第十二話
バレット・カートンといえば、そこそこ名の知れた冒険者だ。
無骨な大剣を振り回す大男で、『肉断ちバレット』という二つ名も有名だ。
彼がリーダーを務める『バティスタ』はAランクのパーティであり、アルファルド王国周辺を中心に活動する冒険者の中ではトップクラスだ。
これには高ランクの冒険者は聖地レスレクシアの本部を中心に活動する事が多いという背景があるのだが、それを差し引いても同業者から一目置かれる存在なのは間違いない。
パーティメンバーも彼に劣らない強者揃いだ。
カリンは赤髪の女性だ。剣の腕はバレットも舌を巻く程で、身体能力と剣術を使った高速戦闘を得意とする。
もし彼女がフリーの冒険者だったなら、バレットに負けない程度には有名になっていただろう。
金髪の女性はエナという。魔法専門で、戦闘の際には遠距離からの援護でパーティを助けてくれる。
火を生み出せる上に料理も万能なので、実質パーティの決定権は彼女にある。
キースという男は唯一の頭痛の種で、いつだって女を追いかけている馬鹿だ。
しかしムードメーカーであり、実は誠実な熱い男だという事を皆知っている。
面倒な魔獣等を、彼が音を殺して仕留める事でパーティが助けられた場面は何度もあった。
少々我が強い面々だが、バランスの取れたパーティだ。
そんな『バティスタ』が、ある日一つの依頼を受ける。
マガツニジマダラダケというキノコの採取だ。
それはアルファルド大森林に生えているキノコで、薬の材料として高額で取引されている。
以前は森に入ってすぐの所に群生していたのだが、つい最近そこから採取出来なくなったらしい。
それも仕方の無い事で、マガツニジマダラダケというのは地中の魔力を吸って育つキノコであり、採取を続けると魔力が枯渇し育たなくなるという特徴があるのだ。
また魔力が溜まれば採取は可能だが、同じ場所に再び生えてくるのは何年も先の話となってしまう。
幸い高価な薬にしか使われないので、需要もそこまで高くはないのが救いだ。
その依頼は二パーティ合同で行う物だった。
そういう場合、先に顔合わせをして合わないようならキャンセルする事が出来るシステムとなっている。何日も行動を共にするのだから、こういうシステムは実に有難い。
顔合わせの日、現れた三人組は『フリック』と名乗った。
『フリック』はBランクのパーティらしく、男二人に女一人の構成だった。
アゼルという銀髪の男は無口だが、無愛想な訳ではなかったし、他二人もすぐに意気投合したのでこのメンバーで依頼を受ける事に決めた。
戦闘能力はさして気にしなかった。
自分達がいれば、余程の事が無ければ彼らを守る事が出来ると思っていたからだ。
いざ森に入ってみると、彼らが非常に優秀だという事が解った。
リーダーのクリフトは冷静な男で、バレットやカリンには及ばないが、戦闘能力も高い。
アゼルとの連携は特に目を見張る物があり、お互いに信頼しているのが見て取れた。
マリアという黒髪の女性は、まだ二十にも満たない子供だ。
しかし気配や音の消し方はまさしく熟練の物で、長く冒険者を続けているバレットさえ凌ぐ観察眼を持っている。
野営では交代で夜の見張りをするのだが、その時にキースが「俺の上位互換だ……」と落ち込んでいたのは記憶に新しい。
森に入ってマガツニジマダラダケを探し歩くも、その気配さえ掴む事は出来ない。
とはいえ、その進行は遅々とした物だったので距離は全く稼げていなかった。
アルファルド大森林には厄介な魔獣が潜んでいる。その最たる例がヘルハウンドと呼ばれる魔物で、開けた場所で迎撃する以外に対処法は無いに等しい。
だが、常に開けた場所を移動出来る訳もなく。苦肉の策として、キースとマリアが偵察に向かい、ヘルハウンドの気配が無いのを確認してから移動するという体制を取っていた。
ヘルハウンドは森の中に自分達が移動する通り道を持っている。
それは縦横無尽に広がっていて、その道に近付かないのが対策の第一歩だ。
故に、一々偵察を出し、周囲を警戒しながら進んでいたのだ。
そこに到着したのは、森に入ってから三日目の昼だった。
偵察に向かっていたキースが戻って来て、開けた場所があるようだと言う。
キースが言う場所に行ってみると、そこには大きな湖が広がっていた。
一瞬、その美しい光景に言葉を失う。
何度も森に入っているバレットですら、アルファルド大森林にこんな湖があるとは知らなかった。
警戒を続けて皆疲れ切っているし、これ程見通しの良い場所ならヘルハウンドに襲われても対処は可能だ。彼らは湖畔で暫しの休息を取る事にした。
エナは既に湖を覗き込んでいる。仲の良いカリンもその近くで微笑んでいた。
バレットも見たが、この湖の水は驚く程澄んでいる。魚が非常に少ないようだが、その分湖の中が良く見えた。
のどかな場所だ。男だけで座り込み、危険な森の中で過ごす穏やかな時間を享受する。
こういう時真っ先に湖に向かいそうなマリアが、一向に湖に近付かない事に微かな違和感を残しつつ。
目的のキノコを発見したのは、やはりマリアだった。
湖を取り囲むように立ち並んでいる木の根元に群生している。
これだけあれば、暫くは必要になる事もないだろう。
が、マガツニジマダラダケは魔獣を呼び寄せる。ここで一晩を明かすのは危険だ。
少し惜しいが、昨日の野営地に戻る方が賢明だろう。
目の前のキノコの特性を理解していない『フリック』のメンバーにそれを説明した直後。
魔獣がこちらに近付いてきている事に気付いた。
相手は一匹、この時点でヘルハウンドは除外される。
ならば逃げる事は容易だ。全員で尻尾を丸めて逃げれば、追い付けるような魔獣はヘルハウンドしかいなかったと記憶している。
だが、バレットは戦う事を選んだ。逃げた先、昨日の野営地までは距離がある。
途中で気付いたら囲まれていた、となっては目も当てられない。
一体なら『バティスタ』だけでも戦える。その上、今は『フリック』までいるのだ。
バレットは、考え得る最も安全な選択肢を選んだ。
選んだつもりだった。
(何だ、あれは……俺は今、一体何を見てる……?)
頭が警鐘を鳴らしている。しかし体は硬直して動かない。
現れたのはブラックベアと呼ばれる魔獣だった。
動作は緩慢だが、力と固い皮膚が厄介な魔獣だ。それでも、全員で協力すれば討伐するのは難しくない。
果たして、討伐目前まで弱らせる事に成功する。全員で囲み翻弄し、体勢を崩した所をバレットの一撃で致命傷を与える事が出来た。
後は動きの鈍くなった相手を仕留めるだけだ。油断してはいけないと理解しつつも、肩から力が抜けるのを感じた。
水の音がした。
振り返った瞬間、世界がスローモーションになる。
湖の上に、黒い蛇のような生物が浮上してきていた。
岸辺にいたマリアを飲み込もうと、口を大きく開いていた。
大きな穴だ、と現実感の無い考えが浮かぶ。
誰もが動けないでいた。唐突に現れた形のある死に、心までもが硬直していた。
ピリ、と、空気が震えた気がした。
静電気のような感覚が通り過ぎ、途端に現実感が湧いてくる。
全身の毛穴が一瞬で開き、嫌な汗が噴き出した。
マリア嬢、と。バレットが無意識に叫ぼうとした、その瞬間に。
まさに獲物を呑み込もうとマリアの目前まで迫っていた死が、無理矢理に軌道を変えて湖の底へと潜って行った。
何が起こったのか理解出来た人間は一人もいなかった。
ただ、既に現実感を取り戻した脳が、助かったのだと告げている。
だが、同時に本当は死んでいたのだとも告げていた。
「全員、走れ! 逃げるぞ!」
バレットが叫ぶ。持っていた剣を捨て、腰が抜けて立ち上がれないマリアを抱えた。
未だに硬直しているような人間は一人としていない。
全員が、速くこの場を離れるべきだと理解していた。
彼らが森へ走っていく後ろでは、熊が今まさに立ち上がろうとしている。
冒険者達が森へ逃げる音が離れていくのを確認して、鉄はするすると木から降りてきた。
世話が焼けるね、と溜め息を一つ。
あの巨大魚がマリアを襲った瞬間、鉄はほんの少しだけ殺気を送った。
非常に弱い物だったが、幸いにして、それが鉄の殺気だと覚えていた巨大魚は一目散に逃げ帰って行った、というカラクリだ。
殺気に怯まなかったり、マリアを呑み込んでから潜って行くという可能性も勿論あった。
流石にそこまでは責任持てない。その時は御愁傷様だ。
(運が良かったね、マリア嬢)
今回の件は、全部ではないがバレットの判断ミスが原因だと鉄は思っている。
湖にあんな生物が潜んでいるとは知らなかったのだろうが、命の懸かった場面だ。
何もかも疑うくらいじゃないと、冒険者はやっていけないんじゃないかな、と鉄は思った。
さて、と目の前の熊に目を向ける。
鉄は既に気配を消しており、背を向けた熊は気付いていない。
ただ怒りと痛みに唸っているだけだ。
逃げて行った冒険者達を追いたいのだろうが、最早それすら難しい。
片目は潰れ、胴に負った傷は確実に致命傷だ。
(……これじゃあ、もう助からないね)
後は体を苦痛が蝕み続け、その先の死を待つのみだ。
ならばと、鞄から剣を取り出す。
盗賊のアジトで見付け、一度も使っていなかった長剣だ。
偽善だ、と自嘲する。
右手に持った剣を左上に振り被り、右下へと勢い良く振り下ろす。
剣が良いのか、振り下ろした速度が桁違いに速かったからか。
どちらが原因かはわからないが、剣は冒険者達の攻撃を悉く防いだ熊の皮膚を容易に切り裂き、一瞬の絶命を与えた。
この熊って美味しいのかな、と疑問が浮かんだ。
全部は無理でも、少しくらいは持って帰れそうだ。
そこでふと鉄は思考を止める。そして、おもむろに熊の死骸を抱えて岸へと歩いて行った。
湖を覗き込む。湖底からは、ウナギのような巨大魚が恨めしそうに鉄を見上げている。
よっ、と掛け声を上げて熊の死骸を持ち上げると、鉄はそれを湖へと投げ込んだ。
「お詫び。ご飯の邪魔しちゃってごめんね?」
栄養価とかは知らないが、マリア嬢よりは確実に大きい。
沈んで行った熊を巨大魚が呑み込むのが見えた。
巨大魚は嬉しそうに湖の中で一回転してみせると、壁に空いた住処へと戻って行った。
振り返って、バレットが投げ捨てて行った剣を拾う。
大きな剣だ。振り回すのは並大抵の事では無い。
この剣、そしてあの動きを見るに、まさか駆け出し冒険者という事は無いだろう。
「……命を助けてあげたんだし、相応のお礼を貰うのは当然の権利だよねぇ」
嗅覚をフル動員させて、彼らの逃げた方向へ向ける。
思ったより距離は離れていない。鎧が重いからか他の魔獣を警戒してか、今は慎重に歩いているようだ。
食糧こそ見付からなかったが、思ってもみない収穫だった。
湖で熊を切った剣を洗いながら、今日の夜は彼らと過ごそうと鉄は静かに笑みを浮かべた。