第13話:入れない世界
人は、
怖い思いをしたあとほど、
やさしさに弱くなる。
強くなろうと張りつめていた心が、
たった一言でほどける瞬間がある。
この物語には、
胸を締めつける視線だけではなく、
そっと呼吸を整えてくれる存在もいる。
彼女が初めて、
無防備に笑った日のこと。
下宿先の近くに不審者が出没したという噂が広まった夜だった。
部屋に戻り、鍵をかけてからも、
私はしばらく玄関のドアを見つめていた。
ドアロックの数字が、
やけに強く光っている気がした。
その夜、
私はブログに短い文章を残した。
――今日の帰り道が、すごく怖かった。
明日はどうやって帰ろう。
大した意味のない、
ただの弱音に見えるように。
翌朝、通知が届いた。
英文学科の教授が
新しい記事を投稿したという知らせだった。
クリックした瞬間、
タイトルが目に飛び込んできた。
【女子大生のための“完全防犯・男性立ち入り禁止アパート”リスト】
思わず笑ってしまった。
“男性立ち入り禁止”だなんて。
どう見ても、
私の昨夜の記事を読んだ人のタイトルだった。
記事の中には、
大学近くのワンルーム物件の防犯レベル、
CCTVの設置状況、
管理人の常駐時間まで、
丁寧に整理されていた。
そして一番下に、
小さな括弧があった。
(昨夜、怖い思いをした誰かの役に立てば。)
私はしばらく画面を見つめた。
「いいね」も押さなかった。
コメントも残さなかった。
けれど、胸の奥が
不思議とあたたかくなった。
その日の午後、授業が終わったあと。
英文学科の教授は本をまとめながら、
さりげなく私のほうを見た。
「最近、帰り道は大丈夫ですか?」
ごく自然な口調だった。
「はい。おかげさまで。」
私は笑って答えた。
「おかげさまで?」
彼が少し首を傾げる。
「男性立ち入り禁止アパート。」
一瞬、彼の目がわずかに見開かれ、
すぐに柔らかな笑みに変わった。
「ああ、あれですか。
タイトル、少しやりすぎましたね。」
「ちょっとだけ。
教授が一番危険に見えますけど。」
冗談めかして言うと、
彼は短く笑った。
その笑顔は、
チョン・ウジン教授のそれとはまったく違っていた。
鋭くもなく、
胸を締めつけることもない。
ただ――
息が楽になった。
「私は立ち入り禁止ですか?」
「厳重に禁止です。」
「では、レモンは持ち込み可能ですね?」
そう言いながら、
彼は私の手のひらにレモンキャンディをひとつ、
ぽん、と落とした。
私はそのタイミングで、
思わず笑ってしまった。
とても自然に。
久しぶりの、
無理をしない笑いだった。
廊下の端で。
その光景を、
チョン・ウジンが見ていた。
ジウの笑顔。
彼はその笑顔を、
自分が一度も見たことがなかったのだと
その瞬間、思い知らされた。
彼女は、
自分の前で笑うときでさえ、
どこか慎重だった。
だが今は違った。
肩まで力が抜けている。
英文学科の教授の一言に、
頭を後ろに倒して笑っていた。
ポケットの中の指輪が、
指に触れた。
彼は無意識に
握り、そして離した。
――チン。
かすかな金属音。
その笑い声には、
似つかわしくない音だった。
研究室に戻ると、
彼はパソコンを立ち上げた。
大学ポータルにログイン。
学生情報検索。
イ・ジウ。
基本情報。
出身高校。
学籍番号。
履修科目。
それだけだった。
彼はしばらく迷い、
ブログのアドレスをクリックした。
画面には小さな鍵のアイコン。
――相互フォロー限定公開。
閲覧できません。
彼は、入れなかった。
相互フォローではなかったから。
既婚者である自分には、
その距離を越える資格がない気がした。
彼はしばらく、
ログイン画面を見つめていた。
英文学科の教授は、
いま、あの世界に入れるのだろうか。
彼女がどんな文章を書き、
どんな言葉を返すのか。
自分には決して踏み込めない、
透明な世界が
モニターの向こうにあった。
ジウの笑顔が、
何度も浮かんだ。
その笑顔は、
自分の前には存在しなかったものだった。
ポケットの中で、
指輪がもう一度鳴った。
今度は、
少しだけ大きく。
彼は静かに、
モニターを閉じた。
鋭い言葉や、
燃えるような視線だけが
ときめきではないのかもしれません。
何も奪わず、
何も急かさず、
ただ隣に立ってくれる人。
そのあたたかさに、
人は気づかないうちに
武装を解いてしまう。
彼女の笑顔は、
誰の前でいちばん自然だったのでしょう。
そして――
入れない世界を見つめる人の心は、
これからどう揺れていくのでしょうか。




