序章
星が降り落ちそうなほど満天にまたたく夜、少女は産まれた。
ルセカーよ、少女を守りたまえ。
命運に光明あれ。
行いに誉れあれ。
序章 剣をもつ少年
夕刻の王都。夕日の帯に藍が混じるには少し早い。西の空は、今やっと金色の太陽から橙色を吸い出したところだ。
大自然の時計を頼りに、男は今日の仕事の残りを仕上げに掛かり、女は夕食の炊き出しの準備を始める。あるいは、早々に店を畳む商人。夕刻の閉門に間に合わせるため入都の手続きを急ぐ旅人と官吏。そして、これからが本時の商売、これから賑わう街路。
王都には多くの人間がいて多様。例えば、この王都サークに剣を持った人間が珍しいはずはない。この国には騎士がいて、兵士がいて傭兵がいて。だから、人々のその少年に対する珍妙なものを見るような視線は、彼が剣を持っているという事実に向けられてはいなかった。
当の少年、十三、四の年頃で髪は濃い茶色。それもぼさぼさで、伸びた毛を後ろで結わえてなんとか形になっている。手入れとは無縁の針金のような髪だ。身形は埃っぽい服の上に、なるほど旅の途中で地べたに寝ようが一向に心苦しくもならないだろう、ある意味では理にかなったずたぼろのマントが両肩に被さっている。平穏な今時、野良猫の方がましな格好をするというものだ。
加えて、彼が腰に提げる剣。少年は、自身の痩せた身体にはやや大きすぎる剣を太い革の剣帯で腰に吊り下げていた。剣帯はどうにか腰骨に引っ掛かっているという程にずり下がっており、その印象はだぶだぶの服を着込んでいる、という感じに似ていた。
人々の視線は剣を持つ事実ではなく、剣を持つに不釣合いな少年の風貌に向けられていたのだ。が、当の少年は好奇の視線も何知らぬ顔で王都の雑踏をゆく。
そんな彼が、ぴたりと足を止めた。まるで突然、吸い寄せられるように九十度向きを変える。彼がくぐったのは、なんということもない、ごくありきたりの酒場である。
そんなところに何があるというのか。
あまりに唐突な少年の行動は、いっそう道ゆく人の興味を引いた。物見高い暇人は、さり気なさを装って酒場へと後追う。そうでない者は、周りの呆気にとられた表情を見て、自分がどんな顔をしているかに気付くと、夕刻の忙しさを思い出して道を急いだ。
道端と同様の視線が、新たなる珍客に注がれる。彼を面白がった客の一人が席を空け、店の主人に彼のための酒をつがさせた。
少年の為に混雑した店に道がつくられる。彼は一度だけ立ち止まると、注視の中ゆっくりと歩み寄って、男の隣に置かれた杯を一息に飲み干した。その間に酒を用意させた男の手が少年の剣に延びる。興味が何気なく手を剣へ引いたのだろう。周囲の人々が好奇以外で少年に一目置いたのはこの時だった。
「俺の剣に手を触れないでくれ」
男の手がびくりと止まる。
少年から剣が取り上げられることを予想した人々は、彼が振り向きもせず男の手の動きを察したのを驚いたのだった。
「酒、うまかった。ありがとう」
朴訥に少年は礼を言う。
期待以上に面白い対応をしてくれた少年に、ほう、と感嘆の息が周囲で漏れた。
「なあ」
少年が口を開くと、また人の注目を集めた。今度は何だ。今日はいい酒の肴を得た。
「騎士になるにはどうしたらいいんだ?」
少年は店の親父に向かって言った。
なるほど、彼も同じ年頃の当たり前の少年と同じく騎士に憧れているのだ。そう思うと周囲は少し興醒めした気がしたのだが、しかし、このやりとりの観衆たちは、思うほどに興味を削がれていないことに気づいていなかった。
「聞き捨てならんな小僧」
新たな登場人物に店内は騒ついた。少年がカウンターから振り返ると、そこに三十半ばというくらいの、マントを羽織った男が立っていた。マントを含めて、整った身形からはある程度の身分が窺える。そう、騎士くらいの。だが、当たり前の少年が夢見る騎士像はその男にはなかった。そしてこの少年自身も、その男の細長い頭部の上に張りついた嫌味な顔つきから好印象を得てはいないようだ。
「これはガブレイの旦那」
主人が無愛想な顔の上に無理遣り愛想笑いをつくる。少年は店の雰囲気が悪くなったのを感じとった。
「お前のような薄汚いのが騎士になろうものなら、我が国の先行きが危ういわ」
「運が悪いな坊主、やっこさん、眼の上のたんこぶがどうにかできないんで当たり散らしてんだ。適当に相手しとけ」
少年の後ろから主人が耳打ちするのをガブレイが睨んだ。主人は知らんぷりをして仕事に戻る。
「随分と大層なものを持っているようだが……」
態度と身長差で見下しながら、ガブレイは顔を寄せて少年の剣帯に腕をのばす。ゆっくりとした語調とは裏腹にその手は素早い。
「……どうせ盗品なのだろう!」
しかし、ガブレイの手は空を掴み、逆に少年がその手首を押さえていた。
「俺の剣に触るな!」
少年の右こぶしがガブレイの顔面に飛ぶ。だがガブレイの方もその手首をあっさりと捕まえた。
「宮廷騎士に対する礼儀ではないな」
ガブレイは少年の腕を思い切り引っ張って、自らの身体を翻した。少年の身体が勢いよく床に転がる。
「その剣には盗品の疑いがある。取り調べに対して抵抗するというのなら、処断も止むを得んな」
ガブレイは剣を抜いた。まさに言い掛りだ。それを黙って見ているほど、この国の人々は不健全ではなかった。
「横暴だぞ!」
店のどこからか声があがったが、しかしこの騎士の横暴さを制止するには欠ける。
「あんたみたいなのが騎士か。この国、どうかしてる」
少年の独白にガブレイの眉がぴくりと跳ねた。
「剣を抜いても構わんぞ」
「あんたには勿体無くて、この剣は使えない」
恐いもの知らずで言った台詞では、どうやらなかった。額から汗がにじりでている。
「貴様……!」
ガブレイの反射的な怒りは剣を持つ右腕を振り上げさせた。
「そこまで!」
振り上げられたガブレイの剣を止めたのは、澄んだ女性の声だった。大きな声でもなければ、竦むような恐ろしさも無い。ただ、空気を打つ凛とした声が、剣を持つ腕を制した。
「彼の剣が盗品かどうかはともかく、抜かれていない以上あなたがその剣を振り下ろすのは罪に当たりますよ? なにせ彼は無抵抗なのですから」
女性の声が指摘する。確かに、剣を抜かない相手に対して、ガブレイの行動は騎士道と、なにより彼らが守るべき法に反した。挑発に乗らなかった少年は賢かった。それとも本当に意地で抜かなかったのか。
観衆は、ありもしない少年の思惑に感嘆し、少年を救った女性に声援を送った。
「シースティア様だ!」
その女性は、店の奥の卓から騒ぎの中心へと進みでた。彼女の羽織るマントがリズミカルな歩調に揺れる。マントを留める胸元の留め具はガブレイと同じ、風と芽吹きを具象化した紋章がかたどられたものだ。二人の衣装はまったく異なるから、おそらく平服に身分を示す留め具だけを身につけているのだろう。ということは、彼女も宮廷騎士であるわけであり、すらりとくびれた腰には美しく飾られた腰帯ではなく剣帯が巻かれていた。その姿は男装の麗人、というには、やや似合いすぎた、まったくの騎士姿であった。
「これ以上、宮廷騎士の名誉と品格を傷つけないで頂きたいものね、ガブレイ殿」
彼女、シースティアは、わずかに赤みを帯びた栗色の髪を肩から払った。緩やかに波打つ艶やかな髪が背中にすべる。白いマントに、それはよく映えた。
「やんごとなき身分の方に取り入って手に入れた宮廷騎士位で、騎士道を語られたくはないものだな。それとも貴様の謂う騎士道とは、女の手管のことか?」
「私のことはともかく、あの方の名を汚すことは許さない」
一瞬閃いた鋭利な視線が、ガブレイを突き刺した。
「あの方とはどなたのことかな? 私は君についてまことしやかに囁かれている噂について言ってみたまでだが」
「その噂は私も知っていますよ? その噂の出所があなたであることも。決闘を申し込むには十分な理由になりそうね。もっとも騎士の私闘は禁じられているから、世間で暗黙のうちに行われているように非公式になるけれど。ちょうどいいわ、非公式ならすぐにでも始められますものね。今ここで」
不敵に、美しい唇が笑みをかたどる。ガブレイがたじろいだのは、本人にそのつもりがなくても周囲にはあからさまだった。彼女を知らぬ男だったならば自信満々に、しかも彼女の美しい肢体に対して邪な欲望を抱きつつ決闘の申し込みを受けただろう。翌朝一番に自分自身の弔鐘を聴くとも知らずに。しかし、ガブレイは知っていた。彼女がこの国で一、二の剣の使い手であることを。
「いいだろう! その小僧の処分は貴様の好きにするがいい!」
頬を引きつらせてガブレイはマントを翻す。かつかつと靴音高く歩くのがせめてもの負け惜しみだ。
「あ、ガブレイ殿?」
女騎士シースティアは呼び止める。
「お聞き分け感謝します」
にっこりと微笑む。ガブレイはいっそうの憤怒で顔を赤くした。
酒場は喝采で沸き返った。
「あんた、なにもんだ?」
洗うのが先決であろうと思われる服から、床の埃をはたきながら、少年は言った。
「さっき言った眼の上のたんこぶだ」
「ちょっと、人をできものみたいに言わないで」
酒場の主人の声高な少年への耳打ちを、シースティアは笑いながら怒った。
「なかなか骨があるようね少年。敬意を表して教えてあげるわ。騎士を志す者は、酒場ではなくてまず騎士団の門を叩くものよ。何の身分もないと見習い従者になるのも難しいけど、シースティア・ラ・ソールを名指しなさい。推薦しといてあげるわ。ちょうど欠員が出たのよ」
言ってから彼女は瞳を暗く翳らせたが、周囲に察せられるほどではなかった。
「恩に着る。それから、前言撤回だ」
「なに?」
「この国どうかしてるって言ったこと……。あんたみたいな騎士がいるんならマシだ」
「過分な褒め言葉ね。でも否定はしないわ」
彼女は騒がせたことを理由に銀貨ひとつで勘定を済ませた。彼女が口にした杯一杯にはすぎた額だ。
「それではね、少年」
それが、少年と宮廷騎士シースティア・ラ・ソールとの出会いだった。