第11話:レモン色の抜け道、そして大人のため息
冷たい違和感は、
すぐには消えません。
けれど人は、
ひとつの温度だけでは
呼吸を続けられない。
凍った午後のあとに、
別の空気が流れ込みます。
彼の視線が触れる教室は、
なぜか空気が薄くなる。
言葉はいつも通り穏やかなのに、
私にかすかに留まるその眼差しひとつが、
心臓をゆっくりと凍らせた。
その日も私は、
息を小さく区切りながら、授業をやり過ごしていた。
そしてその冷気がまだ身体に残っていた午後、
私のもとへ届いたのは、
さわやかなレモンの香りだった。
英文学科の教授の授業は、
いつも十五分早く終わった。
キャンパスの地理に詳しい彼は、
次の講義へ向かうために
坂を駆け上がらなければならない
私の過酷な時間割を、すでに読み取っていた。
「今日はここまでにしましょう。
次の建物、遠いでしょう?」
彼は一度時計を見て、
そして窓辺の向こうの私を一度見た。
それから、
深く、湿ったため息を落とした。
それは欲望ではなく、
無理に踏み込まない人の、
静かな優しさのように聞こえた。
実は私たちは、
学期初日に課題連絡と資料共有のため、
教授のブログをフォローし、
自然と“つながり”を持っていた。
プロフィールで知ったこと――
同じ南の海の出身で、
同じ小学校を卒業した先輩と後輩だったこと。
休み時間の短い会話は、
そこから始まった。
乾いたソウルの空の下で出会った彼は、
教授である前に、
私に名もない安堵をくれる存在だった。
背の高い、
少し距離を保ちながらも、
私をまっすぐ見てくれる人。
故郷の海の匂いを思い出させる、
けれど――
ただの「兄」ではない距離。
教室を出ようとした私の手のひらに、
黄色い包みのキャンディが、
とん、と落ちた。
「無糖のリコラ。レモン味です。」
口に入れた瞬間、
広がる爽やかでやさしい甘さが、
重く残っていた気分をすっと洗い流した。
舌先を刺すほのかな酸味は、
まだ整理できない感情のようで。
そのあとに広がる穏やかな甘さは、
それでも確かに動いている私の心臓のようだった。
砂糖のようにまとわりつくことなく、
きれいに消えていく後味は、
何も求めず、
ただ私の呼吸を先に気にかける
大人の配慮に似ていた。
そのレモン色の抜け道のおかげで、
私はようやく息を整え、
次の時間へ歩き出すことができた。
レモンの香りは、
派手ではないけれど、
確かに呼吸を取り戻させてくれる。
踏み込まない優しさ。
急がない距離。
それは恋ではないのかもしれない。
でも――
安心できる温度は、
ときに心を強く引き留める。
物語は、
ひとつの線だけでは進みません。
ここから、
もうひとつの可能性が静かに芽を出します。




