第2話
ジェイドはカウンターに勢いよく身を乗り出し、身振り手振りを交えながらオーナーに詰め寄った。
「オーナー、市場の裏で張り紙見たんだけど。この一帯で催される、あの……マルシェ? フードフェスっていうの? ほら、時々やってるじゃん。手頃な価格で、1皿2皿好きな店舗の商品をちょこちょこ買って、その場で食べるやつ。あれ、うちも参加すんの?」
オーナーは少し困ったように眉を下げ、磨いていたグラスをそっと置いた。
「ああ、**『ストリート・バル』**のことだね。秋の収穫祭に合わせて、この通りの飲食店が自慢の一皿を屋台で出すイベントだよ。よく知っていたね」
「参加すんの!? ああいうのって、うちの『とろける哲学』を広める絶好のチャンスじゃない! もし出るなら、僕が呼び込みでもなんでもやるよ!」
ジェイドの瞳は、期待にキラキラと輝いている。けれどオーナーは、視線を調理場の奥にある熟成庫へと向けた。
「……うちは『静かな時間』も味のうちだと思っているからね。外の賑やかな場所で、うちのチーズが最高の一瞬を保てるかどうか……。今、ちょうどそれを考えていたところなんだ」
ジェイドは納得いかないという風に、少しだけ頬を膨らませた。
「そんなの、やり方次第だよ! 食べ歩きできるような『最高の一瞬』を作ればいいだけじゃん。ねぇ、僕もアイデア出すからさ、出ようよオーナー!」
ジェイドとオーナーの賑やかなやり取りを切り裂くように、再び入り口のドアが開いた
。今度はカラン、と落ち着いた、重みのある音が響く。
「あぁ。オーナー久しぶり」
現れたのは、仕立ての良さそうな和装に身を包んだ、銀髪の混じる初老の紳士だった。
その佇まいからは、隠しきれない品格と、食に対する並々ならぬこだわりが漂っている。
「これはこれは。神宮様。ようこそいらっしゃいました」
先ほどまでジェイドを嗜めていたオーナーの表情が、一瞬でプロのそれに切り替わる。
彼は深々と頭を下げ、神宮をカウンターの特等席へと案内した。ジェイドもその場の空気を感じ取ったのか、少しだけ背筋を伸ばして隣に控える。
「本日はいかがいたしますか」
「そうだなぁ。ちょっと変わったもの作ってくれよ。和食っぽいものがいいね。……今の私の気分は、少しばかり枯れててねぇ」
神宮はそう言って、悪戯っぽく、けれどどこか寂しげに目を細めた。
――チーズと和食
一見、相反するようなそのリクエストに、店内に一瞬の静寂が流れる。ジェイドが「チーズで和食?」と口を開きかけたが、オーナーはそれを手で制した。
「承知いたしました。……『枯淡の中の、とろける情熱』。そんな一皿をご用意しましょう」
オーナーはそう告げると、奥から木の箱を取り出した。中から現れたのは、黒々とした「あるもの」だった。
まるで漆黒の塊だった。表面はゴツゴツとしていて、一見するとチーズには見えない。
「オーナー。これなんですか?」
ジェイドが身を乗り出し、不思議そうに覗き込む。神宮もまた、興味深げに目を細めてその黒い塊を凝視していた。
「これは、自家製の**『たまり醤油漬けのハードチーズ』**です。3年熟成させたパルミジャーノを、さらに特別な溜り醤油の諸味の中に半年間、眠らせておいたものです」
オーナーは手慣れた手つきで、その黒い塊を極限まで薄く、花びらのように削り始めた。
削られた瞬間に立ち上ったのは、チーズの芳醇なミルクの香りと、醤油が熟成された香ばしく深い「和」の香り。
「ほう……。醤油の香気がチーズの脂分と混じり合って、まるで上質な燻製のような、いや、それ以上に複雑な香りがするな」
神宮が感嘆の声を漏らす。オーナーはその削りたてのチーズを、温かな**「焼きおにぎり」**の上にふわりと乗せた。おにぎりの中には、あえて塩分を控えた自家製の西京味噌が仕込まれている。
焼き立ての熱で、醤油の酵素とチーズの脂が溶け合い、お米の一粒一粒をコーティングしていきます。
「さあ、神宮様。溶け切る直前の、この『一瞬』をどうぞ」
熱々のおにぎりの上で、薄く削られたチーズが頼りなく、けれど力強く「とろり」と透き通り始める。和の装いをしたチーズが、静かにその本性を現した瞬間だった。
「うむ。いただこう」
神宮は、丁寧に差し出された箸を取り、芸術品を見るような眼差しでその焼きおにぎりを見つめた。おにぎりの頂上で、醤油色のチーズが熱に負け、じわりと米の隙間に沈み込んでいく。
一口、神宮はその「和のチーズ」を口に運んだ。
「…………」
沈黙が店内を支配する。ジェイドは固唾を呑んで神宮の表情を窺い、オーナーはただ静かに、次の茶を淹れる準備をしていた。
神宮の眉間の皺が、ゆっくりと、しかし確実に解けていく。彼は目を閉じ、鼻から抜ける香りを深く味わうように一度だけ大きく息を吐いた。
「驚いたな。醤油の角がチーズの油脂で丸められ、代わりにお米の甘みが爆発的に引き出されている。……枯れていた私の心に、春の土のような生命力が染み渡るようだ。オーナー、これはもはや料理ではない。哲学だ」
「最高の褒め言葉です、神宮様」
オーナーが穏やかに微笑む。その傍らで、ジェイドの目がこれまでにないほど大きく見開かれた。
「これだ……! これだよオーナー! マルシェで出すのはこれにしようよ!」
「ジェイド、落ち着きなさい。これは神宮様のために整えた特別な一皿だ」
「わかってるって! でも、おにぎりなら片手で食べられるし、和風ならお年寄りから子供までみんな好きだよ。この『とろけるおにぎり』、絶対みんなを驚かせるよ!」
ジェイドの熱っぽすぎるプレゼンに、神宮はくすりと笑みを漏らした。
「ふふ、賑やかでいい。オーナー、この少年の言う通りかもしれんよ。この一皿には、人を外へ連れ出す力がある」
雨上がりの地下の店に、新しいメニューの構想と、少年のはちきれんばかりの希望が満ちていった。
「ストリート・バルのことかい?」
神宮は、焼きおにぎりの余韻を楽しみながら、二人の会話に加わった。その声には、単なる客以上の、この街を愛する者としての響きがある。
「そうなんですが、うちのメニューでバルの参加は難しい。そう話してたんですよ」
オーナーは少し申し訳なさそうに、けれど矜持を持って答えた。
繊細な温度管理が必要な彼のチーズ料理は、仮設の屋台ではその真価を発揮できないと考えていたのだ。
「そうかい。そう言わず考えてくれねぇかな。……実はな、ちょうどバルに参加する予定だった『寿司勝』の大将が、ギックリ腰をやっちまってねぇ。」
神宮は困ったように、けれどどこか期待を込めた目でオーナーを見つめた。
「今年は毎年恒例の解体ショーができんことになって、わしも含めて実行委員会も頭抱えていたんだが……」
「どうだい。あそこの特設厨房をそのまま貸し出せるよう手配しよう。パフォーマンス、なんて大それたもんでなくていい。うちの街の誇りとして、参加しないかね。そうしてくれたら、私も、街の連中も助かるよ」
その提案に、店内の空気が一変した。 老舗寿司屋の特設ステージ。それはマルシェの中でも最も注目を集める場所だ。
「えっ、あそこの場所を使わせてもらえるの!? オーナー、これって凄いことだよ!」
ジェイドが身を乗り出す。オーナーは驚きに目を見開き、しばし沈黙した。寿司勝の特設厨房があれば、火加減も調理スペースも申し分ない。
「……寿司勝様の代役、ですか。それは重責ですね」
「堅苦しく考えんでいい。お前さんのあの『とろける哲学』を、少しだけお裾分けしてやってくれ」
神宮はそう言うと、最後の一口の「醤油チーズおにぎり」を満足げに口に運んだ。
◇◇◇◇◇
神宮への挑戦状:黄金の「焼き」チーズおにぎり
商店街の重鎮である神宮さんの肥えた舌を唸らせたのは、奇をてらった料理ではなく、馴染み深いおにぎりの中に潜む「熟成の深み」でした。
【材料】(2個分)
白米:茶碗2杯分(少し硬めに炊き上げたもの)
ミモレット(12ヶ月熟成):20g(カラスミのような風味。おにぎりの「芯」にする)
パルミジャーノ・レッジャーノ:10g(粉末にしてご飯に混ぜ込む)
醤油・みりん:各小さじ1(塗り醤油用)
有明産焼き海苔:2枚
隠し味:おかか(醤油で和えたもの)少々
【作り方:総一郎の工程】
米に「香り」を纏わせる 炊きたての白米に、細かく削ったパルミジャーノ・レッジャーノを混ぜ込みます。米の熱でチーズがわずかに溶け、一粒一粒をコーティングすることで、冷めても美味しいベースが出来上がります。
「黄金の核」を仕込む おにぎりを握る際、中心にサイコロ状にカットしたミモレットとおかかを忍ばせます。ミモレットの濃厚なコクと、おかかの和の風味が絶妙なコントラストを生みます。
「熟成」を焼く フライパン(あるいは網)を熱し、おにぎりの表面を軽く焼きます。
醤油とみりんを合わせたタレを刷毛で塗り、表面が「カリッ」と香ばしくなるまで炙ります。総一郎の助言:「チーズを焼くのではない。醤油の焦げた香りと、中のチーズが柔らかく緩む『瞬間』を焼くのです」
仕上げの儀式 最後にパリッとした海苔で包みます。海苔の磯の香りと、熟成チーズの動物性の旨味が口の中で爆発します。
☆彡 ジェイドの科学的ワンポイント
「おにぎりにチーズなんて邪道だと思うだろ? でも、醤油の発酵成分とチーズの発酵成分は親戚みたいなもんだ。そこに『おかか』のイノシン酸が加われば、旨味の相乗効果で味覚センサーはパンクする。神宮さんが『……ほう』って唸るのも、計算通りだね」




