帰省の理由
蒸し暑い夏のある日、わたしは、こんな会話を聞いた。
「あの子がいなくなって、もう一年も経つのね」
何のことかと、階段を降り掛けた足を止める。母親があの子と口にするのは、この家でわたししかいない。
耳をそばだて、そっと足を進めた。もともとわたしの足音はほとんどしない。華奢な体つきの所為か、今だって、ぎしりとさえ鳴らずに静かなものだ。
「後悔しているのか」
父親の声がした。
「遠くへ行かせたこと?……どうかしら」
それはわたしが、第一志望の高校に落ちたことだろうか。母親は気にしていない様子に見えたが、わたし自身落ち込んでいたので、正直なところよくわからない。第二志望で受かった高校は寮制で、わたしはそこに住んでいた。現在は夏季長期休暇なこともあり、実家に帰省している。そうだったような気がする。
一階に降り立ち、リビングのドアを開けようとしたところで、母親がまた、口を開いた。
「生きていたなら、あの子は高校二年生だったのね」
ああ、と足元を見つめた。ようやく足音がしない理由に思い至る。
「今日はお盆か」
声にならない言葉を口にしたなら、線香の香りが、鼻を掠めた。
初出_20100504