5
雄弁ではなかったが、新しきルセカーはワーズに彼の最期を語った。ワーズは感情を隠してしまったが、胸のうちは容易く悟れる。彼はルセカーに、伯爵へ連絡を待つようにと伝言を言付けて席を立った。
酒場を出ると、すっかり日は晩ていた。雲が流れているのか、空に星はない。手綱を引いてとぼとぼと歩くルセカーに、石畳を叩く蹄の音だけが聞こえた。煩わしくて、馬の背に跨がるより、そうやって歩きたい気分だった。
哀しい。人の哀しい心に触れて、自分も哀しい。
ふと少年は、騎士に出逢ったことの意味を考える。彼がたとえ気紛れにでも引き継がせたその名と、それが与える何か。古きルセカーが新しきルセカーの辿る道筋に与えた標は、大きく彼の運命を揺さ振っている。今はそう見えなくとも、いつかその影響の大きさに気づくだろう。少年が、たとえ今、気紛れで騎士を目指していたとしても。
半ば放心していたのだろう。どこをどう歩いたか覚えが無かった。ふと我に返ったルセカーは、自分が王都の道筋に疎いことを確認した。どこにも見覚えのある景色がない。サーキスの王都に来てから歩いたところは狭い範囲に限られる。従者生活が始まってからも、屋敷と王城の往復がほとんどで、行動範囲は狭くなるばかりだ。景色に記憶がなければ、残るは方向感覚だけが頼りだが、無意識に暗闇を歩いてしまったせいで、はっきりとは向かうべき進路が見いだせなくなっていた。まあ、旅の途中で迷うような野垂れ死にの恐怖はない。呼べば人の居る街のなかなのだから。屋敷へも、王城まで歩けば時間は掛かるが帰れるだろう。旅の危険を考えれば、人が造り上げた空間は安全を保障された快適な場所であった。そのはずであった。
迷い足の行く先を決めて一歩踏み出したその時だった。死の危険が風鳴りをたててルセカーの耳元の空気を突き破った。背後から突き抜けたそれは、遥か先の石畳に火花を咲かせて滑り落ちた。一瞬、ぎょっとして硬直する。ルセカーは、自分が今あまりにも無防備な状態で死の危機をやり過ごしたか知ったのだ。わずか一歩、わずかだが、それによる移動分がルセカーの身を死の領域から脱しさせてくれた。そのときルセカーが頼ったのは、ただ運のみ。幸運という御し得ない事象が、彼を狙った矢から彼を救ったのだった。
一瞬の硬直から立直ってルセカーは振り返る。だが、背後の街並に射手の姿は見て取れない。おそらく、弩による遠距離射撃だ。ルセカーは手綱を引いて走った。なるべく馬を背にする位置で射線を避ける。射手の正確な位置が掴めない状況で、効果の程は疑問だが、そうして逃げるより他なかった。
周囲に目を配ってみる。ひと気は無く助けの当てはない。どのみちルセカーには大声を出して助けを呼ぶ、という発想が欠けていた。長らく一人旅で、人に頼ることをしなかったせいだ。それは立派に聞こえるが、この場合は助かる可能性の何割かを捨て去る愚でしかなかった。誰に頼れというのだ。彼は反論するかもしれないが、たとえば大声のひとつも出せば、人目に付くのを避けて射手は逃れるかもしれない。
狩人が狙う獲物のようにルセカーは逃げ、おそらく背後から獲物を狙う狩人のように、刺客は迫っていた。
獲物を追い詰める第二射が風音をたてる。矢がルセカーの二の腕を掠めて過ぎ去った。皮膚と表面の肉がすっぱりと裂けて、神経に熱い痛みを走らせる。それを堪えて街路の角を曲がると、ルセカーは馬に飛び乗って腹を蹴った。乗り手の意を汲んで、猛然と栗毛は駆けた。曲がった角が背後に遠くなっていくのを確認して、ルセカーが安堵の息を吐いたのも束の間、その角を、石畳を叩く馬蹄が追いすがった。
ルセカーは冷汗が吹き出るのを感じた。射線に背中を晒しているのだ。
追っ手の方は苛立っているに違いなかった。必殺を機した一射目を偶然によって阻まれ、二射は小賢しくも馬体に遮られてままならなかった。追っ手が三射目を放つ。薄暗い景色が風音とともに後ろへ轟々と流れるなか、弩の矢だけが景色の奔流を逆流して迫ってくる。が、馬上からの狙いは幸いにもルセカーの頭上に逸れた。後ろ髪が逆立つ。ルセカーは肩越しに振り返った。刺客が剣を抜き放つのが目に入る。矢が尽きたようであった。もともと弩は強力な威力の代償として、矢を番えるのに労力を要する。その為、連射はできないのだ。この刺客は弦を三段に張った三連射の特殊なものを使ったに違いない。ルセカーにはそこまで気を回す余裕はなかったが。
射手は矢が尽きたにもかかわらず、追走をやめなかった。馬足は互角で、差は縮まる事はなかったが、広がりもしなかった。こうなると、先に馬が根を挙げた方の負けである。生命を狙われる側としては、より確実に安全圏へ逃れる方策を模索する必要があった。
大きな街路へ出る、その角をもう一度曲がり、更にもう一度。ルセカーはそこで馬上から物陰へ飛び降りた。石畳に叩きつけられ転がりながら、素早く身を隠して気配を殺す。
数秒後、ルセカーが身を潜めた軒下の樽の前を追っ手が行き過ぎた。馬脚を緩めなかったところを見ると、どうやら気づかれずに済んだようであった。ルセカーの乗馬は、すぐ先の繁華街に飛び出し、ちょっとした騒ぎを巻き起こしていたが、乗り手の方は関知し得ざる出来事だった。
ルセカーは左胸のなかで暴れる心臓と、荒くなる呼吸を抑えて息を潜めた。
追跡者が舞い戻ってくる気配はない。
ルセカーは息を殺したまま、その場を立った。
と、壁に手を突いた腕に熱痛が走った。矢が掠めた切傷だ。ルセカーは傷口をおさえ、かつてのルセカーの死因に思い当ってぞっとした。
(毒………!?)
傷自体は深くない。だが、毒ならば、それは関係ない。ルセカーは傷口から血を吸いだして吐き出した。
足元がふらつく。気が抜けたのか、それとも、やはり矢に毒が塗られていたのか。
ルセカーは暗がりへと逃げた。どこか安全なところへ。闇に身を隠す獣のように。
路地裏から路地裏へ。どこをどう辿ったのか。朦朧として意識と記憶が飛ぶ。
光のあたる場所が、ルセカーの目に眩しく映った。路地裏の隙間から見える暖かい場所。人がいる。いて欲しい。家族、友人、恋人、呼び名はなんでもいい。待っている人が。
光のあたる場所。そこへ還りたい一心で、少年は力を振り絞って歩いた。