第29話:幸せでいてください
最後の授業が終わった。
教室を出るとき
私は
後ろを振り返らなかった。
家に帰って
鞄を下ろし
ノートパソコンを開いた。
メールの画面を
立ち上げた。
宛先の欄に
彼のメールアドレスを入力した。
そして
しばらく
何もない画面を
見つめていた。
最初は
長く書こうと思った。
去年の火曜日の空白が
わざとではなかったこと。
括弧の中の文章を読んだ夜
モニターの電源を
なかなか切れなかったこと。
九十分のあいだ
ずっと感じていた
あの視線の重さを
今でも覚えていること。
全部
書いた。
そして
全部
消した。
もう一度
書いた。
先生から学んだことが
きっと長く残ると思うこと。
現代文学を
こんなに好きになるなんて
思っていなかったこと。
それも
消した。
空白の画面が
また
私を見つめていた。
私は
一度だけ
息を整えて
ゆっくり
タイピングした。
先生、お久しぶりです。
イ・ジウです。
一学期間、授業をありがとうございました。
先生のおかげで、たくさん学ぶことができました。
それから——
先生がご結婚されたと聞きました。
本当におめでとうございます。
どうか
幸せでいてください。
送信ボタンの上に
指を置いた。
一秒。
二秒。
押した。
ノートパソコンを
閉じた。
部屋の中が
急に
静かになった。
泣かなかった。
泣くことなんて
もう
残っていなかった。
ずっと前から
飲み込んできた
言葉ばかりだったから。
窓の外は
暗くなり始めていた。
私は
灯りもつけないまま
しばらく
その暗闇の中に座っていた。
幸せでいてください。
その言葉が
私が
最後まで
彼に渡せた
たった一つの
気持ちだった。
そして
それで
十分だった。




