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無能と蔑まれ婚約破棄されたので、辺境で静かに暮らします。今更「戻ってきて」と言われても、もう遅いです

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/06

 三度目の「無能」を言い渡された日、私は微笑んだ。


「——よって、ノエリア・ヴァルトハイム。そなたとの婚約を破棄する」


 王太子フェリクス殿下の宣言が、謁見の間に響き渡る。周囲の貴族たちが息を呑む気配がしたが、私の心は凪いでいた。


「かしこまりました、殿下」


 私は淡々と頭を下げた。動揺は、なかった。むしろ——ようやく、という安堵があった。


「……それだけか?」


 殿下が眉をひそめる。その隣で、私の妹エルヴィラが不満そうに唇を尖らせていた。


「姉様、何か言うことはないの? 殿下に謝罪するとか、考え直してくださいとか」


「特には」


 私は静かに答えた。


「三年間、王宮経理官として務めさせていただきました。その任を解かれるのであれば、故郷に戻るだけのことです」


 帳簿しか見ていない無能——殿下は私をそう呼んだ。宮廷の華やかな社交に馴染めず、数字ばかり追いかける地味な婚約者。妹のエルヴィラのほうがよほど王太子妃に相応しい、と。


 そうかもしれない、と私は思う。私には社交の才能がない。愛想笑いも、お世辞も、駆け引きも苦手だ。


 ただ——帳簿は正直だった。数字は嘘をつかない。だから私は、数字だけを見てきた。


「では、これにて失礼いたします」


 私は最後の礼をして、謁見の間を出た。


 背後で妹が何か言っていたが、振り返らなかった。


      ◇


 辺境伯領ヴァルトハイム。


 王都から馬車で五日。山と森に囲まれた、静かな土地。


 私は生まれ育ったこの場所に、三年ぶりに戻ってきた。


「お嬢様、お帰りなさいませ」


 屋敷の使用人たちが出迎えてくれる。彼らの顔を見て、ようやく肩の力が抜けた。


「ただいま」


 私は小さく笑った。


 父は領地の視察で不在だったが、それで良かった。婚約破棄の顛末を説明する気力は、まだなかった。


 翌日から、私は領地の帳簿を見始めた。


 三年の空白がある。その間に何があったのか、数字を追えば分かる。税収の推移、支出の内訳、人口の変動——。


「お嬢様、またそのような」


 古参の侍女が呆れた声を出す。


「王都で懲りたのではありませんか?」


「帳簿を見るのは好きなの」


 私は正直に答えた。


「数字は裏切らないから」


 侍女は何か言いたげだったが、結局黙って紅茶を置いていった。


      ◇


 領地に戻って一週間。


 私は父の執務室で、ある異常に気づいた。


「……この支出、おかしい」


 隣接するファーレスト領との共同事業——国境の防衛に関する支出が、三年前から急増している。


 しかし、防壁の修繕記録は見当たらない。兵員の増加もない。では、この金はどこに消えているのか。


「ノエリア嬢、か」


 不意に、背後から声がした。


 振り返ると、見知らぬ男が立っていた。日に焼けた肌、鍛え上げられた体躯。無骨だが、どこか穏やかな目をしている。


「……どなたですか」


「失礼。ファーレスト領の騎士団長、グレンだ。辺境伯殿に呼ばれてな」


 父に呼ばれた? だが父は視察で——。


「お父上には先ほど会った。ちょうど戻られたところだ。お嬢さんが帰ってきたと聞いて、挨拶がしたいとおっしゃっていた」


 そう言って、グレンと名乗る男は私の手元を見た。


「……帳簿か」


「ええ」


「この領地の経理官志望か?」


「いえ、ただ——気になることがあって」


 私はつい、正直に言ってしまった。


「ファーレスト領との共同事業の支出が、三年前から不自然に増えているんです。でも、対応する成果が見えない。どこかで横流しされているか、あるいは——」


 言いかけて、私は口を噤んだ。初対面の相手に、何を言っているのだ。


 だがグレンは、真剣な顔で頷いた。


「……その帳簿、見せてもらえるか」


      ◇


 それから、私とグレンの奇妙な協力関係が始まった。


 彼は領地の防衛を担う騎士団長として、かねてより資金の使途に疑問を持っていたらしい。だが、帳簿を読み解く能力がなかった。


「数字を見ると頭が痛くなる」


 グレンは正直にそう言った。


「だがあんたの説明を聞くと、不思議と分かる。帳簿が物語を語り出すようだ」


「……そんな大げさな」


「大げさじゃない。俺には出来ないことだ」


 彼の目は真摯だった。


 ——無能。


 そう呼ばれ続けた三年間を、私は思い出す。帳簿しか見ていない。社交の才能がない。王太子妃に相応しくない。


 グレンは違った。


「あんたの目は、真実を見抜く目だ」


 彼はそう言って、私の能力を認めた。


      ◇


 調査を進めるうちに、私たちは驚くべき事実に辿り着いた。


 資金の横流し先は——王都だった。


 しかも、宛先は王宮経理局。つまり、私がかつて務めていた部署だ。


「どういうことだ……?」


 グレンが眉をひそめる。


 私は嫌な予感がしていた。三年前、私が経理官に就任した直後から、この横流しは始まっている。


 そして三年後、私が解任された直後——。


「……私のせいだわ」


 私は呟いた。


「私がいたから、彼らは帳簿を操作できなかった。だから辺境の資金を——」


「待て。あんたのせいではない」


 グレンが遮った。


「あんたがいなければ、この不正は永遠に発覚しなかった。むしろ、あんたがいたから奴らは追い詰められたんだ」


 彼の言葉は、不思議と胸に沁みた。


      ◇


 それから一月。


 私たちは証拠を揃え、父に報告した。父は即座に王宮へ書簡を送った——正式な告発として。


 同時に、私は別のことに気づいていた。


「ノエリア嬢」


 グレンが執務室に入ってくる。最近は毎日のように顔を合わせている。


「今日の分の帳簿、まとめたか?」


「ええ。こちらに」


 私が書類を渡すと、彼は受け取りながら、少し言いにくそうに口を開いた。


「……あんた、王都に戻る気はないか?」


「え?」


「いや、その……俺が言うのも変だが。あんたほどの能力なら、王宮でも引く手あまただろう。不正が発覚すれば、経理官として戻ってほしいという声も出るはずだ」


 私は少し考えてから、首を振った。


「戻りません」


「……そうか」


 グレンの表情が、僅かに和らいだように見えた。


「王都は、私には合わなかった」


 私は正直に言った。


「数字しか見ていない私を、誰も必要としなかった。でもここでは——」


 言葉に詰まる。グレンが黙って待っている。


「——ここでは、私の目を必要としてくれる人がいる。それが、嬉しいんです」


 グレンは何も言わなかった。ただ、そっと私の手を取った。


 その手は、剣だこで硬かったけれど——温かかった。


      ◇


 王都から書簡が届いたのは、その翌週のことだった。


 差出人は、フェリクス王太子。


『ノエリア・ヴァルトハイムへ。経理局の不正が発覚し、混乱が生じている。そなたの能力が必要だ。王宮に戻り、再び経理官を務めよ。婚約については——再考の余地がある』


 私は書簡を読み終えて、静かに折りたたんだ。


「何と書いてあった?」


 隣にいたグレンが尋ねる。


「戻ってきてほしい、と」


「……そうか」


 グレンの声は平坦だったが、拳が僅かに握られているのが見えた。


 私は書簡を机に置いた。


「返事は書きません」


「いいのか?」


「ええ」


 私は窓の外を見た。辺境の空は、王都よりも広くて青い。


「殿下は、私が無能だから婚約破棄をしたのでしょう。でも今になって戻ってこいと言うのは——私が無能じゃなかったからですよね」


「……ああ」


「それは、私を見ていたのではない。私の能力を見ていただけです。そんな方のもとには、戻れません」


 グレンが何か言おうとして、口を閉じた。


 代わりに、彼は一歩近づいてきた。


「俺は——」


「はい」


「俺は、あんたの能力だけを見ているわけじゃない」


 不意打ちだった。


「帳簿を前にして、眉間に皺を寄せている姿も。紅茶を飲んでほっとしている姿も。全部、見ている」


「……グレン殿」


「だから、あんたが王都に戻らないと言ったとき、正直——安心した」


 彼の目は、相変わらず真摯だった。


「俺のそばにいてくれないか、ノエリア」


 私の頬が熱くなる。返事をしようとして、声が出なかった。


 だから代わりに、私は頷いた。


      ◇


 後から聞いた話では、王宮の不正は大規模なものだったらしい。


 経理局長以下、複数の高官が罷免された。横流しされた資金は、とある貴族の私財に流れていた——その貴族というのが、エルヴィラの取り巻きの一人だったという話も、風の噂で聞いた。


 妹がどうなったかは知らない。王太子殿下がどう対処したかも、興味がなかった。


 私はもう、あの場所にいないのだから。


「ノエリア」


 グレンが呼ぶ声がする。


「今日の帳簿、一緒に見てくれないか。どうにも数字が合わなくてな」


「また間違えたの?」


「悪いか」


「悪くはないけど——」


 私は笑って、彼のもとへ向かった。


 辺境の空は今日も広くて、青い。


 私の隣には、私の全てを見てくれる人がいる。


 それだけで、私は幸せだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


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