第九話
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場面が戻ります
侵入時と同じように、一度の跳躍で鉄は壁を越えた。
特に緊張していた訳でもないが、いざ終えてみると街での作業は拍子抜けする程に簡単なものだった。
そもそも活動している人間が少なかったし、見廻りもかなり適当に見えた。
大量の収穫は腰に下げた鞄に全て収納しているので、音が立つ事も嵩張って移動の邪魔になる事もない。
これなら、旅の途中街を見付ける度に寄り道してみるのもいいかも知れない。
壁の上から周囲を見渡す。特に明かりという明かりもなく、目を凝らして見ても壁から森までの間はおろか、目に見える範囲では草原にすら怪しい物は確認出来ない。
安全だと判断した鉄は壁から飛び降りると、念のため体制を低く保ったまま拠点のある森の方へと歩き出した。
森に入って少し歩いた辺りで、鉄はポケットから壊れた南京錠を取り出した。
服屋と食品店の入り口にかかっていた物だ。何かに使えるかと考えてみたが、鍵がない上に曲線になっている細い部分が折れている。
結局何の使い道も思い付かなかったので、森の繁みの中に投げ捨てた。
南京錠が葉を揺らす音と、柔らかい土の上に落ちる音が、静かな森の中不気味に響く。
同じような景色が続く森の中でも、鉄が道を見失う事はない。
記憶力すら人間離れしている鉄にとっては、覚えようと思えば木の幹の模様、葉の枚数といった曖昧な物ですら目印に成り得る。
逆に、覚えようとしない事は基本的に記憶には残らない。無意識の行動、例えば日本にいた頃は、よく家を出た直後に鍵を閉めたかどうか思い出せないでいた。
盗られて困る物も無ければ学生寮の鉄の部屋に近付こうとする人間もいなかったので、確認に戻るという事はなかったが。
食品店で時間をかけ過ぎたせいで、出発前に予想していたよりも遅くなったが、少し早足で歩いて来た甲斐あって雨が降る前に拠点とした岩場に戻って来る事が出来た。
昼間のうちに確保しておいた祠状の洞穴に鞄を入れてから自分も中に入る。
「ふぅ……ただいま、かな」
置いてある岩に座る。この岩も昼間に運び込んでおいた物で、平らな上に折り畳みの椅子程度の高さのため、一目でこれに決めた。
座ってみると、丁度いい高さで非常に使いやすい。鞄に入れて持って行こうかと少しだけ考えてしまった程だ。
出入り口を右手側にして座る。正面と背面、左手側は岩の壁だ。
洞穴は岩が組み合わさって出来た天然の物なので、奥行きは鉄が片手を広げた程度しかない。
とはいえ、雨を凌ぐには十分だ。今日の風ならば吹き込んで来る事もないだろうし、むしろ雨が降る様子を間近で観察出来てラッキー、とすら思っていた。
鞄を横に置き、地面の土に手を付ける。
出来るかな、と駄目元で魔力を流す。自分の魔力が、土の中に浸透していくのを感じた。
そのまま魔力を目の前の地面に集中させ、その地面だけを下方向に移動させる。
初めての作業を、出来る限り慎重に進める。ゆっくりと、しかし確実に、鉄の魔力によって地面は下方向へと移動させられていった。
一分もその作業を続けると、鉄の目の前には小さな穴が出来ていた。
「うん、土属性って便利だね。触らなくても穴が掘れるなんて」
出来上がった穴に、集めておいた枯れ木から数本を取り出して広げて入れる。
穴自体が小さい上に窪みと言った方が適切な形なので、枯れ木は逆円錐型のように広がっている。
魔法で穴が掘れるという事が解ったのは非常に大きな収穫だった。これを使えば遠距離から簡単に落とし穴が作れるし、鍋を使う時などに竈を作るのにも役に立つだろう。
盗賊に襲われた荷馬車から拾った魔法の本に、普通は魔法が使えたとしても火、水、土、風のどれか一つ程度しか適正がないと書いてあったのを思い出す。
土は穴が掘れるし、水は飲み水や風呂用として使えるだろう。
「まあ、一番便利なのは火属性だけどね」
呟き、手に持った枯れ木に火を灯す。
それを枯れ木の並ぶ穴に投げ入れながら、風属性が一番役立たずだなあ、と考える。
鉄の考えは非常に特殊な物なのだが、それを指摘する人間はここにはいない。
投げ入れた火種が枯れ木に燃え移るのを見ていた鉄が、唐突に顔を横、森の方へと向ける。
ポツ、と鉄の前で地面に水滴が落ちた。周りからはパラパラと音が聴こえはじめ、それはすぐに森全体に響く大合唱へと変わる。
とうとう雨が降り出した。
つい数分前まで不気味な静寂に包まれていた世界が、雨によって彩られていく。
水が葉に当たり、枝がしなり、木々が揺れる。鉄の頭上からは水滴が岩を打つ音が響き、隣では土が柔らかな音を奏でている。
様々な雨音が反響する中、鉄の目の前では焚き木が夜の闇を煌々と照らしていた。たまに聴こえるパチパチという木が爆ぜる音が、雨に混じって鉄を揺さぶる。
「……なんかいいな、こういうの」
日本に居た頃はこうして森の中で火を囲む機会も無ければ、雨音に耳を澄ませた記憶も無い。
確かに家があった。テレビも漫画もあったし、コンビニに行けば食事も買えたし、部屋の隅には安物ではあったが暖かいベッドがあった。
だからこそ、自然をこんなに身近に感じた事はなかった。
異世界に来て、短いながらも濃い時間を過ごしたと思う。そして、そんな時間はきっとこれからも続いていくのだろうという予感がある。
そんな予感に胸を躍らせ、鉄は思った。
「この世界に来て、良かった」
思えば、それは異世界に来て初めて抱いた感想だった。その事実に驚きつつ、この世界でやった行動を思い返してみる。
強盗殺人、不法侵入、空き巣。
そこまで考えて、鉄は思考を放棄した。
小さくなった火に、手に持った枯れ木を真ん中で折って投げ入れる。
しばらく耳を澄ませて音を聴いていたが、やがて雨足は少しずつ弱くなっていった。
この世界に来る前の日本は夏だった。肌を焼く日差しや気温は同じ程度の物だが、この世界に四季があるかは不明だ。地球にだって四季の無い国はあるのだから。
もし日本と同じように四季があり、今は夏だと仮定すると、雨は降り始めるのも止むのも早いと予想出来る。
この分だと後一時間もすれば雨は止むだろう。
鉄は聴覚に集中する為に閉じていた目を開き、傍に置いてあった鞄を手に取った。
街で頂いた物を改めてチェックする。
鞄の中には既にいろいろな物が入っている筈だが、便利な事に取り出したい物を思い浮かべるとそれだけを取り出せるようだ。
流石魔法の鞄だと鉄は感動しつつ、右手を鞄の中に入れた。
まずは服だ。黒い服を三着も貰ったので、同じ服を着続ける事も、二枚の服を着回す必要も無い。Yシャツは鞄の中で大切に保管して、この服を普段着にするのがいいだろう。
その辺りの事情も考えて、下着も三枚貰ってきた。流石に同じ下着をずっと使い続けるのは人として疑問を覚えるし、そもそも鉄自身それは嫌だった。
そして外套だ。黒と深緑の二種類だが、どちらも暗闇に紛れる迷彩色だし、水を弾く素材で出来ているようだ。雨の中でも移動出来る上、フードが付いているので顔も隠せる。これも普段から着るようにして、汚れた時だけ川で洗えばいい。干して乾くまでの時間は、どうしても待てない時は火と風の魔法を使えば短縮出来るだろうか。
早速外套を着ようかと思ったが、鉄が立てる程この洞穴の天井は高くないため諦める。
外套を鞄に戻し、代わりに三本の瓶を取り出す。
瓶の中身は二本が酒で、一本が醤油だ。
欲しかったのは入れ物の瓶だけなので、醤油はともかく酒は鉄にとっては不要だ。
だが、捨てるのはもったいない。飲み水はしばらくは魔法でなんとかするとして、酒は鞄の中に仕舞っておこうと判断する。
無駄に優等生だった鉄は酒を口にした事は無い。この世界なら誰に咎められるでもなく堂々と飲めるので、今度飲んでみよう、と密かに思った。
鞄の口を目一杯広げて、味噌の入った壺を取り出す。
壺の口に被さっていた布は、味噌を発見した時に一緒に見付けた紐で縛って不用意にずれないようにしている。
紐の結び目を緩めて、布を取ると味噌特有の匂いが鼻を突いた。
これがあれば、まずは味噌汁が作れる。出汁を取れる食材が無いので沸騰させた水に味噌を溶かすだけになりそうだが、それでも味噌汁には違いない。
具はその辺に生えている山菜やキノコを使えばいい。異世界の山菜の知識は皆無な筈なのだが、浮かれている鉄は気付かない。
他にも、肉の味付けや、野菜を見付けた時の味付け等にも使えるだろう。
ちゃんと一杯入ってる方を持ってきた。すぐに無くなるという事は無い筈だ。
段々と充実していく調味料に、それを活かすだけの食材も料理スキルも未だ所持していない事を忘れて鉄は夢を膨らませた。
実は食品店では、他にも幾つか道具を拝借して来ている。
どうせ味噌が無くなった事には気付くだろうから、最早鉄に遠慮は無かった。
鉄がまず鞄から取り出したのは、木で出来た持ち手に金属のお椀が付いた道具。
日本で言うところの、おたまだった。
鍋は既に持っているが、このおたまが無ければ料理は難しい。
逆に言えば、これさえあれば味噌汁もカレーもシチューも理論上は作れる。
カレーやシチューに関しては、ルーさえあれば、というおよそ異世界では通用しそうにない理論で考えている。
流石にそこまで楽観視はしていないので、いつか料理の本でも読んで作り方を勉強しようかなと一人決意を固める鉄であった。
同じく便利な調理道具として、竈の上に置いてあった網を貰ってきた。
平らで固い上に目が細かい。石で竈を作って上に置けば安定するだろう。
焼き肉だけでなく、野菜を並べて醤油を垂らしても良い。とはいえ、野菜が手に入る目処も立っていないのだが。
それでも非常に便利な道具な事に変わりは無い。いつか使う時の為に、ゆっくり休んでいて下さいと手を合わせながら鉄は網を鞄に仕舞った。
他には、スプーンとフォーク、マグカップ等が鞄の中で眠っている。
スプーンとフォークは金属製で、おたまと同じようにこの二つも持ち手が木で出来ている。
木製というよりは恐らく木で覆っているだけだが、使う側からしたら正直どちらでもあまり変わらない。
マグカップは、手触りや質感、重量などから考えて、陶器ではないかと鉄は考えた。
ここが日本ならそこまで迷う事も無いのだが、異世界ではそうもいかない。
自分の常識が通用しない場所だ。手に持ったマグカップ一つでさえ、製造方法も材料も全く未知の物かも知れないのだ。
(まあ、使えれば何でもいいけど)
もう一つ、木製のお椀も拝借して来ていた。
内側と外側で色の違う漆のような物が塗られており、それが水を弾き木に水分が浸透するのを防いでいる。
このお椀があればマグカップはいらなかったのではないかと一瞬不穏な考えが頭を過ったが、あるに越した事はないと思い直す。
紅茶をお椀で飲む人間はいない。どうせ誰も見てないから抵抗は無いが、マグカップを使うべき時もいつか来るだろう。きっと。
戦利品のチェックを終え、ふと気付くと雨音が途絶えていた。
鉄がこれからの食事やら何やらに胸を膨らませている間に、雨は完全に止んでしまっていたらしい。
枯れ木を一本火に投げてから洞穴の外に出る。
霧が出ていた。暗い森の中、鉄の背後からの明かりが霧に鉄の影を映している。
焚火の火がゆらゆらと揺れる度に、空中に薄く映し出された鉄も揺れた。
胸一杯に息を吸い込むと、雨上がりの匂いが入ってくる。
濡れた土の匂い、植物の匂い。夜明け前の森の匂い。
鉄はこの匂いが好きだった。雨が上がった直後の匂いは、人を落ち着かせる力があるように感じる。
数回深呼吸を繰り返し、この贅沢な時間に感謝した。
「あ、そうだ。折角だし、今開けちゃおう」
思い出したように呟き、一度洞穴に戻る。
戻って来た鉄の手には、木の栓が口に半分程埋まった瓶があった。
瓶の中身は透明に透き通っている。
酒だ。
辺りを見回して、岩場で一番高い場所を見付ける。
危なげも無くひょいひょいと岩に登り、三十秒もしないうちに鉄は岩場を見渡せる位置に到着していた。
岩の端でしゃがみ込む。先程まで降っていた雨で、岩は濡れて変色している。
鉄は掌に魔力を圧縮した小さな火の球を生み出すと、岩の表面に近付けて、撫でるようにゆっくりと横に動かしていった。
「……よし、こんなもんかな」
火を消し、手を上げると、鉄の手が動いた付近だけ岩が乾いていた。
魔法の扱いにも慣れてきたなあ、と思いつつ、乾かした場所に座る。ズボン越しに少し熱を感じるが、気にする程でもない。
手元の瓶に視線を落とす。異世界に来て、日本では犯罪になるような事ばかりしているが、そこに未成年の飲酒も加わるとなると逆に感慨深くなってきた気がする。
それも今更か、とその口を塞ぐ栓を開けようと手を掛けた。
その時だった。
一筋の光が、鉄の目に飛び込んできたのは。