第18話:知らなかった事実
タイミングが少しでも違っていたなら、
選ばなかったはずの道がある。
けれど人は、
知らないうちに
誰かを守るふりをして、
自分を守る選択をしてしまう。
その事実を、
まだ知らないまま――
物語は静かに軋み始める。
夜が更けると、
教授はそっと席を外した。
「学生同士で楽しんでください。」
いつもと変わらない、整った声。
私はその言葉を聞きながら、
彼の“線”がどこまでなのか、
そのときはまだ知らなかった。
宴が盛り上がるなか、
私はスジンと数人の学生と先に部屋へ戻った。
「逃げるの?」
男子学生たちが冗談めかして道をふさぐ。
「疲れただけです。」
笑ってすり抜けたけれど、
疲れていたのは身体ではなく、心だった。
部屋は静かだった。
誰かはベッドにうつ伏せになり、
誰かはスマートフォンをいじっている。
話題は自然と恋愛の話へ流れた。
「今日のリーダー、ちょっとかっこよかったよね。」
「えー、あんた元々ああいうタイプ好きじゃん。」
笑い声。
すると一人の女子学生が言った。
「私は正直、教授のほうがいいけど。」
冗談のように。
その言葉に、
別の誰かが軽く付け足した。
「でも教授、今年の春に結婚したよね。」
私は顔を上げた。
「え?」
自分でも驚くほど大きな声だった。
「え、知らなかったの?
助手がこの前言ってたよ。
式は静かに済ませたらしいよ。」
去年までは独身だったのに、と
ぼやく声が続いた。
私は何も言えなかった。
春。
その言葉が、
頭の中で強く響いた。
山道での
「日記に書きます」という声。
ハイタッチの温もり。
夕方、
そっと近づいて笑った顔。
結婚した人。
なぜ言わなかったの。
なぜ何事もない顔で、
あんな言葉を言えたの。
心臓が
冷たく沈んだ。
その夜、
一睡もできなかった。
ときめきが崩れる音は、
こんなにも静かだったのだと知った。
夜明け前。
スジンと散歩に出た。
空気は冷たい。
遠くから、
チョン・ウジン教授が歩いてくる。
目の下が暗い。
「早いですね。」
スジンが先に声をかけた。
「教授こそ?」
彼は短く笑った。
「心配で……一睡もできませんでした。」
何でもないように言った。
指輪のない手で。
心配。
その言葉が
どこか歪んで聞こえた。
私は何も言わなかった。
彼が私を見た。
視線が長くとどまる。
私は顔をそらした。
結婚したという事実が、
彼の顔の上に重なって見えた。
昨夜と
同じ人には思えなかった。
バスの前。
学生たちが一人ずつ集まる。
リーダーが私の隣へ来た。
「ジウさん。」
顔を上げる。
「学校着いたら……時間ありますか?
コーヒーでもどうですか?」
周囲が笑う。
「おおー。」
「MTの締めじゃん。」
私は答えられなかった。
その瞬間――
「やめなさい。」
低い声が落ちた。
ただ静かに、ではなかった。
断固として、
刃のように鋭かった。
全員が止まった。
チョン・ウジン教授だった。
彼はリーダーを真っ直ぐ見た。
「学生諸君、冗談が過ぎます。」
空気が一瞬で冷えた。
リーダーがぎこちなく笑う。
「あ、いや、ただ――」
「やめなさい。」
今度はさらに短く。
明確な警告だった。
周囲の表情が固まる。
彼は私へ視線を移した。
「到着したら、まっすぐ帰宅しなさい。」
命令のように聞こえた。
私は彼を見た。
初めて、
目をそらさなかった。
結婚した人。
その事実を隠したまま、
嫉妬の目で
私を制そうとする人。
自分が持てないなら、
他人にも渡したくない人。
どうして。
どうしてそんな目で見るの。
胸が熱くなった。
それはときめきではなかった。
怒りだった。
強く。
そして――混乱していた。
私は何も言わなかった。
バスに乗り、
窓側の席に座った。
ガラスに映る自分の顔が、
見慣れないものに見えた。
今日一日で、
私はあまりにも多くのことを知ってしまった。
そして初めて――
彼が、
ひどく憎かった。
知ることは、
いつも優しいとは限らない。
隠されていた事実は、
ときめきよりも速く
心を冷やしていく。
この夜、
誰かの感情は壊れ、
誰かの距離は揺れた。
そして――
もう、元の位置には戻れない。




