日常
願いは誰にでもあることだ。
それはもう無尽蔵にあふれ出てくる。
強くなりたい、偉くなりたい、魔法使い、勇者、億万長者…あとは、なんだろ?
とにかく想像しだしたらキリがない。
でも、その願いの原動力は一体なんなんだろう。
本当は自分を変えたいだけなんじゃないだろうか。
今の自分が満足じゃないから、不満だから、好きじゃないから。
違う自分になれたらと思うときは誰しも一度は持つ気持ちだ。
なれるはずがない事は理解しているんだ。
だから、願いが生まれる。
ただ不思議な事に、稀に他人の為を思って願う人もいる。
心の底から他人だけを思い、他人の為に願いを叶えようとしている。
すごいと思う。
ただでさえ自分に満足していない人が多い中、他人を思える人。
なぜだろう。
俺は自分に満足なのかって?
そうだな。
もう、満足かな。
陽の光が傾き始め、太陽の姿が外にはっきりと見える。
レースのカーテンで遮ってはいるが、その姿はまぶしく輝いていた。
「今日はもう帰るのか?」
隣から、透き通るような凛とした声が耳に入ってくる。
振り返れば俺の昔からの付き合いの『橘美咲』が頬杖をつきながら、ほんの少しさびしげな表情を見せていた。
腰まで伸ばした真っ直ぐな黒髪が風に揺れ、紺色のブレザーでより一層映えていた。
「まあな、帰宅部も忙しいんだ。お前も空手部で忙しいだろ?」
「つれないな、この『滝沢光輝』は…」
「フルネームで呼ぶなよ」
ひとつ息を吐き出し、鞄を持って立ち上がる。
厳格な佇まいは、その長くしなやかな足と、長身から伸びる黒い髪をより一層際立たせていた。
「今日は行っていいのか?」
俺の家にということらしい。
「今日は先生と一緒なんだ、悪いな」
「そうか。先生なら仕方ないな。また明日」
一瞬曇った表情を見せたが、すぐに持ち直し教室を出て行った。
パッと見近寄りがたいが、一言話せば竹を割った性格で、言葉の一つ一つに裏表がない。
クラスの皆からも頼りにされていて、よく声を掛けれられているのを見かける。
そんな美咲は自慢の友達だ。
「もうそろそろ時間かな」
夕方4時になる。
葉が色付き、夕日でより濃いオレンジ色に染まる。
教室で数人談笑しているのを遠目に、教室の扉をくぐった。
外の風はまだ温かく、時折落ち葉が見え隠れする。
目の前には整備されたアスファルトの駐車場が広がり、人の行き来が後を絶たない。
ここへ来る人たちは、「橘『たちばな』」総合病院への用事に他ならない。
かくいう俺もその一人なのだが。
建物に入れば、看護師たちが廊下をせわしなく歩き、子供は親との手を離さず、腰かけにはたくさんの人が自分の番を待っていた。
「相変わらず忙しそうだな…先生も忙しいんだろうな」
『滝沢光輝さん、滝沢光輝さん。総合内科の1番までお越し下さい』
病院へ入って数分で自分の名前が呼ばれる。
「すげぇな先生。ほんとに俺との予約は時間通りなのな…」
驚きが半分呆れが半分といったところだ。
正直自分は後回しでもいいのだが、担当している先生が時間に正確な人だった。
病院は慣れているので、迷うことなく総合内科に着いた。
来る途中で、何人か顔見知りの先生と看護師と挨拶を交わすのも、もはや恒例となっている。
「入りますよ」
「来たね」
一段と低い声が、耳に飛び込んでくる。
だが、威圧するような感じは無く、どこか落ち着かせるような声だった。
「調子はどうだい?」
「変わらずっすよ、『水無月誠二』先生」
いつもの会話。
「変わらず、か」
顔に掛けている銀縁の眼鏡を傾け、少し困った表情を見せた。
細身で年相応のしわを顔に刻み、優しい表情を見せる。
「念の為見せてもらえるかな?」
「この間と変わんないっすよ。ほんとに」
また困った表情を見せ、苦笑いをする。
後頭部をさすりながら、カルテに向き直る。
「今日は家に寄って行く日だったね」
「はい、飯は何がいいっすか?」
カルテに書きこんでいたペンを、手のひらの上でまわし始めた。
「そうだね…ビーフシチューをお願いしようかな」
「うぃっす」
俺が立ち上がると、誠二先生は俺の顔を真剣な眼差しを向けていた。
「あの子を、頼むよ」
その言葉の意味はよくわからなかった。
「いつものことじゃないっすか」
笑って答えると、誠二先生も釣られて笑顔になる。
俺はそのまま内科を後にした。
週に一度の定期検診。
それが終われば先生の家で食事。
そして次の日を迎える。
それが俺の日常だ。
日没が始まり、次第に濃いオレンジ色が辺りを包んでいた。
「行くか」
今日の献立はビーフシチューだったな。
食材を買ってからいくかな。
ほんの少し冷えた風が、背中を押したような気がした。
急いで行くとするか。
先生の家で待つ「あの子」の表情が浮かんで、俺は足早になった。
今度はいつになるのか…(T▽T)