第2話 嫁入りと困難ともふもふと
都から歩いて四時間。柚子が住んでいた村よりもはるかに都に近い。彼女が想像してた「村」とは全く印象が違う事に驚いた。
村の中心部にはさまざまな商店が立ち並び、少し歩けば田畑が広がっている。走り回っている子供たちは皆おしゃれな着物を着ているし、瓦屋根に漆喰壁の家ばかりで生活水準も高い。そんな街中を抜けて、次第にほっそりした道をさらに行き、鬱蒼した森の中に入る。少し登り斜面になっている細道をあがっていくと、見えてくるのは立派な武家屋敷のような邸宅だった。
漆喰の塀と立派な門、その奥には瓦屋根が見える。広さはそこそこ大きなお寺くらいありそうで迫力満点。門を叩けば、妖の力か一人でに門が開いた。
「お邪魔します……」
門から邸宅の玄関までは、丸い庭石が敷かれて道標となっておりその周りは見事な日本庭園だった。玉砂利は綺麗に整えられ形の良い松が何本か生えている。玄関までの間に、錦鯉が泳ぐ池には立派な竹のししおどしが気持ちの良い音を立てている。それと同時に門が一人でに口を閉じる。柚子は閉じ込められた感覚になったが、自分の決断を尊重してぐっと拳を握った。
少し歩いて近づいた玄関もこれまた立派。大戸口の引き戸は新品かと思うほどピカピカで、引き戸の大きさから土間部分もとても広い事は容易に想像できる。
「ごめんくださーい」
引き戸の奥、ばたばたと足音が聞こえしばらくすると一人でに引き戸が開く。玄関の土間は三畳ほどと大変広く、武家屋敷らしく式台玄関になっていた。床の板張りはピカピカに磨かれていてとても美しく、新しい木の香りがした。
「迎えの籠を行かせたのですが……もしやここまで歩いて? やや、なんということ」
出迎えてくれた男は、確かに古里無奈だったが……以前柚子の実家で話した時とは容姿がだいぶ違っていた。白髪混じりのザンバラ髪が、今は美しい灰色で長髪を頭の後ろでくくっている。ほっそりと痩せていた印象だったが、今は健康的でちらりと見えた肘先の筋肉は立派なものだった。
不思議そうに彼を見ている柚子に気がついた無奈は「はっ」と慌てて弁解する。
「すみません、失礼」
ポンっ、と一瞬だけ煙にまかれ、彼の姿が見えなくなると一瞬にして初めて出会った時のあの無奈が現れた。
「これが本来の姿なのです。けれど、どうもここの村長はこの見た目が気に食わないようで。筋骨隆々で若々しい男が好みなのかもしれませんね」
申し訳なさそうに笑う男に、柚子は悪意を感じ取れなかった。
(妖は怖い。嫌い、でも彼なら……)
柚子は、ほとんど毎日、夏が終わってしまうまで贈り物を送ってくれ少し不思議な手紙をくれる男に少々ならぬ期待をしていた。半ば恋文のようなその手紙が恋しくさえ思ったこともあった。だから、彼が妖だったとしてもこの一年は素敵なものになるかもしれないと期待を抱いていたのだ。
けれど、次に彼の口から出た言葉は、そんな彼女の期待を打ち砕くものだった。
「こほん、柚子さん。よく来てくださった。ご両親とも話した通り、君はこの一年間、僕を愛する必要はない」
無奈は、そういうと少し悲しそうに眉を下げそれから目の前にいる美しい柚子に期待の目を向けた。
しかし、柚子は大層驚いたあときゅっと眉間に皺を寄せて唸るように口を開いた。あれだけ恋文のような手紙を送りつけてきておいて、自分を愛するなとはどういうことか。やはり、妖は人間を見下していて、餌で釣った程度にしか思ってないのかと柚子はぐっと怒りを覚える。
それから、彼女の口からも言いたくもなかった言葉が出る。
「言われなくても、妖を愛することなどありませんっ」
凛々しい柚子が、キッと無奈を睨んだ。動物に例えたら猫だろうか、子猫だろうかと彼は考えたが目の前の女性を怒らせてしまったことを思い出してとりあえず無奈は頭を下げてみる。しかし、よく頭を下げる人間の真似は不相応だったらしい。彼女はそっぽを向いてしまった。
その時玄関の後方からガタガタ、カチカチと廊下の板張りを動物が暴れるような音が響く。当主が待ちに待ったお嫁さんを怒らせてしまったと従者たちが騒ぎ出したのだ。
「あーあ、主様ったら本当にもう……なんで変なこと言っちゃうんだろ」
「おいおい、でもあれはいい人間なんだよな?」
「ご飯作ってくれるかな? 素敵なお着物で可愛いわっ」
「綺麗なおねえちゃんだね!」
四匹のたぬきたちがこっそり玄関を覗きながらヒソヒソ、ヒソヒソ。まんまるふわふわのしっぽが見え隠れ、短い足で立ち上がってキラキラ輝く黒い目を柚子に向けている。柚子と目が合うとたぬきたちは恥ずかしそうに引っ込んでしまった。
(たぬきってあんなに可愛いものだったかしら?)
柚子がたぬきたちを「かわいいな」なんて考えているように見えて、むっとした無奈は、彼女に再び声をかける。
「ささ、柚子さん。上がってください」
声をかけられた柚子は「はい」と返事をすると履き物を脱いでしっかりと揃えると、先を歩く無奈の腰にふわふわの灰色のしっぽ。犬よりも少し太い尻尾の先っぽだけ黒くなっている。
柚子は、時たま山で見かけるたぬきを想像した。全体的には灰色だが前足はまるで袖でもつけているように肩口まで黒く、まんまるの目の下から顎の下までも黒い。そのせいで妙に可愛らしい顔をしているのだ。野生動物のくせに、たぬきというのは結構間抜けで人間と鉢合わせると、攻撃するでも威嚇するでもなく固まるのだ。その後、ぬぼーっと逃げ出す様は鈍臭い感じ。
無名がなんとなく穏やかな雰囲気なのも彼が「たぬきの妖」であるからかもしれないと柚子は思った。
板張りの長い廊下をまっすぐ歩くと、囲炉裏がある立派な部屋、廊下を挟んで反対側は庭につながる縁側になっている。台所も竈門が四つもある広い作りで勝手口から裏庭に出ると井戸があり水汲みも遠出する必要はない。さらに、便所やとても広くて綺麗な五右衛門風呂。そのほかに寝室は二つ。板張りの部屋が一つに彼の従者たちの部屋が一つ。そして、廊下のつきあたりは彼の書斎になっているようだった。
「寝室のうち一つを柚子さんの部屋として使用してください。文机に衣装箪笥、化粧台なんかを揃えましたが必要なものがあれば私か従者にお申し付けください」
柚子の部屋と言われた、広い和室は立派な床の間、丸い障子の窓や鴨居の彫り装飾はまるで高級な宿のようだ。
「祝言は明後日でしたよね?」
「えぇ。明日貴女の荷物に偽装した贈り物が届きますよ。ほら、契約結婚で嫁入り道具を運んでもらうのも難ですし」
「えぇ、お気遣いありがとうございます」
「かまいません、かまいせん。それから、勝手口を出て井戸から少し離れた場所に納屋があります。そこに食材を入れておきましたので本日はそれを調理してお食べください」
「ど、どうもありがとう」
「いいんですよ。これは僕が人間になるためですから」
一言多い無奈に柚子も言い返す。
「そうですか、私もお金のために頑張りますね!」
たった少しでも愛のある可能性を信じた自分が馬鹿だったと柚子は強い言葉を吐いた。それで彼が少しでも悲しそうにしてくれるかと思ったが、無奈は何かを閃いたように手を叩いた。
「お金、そうだそうだ。これをお渡ししておきますね。えっと、足りなければ……」
可愛らしい巾着袋には大量のお金が入っていた。多分、家とか土地とかを買ってもお釣りが来るくらいの額。私がよく知っている一銭とは全然違う金色の硬貨。こんなものを商店に持っていこうものなら、お店はお釣りを用意するために店を売らなきゃならなくなる。
「多すぎます。もっと細かいお金ありませんか……一銭とか」
「うむ……、では柚子さんの家からの帰り道に寄ったあの商店では金銭を払いすぎてしまったかもしれないですな」
柚子は、初めて彼が家に来た日の翌日に届いた卵やら干物やらがやたらと綺麗に梱包されていたことを思い出した。おそらく、彼はこの金ピカの硬貨で支払ったのだろう。実際の値段の何百倍にもなるはずだが……彼は妖だから人間のお金事情には知識が乏しいのではないかと柚子は考える。
「あの、このお金って?」
「あぁ! まさか、僕が狸だから木の葉か何かを変えてると? いえいえ、ちゃんとお金ですよ。父の時代に妖として築いた財産を、小判だったんですけどね。それを硬貨に変えたのですよ。ほら、江戸の時代は妖も商売事ができましたからね」
「お金を使わせていただくのはありがたいですけれど、多すぎますからそうですね……両替してもらってください。多分その、小判をお金に変えてくれた所でしてくれるはずですから」
「すぐに替えてきますね」
「えっ!?」
柚子が返事をする間も無く彼は風のように出て行ってしまった。ポツンと自室の前に取り残された柚子はしばらく呆然としたあと、荷解きを始める。最低限の着替えを持ってきたくらいだった。なんでも嫁入り前最後にきた手紙に「必要なものは全て用意します」と記してあったこともあり荷物は最低限にしたのだ。特にお気に入りの藍色の留袖と帯のセット。それから、梅をあしらった髪飾り。貧し暮らしをしていたせいで迷うほど物を持っていなかったというのも理由だった。
部屋の押し入れを開けると新品の布団セットが収納されていて、衣装箪笥の一番上以外はたっぷりと女性物の着物がや帯が揃っている。三面鏡の化粧台には最新の化粧品が揃っていたし、櫛だって漆塗りで金で模様が描かれた高級品。髪留めも可愛らしい色違いが数種類。
(もしかして、法外な値段で買ってしまったのかしら)
と考えながら柚子は文机の前に座った。ピカピカの部屋は居心地が良いのか悪いのか、ゆったりはできなかったが、緊張は解けてきた。柚子が期待したほど、無奈は人間らしくはなかったが、柚子に危害を加える気はなさそうなので安心できたのだ。
「大丈夫、頑張れるわ」
そう自分を鼓舞しながら、持ってきた着替えを箪笥にしまい用意してあった柔らかい帯を借りた。割烹着も見つけたので取り出して皺を伸ばす。身なりを整えていたら、廊下の板張りをカリカリ、カチャカチャと爪を当てながら走る音が聞こえた。
「えっ……?」
柚子が開きっぱなしの襖の方を見ると、そこには可愛らしいたぬきが四匹。お行儀よく座っていた。大きさがそれぞれ違って右から大きい順に並んでいてそれも可愛らしい。
「あの、主様のお嫁さん……? ですよね?」
一番大きなたぬきがそう言った。柚子はおっかなびっくりだったが、彼らに向き合うように座り直して返事をする。
「はじめまして……木枯柚子といいます。えっと、あなたたちは妖?」
柚子の言葉に彼らは顔を見合わせてから、また一番大きなたぬきが答える。
「いえ、僕たちは、ただのたぬきです」
「でも言葉を話しているじゃない?」
「あっ、これは主様のお力で言葉が話せるようになったりしているだけでして……妖になるにはあと百年修行を積まないとなりません。よって、僕らは普通のたぬきなのです。えっと自己紹介をしてもいいですか?」
普通のたぬきは人語を話さないと反論をしたかった柚子だが、たぬきたちがあまりにも黒い瞳をキラキラさせるので言葉を飲み込んだ。
柚子は幼い頃からこういった小動物が大好きで、農家さんの家の猫を愛でたり番犬に餌をやったりするのが好きだった。
「僕は従者の長をしています。末吉です。従者の中では一番のお兄さんなんですけどね。お兄さんなのに末吉で覚えてください。僕の特徴はたぬきなのにきつねみたいな吊り目なところです」
一番大きなたぬき・末吉はペコリと頭を下げた。お兄さんなのに末吉、たぬきなのに吊り目。わかりやすい特徴である。末吉は少し掠れた少年のような声で「よろしくお願いします」と挨拶をした。それから、末吉は隣に座っている二番目に大きいたぬきの肩を短い前足でつつく。
「おい、衛門! 寝るなっていったのに……ほら起きて」
「ふああ、末吉兄さんの話が長いから悪いんだよ。はじめまして、僕は衛門。末吉兄さんの双子の弟だよ。ふああ……」
衛門と名乗ったたぬきは大あくびを何度もし、うつらうつらと眠りかける。双子の兄・末吉とは正反対の性格のようだ。
「こほん、すみません。弟の衛門はサボり魔で寝坊助なんです。えっと、彼は僕と違って垂れ目なのが特徴です。でも、やるときはやる男なので頼ってやってください。さ、次!」
末吉の号令で一歩前に出たのは三番目に大きなたぬきだった。
「私は梅子よ。この四匹の中では唯一の女の子。女の子が増えて嬉しいなぁって思ってるの! 梅子ちゃんって呼んでね」
梅子と名乗ったたぬきは、可愛らしいという言葉がぴったりで四匹の中で一番瞳がキラキラしていて、どことなく女の子っぽい雰囲気を漂わせている。
「梅子は唯一の女性たぬきで、この屋敷のお掃除なんかは彼女が。柚子さんも僕たちに相談しにくいこととかは彼女に話してやってください。きっとお力になりますから」
末吉の説明のあと、梅子はペコリとお辞儀をした。彼女の隣に座っていた衛門はもうすやすやと眠っている。
「えとえと、僕は豆太です。ぼ、僕もついこの前このお屋敷に来たばかりで、えとえと……」
豆太と名乗ったたぬきは人一倍小さい子。声もかなり幼く仕草も小さい子そのものであった。
「豆太は、まだ子たぬきなので何もできませんが……優しくしてやってください。すみません、従者の身でありながら」
末吉がすかさず豆太の隣に移動してよしよしと豆太の頭を撫でた。従者というと彼らも妖なのかと思いきやそうではなく、目の前にはしゃべるたぬき。あまりにも現実離れした出来事に柚子が目をぱちくりさせてると、たぬきたちは「怖がらせちゃったかな」「自己紹介変だったかな」とそわそわし始める。次第に「怒らせちゃったかも!」「嫌われちゃったかも!」と慌て出したので柚子は四匹に声をかけた。
「あ、あの。自己紹介ありがとう。えっと、仲良く……してくださいね?」
仲良くと言った途端、眠っている衛門以外の瞳がキラキラと輝いた。柚子は、向けられた視線があまりにも純粋で胸をぎゅっと掴まれるようにきゅんとした。昔、村で生まれた子猫を撫でさせてもらったときのように、彼らの頭を撫でてみたい衝動にかられぐっと抑える。
(なんて可愛らしいんでしょう!)
柚子は、たぬきたちの目の周りの黒いところが愛おしくて仕方がない、人間には美醜があるもののたぬきは、四匹それぞれ個性があるのにどの子も平等に可愛らしいのだ。しかも、どんなに可愛い動物でも言葉が通じないのでこちらがいくら可愛がっても大切にしても相手の気持ちを聞くことはできないが、彼らは違う。彼らは気持ちを言葉にできるのだ。
「あの、柚子さん。ご挨拶もそうそう、お願いがあるのです。これは柚子様にしかお願いが出来ず……」
末吉が申し訳なさそうに柚子を見つめた。
***
襷掛けした着物の端がお湯に濡れ、柚子の鼻の先に泡がついている。もくもく、あわあわ、古里家の広い五右衛門風呂には三匹のたぬきがぷかぷかと気持ちよさそうに浮かんでいる。
「もっと、おしりの方をカリカリしてください〜」
「末吉君、この辺?」
わしゃわしゃと泡だらけのたぬきの体を優しく掻いてやると、末吉は気持ちよさそうに首を伸ばした。風呂場に用意してあった高級な石鹸をたっぷりとあわ立てて、濡れ鼠のごとく濡れてほっそりしたたぬきを一匹ずつ洗っているのだ。
「すみません。主様は本当に不器用でして、なかなかお風呂をお願いできないのです。あぁ、それに比べて柚子さんはとってもお上手ですねぇ。あぁ極楽だぁ」
「ちょっと、衛門! お風呂で寝ちゃだめよ! 豆太、ちゃんと縁に掴まってないと溺れるわよ!」
「うへへ〜あったかくて気持ちいやぁ……すやぁ」
「うん! しっかり掴まってるよ!」
大変賑やかな浴室に、柚子もだんだんと楽しくなってくる。末吉の泡を洗い流した後、次は眠りかけている右衛門を湯船から抱っこで下ろし、彼を泡まみれにしていく。
「かゆいのが消えていく〜」
衛門の声が浴室内に響いた。彼らの毛皮の中に虫がつくことがあり、それが不快でたまらないのだという。だから、末吉たちは柚子に最初のお願いとして「風呂に入れてほしい」と言ったのだ。
末吉曰く、主様(無奈)は非常に不器用で洗い方も粗雑なため耳に水が入るわ目に石鹸が入るわで苦痛そのもの。かと言って、仲間同士では鋭い爪が出ているため洗いっこはできないとのことだった。
衛門、梅子、豆太を順番に洗ってそれから四匹を手拭いで拭いてやり、半乾きの彼らは縁側で日向ぼっこをしに向かった。四匹が天日干しで体の虫を殺している間、柚子は風呂場に残った大量の抜け毛の掃除を済ませてしまった。たぬき一匹からおおよそたぬき一匹分の抜け毛が出ていたので、彼らはさぞかし心地が悪かったろうと柚子は思った。
一通りの掃除を終えて、縁側の方へ向かうとホカホカのたぬきたちがごろんと並んで横になり日向ぼっこの最中だ。幸せそうに目を閉じる小動物の可愛さに心撃たれつつ、柚子は濡れた着物を着替えに部屋に戻る。さっと、用意されてた燕脂色の留袖に着替えて今度は納屋へと向かった。納屋には、米、野菜、卵や干物にした魚などが収められており数日間の食事には十分な量であった。ただ、冬口の寒い季節だから良いものの夏に外で保存するのはいただけない。
(多分、あの人は人間の暮らし方をあまりわかってないのだわ)
米を3合、それから野菜をいくつか手に取って台所へと戻る。台所には新品の調理器具が並んでおりこれもまた、無奈が柚子のために一式を揃えたようだった。包丁は高級そうなものが何種類もあったし、土鍋や羽釜もぴっかぴかだった。
「まぁ、とっても良い代物ね」
柚子は、井戸で水を汲んで、さっと火おこしをしてから料理を始める。お米を洗って炊きながら、野菜を簡単に煮つけていく。調味料も色々と揃っておりどれもこれも有名な銘柄。柚子は、さやえんどうを湯掻きながら鼻歌を歌っていた。
醤油と砂糖が煮える甘い香り、竈門に余裕があるので同時に味噌汁まで同時調理が可能。タンタンと小気味よくネギを切る音が響いている。
(でも……たぬきって何を食べるのかしら?)
と疑問がよぎったが、この家にやってきたのは「無奈が人間であることを証明するため」である。とあえれば、嫁がきてからは毎日台所から湯気があがり良い匂いが漂っている必要があるだろう。
「僕、人間のご飯大好きなんだぁ」
腑抜けた声を出したのは垂れ目の眠そうなたぬきだった。日向ぼっこでたっぷりお昼寝をした彼はふわわとあくびをして柚子を見つめた。
「えっと、衛門君かな?」
「うん。僕たち、人間のご飯も大好きだからよかったらみんなにもわけてほしいなぁ」
「もちろん、えっと野菜のお煮付けなら食べられるかしら?」
「うん。なんでも好きだよ。でも、人間の茶碗で食べるのは難しいから大きめのお皿にドバッと全部いれてねこまんまみたいにしてほしいなぁ」
衛門はふわふわになった体をぽてぽてと動かしながら台所を出て居間の方へと向かっていった。ねこまんまというと、農家の人が番犬用に飼っている犬やネズミ捕りの猫に与える「残飯」だ。出来立ての食事を混ぜてしまうのは勿体無いように感じるが、あのたぬきの手足では仕方がないだろう。
「ただいま戻りましたよ。両替をして戻りました。おや、柚子さん。料理中ですか」
衛門とすれ違うように台所に入ってきたのは無奈だった。彼が手にして出ていったのは巾着袋だったが、彼が手に持っているのは木箱だった。中にはたっぷりの一銭硬貨が入っていた。
「あの、ありがとうございます。必要な分だけ使わせてもらいます。えっと、お金は金庫か何かに?」
「いえ、これを柚子さんの部屋に置いておきますから好きに使ってください。それから……我が従者たちを風呂に入れてくださったようでありがとうございます」
「あの……よかったら一緒にいかがですか? 昼食には少し遅いですが……」
(契約結婚とはいえ、一年も一緒に過ごすのだし食事の好みくらいは知っておかないと)
柚子はかなりの勇気を出して無奈を食事に誘ってみたのだが、彼はすぐに返事をせず、お金の入った木箱を床に置くと、台所の土間に降りてくる。
無奈は羽釜の蓋を開けて炊き立ての米をじっくりと眺めたり、野菜の煮付けをジロジロ見たりして笑顔で柚子に向き直った。
「とても美味しそうな食事でございますね。あぁ、でも僕はどんぐりを食べるので結構です」
——どんぐりを食べるので結構です
その言葉が柚子の頭の中にこだました。
(たぬきたちは人間の食べ物が好きと言っていた。でも、この人は「どんぐり」がいいというの? まさか、人間が作ったものなんて食べたくない……のかしら)
柚子が恐る恐る無奈の表情を見ると彼は変わらない穏やかな笑顔を浮かべていて全く感情が読み取れない。少なからず、侮蔑や軽蔑といったものは含まれていないと信じたい柚子だったが無奈が追い討ちのように言葉を続けた。
「この時期のどんぐりはとても美味しいですからね」
どんぐりというと、秋から冬の入り口ごろによく撮れる木の実で、ものによっては冬のうちにゆがいて灰汁を抜いて加工して食べたりもする。ただ、それは夏の間に不作となった年などだけであまり食べたいものではなかった。
「あの、一緒にお食事をどうですかと申しているのですが」
「ですから、僕はどんぐりで十分です」
別に、豪華な料理を作ったわけではないし柚子は一流の料理人でもない。だから、自分の料理が彼の口に合うとは限らない。けれど、食べる前に「どんぐりで十分だ」なんて言われることは流石に彼女の心がざっくりと傷ついた。
数十秒前、勇気を出して彼を食事に誘ったことを柚子は心から後悔した。そして、妖に寄り添おうとしたのが間違いだと思った。
「そうですか」
キンと冷えるような柚子の声に、やっと違和感を感じた無奈は首を傾げた。それから、彼女が怒っていることを察してそそくさと台所をあとにするのだった。
***
「わぁ〜、美味しそう!」
居間まで料理を運んでいくと、囲炉裏を囲んでいたたぬきたちがワタワタと立ち上がり、尻尾を振って柚子を歓迎する。少し大きめの深皿に炊き立てのお米、甘く煮つけた野菜を乗せ、少し冷ました豆腐入りの味噌汁をかけたものだ。
「柚子さん、ありがとうございます! 豆太、ゆっくり食べるんだぞ」
「はあい」
「あら、お野菜がたっぷり! ありがとうね、柚子ちゃん。ほーら、衛門。起きなさいよ、ご飯よ」
柚子は四匹分のねこまんまを運び終えると、自分の分をお盆にのせて囲炉裏まで運んだ。囲炉裏を囲んで食事できるなら、鍋なんかも良いかと思ったが、一人と四匹では多すぎるかもしれないと柚子は諦めた。
お盆の上にはホカホカの炊き立てご飯、豆腐の浮かぶお味噌汁と野菜の煮付け。彩のために加えたさやえんどうの緑がとても綺麗だ。
「いただきまーすって、あれ? 主様は? 先ほど、台所でお話しされていましたよね?」
末吉は食事に手をつける前に、柚子に聞いた。すると、柚子はむすっと口を尖らせ
「お誘いしましたけど、どんぐりがあるからいらないとお断りされましたよ」
と答え、末吉は「あぁ」と短い前足で頭を抱えた。夢中でねこまんまに食いついている衛門、梅子は「主さまのおバカ」とため息をつき、豆太は不思議そうに柚子と末吉を交互に見ていた。
「柚子さん。主様は多分お料理が食べたくないわけではなかったんだと思います」
「えっ? でも結構だって言ってたわ」
「主様は人間のお食事も大好きなのです。ですから……」
「じゃあ、私が作ったから嫌だってこと?」
「いえいえ、それは絶対に違います! 主様は柚子さんが到着されるのを心待ちにしてましたから! 多分ですけど……『ブシは食わねど高楊枝』がカッコいいと思っているんですね」
「どういう……意味?」
「多分ですけど、女子供に美味しいものは食べさせて、旦那さんは我慢するのが格好いい。みたいなことだと思いますよ。ただ、主様は壊滅的に気持ちを伝えるのがお下手だから……きっと柚子さんを傷つけるようなことを言ってしまったんでしょうね。すみません……ほんとすみません」
ペコペコと頭を下げる末吉を見て柚子はなんだか居た堪れない気持ちになった。柚子は、無奈に拒否されたことで怒り心頭だったがよくよく考え直してみれば彼は「妖」であり、人間の常識がいまだによくわかっていないのだ。
そのため、いきすぎた謙遜が失礼にあたることを理解していなかったのかもしれない。
「これは……、無奈さんもすきかしら?」
「ええ! 絶対好きなはずよ。だってすごく美味しいもの。ねぇ柚子ちゃん。おかわりあったりする?」
梅子が可愛らしく答えてくれる。ぱっと他のたぬきに目をやると、衛門は食べ終えて熟睡していたし、豆太はまだせっせと口に運んでいる。
「梅子ちゃんちょっと待っててね」
柚子は、梅子のお皿を持って台所に戻ると、梅子の分のねこまんまをもう一度作り、冷ましている間に人間用お盆を取り出してもう一食分盛り付ける。それを、唯一扉のしまっている彼の書斎の前に置いた。
「あの、無奈さん。一応ここにご飯を置いておきますからね」
柚子は、声をかけて返事を聞くのが怖かったのでそそくさと台所に戻った。それから、梅子のおかわりを居間へと運ぶ。
「梅子ちゃん、おかわり持ってきたわよ」
「ありがとう! ごめんね、柚子ちゃんまだ食べないのに」
「いいのよ。さ、いただきましょう」
ふかふかのお米に箸をいれ、一口食べればお米の甘さが口の中に広がった。自分で作った料理だが、とても美味しく感じるほど良い食材が揃っていたらしい。
甘く煮つけた野菜とお米を交互に食べつつ、白味噌のお味噌汁で口の中を綺麗にする。喉の奥から胃が温かくなって柚子の気持ちが落ち着いた。
「美味しいですね。柚子さん、お料理上手だ」
末吉に声をかけられて、美味しく食べてくれているたぬきたちを柚子が見渡すと、子たぬきの豆太は口の周りから胸あたりまでじっとりと濡れてしまっていた。
「ありがとう、末吉君。あらら、豆太君こっちに来れる?」
豆太はぽてぽてと囲炉裏沿いに柚子の元へと歩いてくる。一際小さく、まだ毛も柔らかい子たぬきの彼は口の周りに食べかすがべっとりとついていた。このままでは、毛がパリパリになってしまうだろう。
「ちょっと、お口の周り拭くね」
「あっ、ごめんなさい」
豆太はもうしわけなさそうに耳を下げた。洗い立てのもふもふを丁寧に拭きながら、柚子はこっそりその手触りを楽しんだ。ふわふわ、もふもふ、その上愛くるしい黒い瞳が柚子を見つめている。
「ぼく、まだ上手に食べられないんだ」
「いいのいいの、小さい子はみんなそうでしょう? 豆太君もいつか上手になるわよ」
「ほんと? ぼくも早く大きくなりたいなぁ」
「たくさんたべて、たくさん寝たら大きくなるわ」
「やったぁ、ありがとう柚子お姉ちゃん」
あまりにも可愛い子たぬきに心を貫かれ、本当は抱きしめたい気持ちでいっぱいだったが、柚子はそっと彼は膝の上から下ろしてやる。豆太はまたぽてぽてと尻を降るように歩いて梅子のとなり定位置へと戻っていった。
「あの、柚子さん。やっぱり、妖は嫌いですか?」
末吉が、ふと茶を飲んでいた柚子に聞いた。囲炉裏を囲んでの食休み、少しだけピンとした空気が漂う。
「どうして、末吉君はそう思ったの?」
「いえ……この辺の人間はみな妖が嫌いなのです。人間に害をなさない、ひっそりと暮らしていた妖がみな殺されてしまいました。主様や僕らのお友達もたくさん。主様のように人に化けることができる妖は数少ないので……皆見つかって捕まって殺されていきました。柚子さんも玄関先で妖は嫌いだとおっしゃってたので……」
「私ね、妖に兄を殺されたの。私も殺されかけた。それから、人生が変わってしまったわ。家業もダメになってとっても辛い思いをしたわ。だから、妖は嫌い」
「そうでしたか……」
末吉は、お昼寝している他の三匹をちらりと見てそれから、しょんぼりした様子で柚子を見つめ直した。
「実は、僕たちは皆家族を人間に殺された経験があるんです。僕と衛門は親兄弟を。梅子は夫を。豆太は、つい先日巣穴を人間に焼かれました。僕たちたぬきは、森の中でもあまり強い立場にないので家族みなで暮らすのですが、はぐれものになってしまえば他の動物の餌食になってしまうんです。主様に助けてもらうまで1日1日がひもじくて命の危険を感じていました。だから、柚子さんが目の前で家族を失ったお辛い気持ちがよくわかります」
「人間が……」
「すみません、人間と一括りに言いましたが悪い人間です。いい人間もいるのは知っていますよ。僕らに優しくしてくれる人間も森にはいましたから。柚子さんだっていい人間です」
「ありがとう……末吉君」
「とにかく、主様のことを好きになれなくても僕たちならきっと柚子さんに寄り添うことができますから頼りにしてください。ねっ? その代わり、たまには僕たちをお風呂にいれたりご飯をこうして分けてくれると嬉しいです!」
たぬきという生き物は時に人間の田畑を荒らすので「害獣」として猟の対象になることがある。巣穴に集まる習性から巣穴ごと潰してしまったり、わなにかけて駆除したりする。それは、人間にとっては必要なことなのかもしれない。だが人間の都合など知らないたぬきにとってはただの殺戮だ。末吉の話はまるで柚子が妖に襲われた時と同じように思えた。
決して力で敵うはずのない相手に一方的に襲われ命を奪い取られる。その理由などわからず、ただ理不尽なだけ。
柚子の頭にふととある考えがよぎった。
——あの妖にも、人間を襲わなければいけない理由があったんじゃ?
人間が、たぬきを「田畑を荒らすから」という理由で殺すように、柚子と兄を襲った妖たちも何かしらの理由があったのではないか。ましてや、あの頃、妖怪狩りが盛んに行われていた時期ということもある。
「柚子さん……?」
末吉の心配そうな声に考えるのをやめた柚子は、無理やり笑顔を作った。
「お夕食もみんなで一緒に食べましょう。ここへ来るのは不安だったけれど、みんなのおかげで楽しかったもの。ありがとう」
「あ、あの……」
末吉はなんだか遠慮しながら柚子に近づいてくると、すっと頭を下げた。
「あの、よければ先ほど豆太にしていたように撫でてくれませんか? なんだか豆太が羨ましくて……えへへ」
末吉は長男的な存在でしっかりした性格をしているが、可愛がられている豆太が羨ましかったらしい。柚子はそっと末吉を抱っこして膝の上に乗せると優しくその頭や顎を撫でてやる。
「末吉君、今日は色々と教えてくれてありがとう。よしよし、いい子いい子」
「えへへ」
「あっ、末吉ずるいわ! 次は私ねっ!」
「えっ、ぼくももう一回!
「すやぁ……むにゃむにゃ」
末吉が尻尾を動かすので柚子は膝あたりがこそばゆくなる。洗い立て、干し立てのふわふわもふもふを柚子はたっぷりと堪能した。