第三十八話
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風の吹く夜の草原を、見崎鉄は一人歩いていた。
数時間前に走破した道を、今度は逆に辿って行く。
もう急ぐ必要はなかった。のんびり歩いても、一日あれば拠点に戻れるだろう。
未だ空は暗く、夜明けは遠い。ぼんやりと空を見ながら、特に何を考えるでもなく足を動かし続ける。
夏の夜特有の湿った風が吹き付けていた。土の匂いを孕んだそれは、鉄を追い抜くと同時に血の匂いを乗せる風へと変わった。
自分の両手に目を落とす。月の青白い光に、赤く染まった両腕が照らされていた。
白いYシャツには赤いシミが多く浮かんでいる。むしろ、白い部分より赤い部分が大部分を占めていた。
夜とはいえ夏だからか、久しぶりに体を動かしたからか、全身にじんわりと汗が浮かんでいた。滲んだ汗がYシャツを濡らし、更に血の匂いが強く充満する。
温度の変化には強い方だし、体力には自信があったんだけどな、と苦笑する。とにかく全身がベタベタとして気持ちが悪い。魔法で水を出して洗い流そうかと思ったが、なんだか億劫で行動に移す気にもなれなかった。ただ機械的に足だけが動いている。
強烈な血の匂いを察知してか、森の中で生物が動く気配がある。しかし、そのどれもが鉄の気配に触れた途端に逃げ帰っていくのが解った。
今は何をするのも面倒で、何を考える気分でもない。中天に浮かんだ月の下、鉄は南へとひたすら歩き続ける。
やがて日が昇る頃、鉄は移動の場を草原から森の中へと移していた。そろそろ活動を始める冒険者や行商人がいてもおかしくないからだ。
ふと、鉄の聴覚が音を捉えた。馬の蹄と、車輪が回る乾いた音だ。
その発生源はすぐに分かった。草原に一本伸びる石畳の街道。そこを南から北へと、鉄とすれ違う形で大量の馬車が走って来る。
それがどこから来た物か、理解出来ない鉄ではない。アーミット家の企みを見抜いたレイヴンが、それを打ち砕くべく用意した物だろう。尤も、既にレイヴンから依頼を受けた鉄が終わらせてしまっている。彼らの仕事は汚れた屋敷の掃除が主になりそうだが。
馬車を引く馬が範囲に入る前に、鉄は遠慮なく放出していた気配を消した。もし触れてしまえば、馬が恐慌状態を引き起こして厄介な事になるのは目に見えていたからだ。
草原を進む彼らからは見えないが、森の浅い部分を進む鉄からは馬車の様子がよく見えた。隊列を組んで進む馬車は、しかし中心を進む一つの馬車を囲んでいるようにも見える。
馬車に乗る全員が兵士ならそうはならない。明らかに、誰か地位の高い人物が乗っていると分かる動きだった。
頭に浮かんだのは、鉄に満流を助けて欲しいと懇願した少女の顔だ。未だ幼く、しかし覚悟を背負った少女。人生で出会った中で三人目となる、鉄に罪悪感を抱いた人間だ。
まさか、と思う。彼女は国王で、あんな危険な場所に行く義務はない。むしろ、王とは安全な場所にいなければならない。民主制の確立していないこの世界では、王なくして国は成り立たないのだから。
しかし、不思議と確信があった。少女――レイヴンはそこにいる。
そうなると困ったのは兵士達だろう。守るべき国王が、自分達と共に敵の本拠地へ行くと言うのだ。まず誰もが仰天し、次に必死になって止めようとしている光景が目に浮かんだ。
だが、その程度で彼女は止まらない。あれは筋金入りの頑固者だ。何故なら、彼女は……。
「わざわざ僕に会いに、夜の森の中まで入ってくるような国王だもんね」
流石に無条件で、という訳にはいかないだろうが、それでも国王自らが前に出るのは中々出来る事ではない。
確かに王としては致命的だ。しかし、そんな事はレイヴン自身も理解しているだろう。
それでも尚、彼女は同行を希望した。
きっと鉄や満流と同じで、彼女にも譲れない物があるのだろう。
王都からイベールへと向かう馬車群とすれ違ってから数時間。森の中を歩き続ける鉄の聴覚が、聞き覚えのある音を捉えた。
その音は遥か後方から近付いて来ていた。もはや振り返る必要もない。
僅かに湿った地面を踏んで、大きく突き出た木の根を越える。ふと見ると、何度か木の幹に触れた手は真っ黒に汚れていた。
やがて、音は遂に鉄に追い付いた。
木々の向こうに広がる草原を、大量の馬車群が走り抜けていく。
つい数時間前にすれ違った馬車群だ。数が半分程度に減っているのは、後始末の為に半分が残ったという事だろう。
それを見て、鉄は事態の収束を理解した。自分の出番は、ここで終わったのだと解ってしまった。
レイヴンを、バレットを、カリンを。
そして天野満流を乗せた馬車が、鉄を置き去りにして先へ先へと進んでいく。
日が落ちてから暫くして、鉄はようやく拠点近くの川まで戻って来た。
さらさらと流れる清流の中に座り込み、そのまま上半身を寝かせて仰向けに倒れ込む。
川の中でも浅い場所だ。仰向けに寝ても、顔まで水中に沈む事はない。
夏の夜だった。温度の変化にも強い鉄だが、暑い夜に冷たい川に入るのは素直に心地良いと感じた。
これでYシャツに染み込んだ血も洗い流せるだろうか、と考えて、すぐに無理だろうなと自己完結する。
汚れはすぐに洗い流さなければならない。
自分は長く浴び過ぎた。染み込んだ返り血は、もう二度と落ちる事はないだろう。
ざば、と軽い音を立てて起き上がる。濡れた服をそのままに、鉄は再び夜の森へ入って行った。
「ただいま、懐かしの我が家」
結局使わなかった魔法の鞄を脇に置きつつ、鉄は定位置となった大木の根の一本に座る。
焚き木は出発前に集めていた物が残っている。それに魔法で火を付けて、濡れた服を乾かしにかかる。
着替えるのは面倒に感じた。今日は服を乾かしたらそのまま寝て、明日の朝に起きた後着替えればいい。
パチパチと燃える焚火に当たりながら、服が乾くまで手持ち無沙汰な鉄はテントの骨組みを組み始める。
テントを張るのも面倒だったが、横になって眠りたい気分だった。大部分を組み終えて、鉄は再び焚火の前に座り込む。
疲れた、というのはこういう感覚なのだろうかと思った。しかし、幼い頃に感じたそれとは少し違うような気がした。
考えて、しかし結論は出ない。やがて、まあいいかと別方向の結論を出した。考えて解らない事は考えても仕方がない。暇潰しにはなるが、今はそういう気分でもなかった。
未だ服は乾ききっていないが、それでも少し湿っている程度だ。
このくらいなら問題ないだろう。鉄は小さくなった火をそのままに、テントの中に敷いた毛布の上に倒れ込んだ。
やはり疲れていたようだった。横になってすぐに、鉄の意識は闇に沈んでいった。
アーミット家の騒動から数日が経った。その間、鉄はひたすら暇潰しに勤しんでいた。
とはいえ、マリアから貰った植物図鑑と釣り具がある。日中は釣りをして食糧の確保。余った時間は図鑑を片手に食用の野草や茸の探索に当てた。
しかし、未だ食用の野草や茸は見付からない。もしかしたら、この森はあまり食糧が豊富ではないのかも知れない。
毎日魚の塩焼きを食べているが、まだ飽きは来ない。木を削って串を作る作業も上達する気配がないのは困りものだが。
そんなある日の事だった。天野満流ではなく、マリア・ミゼットが鉄の元を訪れたのは。
「クロガネさん、いますー?」
「いますー」
足音でマリアが来た事を察知していた鉄は、しっかりと気配を消してからマリアを迎えた。
マリアの方も鉄がいる事は気配で分かっていた為、二人の挨拶は形式的な物だった。
「失礼しますねー」
よいしょ、と大木の根にマリアが腰を下ろす。
何故かその場所が鉄を訪問する人間の定位置になっているようだった。
マリアがここを訪れる事に不満があった訳ではないが、特に用事が思い付かない。鉄の中では、後は満流に情報を貰って出発するだけのつもりだった。
「でもマリアさんが来るのは意外だったかな。何かあったの?」
「あー、それなんですけど……」
マリアの説明を要約するとこうだ。
天野満流、バレット、カリンの三人は今回の件の事情聴取並びに、珍しい毒を盛られた為に検査で動けないそうだ。
毒の症状はもうないが、あまり研究が進んでいない毒なのでこれからどんな影響が出るか分からない。普通の冒険者ならともかく、地位ある救世主様達には万に一つもあってはならないのだろう。
三人は暫く入院するのでここには来れそうにない。しかし、命を救われたバレット、カリンを初めとしたマガツの面々は鉄に感謝している。それを伝える為に代表としてマリアが来たという訳だ。
「で、私達からの感謝の気持ちです。クロガネさんあんまり道具とか必要なさそうなんで結構迷っちゃいましたよー」
そう言ってマリアが地面に何かを置く音がする。
バレットとカリンを助けた礼の贈り物だそうだ。ちなみに、これを買う為に飛んだ金を稼ぐ為に入院している二人とここにいるマリア以外の四人は現在依頼を受けている。
気にしなくていいのに、と鉄は思う。あれは自分が蒔いた種で、むしろこちらが謝罪しなければならないと思っていた。
しかし、せっかくの好意に水を差すのも悪い。ありがとう、と素直に貰っておく事にした。
「それと、国王様から伝言です。日が沈んだら、お城の国王様の部屋に来るように、だそうです」
「ふーん……今日?」
「今日です」
わかった、と返事をする。一瞬驚いたが、なんとなく察しが付いた。
満流が動けないとなると、約束していた周辺国の情報は他の誰かが鉄に渡す必要がある。
となれば、あの責任感の強い国王が動かない筈がない。直々に情報を与え、今回の件の礼とするつもりなのだろう。
この世界の人間は義理堅いのが多いなあ、と思う。日本にも天野満流がいたが、この世界にはそれが何人もいる。流石に見崎透レベルの凄まじい人間は未だお目にかかっていないが。
「それじゃあ、私はそろそろ行きますね」
そう言ってマリアが立ち上がった。
それを背中で聞いた鉄は、根に座り込んだままで応える。
「うん、じゃあ、気を付けて……ありがとう、色々とさ」
「こちらこそ……本当に、ありがとうございました」
マリアの足音が遠ざかっていく。
異世界に来て、森の中で出会った冒険者達がいた。
その中で唯一鉄の存在を感知し、わざわざ礼を言いに来た少女。
恐ろしい筈なのに、それでも鉄と関わる事を選んだ少女が去っていく。
大木に囲まれた広間から森に消える直前、マリアは一瞬だけ立ち止まって言った。
「行ってらっしゃい、クロガネさん」
その言葉が最後だった。
マリアの歩みはもう止まる事はなく、真っ直ぐに鉄に背を向けて進んでいく。
それで良かった。その先には、マリアの帰る場所がある。
「……うん、行ってきます」
その言葉は、果たしてマリアに届いただろうか。
その疑問に答える者はおらず、後には鉄が一人残された。
まるでそれが当然であるかのように、世界はどこまでも静まり返っている。
前回、初めて感想を頂きました。
とても嬉しく思います。読者様のご意見ご感想はどのような物であれ励みになるものだと実感致しました。
これからも頑張っていきますので、
もっとください(真顔)




