第19話:平然という名の仮面
感情が壊れる瞬間よりも、
壊れなかったふりをするほうが
ずっと難しい。
この日、
彼女は泣かなかった。
それが、
いちばん痛い選択だった。
合宿から戻った月曜日、
キャンパスは何事もなかったかのように活気づいていた。
私もまた、いつもと変わらないきちんとした装いで、
教室の一番前の席に座った。
誰にも知られたくなかった。
初めて誰かにときめき、心を開いた代償が、
「既婚者」という冷たい真実だったことを。
彼は相変わらず教壇に立っていた。
私はノートを開いた。
ペンを持った。
最初の一文を書き取った。
いつもと変わらない手の動きだった。
けれど、
彼がふと話すのをやめた瞬間――
気づけば顔を上げかけていた。
ほんの一瞬だった。
教壇へ向かいそうになった視線を、
私は無理やりノートの上へ引き戻した。
手に力が入る。
ペン先が紙に強く押しつけられた。
見ないで。
気づかれそうだった。
何に――正確にはわからない。
ただ、気づかれてはいけなかった。
彼の声はいつも通り低く、落ち着いていた。
それが余計に残酷だった。
何もなかった人の声だった。
私はその声が聞こえないふりをして、
一文字ずつ書き取った。
丁寧に。
一文字も取りこぼさないように。
胸の奥が、かすかに痛んだ。
涙がにじみそうになるたび、
ペンをさらに強く握った。
ノートに刻まれる文字が、少しずつ太くなる。
大丈夫。
もう終わったこと。
彼を、もう一度
自分の中で“不在”にすればいい。
呪文のように繰り返した。
それでも、
彼が黒板の方へ向き直る音が聞こえるたび、
肩が先に反応した。
視線を向けそうになるのを抑えるのに、
思っていたよりも力が要った。
九十分が、
これほど重く感じたことはなかった。
チャイムが鳴る。
私はノートを閉じ、
誰よりも早く、
けれど走らない速度で教室を出た。
廊下に出た瞬間、
ようやく息を吐いた。
よくできた。
なのに、不思議だった。
一度も視線を向けなかったのに、
どうしてこんなに疲れているのだろう。
見ないと決めた視線は、
簡単には消えない。
何もなかった顔で
同じ教室に座ることはできても、
心まで無事ではいられない。
「平気」という仮面は、
ときどき
誰よりも自分を傷つける。




