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第十話

11/18 文章を修正

 最初は微かな変化だった。

 だが、それは同時に大きな変化でもあった。

 暗闇に静かに射した光に、釈迦が垂らした蜘蛛の糸を連想する。

 それ程にか細く、今にも消えてしまいそうな光は、鉄の目の前でどんどん強さを増していったかと思うと、更にその数を増やしていった。


 弾かれたように空を見上げる。

 岩場の周囲の木は背が高く、しかし枝や葉が少ない。鉄の頭上には、遥か高い位置に少しの葉が疎らに茂っているだけだ。

 先程まで雨を落としていた雲が、鉄の見上げる前でゆっくりと晴れていく。

 そして、隠れていた月が顔を覗かせ始めていた。


「……凄い」


 広がった光景に、鉄は息を飲んだ。

 凄いと、ただその一言しか出なかった。それ以上の言葉も、言葉を考えようとする意思すらも湧かず、目の前の光景に目を奪われた。

 緑の天蓋に所々空いた穴から、青白い月明かりが何本も射し込んでいる。

 雨上がりの匂いを伴った深い霧が光を浴びて、柔らかく宙を漂っていた。

 月の光が霧の中で乱反射している。それは岩場全体に届き、鉄を包み込むようにして揺れていた。


 ただ茫然と空を見ていた。

 思わず手に力を込めて、瓶を持っていた事を思い出す。

 今度こそ木の栓を抜くと、その中身を口の中に流し込んだ。

 初めて飲む酒だったが、予想に反して何の抵抗も無く喉を通って行った。本などでよく未成年が酒を飲むシーンがあるが、初めて酒を飲む人間は大体苦手意識を持つ描写があるので、自分も最初は少なからず抵抗があると思っていただけに拍子抜けだった。

 だが、特に困る訳でも無い。むしろ素直に味を楽しめるのならばそれに越した事は無いだろうと思い直す。

 少し癖があるが、それが良い味を出している。

 悪くない。そんな事を考えつつ、また一口酒を呷った。


 気分が高揚しているのを感じる。酔いが回るには早すぎるが、この景色と初めて飲む酒のせいで間違いないだろう。

 大声を上げて走り回りたくなる。身体の底から力が湧いて、心には炎が灯っている。

 手に持った瓶に口を付けると、鉄は瓶底を空に浮かぶ月へと向けた。

 口の端から溢れた酒が、顎を伝って垂れるのを感じた。それを拭う事もせず、流れ込んでくる酒を一心不乱に飲み続ける。



 綺麗だと。凄く綺麗だと思った。

 手には酒の入った瓶がある。その酒も、とても美味しく感じられた。

 神秘的な光景だ。テレビで何度か絶景の映像を見た事はあるが、ここまで感動した事は無かったと思う。

 僕にはそんな感情が無いのだと思っていた。景色を見て、打たれるような心が無いのだと。

 だが、それは違ったのかも知れない。現に、こうして自分で見た景色に僕は感動を覚えている。

 もっと見たい。この感動をもっと感じたい。

 世界を旅したいとか、誰とも関わらずに平和に生きたいとか、そんな漠然とした目標ではなく。


 もっと綺麗な景色を見よう。

 もっと美味しい物を食べよう。

 思い付く限りの事をして、少しでも多くの喜びを感じよう。

 いつか生きていて良かったと、この瞬間の為に自分は生きていたのだと言える時が来るように。

 そして。

 僕は大丈夫だよ、と。胸を張れるように。



 日が昇り、立ち込めた霧が晴れて暫くの時間が経っている。

 それでも尚、鉄は岩山の上に座って空に視線を向け続けていた。

 否、その目は何も見ていなかった。ただそこにあった光景の残滓に心を残し、これから経験する未来に思いを馳せている。

 やがて大きな溜め息を一つ。鉄は活動を開始した。


 洞穴に戻ると、既に火は消えていた。

 岩場で小さな石をいくつか拾って来る。三往復もすると、十分な量の石が集まった。

 昨日掘った穴の周りに石を積み、鞄から出した鍋をその上に置く。

 石の量や向きを調節して鍋が安定するのを確認してから、一度鍋を降ろし焚火を始める。

 その間に水魔法で瓶を洗い、木の栓をしっかりと口に押し込んで鞄に仕舞う。

 ついでに鍋に半分程度の水を入れると、石で作った竈の上に慎重に置いた。

 次に取り出すのはおたまと味噌だ。

 水が沸騰するのを待って、味噌を少量掬ったおたまを入れる。

 作っているのは具も何も無い味噌汁だ。本当なら何か具を入れたかったが、この辺りには山菜もキノコも生えていなかった。

 先程石を集めた時に見ただけなので確実とは言えないが、少なくとも目に付く範囲には見当たらない。

 これから森の中を歩く時は、食糧がないか目を配った方がいいかなあ、などと考えながら、今は鍋に目を向ける事にする。


「あ、これ意外と不便かも」


 おたまを動かしながら鉄がぼやく。

 日本で味噌汁を作った時は、おたまに掬った味噌をお湯の中で箸を使って溶かしていた。

 しかし、今の鉄は箸を持っていない。食品店でスプーンやフォークがすぐ見付かったのに箸は見付からなかった事を考えると、もしかしたらこの世界には箸を使うという文化が無いのかも知れない。

 スプーンなどで溶かそうかとも考えたが、そこまでする程でもない微妙な不便さだ。

 幸いここは森で、今の自分にはナイフも時間もある。今日の夜にでも、木を削って箸を作ろうと考える鉄だった。


 出来上がった味噌汁は、文字通り味噌を溶かしただけの汁なので味に深みは無かったが、それでも暖かく、素直に美味しいと鉄は思った。

 次はキノコでも入れてみたいな、と考えつつ、少ない味噌汁を流し込んでいく。

 鍋が空になるまで、五分程しか掛からなかった。

 鍋とおたま、食事に使ったお椀を水魔法で洗い、風魔法で乾かしてから鞄に戻す。

 早くも魔法に頼り切っている気がするが、これは魔法の訓練なのだと自分に言い聞かせて納得した。


 流石に味噌と水だけというのは味気無いので、鞄からある物を取り出す。

 食品店で貰った三種類の果物の内の一つ。黒いリンゴだ。

 どう見てもリンゴに見える。黒い以外は。

 触った感じもリンゴだ。ただし色は黒い。

 黒という色が何とも言えない不安感を煽るが、見た目と味は比例しない。きっと。

 水魔法で表面を洗い、ええいままよ、とばかりに齧り付く。


「……リンゴだ、これ」


 黒いリンゴは、ただ黒いだけのリンゴだった。



 鞄を腰に下げた鉄は、足取り軽く森の中を歩いていた。

 この世界で初めて食べた果物がとても食べられた物ではなかったため、黒いリンゴを食べた時の感動は大きかった。

 更に、夜明け前に見た光景、そして同時に決まったこの世界での目標に、鉄の機嫌はかつてない程に良い。

 地面に生えている雑草に笑いかけてみる。


 そんな機嫌の良い鉄の今日の目的は、水場の探索である。

 飲料水や洗濯が水魔法でこなせる今、水の必要性は少ないように思える。

 だが、水が出せるからといって魚を出せる訳では無い。それに、天然の水の周りには食糧も多いだろう。

 目当ては水ではなく、水場に存在する食糧だった。


 森の中を歩きながら、微かな水音も逃さないように耳を澄ます。

 その作業の合間にもキノコや山菜が生えていないかと辺りを見回しているが、目に映るのは木と雑草ばかりだ。

 既に拠点を置いた岩場から一時間以上歩いている。

 水の音は森のあちこちで響いている。昨日の雨のせいで、水溜まりが大量発生しているようだ。

 流れる音とかあれば一発なんだけど、と考えた時、鉄の耳が大きな水音を捉えた。


「今の音……湖か沼かな?」


 ただの水溜まりとは比べ物にならない規模の水音。

 とはいえ、普通は鉄のいる場所から聴こえる筈は無いのだが。

 水の流れる音が無い事から川ではないと判断する。

 だが、何かがおかしい。湖や沼だとしても、水が流れ込み、そして流れ出すというプロセスがある筈なのだ。

 水は雨として降り、最後は海に至る。湖も沼も、その通過点に過ぎない。

 なのに、鉄の聴覚は未だに水の流れる音を捉えていない。

 不自然だ。それを理解していながらも、鉄は音の響いた方へと足を向けた。


 更に二時間程歩き、鉄は目的地が近い事を感じていた。

 時々魚が跳ねるような水音はするが、それ以外は不自然に静まり返っている。

 本当に広大な森だと思う。少なくとも、日本にはこれ程大きな物は無かった。

 森や山が多いというのはそれだけ鉄が身を隠す場所が多いという事だ。自然に触れるのも鉄にとっては新鮮であり、特に困っている訳でも無いのだが。


 横並びに聳えている木の間を抜けると、鉄の視界は急激に開けた。

 思った通り、そこは湖だ。規模は大きくも小さくもない。三十分程で一周出来るだろう。

 湖面は揺らいでいるが、水の出入りは確認出来ない。もしかしたら、これは大きな水溜まりなのだろうか。

 覗き込んで見ると、湖は驚くほど澄んでいた。自然に出来たのではなく、人工的に水を入れたのではないかと疑ってしまう程だ。

 透明過ぎる水では魚は住めないと聞いた事があるが、底の方を悠々と泳いでいる。

 目測で二十メートル程の深さの湖だ。それでも岸から底が見えるのだから、相当不純物の混ざっていない水なのだろう。


 ふと顔を上げると、すぐ目の前に山がある。

 森の外から見えていた山だ。かなり遠くに見えていた筈だが、いつの間にかこんなに近くまで来ていたらしい。

 確かに森の中にある拠点から三時間以上も歩いて来たのだ。遠いと思っていた距離も少しは埋まるだろう。ここまで近付いているとは思っていなかったが。


 もしかしたら、と地面に耳を付ける。

 湿った土が付着するが、気にせず聴覚に全神経を集中させた。

 しばらくその体制で固まってから、鉄はゆっくりと身体を起こした。


「やっぱり、地下水脈があるんだ」


 地面の底、かなり深い所から水の流れる音が聞こえた。

 決して小さくはない地底の川。そして、この湖はその始点に限りなく近い。

 山に降った雨が地面に染み込み地下水脈を形成しているが、それだけでは雨が降らない事が続くと水脈が枯れてしまう恐れがある。

 だが、この湖の底からも地下水脈に水が流れ込んでいる。大量の水を湛えるこの湖は、いわば天然のダムのような働きをして水脈が枯れるのを防いでいるのだ。


 それを知ってどうするという訳ではないが、湖が目の前にあるのに、水が流れる様子が無いという疑問は解消された。

 満足感を覚えつつも、地面に付けて汚れてしまった耳と手を洗う。

湖の岸に座り込み、微かな水音を響かせながら僅かに付着した土を洗い流していく。

 静かな湖面に波紋が広がり、少量の土でも透明度が高い水ではよく目立つ。

 土が水に溶け、波が止水へと戻る瞬間。

 目が合った。



 湖の底、黒い影が蠢いていた。

 身体を伸ばせば十メートルを優に超えるだろう。ウナギやウツボのように細長いが、牛一頭を丸呑み出来る程度には大きい。

 透明な水を挟んで、巨大な魚が湖底から鉄を見据えていた。

 面白い物を見付けたかのように、鉄は目を細める。水中だから音が聴こえなかったのは解るが、問題はその周囲だ。

 巨大魚の周辺は、この透明な水を保ったままだ。

 先程手を洗った時の事を思い出す。この湖の澄んだ水では、少しの土でも目立って見える。そして、地下水脈に繋がっているという事から湖底は当然土だろう。

 あれ程の巨体を動かして尚、僅かの土も動かす事は無い。

 とんでもなく滑らかな動きだ。鉄ならば流石にもう少し近付いたら気付くだろうが、普通の人間では感知は難しい。

 もしあの巨大魚が肉食なら、存在に気付かないまま岸に近付いた瞬間に襲われているだろう。


 そこまで考えて、ふと気付く。

 つまりあれは。未だ湖底から様子を伺っている巨大魚は。

 ……僕を獲物だと、そう思ったって事だろうか。

 あは、と思わず笑い声が落ちる。



 ―――食うぞ



 気配が肥大化する。

 普段は無造作に垂れ流している気配。人も動物も寄せ付けないそれを、明確な指向性を持って一点に集中させる。湖の底、鉄の様子を窺う巨大魚へと。

 それを殺気と呼ぶ事を鉄は未だ気付かない。


 巨大魚は湖底の土を巻き上げて壁の穴へと逃げ帰って行った。

 ふう、と溜め息。殺気を出したのは一瞬で、今はもう収まっている。

 あの魚が既に鉄を獲物として見ていない事は解っていた。

 あれは水から出られないのだから、存在を悟られる前に襲わなければならない。

 恐らく、鉄が手を洗う音に反応して出て来たのだろう。しかし、襲うつもりだったのはその時までだ。

 その後はただ観察していただけだろう。見た事の無い、得体の知れない存在を。

 脅かし過ぎたかな、と少し反省。見えていた他の魚も、殺気に怯えて隠れてしまっている。


 魚は諦めて、他の食糧を探す事にした。

 そもそも湖の中では、釣り上げるしか手は残っていない。

 だが釣竿も糸も針も無いのでは、釣りなんて出来る筈もなく。

 泳いで捕まえようかとも思ったが、恐らく不可能だと判断した。

 川ならともかく、水中で魚を掴むなんて芸当は難しいなんてレベルを超えている。

 魚の表皮は凄まじくぬるぬるで、単純な握力など意味を成さないのだ。


 木の枝や根本をチェックする作業を初めるが、中々食糧になりそうな物は見付からない。

 キノコ類は見付からず、山菜と雑草は区別が付かない。

 ふと見上げた先に例の渋くて苦い果物があったが、見なかった事にして探索を続ける。

 そして数十分後、遂に鉄はそれを見付けた。

 傘は紫で、地面から突き出ている部分は白い。

 しかし赤や黄色の斑点が至る所に付いており、非常にカラフルな一品です。ごきげんうまい。


「どう見ても毒キノコじゃないか!」


 思わず声に出してしまう。

 いや、でも待て、と鉄の中の何かが囁く。


 僕はこの世界のキノコの知識が無いんだから、これが毒キノコかなんてわからないじゃないか。

 もしかしたら凄い美味しいキノコで、乱獲されないようにこんな色をしているのかも知れない。

 毒キノコだったとしても、毒がある食材って美味しいらしいし。

 僕なら毒も効かない気がする。大丈夫だって。食っちまえよ。


 伸ばした右手を、左手で掴んで必死に止める。

 いくら何でも、こんな見た目ヤバいキノコを情報も無しに食べるのは駄目だ。

 日本にいた時、あまりにお腹が空いて毒キノコ食べた時は平気だったけど、毒とか以前に人として駄目な気がする!


 右手と左手、天使と悪魔の戦争は続く。

 共に一進一退の攻防。両者一歩も引かない戦争に終止符を打ったのは、第三勢力の介入だった。


 幾つもの足音が、湖を挟んだ反対側の森の中から響いていた。

 葛藤に夢中になり過ぎて、こんな近くまで何かが接近している事に気が付かなかったなんて、と舌打ちを一つ。

 自分の迂闊さを反省しながらも、手近な木の内、最も葉が茂っている木に登る。

 足音から判断するに、複数の人間だ。葉の中に隠れて気配を消し、そこで様子を見る事にした。


 鉄が隠れてすぐに、ガサガサと繁みが揺れる。

 枝を折り、道を作りながら、鎧を纏った大柄な男が姿を現した。


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