第〇話
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国立霜里学園。
広く海に面した霜里市の中でも中心よりやや海寄り、駅や住宅街よりも幾分高い土地に建てられたそれは、間違いなく県内でも有数の進学校である。
学問はもちろん、部活動にも力を入れた校風は、他県からも入学希望者が多く訪れるほど人気が高い。
そんな霜里学園には、有名な生徒が一人いる。
霜里学園生徒会長、天野満流。
常に学年上位の成績を維持しながら、卓越した身体能力も持つ。霜里学園の全ての運動部が一度は彼に声をかけている、と生徒の間では専らの噂だ。
入学してすぐに生徒会に入り、霜里学園の長い歴史の中、一年生で生徒会長に当選したのは彼が初である。
原則一年生は生徒会長選挙には立候補出来ないが、生徒会長と副会長両名の推薦があれば選挙への参加は可能だ。
先代生徒会長、副会長からの推薦を受け、当時既にカリスマ性を発揮しつつあった満流は晴れて新生徒会長として学園に名を轟かせた。
一年坊には任せられない、という人間もいたが、就任して一年も経つ今ではそんな事を言う人間もてんでいなくなった。
「あぁ、やっと終わった……」
霜里学園本校舎四階にある生徒会室で、満流は一人大きな溜め息を吐く。
腕を組んで天井へ伸ばすと、ボキボキと小気味いい音が誰もいない部屋に転がった。
窓から差し込む西日と伸びる影が、夏の訪れを感じさせる。
顧問が唐突に厄介事を持ってきたのは今日の昼休み。
なんでも夏休み前に処理しなければならない案件を忘れていたそうで、今日まで計画的に仕事をこなしてきた生徒会役員からの非難は凄まじかった。
忘れていたという事はどうせ大した量ではないだろうと高を括った満流は、他の役員を帰宅させ一人仕事を片付けるため生徒会室に赴いた。
しかし、そこに山積みされた書類を見て本気で帰ろうとしたのは記憶に新しい。
とはいえ、なんとか全て片付いた事に安堵する。
夏休みを返上するのは高校生には死刑宣告と同義だ。ただでさえ来年に大学受験を控えた満流は夏期講習で夏休みの大半が潰れているというのに、羽を伸ばすための僅かな時間さえ奪われるところだった。
明日は終業式だ。書類の提出はその後でいいだろうと判断する。そもそも、下校時間を過ぎた今では顧問は既に帰宅している。元凶のくせに。
「それにしても、まさかこんなに大変だったなんてな……」
夏休みを過ぎれば、満流が生徒会長になって一年になる。
ただの役員だった頃は知らなかったが、生徒会長のこなす仕事というのは予想以上に多い。
去年の生徒会長は全然そんな素振りを見せていなかったが、何かコツでもあるのだろうか。
今度聞いてみようと満流は思う。一人で頑張っていただけかも知れないが。今の満流のように。
「……?」
ふと、満流を得体の知れない違和感が襲った。
鞄にペンケースを仕舞う動きを中断し、不用意に音を立てないよう慎重に違和感の正体を探る。
(音……?)
ハッと満流は外を見る。
いつもと同じ、生徒会室から見える景色だ。今にも沈みそうな夕日が、なんとも言えない寂しさを感じさせる景色だ。
だが、いつもあるべき物がそこには無かった。
音だ。
普段は喧しく鳴き続けている蝉の声、部活中の生徒の声、生命を感じさせる音の全てが、そこにあった日常ごと消え去っていた。
急に耳が聴こえなくなったという可能性も考えたが、自分の息遣いなどははっきり聴こえるのでそういう訳でもないらしい。
誰に見せるでもなく冷静を装いながら、心の中で強がってみる。
新発見だ。ただ音がなくなるだけで、世界の全てが自分を置き去りにどこかへ行ってしまったような孤独を感じるなんて。
なんとなく音を立てないように気を付けながら、満流は鞄を持って扉へと向かう。
不気味ではあるが、こんなこともあるのだと。そう自分に言い聞かせながら扉を開こうと手を伸ばした。
「なんだよ、これ……」
思わず口から漏れた言葉に、急速に現実感が湧いてくる。
扉が開かない。見慣れた廊下が見える筈の小窓は黒く塗り潰されていた。
嫌な感じがして振り返ると、そこは満流の知っている生徒会室とは全く違う場所だった。
四方を石で囲まれた部屋に、床にはなんとも言えない模様が広がっている。
部屋の反対側にあった筈の窓はその向こうの景色を巻き込んで姿を消し、学校の備品である机や椅子も、満流が居残りしてまで仕上げた書類もどこにもない。
地下牢、という単語が満流の頭の中をグルグルと回る。
この部屋の閉塞感や不気味さ、それを表現する言葉を、それ以外思い付かなかった。
その場から動かず、部屋の様子を観察する。
大きさは生徒会室よりは小さい。壁は石で出来ており、そのどこにも出入り口らしき物は見られない。唯一、満流の後ろにある扉だけが場違いな存在感を放っている。
天井は満流が手を伸ばして届かない程度には高い。とはいえ、天井にもただ無機質な石が広がっているだけなので、届いても意味はないだろうが。
床には模様が描かれている。
その模様を満流は知っていた。目の前の模様を見るのは初めてだが、主に漫画やテレビゲームなどで、似たような物を見た事があった。
「魔法陣……?」
呟いた満流の目の前で、床に描かれた魔法陣から光が溢れ始めた。
強くなっていく光はすぐに見ていられない程に眩い物となり、満流は腕で目を守る。
やがて光が収まったのを瞼越しに感じると、最大限の警戒をしながらゆっくりと目を開いた。
何かがいた。先程までいなかった何かが。
魔法陣の真ん中に現れたそれは、一見すると人間のようだ。
それは黒いローブのような物を纏っている。すっぽりとフードを被っているために、顔を伺う事は出来ない。
「……お主がアマノミツルじゃな」
黒フードから声が聴こえた。
低い声だが、年齢までは読めない。まさか意思疎通が可能だとは思っていなかったが、もう驚いている余裕すらない。
「……ええ、確かに俺は天野満流です」
満流はもう諦めていた。
急に音が無くなった世界に、全然違うデザインにリフォームした生徒会室。そして何故か自分の名前を知っている黒フードの人物。
(どう見ても全部コイツの仕業じゃねーか!)
満流が何をしてもこの部屋からは逃げられそうにない。かと言って、こんな事が出来る奴に勝てるとも思えない。
もう自分に出来る事は、せめて命だけは勘弁して貰えるように祈りながら相手を刺激しないように立ち回る事だけだ。
でもちょっと悔しいので、心の中でだけ黒フードと呼ぶ。
「ふむ、そうかそうか。問題ないようじゃの」
こっちとしては大いに問題アリだと心の中だけで呟く。
が、もちろん態度には出さない。ついでに満流の身長は百八十と少し、黒フードの身長は百六十前後くらいに見えるので、見下ろしていると思われないようにしっかり顔ごと下に向けて黒フードを見る。
「お主、随分落ちついとるのう。もう少し慌てると思ったんじゃが」
「それは……どうも。ご期待に添えませんでしたか?」
「いやいや、逆じゃよ。予想以上じゃ」
「のうお主、こことは違う世界に興味はないかの?」
黒フードの言葉に、満流の中の何かが揺れた。
命だけは勘弁して貰えるように、だとか。
出来るだけ相手を刺激しないように、だとか。
そういう感情は、既に満流の中から消えていた。
「……行けるんですか? 異世界」
ただ真っ直ぐに黒フードを見詰める。
黒フードは面食らったように一瞬動きを止めると、辛うじて「……危険じゃぞ」という一言だけを絞り出した。
「我が国はある問題を抱えておってな、そこは複雑な事情があるのじゃが……もしかしたら戦争に巻き込まれるかも知れんし、暗殺者に命を狙われる事もあるかも知れん。出来る限りのサポートはするが、こちらの世界の方が遥かに安全じゃろう。それに帰る手段も我らには用意出来ん……」
黒フードが説明をするが、どうにも焦っているように見える。
それに、出てくるのは問題点ばかりだ。その上で満流に選択させようとしているのだから、もしかしたらこの黒フードは良心的な人物なのかも知れない。
だが、満流の意思は変わらない。
満流には夢があった。それは夢と言える程立派な物ではなかったが、満流にとっては何よりも大切な思いだった。
「……行きます。行かせて下さい、今すぐに」
諦めかけていた。
自分では不可能だと、心の底では薄々気付いていた。
強くならなければいけなかった。夢を語るために、相応しい力を身に付ける必要がある。
この世界では、それは叶わない。守られて、自由も何もないこの世界では。
「……本当に、いいんじゃな? 世話になった人間に手紙を残すくらいの時間はやれるぞ?」
異世界で、その夢の続きが見られるのなら。
この思いを、大切なままに生きていけるのなら。
全てを捨てるくらいは安いものだと思った。
黒フードの提案に、満流は否定で答えた。
異世界に行きます、なんて書ける訳もない。ならば、このまま失踪扱いになった方が都合がいいだろう。
強くなるためだ、と自分に言い聞かせる。
覚悟も、犠牲も、危険も、強くなるために必要な物だと。
満流はゆっくりと、床に描かれた魔法陣へと足を踏み入れた。
黒フードが出て来た時のように、魔法陣がゆっくり光を放ち始める。
段々と強くなっていく光は、やがて部屋全体を包み込んだ。
光が収まると、そこには何事もなかったかのように霜里学園の生徒会室だけが残された。
しかし、そこにいるべき生徒会長はどこにもいない。
ただ几帳面な字で書かれた書類の束だけが、夏の生暖かい風に吹かれて揺れていた。