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旅に出てから一年くらいのことだ。彼、ルセカーに出逢ったのは。
旅に出て一年、なんとか生き延びていた。ただ生き延びるだけ、なんの目的もない。
いま少年が歩くのは、ルセカーが示した道標の向く先だ。
それまでは、あてのない旅だった。故郷を逃げ出した少年には、生きる以外の目的が持てなかったのだ。
その頃、少年は森林地帯を東へ向かっていた。広大な大森林は、地図のなかの一地方を埋め尽くしている。深く踏み入れば樹海に等しい場所だった。ただ、神々が住まうと謂われる聖原の彼方へ至る世界の果ての山、その麓に広がる真の樹海とは、人の足跡たる街道があるという一点で、おおいに異なった。
少年は走った。先刻から怪しくなった雲行きが重たい雨粒を落とすまで、思うほど間がなかった。雨水はあっという間に足元の土をぬかるみに変え、革靴を汚しはじめる。時々、ぬかるみに足を取られて危うく転びかけながら、枝の張り出した大木を見つけると、ここと決めて少年は木陰に飛び込んだ。
「………ほんとに、これが街道だっていうのか」
肩で息をしながら、彼は独り言と分かって呟いた。吐息が、湿気を帯びた空気の中で、飽和して唇を濡らしている。
木の幹を背にすがって、少年は来た道を眼で辿った。自分の足あとが点々と、泥に濁った小さな水溜まりに変わっている。
「人知れぬ街道さ」
独白であるはずだった少年のそれに、応えがあった。雨音に入り交じった言葉は、静かに悟ったかのような口調であった。声の出所を探って、少年が背をもたれた木の裏に回ると、一人の男が同じ幹の根元に座していた。
「この年になってこの道に入ったのは、我々がせいぜい三、四人目だろうな」
少年が問い掛けの言葉を定められぬ内に、男は継いで言った。落ち着いた口調は、深い人格を宿した高齢者を先入観として与えたが、そうではなかった。薄い茶色の髪をもつ男の顔は旅の汚れに塗れているものの若々しく、伸びてしまった不精髭を剃り落とせば優れた顔立ちであるに違いない。ただ、死者にも劣らないほど彼の顔面は蒼白であった。
「怪我、してるのか」
少年は彼の左太股に突き立つ異物を見て取った。そこには鉄芯の矢が深々と矢尻を埋めていた。少年が手当てを試みてそれを引き抜こうとすると、彼は先程までの口調と打って変わって鋭く制止した。少年がびくっと手を止めたのを確認して、彼は嘆息する。まるで声を上げることに相当の労力を要したかのように。それから彼は再び穏やかな口調に戻って言った。
「触らぬがいい。毒が塗ってある」
彼の太股に刺さっているのは普通の矢ではなかった。その矢は矢尻のみならず全体に刃
を施され、掠めただけでも毒殺が可能な暗殺に用いる類の武器だった。矢尻は鈎状になり、全体が刃であることも相俟って、引き抜いて治療することを困難にさせる、残虐性の高い武器なのである。そして彼を死に至らしめる原因となる毒を防ぐ手立ては、今ここにはなかった。深く突き刺さった矢が、あらゆる応急処置の可能性を阻んだのだ。
「お前の気持ちはありがたいが、もう手遅れだ。いっそ、足を切り落とそうとも思ったが、足の付け根から斬るのでは、死ぬ原因が変わるだけなのでな」
たった一人、しかも傷を負った本人だけでそれが可能として、ここでそんなことをすれば出血によって死に至る。唯事でない事実を冗談のように口にした彼は、一人でくつくつと笑った。
「しかし、お前、なんという眼をしているのだ」
彼は首だけを動かし少年を見つめた。もはや自分の死を悟った彼の眼は少年の心を見抜いているか様であった。
「お前の澄んだ瞳は無垢なようでいて違う。獣のようだな、ただ生きているだけだ。池の底を突けば池の水は澱む。流れていても澄んでいる清流とは違う。お前の瞳は何事かを為せば濁るかもしれない。しかし、或いは清流かもしれない」
死を目前にした男の言葉に、少年は耳を傾け続けた。それが礼儀かもしれないと思ったからだろうか。ただ、少年は彼の言葉から逃れられないような気がした。
「どうした。何もお前は生きる標を持たないのか?」
問い掛けた後で、彼は続きをやめ首を振った。
「すまんな少年。意識が混濁してきて変なことを俺は口走っているようだ」
「いや」 気にしていない、という意を少年は短く示した。「あんたの言うとおり、おれには何もない。故郷から逃げ出して、意味もなく生きてる」
故郷、その呼び名があそこに相応しいかは解らないが、生まれ育った場所には違いない。
「そうか……少年、お前の名は?」
「ロジー」
「ではロジー、お前に生きる標を与えてやろう。俺の名を継げ。我が名ルセカーを継いで騎士となれ。そうすればちょっとは面白い人生が送れるかもしれん」
「ルセカー……ロークァークの?」
その名が放つ栄光は少年も知っていた。同い年の子供には憧れの存在だったが、少年には自分の境遇とその栄光が、夢に見る以上に遠くかけ離れたものだと知っていた。だから、彼はそういった憧憬からは背を向けていた。今、伝説の人物を目のあたりにして見れば、背にしていた心はやはり眩しいほどの憧れだったのかもしれない。
「知っていたか……俺も有名になったものだ」
「なんで、会ったばかりのおれなんかに……」
「悪あがきさ。俺の名を聞いて震え上がる奴が結構いるものでね。なあに、これだけ歳が違えば生命を狙われる心配もないさ」
彼はそういうと眼を閉じた。毒の苦しみは無いのか、彼の呼吸は穏やかであった。
「もうすぐ俺は死ぬ。答えはその後でもいい。決めたら俺の剣を持っていけ。それが証に
なる……最期に、お前に遇えた偶然を感謝しているよ」
静かな呼吸は次第に聞き取れなくなり、少年の耳には雨音が広がっていった。
樹林の葉を打つ雨音だけが、その時そこにあるすべてだった。