から逃げ出していた。

「あのブ男がどれだけの上客か分かってるのかい? どんなにデブでも、肥えられるだけの金持ちってことなんだからね。なにがあったか知らないけど、こんなことは一度にしておくれよ、トリス」

 戸口から、灯りとともに女将のラチカの声が洩れだしていた。夜中の町を、とぼとぼと歩き回って帰りついた時だった。扉の陰で、館の女たちが中の様子を窺っていた。

「どうしたの?」

「トリスが、お客の相手をしている最中に、急に嫌だって騒ぎだしたらしくてねえ。ラチカがおかんむりなのよ」

 女の一人がロジーにそう教えた。

「ちょっとあんた! 子供に余計なこと言わないの!」

 年長の娼婦がその女を叱った。

 彼女が叱るのは、十三になったロジーなら分かることだった。

 話を終えてトリスがこちらへ向かってくると、女たちは蜘蛛の子を散らすように部屋へ戻った。ロジーだけが、そこにとり残された。何か言わなくては、そう思ったのに、沈んだトリスの瞳に自分の姿が映ったとき、ロジーは居たたまれなくなって自分の部屋へ階段を駆け上がっていた。

 背中のトリスは何も言わなかった。けれど、哀しげな瞳が自分の背を追っているようで。

 暗い部屋に、ロジーは閉じこもった。朝になっても、下に降りずに朝食も採らなかった。その日の朝食はアンナの番で、彼女が呼びにきたけれども、ロジーは出入口の床板を開けなかった。一度呼びにきただけで、あとは誰もこない。女将がそうさせているのだろう。

「食欲がないなんて贅沢者に、喰わせる飯はないよ」 それが彼女の口癖だ。

 別にいい。誰の顔も見たくない。いや、来て欲しかった。少年のほんとうの心は、そう言っていた。トリスと話がしたかった。

 こんなとき、トリスはかならず来てくれる。でも、今度は来てくれるだろうか。傷ついたのは、少年よりきっと少女の方だ。

 それでも、やっぱり彼女は来てくれた。

「ロジー?」

 床板を小さく叩いて掛ける呼び声は、意外なほどに明るく、そしてこれからいたずらを始める子供のようにこっそりと、少年を呼んだ。

「開いてるよ」 そう返事を返した。もともと鍵なんてないし、その代わりにのせておいた重しも、自分が馬鹿馬鹿しくなって片付けておいた。トリスがきっとくるから、そう思った自分の甘えもまた、恥ずかしかったが。

 ことんと戸が開いて、トリスが顔を覗かせた。

「ロジー、お腹すいたでしょう。お昼をこっそりお弁当にしたから、外に出掛けて一緒に食べましょう?」

 承諾の返事が喉につかえて、代わりにこくりとロジーは頷いた。

 外はいい天気で、屋根裏部屋に立て籠もるのはもったいない日だ。

「どこにしよっか? そうだ、川べりに行こう? 眺めもいいし、きっと気持ちいいわ」

 トリスの明るさに引っぱられて川べりに向かって歩くと、やがて彼女の言うとおりの景色が広がった。

 野っぱらに、石ころが転がった小川。彼方の山並みはいつもよりはっきりとした輪郭で、遠くの森では鹿がこちらを覗いていそうだ。

 あの森へ踏みいると彼方に見える山へと至る。それを越えたら、どんな国だろう。どんな土地があって、どんな人たちがどんな生活を送っているのだろう。

 ロジーの胸は思いを馳せ、想像の中でそれは現実となり胸を熱くした。でもその現実は胸の内だけの現実で、だから達成されたのは満たされて熱くなった胸だけだ。それもすぐ空虚に変わる。

 あの森へ踏みいり、彼方の山を越えれば、彼女は自由になれるだろうか。

「ロジー、どうしたの?」

 トリスが驚いたように駆け寄ってきた。

 目に熱いものが溢れて頬を濡らしているのは判っていた。

 胸が熱い。満たされているからじゃなくて、満たされない思いが悔しいと叫び声をあげているから。満たされないものを満たすことが、自分には叶わないことを知っているから。諦めとは違う。望みに対して、自分のあまりの無力さが、ただ悔しい。

 自分の力で叶えられないことを彼女にぶつけるのはただの我が儘だと知っているから、それは言えない。

「…………オレ、トリスのこと好きだ」

 そう言うだけ。それが精一杯だ。

 トリスの顔が曇った。少年の言葉が嫌だからじゃない。

 ロジーは我慢強い子だ。この少年が涙するのに、どれほどの強い思いがあるだろう。

 一言だけ言って、あとは歯を食いしばって前を見つめる瞳。その言葉に、どれほどの思いが込められているのだろうか。

「男の子って、素敵ね」

 ふっと、彼女が顔を寄せて、その唇がロジーのに重なる。

「ありがとう、私を好きでいてくれて」

「でも、私はあなたに嫌なところばかり見せちゃう。こんな生き方をしていれば自業自得。仕方ないよね……」







最近、コメントを頂くことが増えました。皆さんありがとうございます。今後もがんばります。

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