第4話 はじめての朝ごはん
柚子は日が昇り切る前に目を覚ました。彼女は昔から「このくらいに起きたい」と寝る前に念じれば不思議と起きられるのだ。
その上、無奈が用意してくれた新品の羽毛布団は寝心地が非常に良かった。新品の布団の良い香りと森の静かな音は柚子をこの時間までゆっくりと眠らせてくれた。
スッキリ目覚めた体を起こして、さっと布団を畳むと寝る前に用意しておいた紺色の留袖に着替え割烹着を上に重ねる。
髪は軽く整えてからきゅっと束ね、急足で台所へ向かった。
森の早朝はキンキンと冷たい空気が漂い、柚子の肌がブルブルと震えた。まだ薄暗いせいで、小鳥たちの声も聞こえない。シンと静かで少し恐怖すら感じるほどだった。
震える足で台所の土間へ降りるとささっと竈門に火を入れて少しの間暖をとった。ぱちぱちと火の弾ける音に癒されつつ冷え切った手足を温める。じんわり、ほっこりと台所の中に暖かい空気が広がっていく。
「寒いけれど、頑張らなくちゃね」
柚子は、暖かい竈門のそばを離れて、流しにある水に浸けていたどんぐりを、さらに水洗いしていく。
手が真っ赤になるくらいキンキンに冷えるので、痛みに耐えながら丁寧に綺麗にどんぐりを洗い、それから一つ一つ手拭いで水気を拭く。
「さぁ、ここから根気強く頑張るわよ!」
***
七輪からもくもくと上がる煙が、森の朝の美しい青空に登っていく。こんがりと香ばしい空気が風で運ばれて、たぬきたちが目を覚ました。
柚子は、せっせと朝食の準備を進めている。味噌汁と一緒に並んでいるのは大小様々なおにぎりだった。もちろん、たぬきたちの分はねこまんまにしてしまうので握っても仕方がないのだが、柚子なりに食事を楽しんでほしいとそれぞれの体の大きさに合わせて握ったのだ。
「そろそろ、焼けるかな〜」
七輪の上でふかふかに焼きあがった狐色の丸い餅……、どんぐりを粉状にして片栗粉と混ぜ、水で伸ばして練った生地に野菜をたっぷり使った餡をいれて焼き上げる。いわゆる「お焼き」である。野菜は納屋にあった高菜とナスを細かく切って甘辛く煮つけたのでとても美味しい組み合わせのはずだ。
「みんな、居間で待っててね」
そわそわと台所の付近を彷徨くたぬきたちに声をかけ、柚子はせっせとお焼きを皿へ揚げた。こんがりきつね色、試しに割ってみればトロッとした餡が溢れ出し片栗粉を混ぜたおかげで生地はもちっとしている。砂糖醤油を付けて食べれば、きっと本場のおやきにも負けない美味しさだろう。
人間用のお盆におにぎりを乗せた皿、小ネギのお味噌汁、お焼きと砂糖醤油の皿を乗せて居間に運ぶ。そこには、今か今かと食事を待つ四匹のたぬきと、眠そうなボサボサ髪の男が座っていた。
あれだけ頑なに食事の時間に引きこもっていた無奈だった。まだ寒いのか囲炉裏に起こしてあった火にあたりながらブルブルと震え、何度かあくびをする。
少し早く起こしてしまったかなと柚子は居た堪れない気持ちになったが、今日は村長への挨拶もあるし仕方がないのだ。
(でも、約束は守ってくれるのね)
柚子は嬉しい気持ちを抑えながら、囲炉裏の火にあたりながら朝食を待つ彼に声をかけて、ちゃぶ台の上にお盆を置いた。
「おはようございます。無奈さん」
「おはようございます。柚子さん。あぁ、美味しそうだ。握り飯なんて何百年ぶりだろう?」
彼は眠そうな目を擦ると、柔らかい笑顔を柚子に向けた。白髪混じりのザンバラ髪はところどころ寝癖でぴょんと跳ねていて、どことなく目つきも眠そうだ。
柚子は自分の分のお盆を彼と向かい側になるようにちゃぶ台に置いた。向かい合ってご飯を食べるのは初めてなので彼女は緊張しつつ、次に運んで来たたぬきたちのねこまんまをいつも通り畳の上に置いた。
「おいしそう! このおまんじゅうみたいなのはなんですか?」
末吉の質問に、柚子は答える。
「それは、お焼きよ。昨日、みんなが分けてくれたどんぐりを粉にして生地に使ってるの。どんぐりのほのかな甘さがとても美味しいし、中にはお野菜がたっぷりよ。みんなの分は冷ましたけれど気をつけてね。あっ、無奈さんは砂糖醤油に浸けて食べてくださいね」
無奈は不思議そうに御膳を眺める。そして、申し訳なさそうに柚子を見つめた。
「あの……まだ上手にお箸が使えないもので……」
「お焼きもおにぎりも手で食べても問題ないですよ。熱いので気をつけて」
「そうですか……それではいただきます」
無奈に合わせて柚子も手を合わせた。彼がお箸を使えないのかもと予想してお味噌汁の具は小ネギだけ。箸を使わなくても汁と一緒に飲めるものにした。柚子は、熱々のおにぎりをそっと手に持って齧る彼を見つめた。おにぎりの具は細かく切って甘く煮つけた昆布。味としては昨日作った野菜の煮付けと同じ甘辛い味なので苦手ということはないだろう。
「お、美味しい」
無奈がボソッとつぶやくように言った「美味しい」を柚子は聞き逃さなかった。それから、無奈は味わうようにゆっくりと咀嚼して、にっこりと微笑んだ。
「やはり、人間の食べるものは美味しいです。柚子さん、ありがとう」
「うふふ、よかったです」
柚子が笑ったところ初めてみた無奈は、ぱちっと固まってしまった。柚子は元々キリッとした気の強そうな美人であったが、ほろっと解けるような笑顔はこれまた可愛らしい。なにより、無奈は彼女が微笑んでくれたことが嬉しかった。
ここへきてからというもの、怒ったり機嫌を損ねてばかりいた柚子がやっと笑ってくれた。無奈にとって人間と仲良くなれたという大きな成果の一つ。
その時、おにぎりがポロッと彼の手から転がった。無奈は可愛らしく微笑んでいる柚子に夢中で手の方に意識が言ってなかったのだ。
床に落ちる寸前に衛門がそれを口でキャッチした。衛門はあつあつのおにぎりをハフハフしながら飲み込んでしまった。
「こら、衛門! それは主様のだぞ!」
「いーや、主様がポイしたんだもんね! 僕んだ!」
途端に怒り出した末吉とひょうひょうと言い訳をする衛門。そして、その横では青ざめた顔の無奈が必死で言い訳をする。
「べ、別にポイしたわけでは……手が滑って、えっとご、ごめんなさい?」
せっかく柚子が笑ってくれたのに、また怒らせるわけにはいかないと必死な無奈、どうして必死に謝っているかわからない柚子。なぜなら、柚子からみればポイッと捨てたのはでなく熱々のおにぎりを持っていられなくなって落としてしまったように見えたからだ。
「火傷していませんか? 熱々のおにぎりをずっと持ってらしたし……」
「あぁ、大丈夫です! 僕は妖ですし、ただ手が滑って。あぁ……ごめんなさい。せっかく握って下さったのに」
「おかわりはありますから、気になさらないでくださいね。あっ、お焼きも熱いのでお気をつけて。お焼きを食べた事は?」
「いえ、人間の食べ物は握り飯しか食べたことがありません」
「あら……じゃあ、真似してみてください」
柚子は、お焼きをそっと手にすると、「あちち」と言いながら半分に割った。どんぐり粉が入っているので少し灰色がかった生地がもちっと伸びる。それから中の餡が湯気を立てた。
そのまま、半分にちぎった片方を皿に戻し、もう片方を砂糖醤油につけてふぅふぅと息をかけて冷ましてから一口。たっぷり冷ましたはずなのに、餡の熱さは殺人的で柚子は口の中を火傷しそうになりながらハフハフ息を吸った。モチモチでほのかな甘さと香りのある生地がこんがりと焼けた香ばしさ、餡の野菜はとろっとしつつも歯ごたえは残っている。餡の甘辛な味付けに後付けの砂糖醤油がピンと刺激を加えてより一層味わい深くなる。
「熱いですけど、美味しいですよ」
「ほぉ、ありがとうございます。柚子さん」
二人のやり取りをみていたたぬきたちも、お焼きをクンクンと鼻で嗅いでから口にした。彼らの分は冷ましてあるのでパクパクと食べ進めていく。
「これ、どんぐり?」
と豆太はお焼きをパクパクと食べながら言った。
「そうよ。どんぐりを粉にしたの。だから、もっとたくさんどんぐり粉を作ればお団子やお餅も作れるのよ。どんぐりの味も少しするでしょう?」
「する! すごいねぇ、やっぱり人間ってすごいや! 柚子お姉ちゃん、ありがとう」
「どういたしまして。豆太くんもまだ熱いかもしれないからゆっくりね」
「はーい」
柚子が無奈に目を向けると、彼は一生懸命二つに割ったお焼きを冷ましているところだった。それから彼は柚子と同じように、ちょんと砂糖醤油を浸けて一口。最初は熱そうにしていた無奈は次第にお焼きの味が美味しくて口角を上げ優しく目を細めた。彼が垂れ目なのもあって、優しい笑顔のようなその表情に柚子も安堵する。
「柚子さん、おかわりもらってもいいですか?」
「私もお焼きが食べたいの!」
たぬきたちからの熱烈コールに、柚子は「はいはい」と答えて台所へと向かった。余分焼いて冷ましてあったお焼きをたぬき用のお皿に割って入れてやり、ご飯、お味噌汁をかける。
ねこまんまは人間が食べるなんて聞いたことがないけれど、たぬきたちがあまりにも美味しそうに食べるので不思議と美味しそうに見える。少し豪華な雑炊と考えればそうかもしれない。
柚子は、さっと一つおにぎりも作って居間へと戻った。
「はい、これは無奈さんのおにぎりと……おかわりは末吉君と梅子ちゃんね。どうぞ」
無奈におにぎりを渡し、末吉と梅子の前におかわりのねこまんまを置いた。柚子はやっと座ると朝食を再開する。無奈はそれを不思議そうに眺めていた。柚子は、視線を感じて無奈に目を向ける。彼は追加のおにぎりと柚子を交互に眺め不思議そうに首を傾げている。
「さっき、落としちゃったでしょう? ですから、よかったら食べてくださいね」
「あぁ、そういえば……すみません」
申し訳なさそうに眉を下げた無奈に声をかけたのは末吉だった。
「主様、こういうときは『ありがとう』ですよ。柚子さんは主様のためを思って作って下さったのです。ごめんなさいやすみませんは間違いです。感謝の気持ちを伝えないと!」
「そうなのですか? 別に作っていただかなくても……面倒でしたでしょうに」
「主様、これは柚子さんのお気持ちなんです。そんな言い方はいけませんよ! ね、柚子さん!」
柚子は、末吉に話を振られてから少し考えて答える。
「確かに、末吉くんのいう通り喜んでもらえたら嬉しいと思って作りました。面倒だなんて思っていませんし……うーん、迷惑でしたか?」
「迷惑だなんてそんな! 握り飯は好きなので嬉しかったです。ですが、柚子さんのご苦労を考えると申し訳なくて。私はどんぐり一つあれば三日は我慢できますし」
と押し問答になったところで末吉が大きなため息をついた。どうして主様は素直にお礼が言えないのですか! とか、一言多いんですよ! と言ったような小言を無奈にぶつけた。柚子は、無奈がかなり謙遜しすぎる癖があるらしいことを確信したし、彼がなんとなく「優しすぎる」せいで相手にとっては神経を逆撫でするような言葉を吐いてしまうことも理解した。
それと同時に、柚子自身も相手に対して気を効かせていると自分が勝手に思っていただけで相手にとってはそれが負担になってしまうかもしれないから気をつけないといけないと思わされた。
「あの、私もすみません。無奈さんに希望も聞かずに勝手なことを……」
柚子は、押し付けがましい行為だったかもと頭を下げた。お節介を焼かれると相手は感謝をしなければならないが、それが時に苦痛になることがある。人間であればまだしも、無奈は妖。人間にとっては嬉しいことでも妖にとって嬉しいことなのかどうかはわからない。柚子は勝手にお節介を焼いて勝手に怒っていた自分を恥じた。
一方で、しょんぼりした柚子をみて慌てたのは無奈だった。
「いえ、そんな顔をさせたかったわけじゃ。あぁ、僕は柚子さんに苦労をかけたくないだけでその……握り飯は食べたかったのです。柚子さんは妖がお嫌いでしょう? 僕のような妖が喜ぶ事は柚子さんは嫌がるのかと思って……その」
「確かに、妖は嫌いです。でも、これから一年も同じ屋根の下で暮らすのに……ましてや夫婦のふりをするのに、妖だからと言って嫌がらせはしたくないです」
「かといって優しくする必要はないでしょう?」
「それは……、そうですけど……私は無奈さんを悪い妖だと思いたくありません。それに、料理をすることもおにぎりを握ることも別に苦労なんかじゃありません。食べる人が美味しく食べてくれたらそれで十分です。ありがとうとか、美味しいとか言ってくれたらそれが褒美なのです」
無奈は「うーん」と首を傾げた。それから
「人間とはやはり不思議なものですね。何時間もかけて大事に作ったものを言葉ひとつで対価とするのですか。我々、妖には考えられない事です。無償で時間も技術もかけるなど……」
確かに、おにぎり一つでも工程は多い。井戸で水を汲み米をよく洗って少し水に浸しておき、羽釜で数十分火加減を調整しながら炊く、少し蒸らして熱々を握る。
そのくせ、食べるのは一瞬だし、他の料理に比べると手間がかかっていないように見える。柚子にとっては、実家でもよく料理はしていたので苦労などと思った事はなかったが、全く料理をしない妖からみれば相当な労働に見えたに違いない。妖は対価を求め、対価を返す生き物。故に、柚子の行動が理解できなかったのだ。
「無奈さん、私はお料理に対価なんて求めません。これは……貴方が人間として生きるための手伝いだと受け取ってください。契約結婚の範囲内……ということで」
「そ、そうですか……。では、その通り契約結婚の範囲内ということで受け取らせていただきます」
(本当は、ただ喜んで欲しかっただけだけど。きっと理解できないだろうし、そういうことにしておきましょう)
柚子もまた、自分の気持ちを素直に表現することが苦手らしい。彼女も「良い妖」である無奈に接することにおっかなびっくりだったし、理解しきれていない部分も多いのだ。
「作法については、練習中でしょう。わからなかったら私に聞いてください。それも契約の範囲内です。対価は要りません」
「あの……良いのですか? 僕は本当に作法がうまくできず箸もまともに持てないのです。柚子さんを不快にしてしまわないかと心配していたのですが……」
「大丈夫ですよ」
ぎこちない会話を聞いていた末吉は思った。もしや、無奈も柚子も自分の気持ちに素直になれない不器用な者なのではないかと。無神経な言葉を発してしまう上に後ろ向きな考えの多い無奈と、言葉を言葉通り受け取って、本当は愛情たっぷりなのに心にもないことを言い返してしまう柚子。
喜びや悲しみを素直に表現するたぬきとは違って人間や妖は複雑で、そして少しおバカなのかもしれないと末吉は考えこの先一年、大変になるだろうなと思った。