my name is love
ある職種について主人公がとやかく言っておりますが、決してその職業を非難する意味合いで使用している訳ではございません。主人公が病んでいるだけです。
感受性の豊かな方は一緒に病まないよう、お気を付けください。
ご気分を害される可能性がある方は、講読をお控えいただきますようお願い申し上げます。
彼女は今朝もコーヒーを飲んでいた。少しだけ開いたカーテンの隙間から朝日が漏れるのを、今か今かと待っている。薄暗い部屋の壁は灰色がかり、どこか気分の落ち着かないものだとふいに思った。真冬の部屋に、温かいコーヒーの湯気だけがゆらゆらと揺れている。丸まっているその背中は縮こまり、分厚い毛布を肩から掛けていても、やけに小さく収まって見えた。ずずず、とコーヒーをすする音がワンルームの手狭な空間に響く。
「お日様、昇ったね」
彼女は口端だけを釣り上げて表情を作る。
「今日、雨だって」
「暗いよ」
「暗いね」
「ねえ、今日は傘を差そうかな」
「君が差してよ。お願い」
やがてフローリングの冷たい床に、温かなカップが取り残される。揺れていた湯気は次第に姿を消し、うずくまっていた彼女もまた、深い眠りについた。結局その日、暖かな朝日が差し込むことはなく、残ったコーヒーがなくなることもなかった。
カップの内を縁取る黒い水面が、雨の響きで揺れるまで。
my name is love
「こっちが先でしょ」
「はい、すみません」
「何回言えば分かるのよ」
白衣を身にまとった『カノジョ』は大慌てで回診車を押し、小走りでよどんだ廊下を横切った。社会人三年目に突入し自信もつき始めるはずの今日この頃、カノジョは未だ怒られる立場なのに変わりはなかった。この日もまた、性格がそのまま具現化されたような眼鏡をかけた主任にこっぴどく叱られた。
カノジョは処置を終えて空になったガーゼの箱を片手に、やっとの思いでナースステーションまで戻って来た。箱を膝の上で押しつぶしながら壁にかかっている時計を確認する。
もうすぐで申し送りの時間だって言うのに、大慌てで回診なんか来るんじゃないよ!
今年度から晴れて研修医を卒業したピカピカの一年生ドクターに対し文句を垂れていると、やけに画面をクリックする音が耳障りでそちらを振り向いた。
そこにはまたしてもピカピカの一年生がいた。四月に入ったばかりの新人たちが、星でも生み出しそうな瞳で隣のカルテから情報収集をしているところだった。毎日朝礼で希望が溢れに溢れ出している返事を聞く度、カノジョの気持ちは反比例型に落ち込んでいった。
申し送りを終えて残りの仕事もなんとかやり終えたカノジョは、新人たちから逃げるように病棟を去った。
汗ばんだ白衣を脱ぎ捨て、クリーニングの籠に投げ込む。ズボンの片足が籠から垂れ下がっているが、もう知ったことではない。その足で誰もいない真っ暗なトイレに逃げ込むと、自動でパッと明かりがついた。ふと鏡の前でトイレの明かりとは相反する存在を発見し立ち止まる。夜勤明けで髪の毛が乱れ、隈が目立つ状態の自分と、ばっちり目が合ったのだ。
まだ二十代前半だというのに、なんと肌艶の悪いことか。カノジョは鏡越しの自分を睨みつけて、乱雑に髪の毛をほどいた。お団子状に結っていた髪は重力に逆らい反転し、流れに身を任せ顔へとへばりついてくる。髪を結われている窮屈さより鬱陶しさが上回って、結局また一つに結い直す。己の髪の毛一つも言うことを利かせられないのか。こういう時は何をしてもネガティブに捉えがちだ。
カノジョの中から言葉にならない憤りがじわじわと湧き上がってきて、そのまま爆発しそうになった。無理やり抑え込むとそれはそのまま顔までよじ登ってきて、じわりと目頭を熱くさせる。
「もう絶対辞めてやるからな!」
瞳が潤み始めたところで、トイレの入り口が勢いよく開いた。肩を震わせそちらを見ると、掃除のおばちゃんがブラシ片手に余所余所しく来るのが見えて、カノジョの涙はあっけなく引っ込んでいった。カノジョは何事もなかったかのようなスマートな顔をしておばちゃんとすれ違い、そのままトイレを後にする。
そしてカノジョはまた明日も、この鏡の前でやつれた顔の自分と再会するのである。
【私の心、常に曇天】
元々の性格上、私はこの仕事に向いていないと感じていた。同時進行が苦手で効率の悪い事この上ない。さらには過度の心配性で、思わぬ事態が起こるとパニックで体が硬直してしまうのだ。最も冷静に判断し的確な行動を起こさなければならない患者さんの急変時に何もできず、何度も叱られ運ばれていく患者さんを見ながら一人涙を流していた。
同期は一年を待たずしてなんと半分を下回っていた。辞める理由は様々だったが、いざ辞めると聞くと自分だけ置いてけぼりにされたような孤独感は否めなかった。彼女たちと同じように違う道を歩むことだって出来たはずなのに、なぜ同期の中でも最も落ちこぼれな自分が、まだここに立っているのだろうか。
【ウォンテッド、リモコン】
通勤中右に曲がるべき道を何のためらいもなく直進したことがある。しばらくたって我に返り慌ててUターンをしたが、遅刻もしたし車にも轢かれかけた。
「どこ見てんだバカヤロー!」
なんてドラマでよくある台詞をここで聞くことになるなんて思っても見なかった。私は何度も運転手に頭を下げて謝罪をした。轢かれずに済んだことは不幸中の幸いだったのかもしれないが、その時私はこんなことなら数メートルほど弾き飛ばして職場まで運んでくれても良かったのにな、と縁起でもないことを考えていた。どうせ目的地は同じだ。
それから次第に外へ出ることさえも億劫になり、休日は決まって布団から出られない生活が続いた。大好きなお笑い番組を見ても笑い声が不快に感じてテレビを消して以降、リモコンが行方不明になっている。うちのリモコン、探しています。
【踊るインゲン】
気が付けばまた同じ白衣を身にまとって回診車を押す自分がいた。だらだらと歩く私の隣を、今年の新人が意気揚々追い抜かして行った。その手には患者の部屋から下膳された食事プレートが握られている。そういえば今日は朝ごはん食べてなかったな。そんなことを考えながら運ばれていくプレートを眺めていると、お皿の端によけられたインゲン豆がむくりと起き上がった。あたりをきょろきょろと見回しているようだ。同じお皿に乗っていた仲間たちはもういない。
残念ながら残っているのはアナタだけですよ。
遠目からインゲンへ憐みの目を向けていると、突然インゲンは私を見つけて意気揚々その手を振って来たのだ。なぜ手足があるのかはさておき、私はまさかと思いながら周りを見渡した。周囲には誰もいない。そこでハッと気が付いた。これではまるで、数秒前にインゲンがしていた行動のリプレイ映像ではないか。まんまとはめられた。
今一度プレートの方へ振り返ると、インゲンの乗ったお皿の蓋は無情にもキラキラと煌めく新人によって閉じられた。暗闇の中に消えたインゲン。自分が彼(性別は定かではないが)と同等であるというのなら、将来に期待は出来そうにない。
――いや、そうはならない。
プレートの前を横切る直前。
「勝手に仲間認定するんじゃないよ!」
そうやって心の中でだけで怒鳴り散らそうとしたのだが、あいにく今までの鬱憤が発せられぬまま鎮座していたが故に、気が付けばその言葉はそのまま口から吐き出されていた。
突然やつれた先輩が暴言を吐く現場に居合わせた新人は、血相を変えて逃げて行った。
新年度四月のこと。ハイ、ヤバい先輩確定。
曇天の空、私を制御するリモコンはなし。お先は真っ暗闇の中。
【嫌いなもの】
私には嫌いなものがある。ピーマンだとかトマトだとか、未だに食べられないものも多いが、それよりずっと嫌いなものがあった。
それが、私自身である。この場を借りて少し、私語りをさせていただこう。
まだ私が幼き頃、母親に似たげじげじの眉毛で恥ずかしいねと近所の人から言われたことがある。その言葉の意を理解できなかった私は、なにがそんな恥ずかしいものなのかと母に直接尋ねた。すると母は気にしているように前髪で額を覆いながら、眉毛が変な形で可笑しいってことよ、と教えてくれた。可笑しいのは駄目なことなのかと言うと、笑われることは恥ずかしいことだと続けて言った。ならば母はどうしているのかと問うと、化粧でごまかしているのだと話した。ならば私も化粧をしたいというと、まだ小さいから大人になったらやりなさいと言われた。ならば今はどうすればいいのかというと、気にしなければいいと言われた。その言葉をそのまま母に返したら機嫌を損ねたらしく、その話はそこで切り上げられてしまい、正解を見いだすことは出来なかった。
近所の人の言葉と母の様子から、眉毛を出すことは恥ずかしい事なのだという認識が植え付けられた。おでこを出してニッコリ笑顔がトレードマークだったはずの私は、お道具箱の中から工作用のハサミを取り出して、無作為に前髪を作り上げた。目の少し上で切りそろえた前髪は重たく視界を曇らせ、世界に薄暗いカーテンを引いたような錯覚に陥った。私の中で『言葉への恐怖心』が生まれた瞬間だったように思う。
人は何をするのにも手を使うが、その都度目に入ってくるのは爪だ。考え事をしていると無意識に爪を噛む癖がついてしまい、その癖はなんと高校時代まで続いていた。実は今でも悩み事があると時々する。しまったと思った時にはいつも中指の爪だけリアス式海岸が生成されている。その爪を見て「小さいくて可笑しな形」と小学校の友達から言われた。決して虐めてやろうとか貶めてやろうとか、そう言った理由ではないと思う。だが、「可笑しい」のは「恥ずかしい」のだ。爪を伸ばしてマニキュアで覆い隠してしまえばいいと試してみたが、あいにく仕事柄その対処法は断念せざるを得なかった。そのため常に可愛くない自分の指とにらめっこしている毎日だ。
小さな胸とウエストのない腰回りも嫌いだ。寸胴みたいな体だと中学時代にクラスの女子に笑われた。足も周りの子に比べると異様に太く感じられた。人に笑われたくないという理由で、母の反対を押し切りダイエットを始めてみた。これが自己流で何の成果も得られない上にリバウンドは激しく、元々大きくない胸はどんどんとしぼみ、気にしていた足は太くなる一方だった。朝バナナという手法を取り入れてみたが、あいにく体に合わなかったらしい。毎朝嘔気が止まらなかった。それからバナナは今でも苦手だ。
一番嫌いなもの。それが私の名前だった。夢と希望の溢れるいい名前だ、親御さんに感謝だね、と出会う人に度々言われた。名前は親が最初にくれるプレゼントだなんて言うが、私はこの名前がどうも好きになれなかった。最初からそうだったわけではない。幼少期は自分の名前を私や僕のような一人称代わりに使ったりするが、私も例外なくそういった子どもだった。だがある日からこの名前を異様に嫌うようになったのだ。理由はおそらく名前そのものが、私の失くしたものだから。だからこそ、口に出すのが怖い。失くしたことに気が付いてしまうから。そのため自己紹介をすることは世界で一番嫌いだった。
ちなみに二番目に嫌いなものは夢を聞かれること。
自分の大切さにも気が付けない私が、他人のことを大切に出来るのだろうか。日々そんなことを考えながら患者さんと接してきた。だが、自分のことでもイッパイイッパイのはずの患者さんの言葉は素直で、私の最低な自己肯定感を少しだけ押し上げてくれたのだ。このことは、この仕事について唯一良かったと思える点かもしれない。
ある朝、目が覚めると前髪が寝ぐせでひん曲がっていた。よりにもよって寝坊した朝だ。準備で慌ただしい中水道で前髪を濡らしてみたが、強固に固まった硬い髪質に敵うことはなく、仕方なく横に流し髪留めでまとめて行った。
その日は気が気ではなかった。みんな自分を見て笑っているのではないかといつも以上に人目を気にした。怯えながら目を泳がしている私に、ナースステーションを通りかかった患者さんが声をかけてきた。
「アンタは綺麗な目をしとるから、顔を出しとった方がよう似合うね」
その言葉にお辞儀をしながら、ありもしない前髪を手で梳くようなしぐさをした。そうしたいところだけれど眉毛という強い敵がいるのですよ、と小声でぼやいていたその時、母の言葉がフラッシュバックした。化粧でどうにでもごまかせる。
そうだ、私はもう大人になったのだ。化粧は社会人にとってマストな行動。何をためらっていたのだろうか。それから眉を整え、いかにきれいな形を作れるかに奮闘した。おかげで提出すべきレポートを書いてくるのを忘れ、吊り上がった眼鏡主任に「今まで何をしていたんだ」と怒られたので「眉毛を書いていました」と心の中で返答しながらひたすら頭を下げ続けた。今では前髪をなくし後ろ髪と一緒に束ねているが、誰にも笑われることはない。目の上にかかっていたカーテンを解き放った瞬間だった。おでこを出してちょっと不愛想になった私が帰って来た。私は眉毛の沼から脱した。
お昼の勤務中、採血をしようと若い女性の患者さんの元へ訪れた。緊張した面持ちの患者さんだったので、失敗は出来ないぞと自分を奮い立たせ、血管を探るため何度も指先を腕に押しあてている時だった。
「小さくて貝殻みたいな可愛い爪ですね。私の爪は縦長で大きくて。全然可愛くないんですよ」
そう言われたので、当然のごとく患者さんの爪を確認した。女性らしい爪の形で、私の憧れる形だった。綺麗な形ですよというと、私は貴方の爪になりたいと言われた。誰しもが「可笑しなもの」だと笑うと思っていた。だが、こんな「可笑しな」爪に憧れてくれる人もいるのか。もしかすると「可笑しい」は「恥ずかしい」とは違うのかもしれない。それから自分の爪は貝殻なのだと思うと、手を眺めることが好きになった。私は爪の悪夢から脱した。
大人になって思春期の頃から随分と体脂肪が減ったように思う。あの頃は何をしても体重が落ちなかったのに、今はむしろやつれた顔が気になるので頬肉を欲している。未だ足の太さは変わらず、雑誌やテレビを見るとスレンダーな身体に憧れることは多々あるが、仕事ではズボンで体型がほとんど分からないので特段努力はしなくなった。社会人になって人から体型のことで罵られることはないに等しい。自論、大人はせっかちなので他人のことにあまり興味がない。せっかくこの仕事についたので、世の中の痩せすぎている女の子たちに声を大にして言いたい。思春期の頃は成長過程として平均体重が理想的。アナタらしいのが健康にも一番いいですよ、と。
勤務の交代時、化学療法を受ける予定の患者さんの入院を受け持った。部屋に入り顔を合わせるや否や「アンタ、ええ名前やね」と言われた。それに関しては、ほら出た。と思った。私は適当な笑顔を作りながら「ありがとうございます」と返事をした。がんの告知を受け、初めての治療に緊張している患者さんに対して、あんまりな対応だったように思う。
数週間後、入院での治療を終えて次回からは外来受診へと替わることが決定した。初対面時の会話が気がかりで本能的に避けてしまっていたのか、退院時に久しぶりに顔を合わせる形となった。部屋に入り退院の説明をしていると、その患者さんはまた同じことを言った。
「アンタ、ええ名前やね」
一度お聞きましたよ。
思わず口から零れ落ちそうになったが、以前適当にあしらってしまったことを悔やんではいたので、今度は丁寧に「ありがとうございます」とお辞儀をした。すると患者さんは私の手を取り何かを握らせると、両手で包み拝むように顔の前に掲げた。
「これ、綺麗だからアンタにあげる。また会えてよかった。この名前を見ると、私にも希望があるような気がしていたんよ。来てくれてありがとうね」
たったその一言だった。大嫌いな名前だったのに、その日から少しだけ、ほんの少しだけ、好きになったような気がした。その人は笑顔で退院していった。あの縮こまった丸い背中と、その人から貰った小さなガラス玉を、私は今でも忘れない。
でも自己紹介は、まだやっぱり苦手だ。
今日もまた、空は暗い。カノジョは残業を終えて、すっかり太陽の沈んだ街を一人歩いていた。お昼に休憩室でついていたテレビの天気予報によると、明日から大幅に天気が崩れるらしい。これからしばらくこの右手は、雨傘で塞がれることとなるだろう。そう考えていると額に冷たい水滴が降り注いだ。促されるまま天を仰ぐ。空からパラパラと降り注ぐそれは、カノジョの火照った顔の温度を少しだけ下げてくれた。夕飯も買う予定だった、丁度いい。
カノジョは帰り道の途中にあるコンビニへ入ると、店の隅に置いてあるビニール傘置き場に一直線に向かった。その後売れ残ったおにぎりを三個手に取りレジへと向かう。不愛想な店員とほとんど会話もせずに会計を済ませると、自動ドアにぶつかるか否かの勢いでコンビニを後にした。こうやって雨傘を購入するのは一体何度目だろう。家には同じ背丈のビニール傘が玄関に数本転がっている。
――傘は、あった方がいい。
だんだんと雨足は強くなり、でこぼこの田舎道にはあっという間に水たまりが出来上がった。それを避けるように大股、小股で細い歩道を進んだ。もうすぐ自分のアパートに着く。
雨傘で隠れていた視界を上げると目の前に人影があった。俯いてばかりだったので、寸前まで気が付かなかった。慌てて道の端へ避けると、すれ違い様に傘と傘がぶつかった。
カノジョの手から傘が転がり落ちる。大粒の水滴が見る見るうちに、カノジョの服に染みわたっていった。謝りもせずに行ってしまった人影を振り返りながら、傘を拾い上げようとしゃがみ込む。
そこで、カノジョの動きが止まった。肩から鞄がずり落ちて、水たまりに大きな波紋が広がる。カノジョは未だ彼から目を離せない。
――似ているのだ、彼に。
「あの」
考えるよりも先に口から言葉が零れた。だがそれは、行き交う車のエンジン音と、地面をたたきつける雨の音にいとも簡単にかき消された。横断歩道の手前で立ち止まった人影と、ビニール傘超しに目が合った。
違った。気が付けば、カノジョは髪から雫が落ちるほどに雨に打たれていた。傘と鞄を拾い上げる。傘はもはや、持っている意味すらないのかもしれない。傘に当たる雨音を聞きながら、カノジョは水たまりに足を突っ込みながら歩いた。
アパートに着くと傘を閉じた。重たい足取りのまま、部屋へと向かう。傘の先が階段に当たって、踏切のような一定の音を鳴らし続けた。
ようやく部屋の前に着く。鍵を取り出そうと鞄を探った。そこでやっと、鞄の中が雨で湿っていることに気が付いた。水たまりに落とした時だ。
カノジョは顔色を一変させると、傘をその場に放り投げた。大慌てで鞄の中を探る。冷えた指先は目的のものをうまくつかめない。しびれを切らしたのか、廊下の真ん中で鞄の中身を盛大にひっくり返した。中から携帯電話と家の鍵が転がり落ちる。
そして飛び出したのは、一冊の本だった。カノジョは急いでその本を拾い上げる。本の隅から雨が染みて、表紙は波打っていた。パラパラとページをめくろうとしたが、隣同士が引っ付いてうまくはがれない。素直にページが開いたかと思えば、そこから栞代わりの木の葉が滑り落ちていった。慌てて手を伸ばすが、木の葉は廊下を吹き抜ける風に踊らされるがまま、廊下の端へと飛んでいく。
カノジョは再び栞をはさむこともなく、ぱたんと本を閉じた。そしてのろのろと散らばった物を拾い上げ、ぽとん、と冷たい鞄の中へ一つずつ落としていった。震える指で鍵を開けると、暗い部屋へと体を滑り込ませる。
濡れた傘を、同じ仲間の元へと放り投げた。重たくなった鞄も、その上へと落とすように下ろした。体を拭くこともせず、カノジョは足跡を残しながら、リビングへと向かった。
床には今朝脱ぎ捨てた寝巻が脱皮された状態のまま放り出されている。カーペットの上にあるよれたTシャツを拾い上げると、真ん中に濡れた本を置いて丁寧に包み込んだ。
しばらくそのままじっと動かなかったが、おもむろに立ち上がるとキッチンへと足を運んだ。途中椅子の背もたれにかけられているマフラーを握ると、そのまま引きずるようにして歩く。長い茶色のマフラーを首に巻き付けると、湯沸かし器のスイッチを入れた。
ぐつぐつと煮立ったポットの先端から白い湯気が沸き上がる。立ち上る湯気と相反して、下へとまっすぐに落ちるものがあった。自分の足を濡らしているそれが雨なのか涙なのか、カノジョにはもうどうでも良かった。
「ねえ、どこにいるの。返事してよ」
「なんで来てくれないの」
「私が悪かったよ。謝るから」
「君に、会いたいよ」
カチン、と湯沸かし器のスイッチが切れた。それと同時に、カノジョは床に膝から崩れ落ちるように横たわる。床の冷たさが、直に頬へと伝わってきた。
「ねえ、聞こえてる? 返事、して」
「お願い」
「私もう限界でさ。生きてられない」
「嘘つき。ずっと一緒だって言ったくせに」
「あの時の約束はなかったことにするからさ。だからお願い。助けて。助けて聖夜くん。昔みたいに、傍にいてよ」
カノジョはそのまま目を閉じた。死ぬのは辞めた。
アナタがいないなら、死ぬことさえ意味がないのだから。 と。
「最悪。靴濡れた」
駅のホームで携帯画面を見ていると、そんな声が聞こえてきた。カノジョはうつむいていた顔を上げ、あたかも首のストレッチをしているように天井を見上げ、そのまま視線を右隣へと移動させた。
今日は雪の予報だったのだが、思ったよりも気温が下がらなかったがために、御覧の通り雨模様だ。布製のコンバースの靴はこういう時期に適していない。学校帰りであろう女子高生は、けだるそうに冷たい椅子に座っていた。
「まじだるい。最悪。寒いし。ほんときもい」
「それな」
隣に座っている同じ制服を着た女子高生は、片手で携帯を触りながら短いスカートで足を組んで、相槌程度の言葉を返した。会話が成り立っていないにも関わらずお互いさほど気にしてはいないようで、話題は今人気の男性アイドルグループの出演番組へと流れて行った。
ホームで甲高い笑い声をあげる彼女たちを見ているのは、おそらく分厚いコートに身を包むカノジョと、スーツを来た五十代半ばのサラリーマンだけだろう。ホームにいる誰もが我関せずの顔をして液晶画面と向き合っている。
今日は荷物が重たいなと思いながら、カノジョは分厚い教科書が入った手提げ鞄を今一度肩にかけ直した。地面は人々の行き交う足跡でいっぱいだ。おまけに泥にまみれたその地面に、とてもじゃないがお気に入りの鞄を置こうとは到底思えなかった。鞄の角が張り詰めるほどにぎゅうぎゅうに詰められたその中身は、将来への夢と希望がたくさん詰まっているはずだった。毎日大事に持って歩いているのは、この教科書が愛おしいからではない。家に帰って課されたレポートをまとめるためと、自分は今何者なのかを言い聞かせるために日々目に触れておく必要がある。そう自分を戒めておくためだ。
忘れないように。
だからカノジョは本を持つ。たとえそれが、己の望んだ本であろうとなかろうと。文字が綴られた紙の媒体が、彼女は幼い頃から好きだった。
電車がホームに入る頃、次第に雨は止んでいく。せっかく持ってきた傘は、帰る頃には手持ち無沙汰になるであろうが、きっと今日も彼は傘を差すのだろう。カノジョはそう思いながら電車の扉が開くのを待った。降りて来る人のため半身を構えると、反対側から女子高生たちは車内へと乗り込んだ。
見事席を陣取った彼女たちは、荷物を隣に置いて四人掛けの席を二人で満席にした。それを尻目に、カノジョは入り口付近の手すりを握りしめることに成功した。耳にイヤホンをあてがう。音量を上げ、周りの音を遮断した。
肩が重たい。腰に響く。ここならば少しいいかと、濡れていない地面に鞄を置いた。電車が目的地に着くまで約二〇分。カノジョは流れていく濡れた街並みを、ぼんやりと眺めていた。
大学生であるカノジョは、講義室に着くとその重たい鞄を机の上に置いた。本の重さで机が少しだけ揺れる。隣の席の人が訝し気な顔で振り返ったので、お辞儀程度に頭を少し下げておいた。鞄から必要なものを取り出し、机の上に丁寧に並べた。筆箱からお気に入りのシャープペンシルと消しゴム、ピンクのインクペンを取り出してセットする。今日書く予定のノートのページを開き、丁寧に下敷きをはさんだ。前回の続きはどこだろうかと教科書を開いて、閉じないようにその上に筆箱乗せた。準備を終えたところで、カノジョは鞄からもう一冊本を取りだす。古びた文庫本だ。
暇つぶしに携帯ゲームをしている人で溢れる日常に、こうして文庫本を手に取る自分は正直あまり好きではない。興味もないくせに何を読んでいるのかと覗き込まれるのも、本の虫だから話しかけないでおこうと距離を置かれるのも、特にそうされた記憶はないが、そんな風に自分を悲観してしまうので好ましくはなかった。けれど、どうしてもこの本だけは手放せなかった。と言っても、わざわざ購入したものではない。常に読んでいる訳でもない。ただ人目が気になった時にこの空間と己を遮断するものとして、この本が手ごろで丁度良かった。本を読んでいるから見られている気がするくせに、文字を追いかけていくうちにそのことさえ分からなくなる。本の世界に溶け込むまでの時間を耐えきれば、こっちのものだ。たとえこの姿を何と言われようが、この耳には何も届かなくなる。
高校の授業で配られたこの本は、一度家を出る時に捨てられかけた。自分で縛った本の中から、いざゴミ捨て場に持って行こうと立ち上がった時、やはりこの物語が忘れられないとこの本だけを抜き取ったのだ。
適当に引き抜いたもんだから、その後積まれた本が雪崩を起こしていたが、それらをどうやって処分したのかは覚えていない。ただ今まだこの本だけがこうしてこの手に残っていることが重要な現実だった。正直授業で無理やり読まされた一冊だ。いまだにこうやって大切に持ち歩いている人間の方が非常に少ないだろう。決して薄い内容ではないし、最近の言葉でもないので多少頭を使わねばならない。だけどなぜだろう。本の大半を遺書で埋められたこの本を、なぜか大事にしてしまう。その一冊に、一人の人間の人生を詰め込んだような重みを、カノジョはどこかに感じていた。
カノジョには好きなものが沢山あった。幼い頃から文字を書くのが好きだった。作文は得意中の得意で、書くのは早かったがその作品を教師から誉められたことは一度もなかった。
はたまた年頃になれば、オシャレもこだわりを持って励んだ。色違いで買った同じ形の靴を履いて出かけることが好きだったが、母からマヌケだから止めろと言われた。それでもあきらめず続けていたが、「人から笑われないのか、恥ずかしい」ととどめの一言を突き付けられたので、ついにお気に入りの靴を脱ぎ捨てることに決めた。ほとんど原色のカラフルな服で身を固めていたカノジョは、気が付くと町でよく見るマネキンの風貌になっていた。
カノジョには将来の夢も沢山あった。読書や物語を想像することが好きだったので文学の道に興味を持った。だがそんな金にもならない仕事なんてするもんじゃないと、幼い頃から口酸っぱく言われ続け育ったので、とてもじゃないがそんなことは望めなかった。次第に文字をかく頻度は減っていった。
小学校の頃に始めたバスケットボールに熱中していた時は、将来プロバスケットボールプレーヤーになるんだと意気込んだ。そんなものは生まれ持った才能を持つ一握りの人間にしかなれないのだから、お前には無理だと言われた。バスケットは中学校卒業と同時にやめた。他にはドラマを見て警察官に憧れクラスの社会見学を希望するほど熱望したり、絵本やおもちゃ屋さんが好きで保育園に職場体験に出向いたりもした。だがそれらも、女には不向きな世界だ、子どもが好きでもないくせに、と難癖を付けられ望むことさえ諦めた。
あの頃は、何にでもなれる気がした。だがどうだろう、気が付けば今はこうして親の引いたレールの上を見事に歩かされている状態だ。内心やりたくないのになと思いながらも、断り切れなかったのは自分なので自分が決めた道なのだと言い聞かせた。だから毎日重たい本を持ち歩く。気を抜けば、きっと自分のすべきことを見失う。いかに自分を殺すかを日々考え続けた大学生活。おかげで一般的に影の薄いと思われるであろう自分の存在を演じることで、自分を保っていられる。そんな気がした。
講義室に講師が入って来た。慌ただしかった学生はそれぞれ席に着き、慌てて本を机に放りだしている。カノジョは読んでいた文庫本を閉じると、それを鞄の奥にしまい込んだ。
頭が痛い。低気圧のせいだ。そうに決まっている。こういう日、決まってカノジョは彼を呼ぶ。
「どうしたの、急に呼び出して」
講義もあと一枠で終わりだ。だが残りの九〇分間を、どうもやりきれる気がしなかった。最後の講義の前に、カノジョは廊下の隅に彼を呼び出していた。
「うん、ちょっと」
カノジョは頭痛薬を飲みながら、とりあえずの返事をした。頭の半分がズキズキと痛む。片目を抑えながら、カノジョは彼に告げた。
「次の時間、代わりに授業出て貰ってもいいかな。帰りも少し付き合って。駅のホームまででいいからさ」
すると彼は丸い目を細め、にっこりと微笑む。
「もちろん、いいよ。君の代わりをすればいいんだよね」
彼はそう言うと、カノジョのコートを身にまとい、カノジョの荷物が残されたままになっている教室へと足取り軽く戻って行った。
彼は本を読まない人だった。講義と講義の合間でさえ文庫本を片手に歩いているカノジョとは違い、教室の中を見渡したり、後ろから聞こえてくる会話を片耳に捉えたりしながら、明日は傘がいるのかな、と考えることが多かった。カノジョのお気に入りの文庫本は鞄の奥深くにしまわれたまま、決して開かれることはなかった。そんな彼がここにいても、それを気にする者は誰一人としていないのだ。
彼と出会ったのはカノジョが高校生の頃だった。この頃カノジョは突然原因不明の蕁麻疹に襲われていた。病院にかかるもストレス性だと言われて解決策はなく、ただ出ては冷やし、出ては薬を塗り、痒みに耐えながら対症療法を繰り返すだけだった。
そんなある日、いつものように真っ赤に腫れた腕を水道で冷やすため廊下に出た。蛇口をひねり、水を出す。腕を冷やしながら流れ落ちる水を眺めていた。
「水って透明なのに、どうして水色という色があるのだろう」
そんな疑問をぽつりと呟くと、誰もいないはずの傍らから返答があった。
「海の水は透明なのに、どうして青くみえるのだろう」
ふと隣を見ると、そこには学生服に身を包んだ一人の男子学生が立っていた。男性にしては小柄であり華奢で、色白を通り越して青白くも感じる皮膚が印象的だった。長い前髪を左右に分けて、大きな瞳が自分を見つめていた。不思議とその瞳は、ビー玉のようにコロコロと様々に色を変化させ、輝いているように見えた。彼を一目見た時、素直に言葉が浮かんだ。
空みたいな人だな。そう思った。
「海は空が反射しているから青く見えるんだって」
「じゃあその水もそうかな」
「どういうこと?」
「空が反射しているから水色に見えるんじゃないのかな」
蛇口から零れ腕を伝い落ちていく水は、排水溝へと流れていく。そのかすかな水面に窓から見える空を映し出し、渦を巻いて消えていく。
「そっか」
カノジョはそれだけ返事をすると、ただ腕を冷やし続けていた。
「赤いね」
今度はそう言われた。カノジョがあたりを見渡していると、彼はカノジョの腕を指さす。
「痛いの?」
「ううん、痒いの」
カノジョは答えた。
「辛い?」
「うん。痒い時はね」
「そっか。そうだ。いいことがあるよ」
「なに」
「僕がね、君の代わりになってあげる」
「え?」
「辛い時は呼んで。代わってあげるよ」
その言葉に、カノジョはふふっと笑った。
「ありがとう。でも無理だよ。これは私の体に出たものだから、君の体には移せないよ」
「どうかな。やってみようよ」
彼は学生服の長袖を引き上げて、カノジョへ腕を差し出してきた。カノジョはしばらく彼の青白い腕を見つめていたが、すぐに首を横に振る。
「いいよ。君の腕は白いから、きっと私よりも真っ赤になるんじゃあないかな」
そう言うと彼は、大人しくその腕を引っ込めた。カノジョは水道の水を止めると、タオルで腕を優しく拭いた。気が付くと次の授業のチャイムが鳴っている。
「大変。もう行かないと」
「そっか」
「君も遅れちゃうよ」
「うん」
「心配してくれてありがとう。じゃあね」
「またね」
カノジョは彼を振り返ることなく、急いで自分の教室へと走り去っていった。
その後の授業中に、そういえば夏なのに学ランなんて着て暑くないのかな、と片手でペンを回しながら考えていた。どこのクラスのなんて言う人だろう。一人だけあんな格好をしているのだ、すれ違えばきっとすぐに気が付くだろう。
そう思っていたのだが、結局彼と自然に出会うことは一度もなかった。あの水道の前を通るたびに彼のことを思い出す。もう一度彼に会えるだろうか。蕁麻疹はあれから自然と緩和され、いつの間にか出なくなっていた。
何事もなく講義は終了し、彼は重たい鞄を肩にかけて教室を出た。その足取りは軽い。階段は苦手なのでエレベーターを使って出口へと向かった。
建物から出ると、外はすっかり晴れている。大学の門まで続くオシャレなタイル張りの道は雨に濡れ夕日が反射し、まるで世界を輝かせているようだった。彼は道端に出来た水たまりを踏みしめ、その水面上に波紋を広げることを楽しんだ。その手には、開かれたままの傘を持って。対してカノジョは水たまりを怪訝そうな顔をしてよけながら、つま先立ちで注意深く歩くのが常だった。
「雨、跳ねちゃうからやめてよ」
「いいじゃん。洗えばいいよ、この靴も」
「そうだね」
彼はカノジョの返事を聞くと、再び大きな水たまりに片足を突っ込んだ。
「雨、止んじゃった」
「その方がいいよ」
「虹出てたかな」
「出てたかもね」
「明日も降るかな」
「降らないって」
「そっか。残念だね」
彼は駅に着くまで、その傘をいつまでもさしていた。すれ違う誰しもが不思議そうに振り返っても、その傘が閉じられることは決してなかった。まるで雨を恋しんで、空に掲げられているようにさえ見えた。
しばらくすると、駅が見えた。駅が近づくと、カノジョはその足を止める。彼もまた立ち止まった。
「行きたくない?」
「うん、もう少し」
「じゃあ、電車が来るまでにしよう」
「分かった」
彼の言葉に頷いて、カノジョは再び足を進めた。彼はそこでやっと傘を閉じる。
ホームには同じ方向に帰る学生で溢れている。カノジョはその中の隅に、冷たい風を受けながら一人立っていた。彼はお気に入りの傘をくるくる回している。
「明日はきっと今日より暖かいよ」
「そうかもね」
「寒そうだね」
「うん、寒い」
「冬は嫌い?」
「うん、嫌い」
「そっか。僕も冬は嫌いだよ」
彼はそう言うと、またにっこりと笑った。線路の行く先を照らすように赤い光が差し込んだ。彼は空を見上げて目を細める。
「見て、夕日」
「本当だ」
「真っ赤だね」
「赤くないよ」
「僕には赤く見えるけどな」
夕日を眺めていると、電車が来るアナウンスがホームに流れた。彼はカノジョに重たい荷物を渡した。ずしっと右肩に重りを付けられたようだ。けれど少しだけ、それが心地よかった。
「後は大丈夫?」
「うん、もう大丈夫」
「そう。じゃあまた、何かあったら。いつでも僕を呼ぶんだよ」
「うん。ありがとう」
「またね」
「うん、また」
彼はそう言うと颯爽と姿を消した。カノジョはそれを見送りながら、この地に立っている重みを味わっていた。もう一度鞄を背負い直す。冷たいホームの空気を胸いっぱいに吸いこんで、ゆっくりと吐き出した。そして夕日を今一度見上げた。
「やっぱり、赤くないよ」
それだけ呟くと、カノジョは電車に乗り込んだ。彼の姿は、もうどこにもなかった。
カノジョは家に帰ると、湯沸かし器のスイッチを入れた。水が沸き上がるまで時間がある。その間に、カノジョは鞄を整理することに決めた。
丁寧に並べられた本の入った鞄を開くと、底をもちあげて一気に床へとぶちまけた。雑多に散らばる教科書たち。お気に入りの筆箱がローテーブルの角にぶつかってはじけ飛んだので、それだけは拾ってテーブルの上に置き直した。
教科書の上にぽとん、と落ちてきた一冊の文庫本を拾い上げる。
――今日はどこまで読んだっけ。
栞代わりの小さな葉っぱが挟まっているページを開く。キッチンの方へ向かい、小さなスツールに腰かけた。文字を追う。そうだ、そうだ。海に行く話。
そこでカチン、と湯沸かし器の電源が落ちる音がした。湯の沸いた合図だ。だがカノジョは立ち上がらなかった。そのまま十数ページ呼んだところで、ハッと我に返った。またやってしまった。そして再び、湯沸かし器のスイッチを入れ直した。ポットに入ったぬるま湯が、再びぐつぐつと揺れ始める。そこでやっとカノジョはカップを取り出し、ティースプーンにインスタントのコーヒー顆粒を一杯注いだ。
明日は晴れだ。天気がいい。気分も上がる。そう単純ではない。寒いのは嫌いだ。日が出ていても、寒いものは寒い。カノジョはいつもと同じコートを身にまとうと、顔半分が埋まるほどにマフラーを巻いた。飲みかけのコーヒーを流しに捨てて、勢いよく水で流した。薄茶色の液体が水に混じりながら流されて、次第に姿を消す。今日、傘はいらない。カノジョは部屋を出て、冷たい金属片を差し込むと手首を返した。
風が冷たい。こんなに風が吹いているだなんて、外に出なければ気が付かなかったかもしれない。ホームもきっと寒いことだろう。カノジョはいつもの駅へと足早に向かった。
目的地へ近づくにつれ、聞き覚えのある声が聞こえてくる。こんな朝から高笑いをする二人組なんて答えは既に決まっている。昨日お気に入りのコンバースが雨でお釈迦になってしまったため、今日は踵の潰れたローファーのつま先をこつこつと鳴らしながら、彼女たちはホームの真ん中に立っていた。いつも御用達の冷たいベンチには、盲導犬を連れたオジサンが座っていた。動物好きのカノジョはその犬を見て可愛いな、とだけ思ってすぐに距離をあけた。仕事中の犬に触れることなど言語道断だ。近くでじろじろ見られるのもさぞ嫌なことだろう。犬が見えるぎりぎりのところまで離れると、携帯画面を見るふりをしながら、ちらちら犬の様子を伺った。
電車が来た。人が下りて来る波が去るのを待ち、前に立つサラリーマンが乗り込んだ後に犬も続いた。おりこうさんで偉い、偉い。カノジョは先頭側の扉からその光景を確認しながら、電車に乗り込んだ。珍しくまだ席が空いている。カノジョは入り口付近の二人掛けの席にさっと体を滑り込ませた。あれよあれよという間に席はどんどんと埋まっていく。盲導犬を連れたオジサンは犬に導かれるがまま、席の間をすり抜けてこちらへと向かって来ていた。カノジョはあえて荷物を隣に置いた。
ここまで来たら声をかけよう。そしてこの席を譲り渡すのだ。隣に座ってくれたりして。そしたら近くでおりこうさんのワンちゃんと、触れ合えることが出来るかな。
そんなことを考えつつ彼らが来るのを待った。犬が少しずつ近づいてくるにつれて胸が高鳴る。
今だ! ここ、どうぞ。カノジョの口から言葉は出ない。
「あ、ここどうぞ」
その声は、すぐ後方の座席から聞こえてきた。振り返ると、鞄に席を与えていた女子高生が立ち上がっていた。そして向かい側に二人肩を寄せ合うように座って、軽そうな荷物を膝の上に置いている。オジサンは会釈をすると、犬を近くに座らせて席へと腰かけた。カノジョが呆然とその様子を見ていると、隣にサラリーマンが立っていて、隣良いですか。と声をかけられた。カノジョは慌てて重たい荷物を膝の上に置いて、座り直した。後方からいつもの聞きなれた声が響いてくる。
「触って良いですか」
「どうぞ」
「可愛いー」
「えらーい」
カノジョはぎゅっと重たい荷物を抱え込んだ。
「どこまで行くんですか」
「四つ先まで」
「え、一緒じゃん」
「あそこホームと電車の隙間危なくない?」
「そうですね、いつも少し気を使います」
「一緒に降りようよ」
彼女たちの明るい声が電車内に響き渡る。カノジョはいつもならすぐに音楽を聴こうとイヤホンを耳にあてがっていたが、その日はじっと身動きもせず、ただ彼女らの会話に聞き耳を立てていた。
目的の駅に着いた。サラリーマンに謝罪をしながら細い通路をなんとか這い出ると、速足に扉へと向かう。目の前では盲導犬と女子高生に導かれながら、オジサンが電車とホームの数センチ開いた溝をひょいと飛び越えていた。
カノジョもその後に続いて溝をまたぐ。たったの数センチ。その隙間から見えた地面はただの砂利と鉄骨だったのだが、今のカノジョには不思議とそれが、東尋坊が突き落とされた波がうねる絶壁のように荒れ狂ってみえた。
気が付くと、犬も女子高生も、既にホームから姿を消していた。冷たい風が前髪を揺らした。カノジョはマフラーを顔の中心まで引き上げると、前髪を片手で押さえながら階段を駆け降りて行った。
大学の講義は問題なく終わり、気が付けばまた同じホームで電車を待っていた。もうあの盲導犬を連れたオジサンはいない。今朝のことを思い出すと、なぜだか気分が落ち込んだ。自分にないものを目の前でまじまじと見せつけられたかのようで、カノジョは一人みじめな気分になっていた。
カノジョは困っている人を見かけると、助けてあげたいと思う性分だ。道に迷っている人が声をかけてきた際には、目的地まで一緒に歩いて行ったことがある。おかげでいつもの電車に乗り損ねたが、誰かに喜んでもらえたという優越感が勝って気分が良かった。さらにいつもと違う時間の電車からの景色は、太陽で照らされ美しかったと記憶している。
ならば積極的に人助けをすべきなのであろうが、一つ問題点がある。カノジョは自分から人に話しかけるのが苦手だ。自分の発する言葉をその意のまま相手に届けることは、実に難しいことだと感じていた。面白半分で言った言葉も受け取る側からすれば、とてつもない暴言を吐かれたと思うかもしれない。そのせいで心に傷を負い、一生その傷と歩んでいかなければならなくなったとしたならば。自分の思ってもいない言葉の意を捉えられ、相手の心が苦しみでいっぱいになることを考えると耐えられなかった。
目の前に大荷物を抱えたお婆さんが歩いていたとして、カノジョはそれでもすぐに手を貸すことは出来ない。まず何と声をかけようか、から思考が始まり止まらなくなる。
近くまで行って肩をたたこうか。急に触るのは失礼だろうか。なんと言えばいいのだろうか。手伝いましょうか? どちらまで? 一緒に隣を歩く時にはどんな話を? 要らないと断られたら、どうしよう。
あれこれ考えるうちに、お婆さんは他の人に助けられるか、そのまま歩いて行ってしまうだろう。
そんな経験を、何十回もしてきた。先に見つけたのは自分なのに。助けようと思ったのは自分なのに。しなかったのも、自分なのに。
こんな自分が、情けなくて嫌いだった。
翌日。今日もまた、鞄だけでなく足も重たい。すれ違う人が皆幸せそうに見えて、自分だけ色のない世界に取り残されたような気分だった。駅を出て街路樹沿いを歩いていると、ふと目に留まったものがある。木の葉も散り枝だけになった細い木に巻かれた、小さな色とりどりのLEDライト。まだ灯りはついていないが、それを見た時少しだけ、カノジョの世界に光が灯されたような気がした。ああ、もうそんな時期だったのか、とゆっくり周囲を見渡す。来月から始まるクリスマスシーズンに、どの店も準備に大忙し。通り過ぎる小学生が「今年のプレゼントはゲームソフトにするんだ」と声を上擦らせて話しているのが聞こえた。自分の欲望に真っ直ぐで、夢に彩られる世界に酔っている。皆幸せそうな顔に見えたのは、こういうことだったのか、とやけに納得した。
注意深く観察していると、カノジョと同じような世界に取り残されている人もいた。年末に向けて追い込みをかけ、街中のベンチで気絶したように眠っている営業マンだ。夢の中では、どのような生活を送っているのだろうか。夢から覚めても、どうかそこが夢のような現実であって欲しい。カノジョは雲間から差し込む太陽を見上げ、小さく呟いた。
「あの人にもサンタクロースが訪れますように。私にも」
カノジョは重たい鞄を背負い直すと、再び足を進めた。
寒いのが苦手だったので、冬が訪れると早く終わってくれないかと穴が開くほどカレンダーを眺めるのが日課だった。だが、唯一このイベントの間だけは冬を楽しむことが出来た。町で流れている鈴の音が混じるバックミュージックを聞くと、重たい足取りも自然と浮足立っていた。おもちゃ屋さんから出ていく親子や、呼び込みのサンタクロース。どこの店もキラキラ輝いて、クリスマスセールでてんてこ舞い。街中はイルミネーションで彩られ、眠らない夜が来たと感じざるを得ない。
街がすっかりクリスマス色に彩られた頃、カノジョは初めて帰りの電車を一本遅らせた。そして、意味もなく街を歩いてみた。駅から少し離れた場所にある雑貨屋さんの前には、白い小さなクリスマスツリーが飾られていた。その木には色とりどりのティンカーベルが飛び交っており、カノジョはツリーの前にしゃがみ込むと「こんにちは、妖精さん」と声をかけた。カノジョの後ろではスーツを来た男性が駆け抜けて行ったが、その声は届いていない様子だった。他に目当てもないので、その店で暇をつぶして帰ることにした。
木製の小柄なアーチ状の扉を開く。ちりん、と小さなベルが鳴った。レジの奥から穏やかそうな女性が一人、小さく頭を下げてくれた。手には本が握られていて、椅子に座り読書をしているようだった。カノジョ以外に客はおらず、ゆったりとした足取りで店内を周る。そこで気が付いたことがあるのだが、店内には猫の置物が多い気がした。黒と白とハチワレ猫。そのコントラストにどこか既視感があった。
少し奥に進むと、何かがきらりと反射したように感じて、自然とそちらに目を向ける。そこにはハチワレ猫のぬいぐるみがあって、その眼には青いビー玉がはめられていた。思わずその猫に手を伸ばす。
「あの人みたい」
その猫に値札はついていなかった。どこかに書いてあるのかと思って探ってみたが、やはり何も表記はされていなかった。売り物ではないのだろうか。カノジョはちらっと店員の方を振り返る。相変わらず店員は、まだ本に視線を落としたまま動こうとはしなかった。
――聞いてみようか。
カノジョはその猫を握りしめたまま、一〇分は動かなかったであろう。その間も、カノジョの脳内はフル稼働していた。
何て言えばいい? いくらですか? これは売り物ですか? 売り物じゃなかったら、どんな顔をするのが正解? 笑う? それとも悲しむ? 売り物だったとして、とっても高いものだったら? 今は持ち合わせも少ないのに、なんて断ったらいいの? また今度にしますって言って、次の時なかったら? 店員さんはきっと私を憐れむような目でみることだろう。そうだ、今度はちゃんとお金を持ってクリスマスの日に来よう。きっとその日はいつもより強い自分でいられるはず。次こそは、ちゃんと声をかけて確認できるから。
散々理由づけて、その日はその猫とはさよならをすることに決め、彼を出会った場所へと戻した。結局何も買わずに店を出たが何の気なしに振り返ると、店員が扉の向こうで深くお辞儀をしているのが見えた。読書ばかりしていたが、丁寧な対応をしてくれそうな好感の持てる女性だなと感じた。何も買わなくて申し訳なかったかな、と罪悪感に苛まれたが「また来るから」と自分に言い聞かせて駅へと向かった。
それから数日後。大学も冬休みに突入した。だがカノジョはその日珍しく、学校以外の目的で家を出た。いつもとは少し違う桃色のコートを身にまとい、少し多めのお札が入った財布を握りしめ電車に揺られた。今日はいつも自分をこの地に押し付ける重たい鞄もない。それだけで身も心も軽くなったような気がしていた。
いつもと違う時間、いつもと違う電車。毎朝出くわしていたあの女子高生も、サラリーマンもいない。人がまばらの電車に、カノジョは久しぶりにゆったりとした気持ちで席へと腰かけた。空には薄暗い雲が、生き急ぐように流れていく。
電車から降りると、いよいよ胸が高鳴り始めた。
あの猫はまだいるだろうか。いなくなっていたりして。だったら店員さんに話しかけなくても良くなる? ううん、連れて帰れないのは悲しいから。今日こそはちゃんと話しかけて聞いてみるって決めてきたんだ。もし売り物じゃなかったら、残念と笑って店を出よう。そこまで気にしてませんっていうような顔をして。
呪文のように唱えながら、本当は走り出したいところを、あえてゆっくりエスカレーターを使って降りていった。
そして輝く街並みを、ブーツの踵をかつかつ鳴らしながら歩いた。もう数日すれば、この世界が嘘だったかのように何もかもが片付けられて、今度は年明けの準備だ。楽しいものは一瞬で、目が覚めると何事もなかったかのように振舞われる。そうか。これがいわゆる夢というものなのか。ならば夢など見ない方がいい。夢の終わりは、あっけなく寂しい。
「いつまでもこの時間が続けばいいのにな」
目的地に着いた。この前と同じように、妖精がカノジョを出迎えた。
「お久しぶり、妖精さん」
カノジョは目的地の扉をゆっくりと開く。数日前来た時とはうって代わって、その日は数人先客がいた。行くべき場所は決まっているのに、なぜか遠回りをしてしまう。買うつもりのないものを物色しながら、ゆっくりとあの場所へと向かった。そこにはあの猫が――、いない。
カノジョは慌ててその場に駆け寄ると、猫がいたはずの場所を注意深く覗き込んだ。どこかに隠れてはいないか。場所が変わったのかもしれない。そんなわずかな希望を抱いて店内を何度も周ったが、もうあの猫に会うことは出来なかった。
愚かだった。あの時、勇気を出して声をかけていれば。
今年は最悪のクリスマスだ。何が夢だ。夢ならもっと素敵なものであって欲しい。カノジョはガクッと肩を落とす。もうこのまますぐに帰ろうかと思ったが、先日も結局何も購入せず店を後にしたので、今日は何かしら買って帰ろうともう一度店内を歩いた。気が付くと、来た時にいた先客はすでにいなくなって、カノジョが一人店内に残されていた。
代わりの猫にしようか。ハチワレ猫のレターセット。けれどこれを見るたびに、このクリスマスを思い出すのだろうな。カノジョはレターセットの隣にある無地の便箋を手に取ると、レジへと向かった。
そこにはあの日と同じ店員が本を片手に座っていた。カノジョが商品をレジへと置くと、店員は本にしおりを挟んで立ち上がる。
「いらっしゃいませ。ご自宅用でしょうか」
「はい」
店員は便箋を持ち上げる代わりに、片手に持っていた本をその場に置いた。ちらっと視線をやると、そこにはカノジョが普段持ち歩いている本と、全く同じ表紙が見て取れた。
「あ」
思わず声が漏れてしまい、慌てて口を噤む。店員にも聞こえていたであろうが、声を出したのは自分ではないような顔をして、財布を漁るふりをした。店員は丁寧に紙袋の中に商品を入れると持ち手をカノジョの方へと差し出す。その紙袋を受け取りながら、カノジョは震える声を絞り出した。
「あの」
「あの」
店員と声が重なった。すると店員が慌てた様子で「お先にどうぞ」と掌で示し発言権をカノジョへと譲った。カノジョは一度息をか細く吐くと、二度目の震える声を店内に響かせた。
「この前来た時、猫のぬいぐるみを見つけて。あれってもう、ないんでしょうか」
店員は分かりやすく、眉毛をハの字に曲げた。
「ごめんなさいね。あのぬいぐるみなんですが、お客様にお売りできる状態ではなかったので……」
「そうですか。すみません」
カノジョは店員の言葉を遮るように言い放つと、紙袋を急いで引き寄せ逃げるように店を出た。まだ店員の声が聞こえていたが扉を開けたベルの音でかき消され、カノジョに届くことはなかった。
……やっぱり、聞くんじゃなかった。勇気を出して声なんか、かけなきゃよかった。
虹色に輝く道を、涙をこらえながら歩いた。たったその一言。店員は何も悪くないし、可笑しな言葉も言った訳ではいない。けれど、「ごめんなさい」が自分の考え全てを否定されたような気になって、心が冷たい氷で固められたような戦慄が体中を駆け巡った。外は白い雪が舞っていた。だからと言ってロマンチックもくそもない。早く帰ろう。カノジョはマフラーを引き上げると、駆け足で駅へと急いだ。
駅のホームに着くと、ポケットから携帯電話を取り出しすぐにメール画面を開いた。あて先を入れる間もなく、ひたすら文章を綴る。
『聞いて」
カノジョは彼に向けて文字を打った。
『猫ちゃんのぬいぐるみ買いに行ったの。でももう、なくなってた。今日は素敵な一日になる予定だったのに。最悪。もうクリスマスなんて大嫌い』
彼からの返事はすぐに来た。
『そっか。残念だったね。他には何か、買ったのかい?』
『うん。便箋を一つ』
『いいね。今度それで、手紙を書いてよ』
『誰に?』
『僕に』
『いつでも会えるのに?』
『いつでも会えるから書いてほしいんだよ』
『分ったよ。じゃあまた今度』
そんな会話をしていると、電車が来た。カノジョは携帯を閉じるとポケットに戻さず、便箋の入っている紙袋へと放り込んだ。
帰りの電車は長かった。またしても通り行く人々が皆幸せそうに見えて、全員恨めしく思ってしまった。電車が着くと我先に飛び出し、止まることなく家まで無我夢中で走った。どこを歩いても皆がイルミネーションのように輝いているように見えて、自分だけまた色のない世界を一人もがいているようで。早く一人になりたかった。
家に戻ると、中身も確認しないまま紙袋を机の上に放り投げてソファへと飛び込んだ。しばらくそのままでいたが、涙が鼻筋を伝ったところで我に返った。気が付けばどんどんとあふれ出してきて、膝を抱えてうずくまる。涙か鼻水か分からない透明な液体が、お気に入りのスカートを汚した。
「毎日頑張っても、何にも良いことなんてないよ」
頑張ったら頑張った分だけ、自然と良いことが訪れる。幼い頃に母から口癖のように聞かされたようなお伽噺のような言葉を、カノジョはこの日を最後に信じるのを辞めた。
自分に出来る精一杯で、毎日を生きているというのに。
それから三日間、結局外にも出ていないし紙袋すら開けていない。さすがに年の瀬、誰かから連絡が来ていてはまずいと、携帯を取り出すついでに紙袋の中身をぶちまけた。便箋はするりと手からすり抜け、冷たい床へと転がった。カノジョはそれを拾うでもなく、携帯を手に取ると充電器の元へと向かった。
しばらくして携帯の灯りがつく。重たいカーテンを引かれた部屋に一筋の光。すぐに電話の履歴やメールの受信箱を確認したが、届いているのは通販サイトからのお知らせメールだけだった。三日、音信不通になったところで誰も困りはしないのだ。自分を蔑みながら戻るボタンを押すと、未送信になったままのメールが残っていることに気が付いた。画面を開く。彼とのメールだ。
「そう言えば、手紙書いてって言ってたな」
そこでやっと床に落ちた便箋を拾い上げ、鞄から放り出されたままになっている筆箱を教科書の山の中から探り出した。椅子に座りなおし、今一度買った便箋を見る。そこには丁寧にクリスマスのシールが貼られており、手書きのメッセージカードまで添えられていた。そのカードの端にはあの時出会えなかった猫のイラストが描いてあって、待ってます。と吹き出しで語りかけて来ていた。
「待ってなかったじゃん。嘘つき」
そう言いながら、筆箱からボールペンを取り出して便箋と向き合う。そして書いた言葉。
「代わりにあの猫ちゃんを探しに行ってくれませんか。君によく似た猫です」
それだけ書いてペンを置いた。
年が明けた。実家に帰省するでもなく、カノジョは一人狭いワンルームで新年を迎えた。テレビでは芸能人が今年の抱負を掲げている。
――夢があっていいですね。
カノジョは悪態をつきながら湯気の立つコーヒーを啜った。
暗闇の中テレビの明かりだけが、毛布に包まったカノジョの顔を照らしていた。明日からまた大学が始まる。同じ電車に乗って、同じホームに立って、同じ景色を眺め、同じ顔をする。
「行きたくないな」
そう呟いて飲みかけのコーヒーカップを床へと置いた。
「いらっしゃいませ」
店にある人が訪れた。その日雑貨屋の店員は読書をしておらず、レジの前に立っていた。彼は真っ直ぐレジへと向かうと、一枚のカードを差し出す。
「すみません。このカードに書いてある猫なんですが」
そう言うと店員は小さくお辞儀をして店の奥へと戻って行った。しばらくすると、可愛いレースのリボンが付いた袋に入って、猫のぬいぐるみが現れた。
「すみません、遅くなってしまって。ちゃんと説明すべきだったのに追いかけもせず。でも、また来てくださって本当に良かったです」
店員は深く安堵のため息を漏らした。
「実はあの猫を見ていたの、知っていたんです。何十分もあの前で立っていらしたから。お客様が帰られてから確認したら値札が貼られていないことに気がついて、失礼なことをしてしまったなと思って。しばらく置いたままで随分と埃もかぶっていましたし、よく見たら尻尾の糸が緩んでいて。そんな状態のものをお客様にお渡しするのは申し訳ないと思いまして」
袋に入った猫は、輝く瞳で待ち人を迎えた。
「少し、お直しさせていただきました。お支払いは結構です」
彼はそれを受け取ると、深くお辞儀する。
「本当に、ありがとうございます。この子がいなくなった時、この世の終わりかってくらい落ち込んでいて。大好きなクリスマスが大嫌いになるところでした」
そう言うと店員は苦笑いで「本当にごめんなさい」と同じように頭を下げた。
彼はその猫を大切に鞄の中に入れた。ふといつも店員が腰かけている椅子に残された、一冊の本に目を留まる。
「あの本」
「え? ああ、すみません。つい読み老けてしまうのが悪い癖でして」
「いえ。実は、それと全く同じ表紙の本を持っていまして。私もその本が好きでよく持ち歩いているんです」
「あら本当ですか。こんなところでお仲間に出会えるなんて」
「って言っても、私はそんな沢山本を読んでいるわけではないんですけど」
「私もです。最初は有名な本だし、タイトルが気になって読み始めたんですけど、気が付いたらずっと持って歩いていて」
「一緒ですね」
二人はレジを挟んで笑いあった。
「ずっと毎日同じことをしていると、好きだったはずの仕事もなんだか退屈になってきて。でも、あの本を読んでいると思うんです。ちゃんと心を持って生きないとなって」
「そうですね」
「ごめんなさい、長話を」
「こちらこそ。素敵なお話をどうもありがとうございました」
「ぜひまたいらしてくださいね」
「ええ、近いうちに」
彼は軽く手を振ると、木の扉を押して外へと出て行った。そして振り返ることなく駅へと歩きながら、日の指している空を見上げ目を細めた。
「ほら、自分で来るべきだっただろ」
鞄の中の猫は歩く弾みで揺さぶられ、踊っているように見えた。
高校時代のカノジョは今とは正反対の性格で、友達も多かったと自負している。体育祭や球技大会では自分を中心としてチームを作り、大いに盛り上げ役へと回った。登校時間はいつもぎりぎりで学生指導の教員には顔を覚えられ、毎朝怒声を背中に受けながら校門を駆け抜けていた。休憩中には女友達と群れて、大きな声ではしゃぎまわった。フットワークも軽く、気が向くままに休日は遊びに出た。
けれどもどこかで満たされない自分がいた。なぜならそれは、『作られた自分』だからだ。自分のなりたい姿を模倣して演じているだけ。偽りの仮面を付けたピエロ同然。本当の自分は何者であるのかを模索している毎日だった。その作業は実に重労働で家に帰り自分の部屋へ入ると、とてつもない疲労感に襲われ気絶するように眠りについていた。
一人、カノジョのクラスに少し風変わりな眼鏡の女の子がいた。おかっぱで黒髪の、見るからに大人しそうな風貌をしていた。
ある日風の噂で、彼女は霊感が強く、人のオーラを可視化できる能力を持ち合わせているのだと聞いた。日によってまとっているオーラの色が違うらしく、それで体調の変化などが分かるらしい。カノジョの周りのクラスメイトは鼻で笑っていたが、カノジョはその噂に怯えていつも俯いている彼女のことが気になっていた。
一学期最後の席替えで、なんと彼女と席が前後になった。カノジョはこれ以上ないチャンスだと思い、休憩時間に入るとすぐ彼女に声をかけた。
「ねえねえ、君ってオーラが見えるの?」
そう言うと、彼女は慌てて席を立ち上がり教室から出て行ってしまった。何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。次の授業のチャイムが鳴ると同時に彼女は席へと戻って来たが、カノジョはもう話しかけはしなかった。
それから一週間後、教室に入ると彼女が一人で読書をしているところに出くわした。二度目のチャンス到来! と意気込み、彼女に声をかけた。
「何読んでるの」
彼女は顔をそむけた。
「……別に」
「あ、それ授業で配られたやつ。夏休み明けに感想文書かないといけないんだっけ。もう読み始めてるんだ、偉いね」
「……普通だよ。あなたは読まずに適当に書く人?」
「ううん、私意外と本読むの好きなんだ」
「本当に意外」
カノジョは少し間を置いて続けた。
「あのさ、この前はごめんね」
「何?」
「ほらあの、オーラの話。嫌だった?」
そう言うと、彼女は本を閉じて頷いた。
「だっておかしいでしょ?そんなのが見えるなんて言ったら。クラスの大半は私のこと馬鹿にしてる」
「そうかな」
「あなただって」
「待って、待って! 私信じてるよ! 幽霊だって妖怪だってUFOだって信じてるし、君の言ってることも本当だって思ってる!」
慌てて弁明すると、彼女は初めてカノジョの前で笑顔を見せた。
「なんだ。君も変わり者か」
「うん、そう」
カノジョはあえて明るく返事をする。
「ねえ、今のオーラ見てって言ったら見えるの?」
「うん」
「マジで。じゃあ今は何色?」
「…赤、かな」
「ドキドキしてるのバレてる?」
「ちょっとね」
その日から彼女とは、毎日会話をするほど仲良くなっていった。そして毎朝その日のオーラを聞くのが、二人の挨拶代わりになっていた。
「そうだな、今日は黄色かな」
「オレンジっぽいかも」
その色を聞いたとて、それの良し悪しはカノジョには分からない。聞いたら答えてくれるのだろうが、個人的な見解として随分と晴れやかな色でよろしい、と判断し勝手に納得して気分良く席に着いていた。
ある朝バナナの影響で気分がすぐれない日があった。そのせいか気分も落ち込み、普段通りの『カノジョ』を演じることが出来なかった。人と顔を合わせるのさえ怖気づいて、教室に入ると彼女にも声をかけることなくすぐに席に着いた。オーラなど見えなくとも不機嫌極まりないことこの上なし。彼女は迷わずトントン、とカノジョの肩を叩いた。
「大丈夫?」
その言葉にハッとしたカノジョ。しまった、ばれてしまう。本当の自分が。カノジョは無理やり笑顔を作ると後ろを振り返る。
「何が?」
ニコニコ笑っていると、彼女は首を横に振った。
「なんかグレーがかってるオーラまとっていたから気になったんだけど。ごめん、気のせいだったみたい」
彼女はそう言って愛想笑いをした。カノジョはすぐに前を向きなおしたが、その背中に視線を感じていた。おそらく嘘だとはバレているだろう。本心まで見抜かれたかどうかは不明だ。
だが一つだけ分かったことがある。やはり灰色とは気持ちの落ちる色なのだ。色の認識はどうやら彼女と同等らしい。
その頃のカノジョは、とにかく遠くに行きたかった。知り合いは誰もいない、自分の知らない、ここよりずっと遠いところへ。
カノジョが生まれた町には海があったが、あまりにも狭く油で汚れていた。海の絵を描くときには、決まって海は深い緑色で塗った。一般的に海は青色なのだとテレビで見るまでは信じられなかった。
中学の授業で海のイメージ語を聞かれた際に「亀」と答えて笑われた。その後友人からはやく「青」って言えよって思っていたと言われ、ならばなぜ青は良くて亀は駄目なのか理解できなかった。海が青だと知っているならば亀だって海にいると私は知っている。
第一ここから見える海は緑なんだよ!
それとも、自分が見ている世界があまりにも狭すぎるのだろうか。カノジョの中で、どんどんと海へのあこがれが膨らんでいった。とにかく大きな海が見たかった。水平線が見えるほど。この世界の大きさを確認できる場所へ行きたかった。
カノジョはそのことを誰かに相談しようと思ったが、いつもつるんでいる女友達には到底打ち明けることは出来なかった。そんなことを急に言い出したらノイローゼにでもなったのかと心配されるのがオチだ。ならば誰なら受け止めてくれるだろうか。カノジョには一人だけ、思い当たる人物がいた。オーラの見える彼女だ。
昼休み前に後ろを振り向き、おもむろに海が見たいのだと話した。窓からいつでも見えるよと言われたが、水平線が見たいというと納得した様子だった。それから何と隣町の海まで一緒に行ってくれるのだという。彼女もまた、平凡な日常に飽き飽きしていた一人であった。彼女に相談して良かった。カノジョは前日の夜、久しぶりにワクワクしながらベッドにもぐりこんだ。
午前七時。日は昇っているものの、未だ人はまばらだった。彼女の家がある坂の下に集合ということで、早々に家を出た。約束の十分前に到着してしまった。よほどこの日を楽しみにしていたのだろう。自分で自分を笑っていると、彼女が猛スピードで坂を下って来た。危うく正面衝突を起こす寸前で「おはよう」とあいさつを交わした。
当時の移動手段と言えばもっぱら自転車であったため、二人は通学に使う所謂ママチャリを縦一列に並んで漕いだ。当時は夏真っ盛りだったので、単純に自転車を漕ぐという動作だけで汗が吹き上げてきた。朝早く家を出て正解だった。それから約四時間もの間、自転車を漕ぎ続けた。途中暑さでどうにかなってしまいそうだったので、ZARDの負けないでを大声で歌ってみた。カノジョの体力はさらに削られたが、彼女は笑ってくれたのでまったく後悔はない。
目的地へと着く寸前、目の前には傾斜二六%の坂道が立ちふさがる。ここを越えなければ海は見えない。だが今のカノジョにとってその坂を昇ることは苦ではなく、むしろもっと大きな壁が立ちふさがっていても乗り越えられるほどの意気込みを持っていた。
太陽はだんだんと頭上へと近づく。自転車を押しながら歩くのはこれまた大変で、二人だけがスコールにでも打たれたのではないかというほどに全身汗が滴っていた。坂を昇り終えると、そこからはまっすぐな一本道の下り坂。ブレーキを握ることも忘れ、自転車で風を切り駆け抜けた。汗ばんだ体に受ける風が、世界で一番心地いいと感じた。
坂を下り終えるとトンネルがあった。先の見える短いトンネルだった。その先には古風な街並みがわずかに見えた。トンネルをくぐり終えると、カノジョはふいに横へ視線を移した。
そこには茂った森の向こう、真っ青な海がまっすぐ、どこまでもまっすぐ続いていた。茂みで縁取られたわずかな隙間から見える海なのに、その水平線にカノジョはひどく感動していた。気が付けば足は止まり、しばらくその場から動けなかった。地球が丸い事を人類が発見した時と同じ感動を、今自分がしているような気さえして「本当に丸いんだね」とよく分からない感想を告げると、彼女は急かすでもなく同じように海を見て「本当だね」と言ってくれた。
数分後、彼女の「行こうか」をきっかけにペダルをもう一度漕いだ。ひと漕ぎが異様に軽く感じられた。
着いた先はいわゆる観光地であったが、正直言って記憶に乏しい程度にしか観光をしなかった。昼食に鯛めしを食べ満足したカノジョと彼女は、結局二時間も経たぬうちに帰る支度をした。トンネルをくぐる前に、カノジョはもう一度その海をその目に焼き付けるように真剣な眼差しで見つめていた。おかげで彼女が急ブレーキをしたことに気が付けず、見事に後ろから突撃してしまった。
「ごめん。大丈夫だった?」
「うん。あのさ」
彼女はそんなことなど気にも留めていない様子で、自分の話を続けた。
「私さ、大学は県外に行くつもりなんだ」
「そうなんだ」
「だから多分、こうやって一緒にいる時間もなくなると思うんだよね」
「そっか」
「君が私と同じ、変わり者で良かった」
「どういたしまして」
「やっぱ、今日来れて良かった」
彼女はそう言って、何かを含ませたような笑みを浮かべてペダルを漕ぎ始めた。カノジョはその背中を追いかけながら、短いトンネルを抜けた。
帰り道のことは全く覚えていない。覚えているのは、ただ鮮明な、青。青。青。
カノジョは夏頃からよく授業をサボっていた。特に理由はないが、窓から外を眺めていると、突然じっとしていられない衝動にかられた。登校して数時間だというのに、荷物を持って突然教室を飛び出したりした。席が後ろの彼女に、体調が悪いから早退したと言っておいて欲しいと、適当な嘘を擦り付けて。それを素直に頷いてくれた彼女には、とても感謝している。
まだ学生のいない時間帯に一人自転車を漕いでいると、誰もいない空間に放り出されたような優越感に浸ることが出来た。今はもう偽りの仮面を外してもいいだろう。
そうだ、このままいなくなってしまおうか。ふとそんなことを思いつく。空を見上げると、雲一つない青空だった。この空をあの場所で見たら、さぞかし青かろう。海の見える、あの場所で。時計を見る。まだ午後十二時もまわっていない。今からなら夕方には着くだろう。
あの道を、もう一度自分一人だけで向かおう。一度行ったことがあるのだから、一人でもきっと行ける。大丈夫。私なら出来る。
そう思い携帯で経路を調べた。道案内スタートのボタンをいざ押そうとしたところで、カノジョの指は動きを止めた。そしてすぐ携帯の画面を消して、鞄の奥へと押し込んだ。理由は実に単純明快。
「携帯の充電が少ない」
あえてそれを口に出しながら、カノジョはまっすぐ家へとペダルを漕いだ。
それから結局、あの海を一度も見に行ってはいない。
家に帰ると、電気もつけずに鞄を床へと放り投げた。イヤホンを耳に当て、音量を最大まで上げた。背の低い机の下に入り込むと、膝を抱えて極限まで体を縮こませる。そしてただ、時が来るのを待つのだ。
カノジョには、待ち望む時間があった。夕暮れ後に起こる数分だけのご褒美。空が青く染まるかすかなブルーモーメント。その時の部屋の壁が好きだった。赤い日に照らされているはずの部屋の壁が、サーっと青く染まる。すべてを青で塗りつぶしてくれる。カノジョにとってその青はとても心地がよかった。その時ばかりは外を遮る重たいカーテンを開いた。
私は青が好きなんだ。海も空も、この時間も。そんなことを考えているとその時は始まっていた。かすかな青い光が部屋の中へ差し込む。机から這い出ると、部屋の中を見渡した。何気ない日常の中、部屋に飾っている自分の大好きなものたちが浴びる青い光がすべてを包み込んだ。きっと今自分も、この青に溶けている。
私の本当の色は何色だろうか。こんなきれいな青色だったら、きっと素敵だろうな。壁に頬をあてがいながら、そんなことを考えていた。
数分後、再び机の下に潜り込んだ。母に夕食の時間を告げられるまで、その部屋の明かりがつけられることはなかった。暗闇が、カノジョの体へとまとわりついた。
翌日担任から昨日早退した理由を、あれこれ口うるさく聞かれた。言葉を聞いていると嫌気がさしてきたので、聞いていないふりをした。すると説教は諦めたのか、今度は白いプリント用紙を突き出してきた。反省文でも書けと促しているのだろうか。作文は得意だ、受けて立つ。と意気揚々用紙を覗き込むと、なんとそこには進路の二文字。屋上から地面にたたきつけられたような衝撃を受けた。
なにか夢はないのかと聞かれてイライラしたので、「もうありません」と言い白紙の用紙を突き返して、足早に職員室を後にした。
その日の学校帰り、カノジョは担任に捕まる前に友人と足早に教室を出た。そして数人で近くの喫茶店へと逃げ込んだ。軽い食事でお腹を満たした後、デザートまで注文しおしゃべりに花を咲かせていた時だ。近くの席から一人の客の罵声が飛んできた。その前では一人の女の子が立って何度も頭を下げている様子だった。
「私はね! 体調が悪くて付き添いで来ただけなの! でもここのケーキがこの子達は好きだから、この子達に食べてもらおうと思ってわざわざ連れてきたのよ!」
なんでも客の言い分では、自分の子にお勧めのケーキを食べさせたいがためにやって来たが、自分は体調がすぐれないため注文はしないということらしい。だがこの店は一人ワンオーダー制だ。その説明をした店員の女の子だったが、一度そう言った理由で断られてしまい、その後再び確認のために席へと訪れると今度は必要以上に罵られているという訳である。
「さっきも言ったのに何度も聞いてきて! アンタは言われたルールを全うして上司に褒められるからポイント稼ぎに良い客だとか思ってるのかもしれないけどね! アタシを誰だと思って言ってるのよ! アタシが誰か知らないの!」
その言葉にカノジョの友人が小声で「知らねーよ」と鼻で笑った。客はさらに続ける。
「アンタどこの人間よ! 住所は! 名前は何て言うの! まあその字でその読み方ね、大層な名前付けて貰って偉そうに!」
客は女の子の名前の書いてある名札プレートを睨みつけている。カノジョはヒヤッとした。なぜなら、そこで怒られている彼女は、自分と全く同じ名前をしていたのだから。
そこで店のオーナーがやってきて、客と彼女の間に割り込んだ。彼女は大粒の涙をぽろぽろと流していた。
「ねえ、気分悪いし店替えよう」
そう言うと友人は早々に席を立ちレジへと向かう。違う店員が慌てた様子でこちらへと駆け寄って来た。
「さっきのデザートキャンセルで、お会計お願いします」
「あ、はい」
その店員もクレーマーオバサンに圧倒され仕事を中断していたのか、まだデザートの準備は済んでいないようだったのであっさりと受け入れられた。
「てか営業妨害ですよ、あれ。警察呼んだら? この店のお偉いさん?」
「いえ、それが知らない人なんですよ」
小声でそう言いながらその店員は丁寧にお会計を済ませてくれた。カノジョは涙を流して立ち尽くしたままの女の子を振り返る。
「ちょっと待ってください」
カノジョはその子とクレーマーの間に割り込んだ。
「そんな言い方なくないですか? 第一ルール守ってないのはそっちですよね?」
「何よアンタ」
「誰だっていいでしょ。さっきから聞いていたら酷いのはアナタの方ですよ」
「だからアタシは体調が悪くて、何も食べられないって言ってるの!」
「他の日に来ればいいじゃないですか。今日ではならなかったのならば、入る前に自分は注文出来ないがいいかと確認してから入るのが礼儀ですよね」
「私は昔からここに通ってるのよ? ここのオーナーとも顔見知りで」
「貴方が何様なのかは知りませんが、この子の住所や名前まで特定するのはおかしな話ですし、この子の名前は素晴らしいものだと思います。アナタなんかが否定していいものではありません」
「アンタこそ何様よ!」
「名乗る必要はありません!」
「カノジョ、行くよ」
そこでカノジョは我に返る。以上、ここまでカノジョの妄想だ。
結局カノジョは涙を流す彼女の背中を見つめるだけで、その場に立ち尽くしていただけだった。
「ねえ、気分変えるのに映画館行こうよ」
「いいね!」
「どら泣きして心洗い流そう! さっきのおばさんマジきもかったし」
カノジョもそれに賛同し、映画館へと向かうこととなった。店を出るとガラス越しに店内を振り返る。未だに立ち尽くしたままの彼女。逃げてもいいのに逃げることなくその場にいるのは、恐怖と絶望で足が動かなくなってしまったからなのだろうか。
先ほどのこともあってか、あまり気分が乗らない。映画に集中できるか不安だった。だが映画上映開始わずか十五分後、既にカノジョの顔は涙でびしょ濡れになっているのだった。なんと泣ける映画だろうかとあたりを見渡してみると、なんと泣いているのは未だ自分一人だけだった。友人たちはポリポリとポップコーンを口へ放り込んでいる。
カノジョはなぜだか急に恥ずかしくなって、泣いていないふりをして嗚咽を必死に殺していた。映画も終わり灯りが着くと、友人は全力で伸びをする。
「はあー! 泣いた! 最後の方本当泣けるよね」
「うん。最初も泣けたけど」
「最初? どこらへん? それは早すぎでしょ」
「だよね」
ふいにでた言葉をあっさりと否定されたカノジョは、愛想笑いですぐに話を流した。涙でため込んでいた心のストレスは浄化されたはず。だがどうしてもあの言葉だけは流しきれなかった。
「大層な名前で偉そうに、か」
「え? なに?」
一人呟いたカノジョを友人は振り返る。カノジョは首を振って友人たちの輪に溶け込むように足を急かした。
きっとあの場で立ち尽くし泣いていた彼女は、この日のことを生涯忘れることはないだろう。言葉で出来た心の傷は忘れることはあっても捨てられはしない。いつか再び顔をのぞかせる。なぜならカノジョもまた、彼女と同じ傷を背負い込んでしまった一人なのだから。
高校生活も残り数か月となった。世の中はクリスマスシーズンで大盛り上がり。カノジョは高校からの帰り道、さびれた商店街を歩いていた。山盛りに積まれた茶碗、常に八十パーセント引きセールの婦人洋服店。まもなく幸せいっぱいの最大イベントだというのに錆びたシャッターの閉まった店が大半を占めるこの道が、カノジョの通学路だった。土砂降りの雨が安いトタン屋根を打ち付ける音が、人気のない隙間だらけの空間を好き放題駆けまわっていた。
数か月前に締め切り間近の突き返した進路用紙を再び押し付けられ、いよいよ将来について真剣に考えなければならなかった。今までさんざん夢を蹴散らされた結果、カノジョにはこれから先のことなどこれっぽっちも想像できなかった。ひとまず過去の自分ならば希望したであろう大学のパンフレットを取り寄せてみたが、やはり親は良い顔をしなかったし、今はゴミ箱に蓋をするように新聞や雑誌と一共に積み重ねられている。
そうしているうちに既に入学試験は目の前に迫っていた。特に希望もないので、勉強も手につかないし目標もなかった。センター試験に向けて必死に勉学に励むクラスメイトを見ては、そこまでして追い求める夢がある人を羨ましく思った。この商店街の街並みと自分の将来の展望が同じに見えて、己を鼻先で笑いながら細い路地裏の途中足を止めた。
その先には赤いライトが、左右交互に点滅していた。黄色い遮断機が下りてきて、しばらくするとゴウゴウと貨物列車が通過した。
大きな音は苦手だった。両耳を塞いで電車が通り過ぎるのを待った。遮断機が開くと、止まっていたその場のものが、全て一斉に動き出す。人、車、自転車、傘。まだそこに立ち止まっている自分だけ、いつまでもその空間に取り残されているようだった。
なんのために、今ここを歩いていたんだっけ。なんのために、この傘を開いているんだっけ。なんのために、生きていたんだっけ。
カノジョは傘を閉じると、土砂降りの中赤ん坊のようなスピードで踏切を渡った。行き交う人はきっと、不思議な目で自分を見るだろう。見るがいい、憐れむがいい。そんなことなど、どうだっていい。どうだっていいのだ。
「代わってあげようか」
どこかで聞いた声が聞こえた。顔を上げると、あの時の彼がまた、カノジョの前に立っていた。その手には傘が握られている。あのビー玉のように輝く大きな目を細めて、にっこりと笑っていた。
「音も言葉も、なんにもいらない。感じるから辛いんだ。だから、感じなければいい」
彼はそう言って傘を差しだした。カノジョはびしょ濡れの体を、小さな傘の中にすっぽりと入れた。
「あなた、あの時の」
「覚えていてくれたんだ」
「うん。ずっと聞こうと思ってたの」
「なに」
「あの時、蕁麻疹うつっちゃった?」
「どうして?」
「代わろうかって言っていたから。その後、私の蕁麻疹治っちゃったの」
「そうだったんだ。いいや、大丈夫。平気だよ」
「家はどこらへんなの」
「同じ方向」
カノジョは彼に促されるがまま、一緒に帰ることとなった。どうして傘があるのに雨に濡れていたのかと問われると思っていたが、彼は何一つ、そのことには触れて来なかった。それでも聞かれてしまえば返答に困るので、カノジョは先手を打って別の話を始めた。
「ねえ、なんて名前なの」
「僕? うーん、そうだな。呼び名は色々あるんだけどね。名乗るのは苦手なんだ。そうだ、君が決めてよ」
「え? 私が?」
「そう。好きに呼んで」
「私がつけるの?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど。ちょっと変かな」
「そうだね」
「でもそうする。自分の名前が好きじゃない事もあるから。じゃあ、『聖夜くん』にしようかな。もうすぐクリスマスだし」
「いいね。僕は『聖夜』。よろしく」
「うん、よろしく」
「僕は君をなんて呼んだらいいかな」
「ごめん。私も君と一緒で、呼ばれるのはいいんだけど、名乗るのは苦手なの。えっと、これ」
カノジョはカバンの中から教科書を取り出した。そこには丁寧な文字で名前が書いてある。雨に濡れて少し隅が波打っていた。すると彼はそれを眺めて小さな唸り声をあげた。
「うーん、そうだな……。シロちゃんってのはどう?」
「うーん」
「気に入らない?」
「気に入った」
そう言うと二人とも同時に声をあげて笑った。それが、二度目の彼との出会いだった。
カノジョには男友達は少なかった。高校時代はクラスの中心となるグループに属していたので、少なからず会話をする男子はいたが、本当に打ち解けていると感じるような相手はいなかった。自分を好んでくれる異性がいなかった訳ではないが、カノジョは一度も人とお付き合いをしたことはなかった。なぜならば理想の男性像は聖夜そのものだったのだから。
聖夜は男なのに、あまり男らしくはなかった。というと、今のご時世あまりよろしくないのだが、カノジョにとって彼といる時間は女友達と過ごしているかのようにあれこれ気を遣う必要がなかったということだ。カノジョは彼に血のつながった家族のような、信頼と安心感を抱いていた。そんな彼を越して好きになる男性など、現れるはずなどなかった。
カノジョはこの頃から突然人の声や周りの環境音を、苦痛に感じることが増えていた。先ほどまで普通に会話をしていたのに突然自分に向けられた言葉に拒絶反応を起こし、あっという間に周りの音が反響して次第にその場から動けなくなってしまうのだ。
聖夜はそんな彼女の状態を知っていた。そのため、出先でそうなると彼女の代わりに全てをこなした。
カノジョがオーラの見える彼女と一緒に地元のショッピングモールに出向いた時だった。まもなく日本中の学生が胸を躍らすであろう、バレンタインデーが近づいていた頃だ。
入り口付近にはバレンタインの特設コーナーが設置され、恋する乙女たちでごった返していた。どの子も目を輝かせて材料を次々と籠へ放り込んでいく。そのチョコレートを渡した先には、果たして明るい未来があるのだろうか。断られる可能性はゼロではないはず。なのに、なぜそんな楽しそうに笑っていられるのだろう。
カノジョが立ち止まって食い入るように見つめていたためか、先を歩いていた彼女が立ち止まり振り返った。
「どうかした?」
「ううん。なんでもない」
カノジョは笑顔を作ると、駆け足で彼女の元へと足を進めた。
それから何件か店をまわったが、カノジョの顔色は決してよろしくなかった。このままでは彼女の目の前で動けなくなってしまうかもしれない。それだけは避けたかった。
カノジョはトイレに行くと言い彼女から離れると、その場に聖夜を呼び出した。
「ごめん。ちょっとだけ、代わって欲しい」
「もちろんいいよ」
聖夜はカノジョの代わりとなって、何も不安がる様子もなく彼女と合流した。
「お待たせ」
「大丈夫?」
「うん、少しお腹壊しちゃったかな」
彼はそう言って笑った。そして何事もなく彼女の隣を歩き出し、女の子で溢れかえるレディース店へと入っていった。それをおかしな顔をしてみるような人はいない。なぜなら彼は、カノジョの姿そのものなのだから。
「この新しいスカート可愛いよ」
カノジョは白いスカートを持ち上げた。その時、カノジョからぽろぽろと何かが足元へと零れ落ちて、床に落ちる前に砕けて消えて行った。
「んーと、確か新しい鞄を買おうと思っていたんだっけ」
独り言多めに、カノジョは店の奥へと進んで行く。オーラの見える彼女は、黙ってその後ろをついて歩いていた。
「これなんてどうかな」
沢山の本が入りそうな大きい鞄だ。ユニコーンや虹色のアイスクリームなどがプリントされて、いかにも女の子が好きそうなデザインだった。また落ちる。緑の欠片。
彼女は黙ってみていた。カノジョの姿をではない。落ちては壊れ消えていく、捨てられていく様々な色の感情を。
「どうかした?」
カノジョは彼女を振り返る。すると彼女は落ち着いた口調で答えた。
「あなた、誰?」
彼女の言葉に、カノジョは口端を釣り上げて笑ってみせた。
「何言ってんの。――だよ」
「あの子は自分の事、――って言わないよ」
すると聖夜はあっさり観念したように、丸い目をにっこりと細めた。
「そっか。どうせ君には通用しないと思っていたんだよね。場所を替えようか。ここだと落ち着かないでしょ? ああ、でも少し待って。これだけ買ってくるよ。白との約束なんだ」
聖夜は持っていた鞄を買いにレジへと向かい、気分よく彼女の元へと戻って来た。そして店を出ると、ある店を指さした。
「あそこにしよう」
彼が示したのは、人で溢れかえっているチョコレート専門店だった。
「少し暖かいものでも飲もうよ。ホットチョコレートがあるよ。僕、甘いものが好きなんだ」
「……いいよ」
二人は店に着きホットチョコレートを注文すると、唯一空いていた外のベンチへと腰かけた。壁もないので冷たい風が吹き抜けているが、彼は嬉しそうに天井の開いた隙間から空を見上げていた。
「あの子はどこ?」
席に着くや否や、すぐに彼女は問いただす。
「白なら、今眠っているよ」
「シロ?」
「僕からの呼び名だよ。自分の名を名乗るのは嫌いだと言っていたから、僕が彼女を呼ぶときにはこの名前を使うんだ」
「あなたは?」
「僕の名前は『聖夜』。彼女が名付けてくれたんだよ」
「学校でもたまにいるよね?」
「彼女が心配だからね、いつも見守っているんだよ」
聖夜は温かいチョコレートを、一息に吸い上げた。
「どうしてあなたがあの子のふりをするの?」
「白がそれを望んだからさ」
カノジョの声ではつらつと話す聖夜の胸元を、彼女がそっと指さした。
「それもあの子が望んだの?」
そう言うと、聖夜は細めていた目を見開いてあからさまに驚いた表情をした。
「へえ、見えるんだ。この穴が」
聖夜は空になったカップを隣に置くと、片方の手で自分の胸をさすった。すると胸の中心にグルグル渦が出来て、次第にぽっかりと穴が空いてしまったのだ。その穴は行く先の見えない、真っ暗な暗闇だ。
「その穴から捨てているのね」
「それも知っているんだ」
「授業中、時々落ちていくのが見えたから。お店の中でも。今もね」
「必要ないからね」
聖夜の胸のあたりから、温かなチョコレートを飲んでおいしい、嬉しいという赤色の感情が抜け落ちて、空気に溶けて消えていった。
「なぜこんなことを?」
彼女は当然の如く、その質問をした。
「理由かい? そりゃ、白のためさ」
何のためらいもなく、聖夜も答えた。
「彼女はね、優しすぎるんだよ。人からの深い意味のない言葉をあれこれ考えて、自分の中に落とし込もうとする。つまらない映画で息が出来なくなるほど涙を流したり、人の怒りを自分に写し出したりする。道端に落ちている石ころを拾い集めるように何にでも手を差し伸べてしまうから、気が付いたころには白の心はもう一杯なんだ。一杯であふれ出しているのに、平気な顔をして笑おうとする。だから僕が声をかけたんだ。僕が彼女の代わりとして生きることで、彼女はその間休んでいられると思ったからね」
饒舌に話す聖夜に、彼女はホットチョコレートを握りしめたまま答えた。冷たい指先が、カップの熱を奪っていく。
「でも辛いでしょう?」
「なにが?」
「貴方からあの子に戻る時、その穴は強制的に閉められる。心が出来た痛みで、それこそ息が出来なくなるほどに苦しいはず。あの子が苦しんでいるところを見て、あなたはそれが平気なの?」
「平気なもんか。でも、白がそれを望んでいるんだ」
「本当にそうかしら。心があるっていうのは、きっと辛い事だと思う。でも、それを感じられるってことは、その心がずっと大きくて柔らかくて優しいってことよ。その分傷もつきやすくて、その心をさらすことはとても怖い事だけど……。でもそんな心を持っているあの子が、私は素敵だなと思ったの。本当は心を捨てるだなんてこと、させたくないんじゃないの? だって、本当のあなたの名前は――」
そこまで言った時、聖夜が彼女を睨みつけていることに気が付いて口を噤んだ。
「だったら君が、彼女を助けてくれるのかい?」
真っ青な瞳が、カノジョの目を越して浮かび上がってくる。
「僕は心に穴を空けた。けれど、彼女の痛みを知っている。彼女が今までどれほど傷ついて自分を捨てて来たかを知っている。彼女が小さ頃から、ずっと傍で見て来たから。たった一人で抱え込んで素直に泣くことも出来ず、弱い自分をひた隠して強い自分を演じ続けて来た。一人でも平気、一人でも大丈夫と、呪文のように唱えながら。例え血の繋がった親の前であったとしても、彼女は素顔を見せないよ。そんな彼女を、君が救えるのかい? いや、君に彼女は救えないよ。救わせない。なぜなら君には、君の選んだ道があるからだ。彼女もそれを望んでいる。僕は彼女を守りたいだけだ。これ以上彼女の選んだ道を傷つけるというのなら、僕は君だって許さないよ」
その言葉に、彼女は素直に謝罪した。
「ごめん。傷つけるつもりはなかったの」
すると聖夜は目を細め、いつもの笑顔をその顔に浮かべた。
「ただ、心配しただけ。本当よ。友達として。あの子の事、大切だから」
彼からの返事はなかった。
「ねえ、――?」
声をかけると、カノジョは少し目を泳がせながら細い声を押し出す。
「えっと、なんか、ごめんね」
少し不安げな表情で謝るカノジョに、彼女は首を横に振った。
「ううん。こっちこそ、ごめん。無理やり起こしたみたいで」
「いいの。そろそろ代わろうと思っていたところだから」
「今、平気?」
彼女の問いかけに、カノジョは素直に頷いた。
「うん、平気。ねえ、今の私には何色のオーラが見える?」
その言葉に彼女は小さく答えた。
「白、かな」
「良かった」
カノジョは楽しそうに、笑っていた。
卒業式を間近に控えた帰り道。彼女と別れる前に、自分の抱えていた解けない問題を聞いてみることにした。彼女なら、何か求めている答えを出してくれるような気がしたからだ。
「ねえ、私って、どんな色かな」
「今のオーラの色?」
「ううん、違う。私自身の色。そう言うのって見える?」
そう言うと彼女は少しだけ間を置いて、迷うことなくするっと答えを出した。
「あなたの色は、なんだか色んな絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜたような色。色んな色を混ぜすぎて、本当の色は分からない。なんて言うかな、混ざり切らないコーヒーとミルクがいつまでもぐるぐる渦巻いているような……それが、今の君かな」
「そっか。なんか、汚いね」
「そうかな。それもそれで、美しいものだと思うよ」
「元の色に戻ることはあるのかな」
「どうだろう。でも、いつか戻りたいと思うのなら、きっと大丈夫だよ」
その言葉を聞くと、自分の探してきた答えはこれだったんだと素直に納得した。今まで形のなかった自分の姿が、少しだけ縁取られたような安心感。
自分が何者であるかを決めきれなかった。だからずっと何者かを演じていた。いろんな顔を作って、演じて、ぐちゃぐちゃになって。混ざって、混ざって、ぐるぐる渦巻いている。それは「可笑しな」ことだと思っていた。自分の色を早く見つけなければと、どこかで焦っていたような気がした。
グルグルの私。それが今の私。何色かを無理やり一色に決める必要はない。それが今のもっとも正解に近い答え。そんなグルグルを、代わってくれるアナタ。それが私の大切な人。
「ありがとう。可笑しな質問に答えてくれて」
「どういたしまして。全然可笑しなことじゃなかったけどね」
そう言って彼女とは、さよならをした。
彼が『カノジョ』として代わりに生きている時、カノジョはふと彼の胸元を見下ろした。そこには真っ黒な穴が開いている。そっとその穴の中に手を入れてみた。その先は何もない、ただの黒で染まる暗闇。そう、この暗闇を私は知っている。カノジョは己の体に闇が取り巻いてしまう前にすぐに手を離すと、意識を彼に傾けた。そして眠るように、そっと目を閉じたのだった。
彼と出会い冬が終わる頃には、彼を呼び出す回数は格段に増えていた。彼に代わってもらっている間は実に心地の良い時間だった。自分の恐れるもの全てから逃走し、拒絶することが出来る。なんと心の軽い事だろう。あまりにも気分がいいものだから、カノジョはだんだんと彼に甘えだした。今までは自分で頑張ろうと思えたことも、全て聖夜に押し付けるようになっていたのだ。けれど彼は嫌な顔一つせず、その願いを全て受け入れた。そして口癖のようにこう言った。
「君の幸せが、僕の幸せだから」
穴が開いているのに幸せは分かるの、と聞いたら、それには答えてもらえなかった。
甘えた分、自分が再び外に出なければならなくなった時。そのツケが数倍になって、カノジョへ『痛み』として襲い掛かった。まずはぽっかりと空いた胸の穴を埋めるため、無理やり皮膚を引っ張られ体を引き裂かれているような痛みだった。その後に空っぽになった心に次々と言葉が投げ込まれ、いつも以上に柔らかな心が感情で揺さぶられる痛み。この痛みは彼を呼ぶ度何度も味わわなければならないのにも関わらず、カノジョは彼を呼ぶことを辞められなかった。
少しでもいい。全て遮断して、自分だけの世界に落ち込む時間が欲しかった。例えその代わりに、どれほどの痛みを受けることになろうとも。
次第にカノジョはその痛みにあらがおうと、彼に酷い言葉をぶつけたり、感情のまま暴れたり、ひどく泣きじゃくったり、怒って叫んでみたりした。けれど彼は絶対に、カノジョを責めたり蔑んだりするようなことはなかった。いつもの顔で、笑っているのだ。
「君を見てるとさ、助けてあげたくなっちゃうんだよね。ちょっとしたことを喜んだり、人の事なのに苛立ったり、何でもかんでも吸収して全部全部ため込んで、その海に溺れて苦しくて息が出来なくなっている。君には僕みたいに心を捨てる穴がないから。でもね、心のない僕でも、君のことが好きだということは分かるんだ。出会った最初の時からね」
聖夜はそう言って目を細めた。カノジョもまた、同じように、目を細めて笑った。
「私も好きよ、聖夜くんのこと」
「ありがとう」
彼とこれからもずっと一緒にいたい。その言葉は嘘ではない。けれどなんだろうか。いまだに晴れないこのモヤモヤは。視界を遮って前が見えない。
そのもやの先に、君が一人で立っているような、すっきりしない感情を、いったい何と表現すればいいのだろうか。
カノジョはその後、親に言われた大学を受験しそのまま進学した。入学式の日は最悪だった。ここにいる人は皆、将来の夢を持って希望に満ち溢れているのだろうと思うと吐き気がした。その日も天気が悪く、普段履かないパンプスで歩く駅までの帰り道は果てしなく長いものに思えた。細い歩道の横を、猛スピードで車が通過する。水が跳ねないか心配しながら、車に傘が当たらないよう身を壁に摺り寄せるように歩いた。
四月というのに真冬のように寒かった。これを最高の出だしだという奴がいたら一度ぶん殴らせていただきたい。一秒でも早く家に帰りたかったので、カノジョはその足を止めることなく速足で駅へと向かった。そのおかげか見事に靴擦れを起こし、踵の皮がめくれ上がった。普段と違う鞄だったので丁度いいものが手元になく、とにかく何かをはさんでおきたかったので貰った大学のパンフレットに付属していた入学者への案内という用紙の角を破って靴と踵の間に挟んだ。それだけでも痛みは少し和らいだ気がした。カノジョはすぐさま電車の中で開いている席を探し、知らない人の隣へと腰かけた。
これから毎日、こうやってこの電車に乗っていくのだろう。そして今日のことを、あの道を歩く度に何度も思い出すのだろう。大学初日、カノジョはしみじみと思った。
ああ、明日から大学行きたくない。
大学に入ってからは少なからず一緒に教室移動をする程度の友達は出来た。と言っても残り物の寄せ集めのようなグループだった。
全員初めましてだったので、お互い相手を探るようにしながら上辺の会話を繰り返していた。少しずつ相手の素性が見え始めた頃、グループ内でさらに小さなグループが作られていった。当たり前のことだ。気の合わない人間といるよりも、趣味や会話の合う人間同士がくっつくことは何ら不思議ではない。類は友を呼ぶというが、そこにカノジョの類は見当たらなかった。気が付けば一人取り残され、黙々と本を読む虫に成り下がった。
大学一年目は、後から単位が足りなくなると困るので入れられるだけ講義の枠を取った。おかげで毎日講義によりすべての時間を埋め尽くされ、帰る頃にはぐったりの状態だった。家に帰り課題を終わらせた頃には、日付が回っていることなどざらだった。午前二時から風呂に入り、ドライヤーで髪を乾かしながら船を漕ぎ泥のように眠っていた。
実習に入れば過酷さはさらに増していった。日々課題に追われ、家にいる間はほとんど教科書と参考書を開き、娯楽など全くないに等しかった。食事中も記録を進め、実習先では積極性がないと怒られ、講師からもいい評価は得られてはいなかった。だが、そんな自分を悲観する時間もない程に、日々を駆け抜けていった。
記憶も残らぬほどにあがいた実習がひと段落した、ある三月の中頃。春を感じさせる暖かな風が吹く日だった。カノジョは一人コンビニに向かいながら夕暮れ空の下を歩いていた。いつか見た、空まで燃えるような夕日だ。
あの時君は赤いと言ったけど、やはり私には赤には見えない。
「もうすぐ日が沈むな」
ほら来るぞ、あの時間が。
「早く家に帰らなきゃ」
カノジョはコンビニに向かう足を止めて、早々に家へと引き返した。部屋の中に入り扉を閉める。ゆっくりと沈む夕日に部屋が青く染まる瞬間を待っている間、ふと部屋の中を見渡した。散らばった教科書。参考書。レポート用紙。実習着、ノート、筆箱の中身……。あんなに大切に持ち歩いていた文庫本はお気に入りの鞄の奥底で眠ったまま、しばらくその表紙も見ていない。久しぶりにあの鞄を開こう。
カノジョは部屋の端に置き去りにされた、文庫本が眠っている鞄を開いた。じじじ、とチャックの開く音が部屋の中に響き渡る。鞄の中には見慣れた文庫本と共に、見覚えのあるパンフレットが収められていた。そう、そこにあるのはかつて、自分の諦めた夢だ。
パンフレットを持ち上げると、そこに写る学生たちの姿を確認する。確かにその瞳は、夢と希望で溢れているように見えた。
「いいなあ」
一言、零れた。
すると見る見るうちにその感情はカノジョにまとわりつき、瞳から涙を押し出していた。ふと足元に散らばった、今自分を支配する分厚い教科書たちを見下ろす。勉強しているうちに、好きになると思った。知っていくことが増えるうちに、この仕事もいいなと思えるようになると思った。実習を乗り越えて、自分にもできるんだという自信が生まれると思った。それでもなぜか、未来は見えない。
私ははたして、誰のために生きてきたのだろうか。
部屋が青く染まっていく。部屋の壁も、散らばる教科書も、お気に入りの鞄も、カノジョの涙も。けれどもうカノジョにはその色は届いていなかった。
あれ、海って、何色だったっけ。
電車の音が聞こえる。ああ、そうか。今、大学へ向かっている途中なんだった。黄色い遮断機が見える。ああ、電車はもう降りたんだった。肩が異様に重たい。自分を縛り付ける文字の羅列がこの地に私を押し付ける。右手が不自由。空と私を遮る傘。青い空はない。見上げるとそこは淀んだ雲が、風にあおられ右から左へと流れていく。雨を待とうか。その雨でどうか、私に色を与えてください。カノジョは目を閉じると、また一歩踏み出した。
あれ、私は今、どこへ向かっていたんだっけ。
暗闇。先のない黒い穴。そこに足を踏み入れて、ずっとその中をさまよっている。グルグル渦を巻いて、その中で溺れている。息も出来ずに、もがきもせずに、ただ吐き出される日を待っている。いつ捨てられるのだろう、この闇から。いつ解放されるのだろう、この心から。
もう、いい。疲れたよ。
【君と、私】
窓から外を見上げることが多い。それは、彼の癖のようなものだった。いつだって空を眺めている。流れている雲を眺めているのか、だが雲のない日も変わらず外を見ていた。一度何を見ているのと聞いた事があるが、彼はにっこりと笑って一言だけ「空」と答えた。
私は今、地面を見下ろしている。部屋の窓から。下は冷たいコンクリート。排水用の浅い溝があって、あそこの角に丁度頭が当たればどうなるかな、なんて身の毛のよだつようなことを真顔で考えていた。すると空色の彼が、私に声をかけた。
「何を見てるの」
「地面」
「どうして?」
「下、冷たそうだなって」
「雨、降ってるからね」
「どろどろになるかな」
「ならないよ」
「どうして?」
「君はあまり濡れたがらないから」
「うん、汚れるの好きじゃないの」
「じゃあ、なぜそんな心配をするの?」
「ここから飛び降りたら」
「うん」
「頭をぶつけたら、頭が割れるかな、とか。首から着地すれば首の骨が折れるかな、とか。でもうまく落ちないと、痛みにもがいているうちにどろどろになって、人に見つかって、私が選んだはずの道の先で働いている人たちにお世話になって、後遺症なんて残ればそれこそ何もできなくなって、うまく死ねなかったことを後悔したりして」
「そっか。じゃあ、もっと高い所にいく?」
「高い所?」
「そしたらきっと、ちゃんと死ねるよ」
「そうかな」
「百パーセントなんてないけどね。僕は試したことがないし」
「どこにあるの」
「知らない」
「人の迷惑になる?」
「だろうね」
「人に見つからないところがいい」
「じゃあひっそりと首を吊るとかは? 飛び降りるより周辺への被害は少ないし。家の中だと他人にも会わなくて済むよ。この家がいわくつきになっちゃうけどね」
「飛び降りがいい」
「どうして?」
「だって、一瞬だけでも、空を見上げながら死ねるから」
「そっか。なら晴れた日がいいね。青い空の方が、君を祝福してくれるよ」
「私もそう思う」
聖夜くんは、私がどんな言葉を言っても、肯定して受け止めてくれる。一言目に何をバカげたことをと言われていたかもしれないようなことを、発言しているというのに。
「ねえ聖夜くん」
「なに」
「助けて」
「うん」
「どうすればいいか分からないの。自分がよく分からない。死ぬのは怖い。でも生きるのも辛い。何のために今ここにいるのかも分からない。これから先もこの仕事を続けていく限り、ずっと後悔して、悔やんで、もっとやりたいことがあったのにって悲観して、でも選んだのは自分なのにって言い聞かせて、親のせいにするなんておかしなことだって言って、でも自由にさせてくれなかったのはそっちだろって悪態ついて、遠くに行きたいのに行けなくて、海が見たいのに行き方も知らなくて、好きだったものも、幸せだと感じたものも、全部全部分からなくなって、毎日、毎日、暗いの。私の世界に色がないの。もうしんどいよ。助けて。助けてよ。聖夜くん。私、どうしたらいいの? 私、自分で自分が分からない」
私は膝に顔をうずめる。聖夜くんは静かに答えた。
「僕は君に従うよ」
「……」
「生きるのも、死ぬのも、君が決めればいい。言って。君がしたいこと。私はこれをするから、君はこうしてって、僕に言ってくれるだけでいい。選ぶのは君だ。周りに何を言われても、どれほど傷ついたとしても、最後には君が選ぶんだよ」
「……もう、死にたい」
絞り出した震える声が本心かどうかなんて、分からない。けれど、それ以外の答えが見つからなかった。聖夜くんはにっこりと笑った。
「じゃあ、僕が一緒に死んであげる」
私は驚いて顔を上げた。聖夜くんは私と同じように膝を抱え込んで座っていた。
「君が死ぬときは、僕が一緒に死んであげる。君が生きるというのなら、僕も一緒に生きるよ。僕は君の傍にいる。だからね、一つ約束をしてほしい。君が死ぬときは、絶対僕を呼ぶんだよ」
聖夜くんはまっすぐ私を見て、そう言った。久しぶりに彼の瞳を見た気がする。コロコロと転がるその瞳の色は、空のようで、海のようで、大好きな色だった。気が付けば私も目を細め、口端を釣り上げ笑っていた。
「うん。約束する」
私は小指を差し出す。そして誰もいないその空間に向かって指を折り曲げた。
「きっと呼ぶよ。だからずっと、傍にいてね」
彼はまたにっこりと、丸い目を細めて笑った。
【こころ】
始めまして皆さん。聖夜です。
ここまで読んでいただいた通り、僕には心がありません。正確には、心に穴が空いています。そこから僕へ向けられたもの、特に心を揺さぶるものを排除しています。冷たく言い放たれた言葉、赤く染まったアスファルト、今話題の泣ける映画、笑いあった思い出、それを悲しいとも、美しいとも感じない。
こんな僕を可哀そうだと思いますか? 僕は思いません。だって、彼女がそう望んだのですから。相手が何の気なしに言った言葉でも重たく受け止め傷ついて、幸せだと感じたことは誰よりも笑顔を輝かせて体を揺らして。何もかもを素直に受け止める彼女が好きだけど、もちろんその苦しさも知っている。彼女は彼女を埋め尽くす様々な感情で、心が壊れかけている。捨てたい。いらない。何も感じなくなったとしても、この心を捨てたい。
そう、彼女が望んだんですよ。だから僕の心には、穴が空いています。ほら、今も零れ落ちているでしょう? これが僕の心です。彼女の望みは、僕の望み。彼女は僕の全てだから。
どんな時でも傍にいます。例え離れていても、どれだけ近くにいても、僕はアナタからは離れません。人は僕のことを様々な名前で呼ぶでしょう。
名前、ですか。ぜひ、アナタが付けてください。アナタの僕にはまだ、名前がないんですよ。
【かつての名は、痛み】
痛い。
痛い。
痛い。
彼から私になるとき、私の心は激しく痛んだ。遮断していた言葉や感情が、一斉に心へ押し寄せてくるから。息が出来なくなって、もがいて、必死に酸素を求めている。
痛かった。君を呼んだあとは、とても痛い。胸のあたりがとても痛い。
ここで君を呼べば、君はまた私を救ってくれるだろう。けれど再び君がいなくなる時には、またこの痛みが襲ってくる。君を呼べば楽になる。けれどその分心は痛む。
痛い。
痛いから嫌なのに、君がいないと生きていけない。なのに、
痛い。
君がいると、君がいるせいで、この痛みは終わらない。
痛い。
君がいなくなれば、この痛みも、なくなるのかな。
そうか。君とさよならをしようか。
私は白い便箋を一枚、取り出した。
聖夜くんへ。
明日から私は、社会人になります。最初はやりたくない仕事だったけど、ここまで来たらやってみようと思います。きっとうまくいかないことの方が多いけど、適当に終わらせられるような仕事ではないと思うし、何より私は人を助けることが好きです。下手くそでもいい、少しでも笑ってくれたら嬉しいと思います。
だから私は、アナタにさよならを言いに来ました。散々今まで助けて貰っておいて、身勝手な理由でごめんなさい。でも、アナタがいると、私は貴方を呼んでしまう。心のない私で、患者さんに心は届けられないと思うから。私はちゃんと責務を果たします。私の決めた道だから。そういう事に決めました。
でももう一つだけ、諦めていた夢を追いかけてみようと思います。しばらく離れていた道だから、きっとへたっぴだし笑われちゃうかもしれないけれど。
いつか、いつかきっと。私の本が本屋さんに並ぶ日が来たらいいなと願って。だからまた、文字をかき始めました。本が完成したら、ぜひ見に来てください。
きっとこの先、私は何度も途中で立ち止まって、その度に泣き叫んで、助けてって貴方を呼ぶかもしれません。でも、どんなことが起こっても、絶対に私を助けないでください。私がどれだけあなたを呼んでも、絶対に手を差し伸べないでください。辛くても、苦しくても、必ずもう一度立ち上がって、泣きながらでもちゃんと歩くから。貴方にはそこで、ずっと見守っていて欲しい」
「約束ね」
「ありがとう」
カノジョは寒さに身をよじらせて目を開けた。体を起こすと、雨で張り付いた服が異様に重たく感じられた。時計の針は午前五時を指している。あれから気を失ったように眠っていたらしい。ちょうど良かった。今日仕事は休みだ。
重たい体をなんとか支えながら風呂場へと向かった。服を全て脱ぎ捨て、温かいお湯で体温を戻した。排水溝へと流れていく水を見下ろしていると、そこにきらりと何かが光った。おもむろに光ったものへと、手を伸ばす。
そこには丸い玉が落ちていた。光にかざすと青く色を変えるその玉を拾い上げると、風呂場を飛び出して裸のまま玄関へと向かった。風呂の水か昨日の雨か分からない濡れた廊下を滑りながら、急いで埋もれた傘を掘り起こす。
下敷きになっていた、お気に入りの傘。持ち手には、ハチワレの猫がぶら下がっている。慌てて顔を確認すると、そこにはきちんと青い瞳が輝いていた。
「良かった」
カノジョは濡れた体でぎゅっと傘を抱きしめると、傘を片手に脱衣所へと戻って来た。
濡れた体を拭きなおし、クローゼットの中から綺麗に畳まれた服を一枚引っ張り出した。脱ぎ捨てられたままになっている桃色のコートを拾い上げてハンガーにかける。床に置かれたままのカップを手に取り、残ったコーヒーを排水溝へと流した。そして湯沸かし器のスイッチを押す。
カノジョは右手に握りしめたままになっていた玉を見下ろした。この玉は確か、私の名前を好きにさせてくれた人から貰ったガラス玉。
「あんなに大切にしていたはずなのに……。忘れちゃっていたのかもしれない」
ガラス玉を摘まんで持ち上げようとした時、カチン、とスイッチの切れる音がした。音に反応して指先が震え、手からガラス玉が転がり落ちた。
その玉はそのまま転がっていき、棚の下の隙間へと入っていく。
「もう」
苛立ちを口に出しつつ、地べたに這いつくばって棚の隙間を覗き込んだ。そこには埃まみれの袋の切れ端や転がって行ったガラス玉と一緒に、なくなっていたはずのリモコンがあった。カノジョはなんとか腕を伸ばし探し物を取り戻した。
カップにコーヒーを注ぐと、リモコンとガラス玉を握っていつもの定位置へと向かった。毛布を体にまとわりつかせながらテレビをつけると、現在の豪雨による交通規制や運転見合わせについてのニュースが流れた。大変なことになっているな、と他人事のように考えながらコーヒーをすする。カノジョは以前見損ねていたお笑い番組の録画を再生した。真剣に見るでもなくただバックミュージックのように流しているだけだったが、カノジョは自然と笑っていた。年に一度、十二月が好きな理由はもう一つあった。何度蹴落とされても、何度だって立ち上がり這い上がって、人を笑わせてくれる彼らが本当にカッコよかったから。その姿を見て、自分も何度も立ち上がろうって思えたから。そんな勇気を貰えるような気がして、この時が来ることを楽しみにしていたんだったっけ。
気が付くと六時間もの間その場に座り、最後まで見続けていた。カップの中身はもう空っぽだ。テレビを消して立ち上がると、肩から毛布がずり落ちた。重たいカーテンを開く。未だ雨は降り続いているが、風は少しおさまったらしい。
カノジョは振り返ると、まっすぐ玄関へと向かった。そして濡れたままの鞄から携帯と家の鍵を引っ張り出してポケットへと突っ込む。部屋に戻ってお気に入りの傘と白いシャツで包まれた文庫本を持ち上げた。意を決し、家の扉を開いた。
カノジョが向かった先は、あの雑貨屋だった。大学を卒業してからかれこれ三年以上来ていない。木の扉の前には、クリスマスの時にもみの木の周りで踊っていたティンカーベルが飾られていた。
「こんにちは、妖精さん。また来たよ」
カノジョはそう言うと、店の扉を開けた。レジの奥では、あの時の店員が前と同じように椅子に座って本を読んでいた。ちりん、というベルの音で顔を上げた店員は、カノジョの顔を見ると立ち上がり小さくお辞儀した。
「いらっしゃいませ」
「あの」
カノジョは言葉を探っていた。すると店員は持っていた本をかざした。
「まだ読んでいますか?」
カノジョは慌てて持っていた白い包みをかざした。
「えっと、昨日、雨に打たれて」
服を引きはがすと、ぱりぱりと音を立て本が姿を現した。それに店員はくすっと笑い声を漏らす。
「なんかいいですね。年代物って感じがして。ずっと肌身離さず持っていたんだなっていうのが伝わってきます」
カノジョは照れながら文庫本をレジの上に置いた。店員もまた、その本をその横に並べた。
「あの、今日はお願いがあって」
「はい」
「この猫を、探しています」
ユウキは傘についている猫のぬいぐるみを示した。
「正確には、この猫に似た人を探していて。私がさよならをしたから、もう会いに来てくれないんです。でもどこかにいる気がして」
カノジョは相手の返事を聞く前に、頭を下げた。
「お願いします! 私を海まで連れて行ってください!」
「海……」
「学生の頃に一度だけ、行ったことがある海なんです。行き方も名前も忘れてしまったけど、隣町の海で、水平線の見える、観光地の」
なんとか言葉を繋ぎ合わせると、店員はゆっくりだが確かに頷いた。
「ひとつだけ、心当たりがあります」
「本当ですか?」
「はい。ご案内します」
店員はそう言うと店の扉を開けて、CLAUSEの看板を出した。
「お店閉めちゃうんですか」
「だって、店番をするよりもっと大切なことを見つけてしまったから」
店員はそう言って優しく微笑んだ。カノジョは深くお辞儀する。
「ありがとうございます」
カノジョは店員の車の助手席で、激しく左右に揺られていた。交通規制がかかりカノジョがかつて自転車を漕いで上った山道は、土砂崩れの可能性があるということで通り抜け禁止になっていた。そのため地元民だけが知っているような、手の加えられていない獣道を進んでいた。雨で地面がぬかるみ、視界も悪い状況だったが、それでも目的地は確実に近づいてきていた。
「すみません。こんな日に」
「いいの。ちょうど私も行きたかったところ」
「え?」
「隣町。私の生まれた町なの」
「そうなんですか」
「私も海が好きでね、子どもの頃はよく浜辺に遊びに行っていた。大人になってからは海のない町で雑貨屋を営んでいるけれど、やっぱり時々帰りたくなるの」
「海にですか?」
「貴方のそういうところ、私大好きよ」
店員はくすくすと小さく笑った。そして少し間を置くと、静かな声で続けた。
「『彼』とはいつから会えないの?」
カノジョもまた正直に答えた。
「三年ほど前から。私からさよならをしたんです。何があっても絶対に助けに来ないで、と言って。でも、いざいなくなると寂しくて。どれだけ辛くても、やっぱり彼と一緒にいた頃に戻りたいって思ってしまう」
「どうして?」
「どうしてって……」
「彼とさよならをしたのはアナタなのに、彼に会ってどうするの?」
どうするのだろう。また、心を捨てていくのだろうか。違う。彼が何者であるかを、ちゃんと知りたくなったから。痛かった。君といると。でも君は『痛み』ではない。本当の名前を、私は知りたい。
「名前を、聞きたくて」
カノジョが戸惑いながら導き出した答えに、店員は小さく頷いた。
「大丈夫よ。彼はきっと、あなたの願いを絶対に聞いてくれるわ。アナタは彼とさよならする時に、何て言ったの? いなくなって欲しい? 消えて欲しい?」
――違う。
「傍で、見守っていて欲しい」
カノジョはハッと顔をあげた。
「貴方は気が付かなくても、きっと彼はいつも傍にいる。だってそう言ったんだもの。アナタが決めるのよ。本当にあなたが望むものを。彼はアナタの望んだものを、ちゃんと支えてくれるから。彼はきっと、そういう人」
カノジョはそう言って目を細める店員の横顔を見た。
「知っているんですか。彼を」
「一度、お会いしたでしょう? ほら、もうすぐで着くわ」
それから数分後、獣道を抜けると見慣れたトンネルが見えてきた。カノジョは思わず体を前のめりにさせる。
「あのトンネルだ」
「良かった。やっぱりこっちの道から来て、正解だったわね」
この天候と交通規制の為か、他に車通りはなかった。店員は走っているか止まっているかのペースでトンネルを進む。
「ここに来るのは何年ぶり?」
「えっと、高校三年生の夏に来たきりなので、七年ぶり、くらいです」
「素敵」
車がトンネルを抜けた。カノジョは店員の横顔越しに海を見ようと目を凝らした。
「……真っ白」
その言葉に店員は以前見せたような、困った笑顔を作った。
「やっぱりか。この天候だもんね」
茂みからうっすらと見えるその先はどんよりとした雲に覆われ、白い霧が立ち込めていた。
店員が車を歩道ギリギリに寄せて止めると、カノジョは急いで助手席から降りて海側のガードレールへとしがみ付いた。そこから目を凝らしていると、店員がカノジョの傘を差してゆっくりと近づいて来た。
「見える?」
「はい」
「何が見える?」
「私、かな」
カノジョの瞳から涙が零れ落ちた。カノジョを濡らす雨を、傘が遮断する。
「いた? 探している人」
「……はい」
カノジョは小さく返事をした。傘の猫が、風に揺られて瞳を光らせていた。
人生で初めて公募した作品です。
この頃はとことん病んでいる時期だったので、文章もとにかく暗いですね。こんなもの送り付けてた当時の自分、ある意味凄い度胸やな……。読み終えて「なんだかなあ」っていうモヤモヤを抱えるよりも、気分のすっきり感や前向きさに重点を置くような作品を作ろうと現在では心がけておりますので、今では書くことがないだろうと思う内容ばかり。
読み返すと、この作者何言ってんだろうと思うことも沢山あって(同一人物でその次元なので、第三者が読むと頭を抱えるレベル)何一つうまく伝えられてはいないかもしれないけれど、この時の自分の言葉でしか救えない人もいるのだろう、と思ってはいるんです。当時の僕もこの文章で救われた部分はありましたし、なんとなくそうか……!って気がつけることもあったんですね。
けれど今読み返すと、「なんだこれ?」ってなったりして。
それは失ったからではありません。当時の自分が分からなくなる寂しさや不安定さを抱きつつ、もうこの言葉はそこに置いて来たんだなという成長を味わってほしい。数年後読み返した時には、また違う読み方が出来るのかもしれません。
実に気分が落ちる内容でした。けれど、どうか一緒になって落ちないで欲しい。(じゃあ投稿なんかするなよなんて言わないでくださいよ。)僕が伝えたかったのは死とは正反対のことだったんです。「死にたい」なんて重苦しい言葉を誰かに押し付けるようなことはしたくなかった。けれど何も考えていないような日常でも、ふとそんな風に思ってしまう自分もいたはずなんです。そしてそれを「いけないことだ」と蓋を閉めて否定し続ける自分自身も。
「なんで自殺はいけないの?」と聞かれた時、咄嗟に僕は何も答えられませんでした。その人が選んだことならば、そっと見守ってあげればいい。その人が本当にそれで救われるのなら、良かったことなのかもしれない。
けれど、死んでしまうその前に、大好きだよってことは伝えたかった。会ったこともないくせに、何も知らないくせに。確かに、その通りかもしれない。けれど切れば血の出る生身の人間で、生きづらい世の中を必死に生きて、最後の最後まで自分だけを傷つけ続けた。人を傷つけてもなお生きている人がいるというのに、誰も傷つけずに自分だけを傷つけて耐えてきたアナタを、どうして愛してはいけないのですか。恩着せがましいと思われるかもしれない。僕は言葉を届けることしか出来ないけれど、出会わなくても友達になることは出来ると思う。
僕の文章が、誰かの生きるきっかけとなると嬉しいです。




